東京裁判における11人の判事の中で唯一、被告人全員の無罪を主張したパール判事は、特に日本人に知られている。先日河北新報の読書蘭で、『パール判事』(白水社)の著書・中島岳志氏へのインタビューが載った。中島氏の意見はなかなか興味深かったので、紹介したい。
戦後パールは絶対平和主義を唱え、改憲ではなく「日本は憲法9条を守れ」と主張したと中島氏は言う。氏は「この2つが一直線に繋がっているのが見えた時、この論理をきちんと書かないといけないと思った」と動機を述べる。さらに氏は自分の青年時代を振り返る。「中学二年の時、ベルリンの壁は崩壊し、左翼になりようがなかった。アンチ左翼の右翼も頼りなかった」。「法によらないで、戦争に勝った国が負けた国を裁けることが戦争を生み出す。強い者の言いなりになる世界を作っては、何時までも平和は来ない」というのがパールの一貫した論理だったと、中島氏は自論を主張する。
案外知られていないが、「日本無罪論」のパール判事は中国大陸における旧日本軍の行動を厳しく批判、南京虐殺を「鬼畜行為」とまで呼んでいる。「日本の植民地政策や戦争を正当化した訳ではない」と、中島氏はこの点を力を込める。
パールが「日本無罪論」を主張したのは、何も一部日本人が期待するような、日本びいきとか同情からでは決してない。彼は敗戦国のみならず戦勝国も分け隔て なく批判している。これは11人の判事の中で唯一公平な視点に立ち、「法の平等」を重んじたからだろう。インド通の日本人に馴染み深いスバス・チャンドラ・ボースさえ、“敵の敵と組む”政策により日本に接近したのであり、親日家ではない。チャンドラ・ボースは会見した東條英機を「早急」と、低評価している。
戦後来日したパールは、長いものに巻かれろ、とばかり米国に追随する日本人を批判し、判決書を日本に都合よく解釈されることに反発を隠ず、「私は日本に同情して判決書を書いたのではなく、真実を追求した結果である」と怒りを露わにしたと中島氏は言う。インタビューの結びで氏は語る。
「ど ういう人の前でも、自分の意見を曲げていない。どうすればこのような妥協のない人生を歩めるのか、と思うほど。僕とは違いすぎて、一緒に酒を飲みたい人で はないですね。パールは“日本無罪論”を主張した訳ではなかった。“法の正義”を守ろうとしたのです。彼の論理を追うことが、はなむけになると思った」
私は中島氏の『パール判事』は未読だが、『ヒンドゥー・ナショナリズム-印パ緊張の背景』(中公新書ラクレ)なら以前立ち読みしたことがある。印パ緊張の背景は一言では説明できない複雑さがあるが、わたしの読後感はインドに辛くパキスタンにはやや甘い、だった。
中島氏はパールの論理を力を込めて解説しているが、インタビューを見て私は絶対平和主義と護憲をパールと結びつける論理、つまりパールの真意より自分の理想をきちんと書くため都合よく解釈した印象が濃かった。
中島氏は「強い者の言いなりになる世界を作っては、何時までも平和は来ない」がパールの一貫した論理だというが、私は同意できない。パールはガンディー主 義者であり、平和主義者だったのは事実だが、そのガンディーも武装中立論者であり、非武装など空論は言わなかった。さらに「臆病と暴力の2つの選択のある 場合、私は暴力を取る」とまでガンディーは語っている。あの理詰めの議論を異様に好むインドの知識人が、上記の日本人インテリを思わせるナイーブな論理を果たして主張したのか。
パールが「日本は憲法9条を守れ」と言ったとしても不思議はない。4度目の最後の来日が昭和41(1966)年であり、その時でも終戦から21年しか経て いない。まだ戦争の記憶が生々しく、日本の再軍備には警戒心を持つのが普通だ。そして米国に追随する日本人を批判したというが、植民地時代のインドも英国 に追随せざるを得ない立場だった。たぶん、かつてのインドの姿を見るようであり、不快だったかもしれない。
私はインドに関心があっても、これまで何故かパールにはあまり興味を感じなかった。日本人には耳障りのよい「日本無罪論」も、インド知識人にありがちな極論に近い理想主義を掲げる人物なのではないかとの先入観があったからだ。『ヒンドゥー教』(中公新書)の著者・森本達雄氏によれば、「理想は高く、現実は手近に」が、ヒンドゥー教徒の基本姿勢だとか。
私はパールが「日本無罪論」を持ち出したのは、「法の正義」を守ることが自分のダルマ(義務)と考えていたからではなかったか、と推測している。彼はカルカッタ大学で法学博士号を取得しているが、論文が「マヌ法典前のヴェーダおよび後期ヴェーダにおけるヒンドゥー法哲学」。西欧的な国際法ばかりでなく、ヒンドゥー法にも精通していたとなる。ダルマ(義務)に背くことは重大な背教行為である。
その人物の主観により人物評価は大きく異なる。取り上げ方により、パール判事の意見書は保守派や護憲派からも都合よく解釈される余地がありすぎる。聖典も解釈次第ではテロに利用されるように。
