2025年01月14日(火)、放送分。
興味ある人は、
NHKの聞き逃し配信から聞いてください。
間違いあれば、
私の聞き間違いか、理解不足です。
また、" " 内は感想だったり私が追記したものです。
興味ある人は、
NHKの聞き逃し配信から聞いてください。
間違いあれば、
私の聞き間違いか、理解不足です。
また、" " 内は感想だったり私が追記したものです。
(3)邪馬台国連合とは何か
・日本という国名に変えたのは、7世紀終わりから、8世紀初めのことであると、考えられている。
・なぜ、倭と言われていたのかは、
わからない。
・歴史書では、漢書 地理志が最も古い。
・↑が、しかし、
もっと古くから、倭という、地名か国名かの情報はあったようだ。
ろんこう"論衡(多分この字だと思う)"に、
周(紀元前11世紀から紀元前256年)時代にも、
倭人が来たと記録がある。
・↑成王(2代目皇帝 在位前1042-1021年)のとき、
薬草を持って来たと記録にある。
この当時、倭は中国南方か東南アジアと受け取られていた。
・続列女伝には、
・なぜ、倭と言われていたのかは、
わからない。
・歴史書では、漢書 地理志が最も古い。
・↑が、しかし、
もっと古くから、倭という、地名か国名かの情報はあったようだ。
ろんこう"論衡(多分この字だと思う)"に、
周(紀元前11世紀から紀元前256年)時代にも、
倭人が来たと記録がある。
・↑成王(2代目皇帝 在位前1042-1021年)のとき、
薬草を持って来たと記録にある。
この当時、倭は中国南方か東南アジアと受け取られていた。
・続列女伝には、
倭は、えん の南にあり、えん に属しているという記述がある。
えん は中国東北で、北京よりも東の地域。
"燕でしょうか?。"
・↑壱岐から、えん の金属器が出土するので、交流はあったであろう。
・論衡や列女伝の倭は、
古い伝承でそういう民族がいた、
という書きかたで日本列島との関連がない。
・それに対して、せんがいきょう"(山海経?)"では、
燕の南の朝鮮半島の南の倭(日本列島)があるので、
この倭は日本列島を刺していると思われる。
そして、日本列島が中国に知られるのは、
楽浪郡"(前108-後313年)"が出来て、
倭人との交流が始まったからだと考えられる。
なので、
古い伝承の倭と、
楽浪郡以降に知った日本を、
同じものとして扱ったため、
日本列島が倭と呼ばれたのかもしれない。
・『倭』は魏志倭人伝では2通りの書かれ方がある。
一つは、倭人という書かれ方で、
邪馬台国以外の、邪馬台国の対立した狗奴国などまで含めた、
文化的に同じと見られる地域を倭と呼んだと考えられる。
中国から見た倭は、
弥生文化圏全体であると考えられる。
もう一つは、
卑弥呼は親魏倭王であるが、
この倭王とは何なのか?。
倭の中で、朝貢してきたので、
倭全体の王と認めたということで、
それ以外の勢力は、
支配者とは認めないという意味かもしれない。
・↑卑弥呼が冊封された倭王は、
邪馬台国連合体のことだが、
理念的にはその外側も含まれる。
・魏志倭人伝には倭種という言葉が出てくる。
邪馬台国から海を越えて1000里以上行くと、
島として存在している。
小人がいる侏儒国、
裸の人がいる裸国、
黒い歯の人がいる黒歯国、
がある。
・↑漢代に作られた淮南子や、
山海経にも出てくる。
・↑古い伝承の空想的な国が、
倭人伝に組み込まれている。
古い言い伝えの倭と、
これらの国々が、一まとめととらえられていたので、
魏志倭人伝で倭国として、
その仲間として記載されたと考えられる。
・邪馬台国の連合体について。
魏志倭人伝の「共に立て」という言葉から、
連合体のリーダーがいたと考えられる。
その、リーダーの国が邪馬台国といえる。
・↑その連合体のリーダーは、
邪馬台国の王が、
自動的に就任するのではないらしい。
連合体の参加国が共立しているから。
魏志倭人伝を読み取るときの重要なポイント。
・↑魏志倭人伝では、伊都国が倭国の2番であったことが分かる。
伊都国の王も、王として重要な役割を担っていたことが分かる。
・↑しかし、伊都国の王が連合体の、リーダーになった形跡はない。
ナンバー2であっても、ナンバー1と交代できるわけではないらしい。
・↑邪馬台国がナンバー1を独占していたらしい。
・↑連合体に参加したときの強制力は、それほど強くないらしい。
それぞれの国の自立性が高いと考えられる。
・古墳時代には、ヤマト王権が出現し、
それに参加している豪族は、
前方後円墳を作る。
そのような、一体感を示す行動を示している。
・↑卑弥呼の時代には、
そのような痕跡がない。
・↑弥生時代後期でも、
各地の墳墓は個性的だ。
日本海側では、四隅突出型墳丘墓。
吉備では丸い墓に、横に長方形が突きでる形状のもの。
大和では方形周溝墓。
など、いろいろあった。
・↑それらがないので、
緩やかな連合体であったと考えられる。
リーダーである邪馬台国が、
強力に支配していたのではなさそう。
・卑弥呼は鬼道によって統治していた。
つまり、宗教的なものであったろう。
・↑それだけではなく、
後漢、魏との交渉で代表者として交渉した。
魏からもらった貴重品は、連合体に分け与えた。
・↑こうした状況だと、
