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とるにたらないブログ。

古代史の謎〜ヤマト王権の形成 (1) NHKラジオ

2024年12月31日(火)、放送分。
 
興味ある人は、
NHKの聞き逃し配信から聞いてください。
 
間違いあれば、
私の聞き間違いか、理解不足です。
また、" " 内は感想だったり私が追記したものです。

(1)倭国の乱と卑弥呼

・倭国の乱は、魏志倭人伝、後漢書倭伝に書かれている。
同じような内容だが違うところもある。

・魏志倭人伝では、もとも男が王であったが、70-80年経って国が乱れて、
その後、皆が話し合って、卑弥呼を王とした。

・後漢書倭伝、では、だいたい同じ文章だが、
倭国「おおいに」乱れると書いてある。

・後漢よりも魏は後の時代なのだが。
魏志倭人伝の成立は280年ころと考えられている。
卑弥呼の死は250年ころと言われている。

後漢書は宋の官僚で、左遷された430年ころから書いたのが後漢書。

魏志倭人伝の方が古い。

なので、("倭に関しては")後漢書は魏志倭人伝を元に作られたと考えられる。

・中国では正史というものがあるが、
初期は司馬遷の史記や、陳寿の三国志など、知識人が作っている。
なので、それ以外にも歴史書があったが、
良く読まれたものだけが、残っていると考えられる。

・後漢書倭伝には卑弥呼以前の話も載っている。
57年の派遣(金印もらったとき)は奴国王だが、
107年では倭国王と名乗っている。
この時には倭国としての連合体があったと考えられる。

"自称の倭国王かも。
というか、この人たち、倭人の生息地の広さを、把握していないと思うよ。"

このころ倭国では小国同士の衝突が激化していた。
武器の出土、集落の城塞化、人骨へ矢じりが刺さっていたりなどから。
それがひと段落していたと考えられる。

"卑弥呼はこの70-80年後のことらしい。"

・江戸時代から金印偽造説はあった。

・もちろん、奴国や、金印をもらった国だけでなく、日本にはもっと国や連合体があったと考えられる。
連合体が出来ることで、大きな戦争が起きにくくなったのだろう。

・なので、中国の書物の言う、「倭国の乱」とは日本の一つの連合体の中での、対立のことであろうと考えられる。
九州北部が地理的に朝鮮半島や中国大陸との外交に有利なので、連合体内の流通でも優位な立場であったのが、他の地域が力をつけてきて、不満が高まったと考えられる。

・そうした過程を経て卑弥呼が現れることになった。
卑弥呼は240年代末に死んだと考えられる。

後漢書倭伝にある107年から、70-80間の戦争の後に王になったとすると、在位70年間となる。
多少のズレがあっても、当時としてはずいぶん長い在位だ。

だから、卑弥呼は十代、あるいはそれより若いときに、王になった可能性が考えられる。

いよ(とよ)は、13歳で王になっているのだから不思議ではない。

"中国の書物が正しければね。"

・飛鳥時代(6-7世紀)の大和政権では、即位は35-40歳以上であった。
卑弥呼の時代の王権と、大和政権での王権は、繋がっているかどうかは別として、
大きな変化があったと考えられる。

・卑弥呼は魏に倭王と認定されている。
107年の使節派遣時は倭国王と呼ばれている。

倭王の方が少し格上扱い。

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