2025年01月21日(火)、放送分。
興味ある人は、
NHKの聞き逃し配信から聞いてください。
間違いあれば、
私の聞き間違いか、理解不足です。
また、" " 内は感想だったり私が追記したものです。
興味ある人は、
NHKの聞き逃し配信から聞いてください。
間違いあれば、
私の聞き間違いか、理解不足です。
また、" " 内は感想だったり私が追記したものです。
(4).卑弥呼の実像
・後漢書倭伝にも記述はあるが、
魏志倭人伝の方が一番信頼がおけるので、
これに則って考える。
・鬼道を使いよく衆を惑わす、
当時の中国は儒教の考えが広まっていたため、
鬼道(呪い)は批判されていた。
しかし、当時の卑弥呼周辺の民衆からは、
王の託宣として受け入れられていた。
鬼道(呪い)は批判されていた。
しかし、当時の卑弥呼周辺の民衆からは、
王の託宣として受け入れられていた。
・高齢である
・独身である
・弟が補佐している
・即位後の卑弥呼を、
見た人は少ない。
・1000人の召使がいた。
数が多すぎる。
・一人の男子が、飲食を持って行ったり、
卑弥呼の言葉を伝えるなどしていた。
・建物は常に兵に守られていた。
・帯方郡の長官に使者を送っている。
狗奴国と戦争になったことを報告してきた。
帯方郡から役人を卑弥呼に派遣し、
檄(周辺国に戦うから味方しろという内容の文書)と、
黄幢(黄色の旗、魏のシンボルカラー)を送った。
冊封関係にあった卑弥呼を、
魏は支援したということ。
・↑この段階で卑弥呼は亡くなる。
冢(ちょう)(古墳のような墓)を作り、
徇葬は100余人だった。
これで卑弥呼に関する記述は終わる。
・卑弥呼について魏志倭人伝でわかること。
倭国の乱の後に即位した
鬼道を用いる
高齢だった
魏から親魏倭王に冊封される
弟がいる
会ったことがある人は少ない
大きな墓が作られた
呪術的な王のイメージが強い。
・魏との外交を積極的に展開したのは、
魏を中心とした国際関係を理解していて、
利用できると考えたということになる。
・当時の倭の小国は、
朝鮮半島との小国との日常的な交流があったと考えられる。
北九州の小国は楽浪郡など、
中国の出先機関との交流をしていたと考えられている。
しかし、中国の首都に行って関係を利用しようとした例は、
他には帥升しかない。
卑弥呼は、呪術的な側面と、
先進的、開明的な側面を、
持っていた。
・即位は最も遅く見積もっても、189年頃であろう。
魏との外交を始めたのは、その50年後。
死亡はその10年後。
少なくとも在位は60年間。
即位は10代とみなすのが妥当だろう。
・諸国の首長たちが、共に立てるかたちで卑弥呼は即位した。
・10代の少女が主体的に政治を行っていたかは、
慎重に考えなければいけない。
即位したばかりの時点では、諸国にも政治的主導権があったと考えられる。
・なぜ王に選ばれたのか?。
血筋が多少重視されたことは考えられる。
卑弥呼の次の男の王は卑弥呼との血縁関係は書いてないが、
その次の台与は卑弥呼の血縁者と書いてある。
・古代日本では、指導者を出すグループが2、3ある場合があり、
その中から指導者を選ぶ。
5世紀の倭王権では、
古事記、日本書紀では、天皇が確立されていたと書いてはあるが、
考古学的に見ると、
巨大前方後円墳が、
古市古墳群と百舌古墳群が同時期にあり、
二つが存在していた。
貴族や地方号豪族では、
8世紀位までそのような仕組みがあった。
氏の上の継承は親子でなく、
遠い血筋の場合がある。
・郡司も郡司になれる家が3、4あり、
その中から選ばれていた。
持ち回りだった説もある。
・ある一族が独占的に地位を抑えていたわけではなかった。
・卑弥呼には鬼道という特殊能力で即位した。
身分の高さ、血筋もあったろうが、