邪馬台国の王と、
連合体のリーダーを、
兼任することが出来たのかという疑問が出る。
連合体からリーダーを選ぶならば、
邪馬台国が自国の王を、
自由に選べないということになる。
・邪馬台国は、
集落が発展し、強力になり、
連合を組んで、
リーダーになったのではなく、
別の在り方の国ではなかったのか?、
と考えた方が良いのかもしれない。
・↑奈良の纒向遺跡には、
集落があまりない、特殊な遺跡であると考えられている。
・↑邪馬台国が強いから、
リーダーになったのではなく、
周辺国々が特質を持ち寄って、
邪馬台国という国を作り、
緩やかな連合体を作ったとも考える、
ことが出来るのかもしれない。
・↑では、魏志倭人伝の、
帥升が系統的に卑弥呼と繋がっているならば、
同じようなものだったかというと、
そうとも言い切れない。
えん は中国東北で、北京よりも東の地域。
"燕でしょうか?。"
・↑壱岐から、えん の金属器が出土するので、交流はあったであろう。
・論衡や列女伝の倭は、
古い伝承でそういう民族がいた、
という書きかたで日本列島との関連がない。
・それに対して、せんがいきょう"(山海経?)"では、
燕の南の朝鮮半島の南の倭(日本列島)があるので、
この倭は日本列島を刺していると思われる。
そして、日本列島が中国に知られるのは、
楽浪郡"(前108-後313年)"が出来て、
倭人との交流が始まったからだと考えられる。
なので、
古い伝承の倭と、
楽浪郡以降に知った日本を、
同じものとして扱ったため、
日本列島が倭と呼ばれたのかもしれない。
・『倭』は魏志倭人伝では2通りの書かれ方がある。
一つは、倭人という書かれ方で、
邪馬台国以外の、邪馬台国の対立した狗奴国などまで含めた、
文化的に同じと見られる地域を倭と呼んだと考えられる。
中国から見た倭は、
弥生文化圏全体であると考えられる。
もう一つは、
卑弥呼は親魏倭王であるが、
この倭王とは何なのか?。
倭の中で、朝貢してきたので、
倭全体の王と認めたということで、
それ以外の勢力は、
支配者とは認めないという意味かもしれない。
・↑卑弥呼が冊封された倭王は、
邪馬台国連合体のことだが、
理念的にはその外側も含まれる。
・魏志倭人伝には倭種という言葉が出てくる。
邪馬台国から海を越えて1000里以上行くと、
島として存在している。
小人がいる侏儒国、
裸の人がいる裸国、
黒い歯の人がいる黒歯国、
がある。
・↑漢代に作られた淮南子や、
山海経にも出てくる。
・↑古い伝承の空想的な国が、
倭人伝に組み込まれている。
古い言い伝えの倭と、
これらの国々が、一まとめととらえられていたので、
魏志倭人伝で倭国として、
その仲間として記載されたと考えられる。
・邪馬台国の連合体について。
魏志倭人伝の「共に立て」という言葉から、
連合体のリーダーがいたと考えられる。
その、リーダーの国が邪馬台国といえる。
・↑その連合体のリーダーは、
邪馬台国の王が、
自動的に就任するのではないらしい。
連合体の参加国が共立しているから。
魏志倭人伝を読み取るときの重要なポイント。
・↑魏志倭人伝では、伊都国が倭国の2番であったことが分かる。
伊都国の王も、王として重要な役割を担っていたことが分かる。
・↑しかし、伊都国の王が連合体の、リーダーになった形跡はない。
ナンバー2であっても、ナンバー1と交代できるわけではないらしい。
・↑邪馬台国がナンバー1を独占していたらしい。
・↑連合体に参加したときの強制力は、それほど強くないらしい。
それぞれの国の自立性が高いと考えられる。
・古墳時代には、ヤマト王権が出現し、
それに参加している豪族は、
前方後円墳を作る。
そのような、一体感を示す行動を示している。
・↑卑弥呼の時代には、
そのような痕跡がない。
・↑弥生時代後期でも、
各地の墳墓は個性的だ。
日本海側では、四隅突出型墳丘墓。
吉備では丸い墓に、横に長方形が突きでる形状のもの。
大和では方形周溝墓。
など、いろいろあった。
・↑それらがないので、
緩やかな連合体であったと考えられる。
リーダーである邪馬台国が、
強力に支配していたのではなさそう。
・卑弥呼は鬼道によって統治していた。
つまり、宗教的なものであったろう。
・↑それだけではなく、
後漢、魏との交渉で代表者として交渉した。
魏からもらった貴重品は、連合体に分け与えた。
・↑こうした状況だと、
邪馬台国の王と、
連合体のリーダーを、
兼任することが出来たのかという疑問が出る。
連合体からリーダーを選ぶならば、
邪馬台国が自国の王を、
自由に選べないということになる。
・邪馬台国は、
集落が発展し、強力になり、
連合を組んで、
リーダーになったのではなく、
別の在り方の国ではなかったのか?、
と考えた方が良いのかもしれない。
・↑奈良の纒向遺跡には、
集落があまりない、特殊な遺跡であると考えられている。
・↑邪馬台国が強いから、
リーダーになったのではなく、
周辺国々が特質を持ち寄って、
邪馬台国という国を作り、
緩やかな連合体を作ったとも考える、
ことが出来るのかもしれない。
・↑では、魏志倭人伝の、
帥升が系統的に卑弥呼と繋がっているならば、
同じようなものだったかというと、
そうとも言い切れない。