「人間ならば誰にでも、現実の全てが見える訳ではない。多くの人は見たいと欲する現実しか見ていない」-カエサル
◆関連記事:「逆立ちした歴史」「インドからの贈りもの」
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戦後パールは絶対平和主義を唱え、改憲ではなく「日本は憲法9条を守れ」と主張したと中島氏は言う。氏は「この2つが一直線に繋がっているのが見えた時、この論理をきちんと書かないといけないと思った」と動機を述べる。さらに氏は自分の青年時代を振り返る。「中学二年の時、ベルリンの壁は崩壊し、左翼になりようがなかった。アンチ左翼の右翼も頼りなかった」。「法によらないで、戦争に勝った国が負けた国を裁けることが戦争を生み出す。強い者の言いなりになる世界を作っては、何時までも平和は来ない」というのがパールの一貫した論理だったと、中島氏は自論を主張する。
案外知られていないが、「日本無罪論」のパール判事は中国大陸における旧日本軍の行動を厳しく批判、南京虐殺を「鬼畜行為」とまで呼んでいる。「日本の植民地政策や戦争を正当化した訳ではない」と、中島氏はこの点を力を込める。
パールが「日本無罪論」を主張したのは、何も一部日本人が期待するような、日本びいきとか同情からでは決してない。彼は敗戦国のみならず戦勝国も分け隔て なく批判している。これは11人の判事の中で唯一公平な視点に立ち、「法の平等」を重んじたからだろう。インド通の日本人に馴染み深いスバス・チャンドラ・ボースさえ、“敵の敵と組む”政策により日本に接近したのであり、親日家ではない。チャンドラ・ボースは会見した東條英機を「早急」と、低評価している。
戦後来日したパールは、長いものに巻かれろ、とばかり米国に追随する日本人を批判し、判決書を日本に都合よく解釈されることに反発を隠ず、「私は日本に同情して判決書を書いたのではなく、真実を追求した結果である」と怒りを露わにしたと中島氏は言う。インタビューの結びで氏は語る。
「ど ういう人の前でも、自分の意見を曲げていない。どうすればこのような妥協のない人生を歩めるのか、と思うほど。僕とは違いすぎて、一緒に酒を飲みたい人で はないですね。パールは“日本無罪論”を主張した訳ではなかった。“法の正義”を守ろうとしたのです。彼の論理を追うことが、はなむけになると思った」
私は中島氏の『パール判事』は未読だが、『ヒンドゥー・ナショナリズム-印パ緊張の背景』(中公新書ラクレ)なら以前立ち読みしたことがある。印パ緊張の背景は一言では説明できない複雑さがあるが、わたしの読後感はインドに辛くパキスタンにはやや甘い、だった。
中島氏はパールの論理を力を込めて解説しているが、インタビューを見て私は絶対平和主義と護憲をパールと結びつける論理、つまりパールの真意より自分の理想をきちんと書くため都合よく解釈した印象が濃かった。
中島氏は「強い者の言いなりになる世界を作っては、何時までも平和は来ない」がパールの一貫した論理だというが、私は同意できない。パールはガンディー主 義者であり、平和主義者だったのは事実だが、そのガンディーも武装中立論者であり、非武装など空論は言わなかった。さらに「臆病と暴力の2つの選択のある 場合、私は暴力を取る」とまでガンディーは語っている。あの理詰めの議論を異様に好むインドの知識人が、上記の日本人インテリを思わせるナイーブな論理を果たして主張したのか。
パールが「日本は憲法9条を守れ」と言ったとしても不思議はない。4度目の最後の来日が昭和41(1966)年であり、その時でも終戦から21年しか経て いない。まだ戦争の記憶が生々しく、日本の再軍備には警戒心を持つのが普通だ。そして米国に追随する日本人を批判したというが、植民地時代のインドも英国 に追随せざるを得ない立場だった。たぶん、かつてのインドの姿を見るようであり、不快だったかもしれない。
私はインドに関心があっても、これまで何故かパールにはあまり興味を感じなかった。日本人には耳障りのよい「日本無罪論」も、インド知識人にありがちな極論に近い理想主義を掲げる人物なのではないかとの先入観があったからだ。『ヒンドゥー教』(中公新書)の著者・森本達雄氏によれば、「理想は高く、現実は手近に」が、ヒンドゥー教徒の基本姿勢だとか。
私はパールが「日本無罪論」を持ち出したのは、「法の正義」を守ることが自分のダルマ(義務)と考えていたからではなかったか、と推測している。彼はカルカッタ大学で法学博士号を取得しているが、論文が「マヌ法典前のヴェーダおよび後期ヴェーダにおけるヒンドゥー法哲学」。西欧的な国際法ばかりでなく、ヒンドゥー法にも精通していたとなる。ダルマ(義務)に背くことは重大な背教行為である。