それだけでは不十分だったと考えられる。
・卑弥呼の後の男の王は、
おそらく別の卑弥呼とは、
グループの王ではないのか。
・卑弥呼は老齢まで在位していたということは、
成人後は政治的に役割を果たしていたと考えられる。
・諸国が卑弥呼擁立したということは、
合議体があったと考えられるが、
おそらく卑弥呼はその合議体には関わっていなかっただろう。
卑弥呼の姿を見た人が少ないから、
そのように考えられる。
・卑弥呼の政治的判断は、
合議の判断を許可、拒否するなどの、
最終決定権であった可能性が考えられる。
古代の天皇と同様に。
(大王は豪族の合議体の方針の最終判断をしていた)
・卑弥呼の役割は、
鬼道による国内の安定と、外交の代表者が考えられる。
・外交は楽浪郡や、後漢末期の公孫氏と、おそらく交流があったと考えられる。
・いしんだい"?"(外国の貴重な品物)を、
連合体の首長に分配していただろう。
・親魏倭王になることで、首長たちの上の立場になった。
(それを、考えての外交なのかは分からないが)
しかし、卑弥呼の次の王が、それを引き継げたかは別の話。
・死ぬまで王であった。
逆に言うと死ぬまで王をやめられなかったということ。
現在でも、基本は王をやめられない。
上皇は特別な形で退位した。
・姿を見せないという神秘性が、
鬼道と関わっていたかもしれない。
・侍女1000人は事実は考えにくい。
魏の使者も卑弥呼には会えなかったので、
倭の説明を、そのまま書いたものであろう。
・男弟が補佐したのは、
卑弥呼が人前に出れなかったから。
弟も卑弥呼と同じ血筋ならば、
即位の可能性もあったが、
卑弥呼が在位していたので、
即位はなかったのだろう。
・給仕した男子は、男弟と同じと従来は考えられてきていたが、
同一人物であるとする根拠はない。
夫がいなかった理由は分からないが、
非公式なパートナーは認められたのかもしれない。
それが、この男子かもしれない。
・卑弥呼は248年くらいに亡くなった。
・大きな墓を作っても不思議ではない。
首長も墳丘墓を作っていたから。
しかし、徇葬100人はについては、
古代日本では殉死は確認されていないので、
間違いではないのか。
・卑弥呼の王権は、
その後の日本の王権と、
似ているところと、
似ていないところがある。
そこから、
邪馬台国から古墳時代の大和政権の移行を、
考えることが出来るのではなかろうか?。
しかし、卑弥呼の次の王が、それを引き継げたかは別の話。
・死ぬまで王であった。
逆に言うと死ぬまで王をやめられなかったということ。
現在でも、基本は王をやめられない。
上皇は特別な形で退位した。
・姿を見せないという神秘性が、
鬼道と関わっていたかもしれない。
・侍女1000人は事実は考えにくい。
魏の使者も卑弥呼には会えなかったので、
倭の説明を、そのまま書いたものであろう。
・男弟が補佐したのは、
卑弥呼が人前に出れなかったから。
弟も卑弥呼と同じ血筋ならば、
即位の可能性もあったが、
卑弥呼が在位していたので、
即位はなかったのだろう。
・給仕した男子は、男弟と同じと従来は考えられてきていたが、
同一人物であるとする根拠はない。
夫がいなかった理由は分からないが、
非公式なパートナーは認められたのかもしれない。
それが、この男子かもしれない。
・卑弥呼は248年くらいに亡くなった。
・大きな墓を作っても不思議ではない。
首長も墳丘墓を作っていたから。
しかし、徇葬100人はについては、
古代日本では殉死は確認されていないので、
間違いではないのか。
・卑弥呼の王権は、
その後の日本の王権と、
似ているところと、
似ていないところがある。
そこから、
邪馬台国から古墳時代の大和政権の移行を、
考えることが出来るのではなかろうか?。