その人物の主観により人物評価は大きく異なる。取り上げ方により、パール判事の意見書は保守派や護憲派からも都合よく解釈される余地がありすぎる。聖典も解釈次第ではテロに利用されるように。
「人間ならば誰にでも、現実の全てが見える訳ではない。多くの人は見たいと欲する現実しか見ていない」-カエサル
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私は、恐らく、R寄りなので、中島氏の「日本は憲法9条を守れ」と主張した、という事に眉唾ものです。
それも、自衛権を認め、ハル・ノートのような最終通告を受ければ、モナコのような小国でも、自衛の戦争するであろう、とするパ氏の解釈を鑑みれば、甚だ違和感を感じざるを得ません。
また、人口20万人都市の南京で、30万人の虐殺があったというのは、甚だ信じがたいのですが、パ氏が批判していた、という事実は存じております。
私もmugiさんの仰る通り、パ氏は情緒でなく、国際法を適用する事にこそ、正義と信念を感じていたと思います。
(パ氏は生前、日本に同情してくれて、感謝しますとう日本人に対し、常に否定し、国際法の解釈として当然、という立場だったそうです。)
多くの人間は、「見たいと欲する現実しか見ていない」のだけではなく、そう見せたい者に、疑問視する事すら、許されていないのではないでしょうか?
(それは、民主制、独裁制を問わず、古今も、洋の東西も問わないと思いますが。)
中島氏の専攻はヒンディー語であり、「ヒンドゥー・ナショナリズム」という著書もあるので、インドの宗教事情を知らないはずがない。
にも係らず、「どういう人の前でも、自分の意見を曲げていない。どうすればこのような妥協のない人生を歩めるのか、と思うほど」の答えはおかしいですよ。パール判事のバックボーンはヒンドゥー教であり、敬虔な信者であればあるほど、法(憲法とは異なる宗教の真理に沿ったもの)に従い、妥協のない人生を歩むことが分からないならモグリです。
インドの宗教事情に疎い一般の日本人なら、専門家ということで中島氏の言い分を受け入れてしまうかもしれませんね。
パール判事も南京虐殺30万人説は唱えていないでしょう。残念ながら虐殺があったのは事実だと私は思います。
もっとも、ラサ(チベット首都)虐殺は120万説もありますね。
私のような愚人は自己都合解釈を常にするものであり、カエサルのような見方が出来る偉人は稀です。
ただ、今の日本は思想、表現の自由がありますから、疑問視する事は許されており、許さない者にはファシスト呼ばわりされて当然。
中島岳志氏のインタビューを見ると、いろいろおかしな所があるのですが、
>長いものに巻かれろ、とばかり米国に追随する日本人を批判し…
と言っときながら、改憲でなく「憲法9条を守れ」は矛盾しますね。
>、判決書を日本に都合よく解釈されることに反発を隠ず、「私は日本に同情して判決書を書いたのではなく、真実を追求した結果である」と怒りを露わにしたと中島氏は言う。
これは、東京裁判後再来日したパール博士に「我が国に対するパール先生のご同情ある判決に対して、深甚なる感謝の意を表したい」言った後にパール博士が次のように言ったものです。
「わたくしが日本に同情有る判決を下したというのは大きな誤解である。私は日本の同情者として判決したのでもなく、またこれを裁いた欧米等の反対者として裁定を下したのでもない。真実を真実として認め、法の審理を認め、法の審理を適用したまでである。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。誤解しないでいただきたい」
都合よく解釈されることではなく、この言葉から分かるように同情からの判決と取られることに反論したのです。
又、パール博士は独立国の条件として四つのことを言われています。
1)国家の基本法である憲法は自分達の手で書く。
2)自分の国土(領土)は自分達が守る。
3)国家の祭祈・信仰は何びとからも干渉を受けない。
4)子弟に対する教育も同様に、他国からの干渉を排除して、自分達の意志に基づく。
中島氏のインタビューは、反日左翼の人達が普段言っていることと同じようにみえます。
中島氏のインタビューに「中学二年の時、ベルリンの壁は崩壊し、左翼になりようがなかった」とあるのを見れば、実は左翼になりたかったと解釈できませんか?
記事にも書いたとおり、氏の著書『ヒンドゥー・ナショナリズム』はヒンドゥーのナショナリズムを批判する内容でしたが、パキスタンのイスラム原理主義も影響があるのですよ。何しろ、テロを頻発されればインドも態度を硬化させる。概ね、インドに批判的な者は反日左翼の傾向がありますね。彼らは日、米、印を批判しても、中、朝、露には目をつぶる。インドの核実験を非難しながら中国にはダンマリといった具合に。