その①の続き
ゴローニンの『日本幽囚記』を挙げ、高坂氏は次のように結論を下している。
-臆病にもなれるし、軍国主義的にもなれるというのが人間の恐ろしいところだと、私も思う。そして、残念ながら、いかに臆病になっても軍国主義だけにならなければよいという訳にはいかないのである。軍国主義化したのが悪かったというようなことを教訓としても、何の役にも立たない。
大体、全ての欠点は美徳と隣り合わせになっているものなのである。欠点だけ除去するという訳にはいかない。そうした但し書きを付けた後で、嫌な反省にとりかかるとしよう。嫌なというのは私自身、思い当たるところがあるからである。日本の大失敗の原因はこのシリーズの最初に書いたように、日本人の誇り高さとそれ故の強力なナショナリズムであった。それはまったく、美徳と表裏一体となっている…
高坂氏は最初に戴季陶(たい きとう)による『日本論』(1927年)を引用、この中国人政治家による指摘は、戦後のみならず現代も変わっていないことに改めて気付かされる。
-日本には自尊自大の学者が沢山いる。彼らの脳裏には“日本的”の三字が刻み込まれていて、何かにつけて日本独自の文明という言葉を口にしたがる。こういう観念は言うまでもなく、“日本への迷信”にとらわれたものである…
ナショナリズムの恐ろしさは太平洋戦争の敗北により日本国民のよく知るところとなり、その落とし穴にはまらないように留意しているというのが戦後の大方の見方だろう。だが、高坂氏は本当にそうなのか?自尊心なしに我々は生きられるだろうか?と疑問を呈し、日本人は戦後でも“日本独自”ということを口にして来なかっただろうか、と書く。
その“日本独自”には憲法九条と平和主義も含まれ、それに多くの日本人が誇りを感じたのは間違いない。しかし、それは日本に限られるならまったく無意味であり、世界に広がって意義を持つものなら、普遍性があるとなるので、それに“日本独自”の形容を付けるのもおかしなものだ、と氏は言う。ただし、平和主義の場合、抑制の効果もあったから、プラスもあったというべきだろう、とも。
他に高坂氏は日本の大失敗のひとつに、日本人の無原則性=プラグマティズムを挙げている。日本の政党政治が勝つためであれば、外交でも国の基本原則に関ることだろうが、なんでも政争の具として平然としていると言う。氏がこの一文を書いたのは'94年9月であり、それから15年後の現代もこの傾向が続いているのは暗然とさせられる。そして戦前、これが英米への反発に繋がっていくのだった。
日本が真珠湾を攻撃、太平洋戦争に突入した時、大方の日本人は興奮し、戦争に協力する意志を表明した。斉藤茂吉、高村光太郎、三好達治などの当時の第一級の文学者たちも詩や歌を発表する。それは基本的に長年に亘る白人の世界支配の恨みの吐露でもあった。「何なれや心おごれる老大の耄碌国を撃ちてやまむ」(斉藤茂吉)などが典型といえる。戦後、進歩的文化人として名を成した住井すゑも、「日の丸少女」「戦争はありがたい」等と書いていた(※戦後、其のことを問われ「いちいち責任取って腹切るのなら、腹がいくつあっても足りない」と居直り)。
これは長期に亘り泥沼化、戦争目的も不明瞭だった「支那事変」に割り切れぬ心情がすっきりした、という面もあったのではないか、と高坂氏は見る。支那事変には軍への献金を拒否、軍に睨まれるのも意に介さなかった岩波茂雄さえ、太平洋戦争となると会合の席で「米英をやっつけるならぼくも賛成だ」と語っており、同様の感情を感情を持った知識人は少なくなかった。これに異を唱える者もいても、結局力のない少数派に過ぎなかった。
日本の大失敗は日中間の戦いに始まり、破局に至ったのはアメリカとの戦争である。本来、この2つが結びつく論理的な必然性はないのだが、それは心情的に結び付けられ、昭和16(1941)年には明白なものとなる。
日本の大陸進出は白人の支配する世界への反発と何処かで結びついていた。後者は理由がないものではないが、前者は結局侵略ということになる。後者が大目的であり、前者はそのための一里塚だった。それゆえ、少なくない日本人が大陸への進出を何かおかしいと感じながら、その過ちを修正できなかった、と氏は指摘する。2つの行為は戦略的に結び付けられ、第一次世界大戦前から諸列強は広い勢力圏を求められるようになっており、それは第一次大戦で理論化され、1930年代に入り支配的とさえなったのだ。アメリカは保護政策をとり、イギリスはブロック経済を始め、ドイツが生存圏を口にするようになったのが証拠である。
その③に続く
◆関連記事:「ナショナリズムの光と影」
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ゴローニンの『日本幽囚記』を挙げ、高坂氏は次のように結論を下している。
-臆病にもなれるし、軍国主義的にもなれるというのが人間の恐ろしいところだと、私も思う。そして、残念ながら、いかに臆病になっても軍国主義だけにならなければよいという訳にはいかないのである。軍国主義化したのが悪かったというようなことを教訓としても、何の役にも立たない。
大体、全ての欠点は美徳と隣り合わせになっているものなのである。欠点だけ除去するという訳にはいかない。そうした但し書きを付けた後で、嫌な反省にとりかかるとしよう。嫌なというのは私自身、思い当たるところがあるからである。日本の大失敗の原因はこのシリーズの最初に書いたように、日本人の誇り高さとそれ故の強力なナショナリズムであった。それはまったく、美徳と表裏一体となっている…
高坂氏は最初に戴季陶(たい きとう)による『日本論』(1927年)を引用、この中国人政治家による指摘は、戦後のみならず現代も変わっていないことに改めて気付かされる。
-日本には自尊自大の学者が沢山いる。彼らの脳裏には“日本的”の三字が刻み込まれていて、何かにつけて日本独自の文明という言葉を口にしたがる。こういう観念は言うまでもなく、“日本への迷信”にとらわれたものである…
ナショナリズムの恐ろしさは太平洋戦争の敗北により日本国民のよく知るところとなり、その落とし穴にはまらないように留意しているというのが戦後の大方の見方だろう。だが、高坂氏は本当にそうなのか?自尊心なしに我々は生きられるだろうか?と疑問を呈し、日本人は戦後でも“日本独自”ということを口にして来なかっただろうか、と書く。
その“日本独自”には憲法九条と平和主義も含まれ、それに多くの日本人が誇りを感じたのは間違いない。しかし、それは日本に限られるならまったく無意味であり、世界に広がって意義を持つものなら、普遍性があるとなるので、それに“日本独自”の形容を付けるのもおかしなものだ、と氏は言う。ただし、平和主義の場合、抑制の効果もあったから、プラスもあったというべきだろう、とも。
他に高坂氏は日本の大失敗のひとつに、日本人の無原則性=プラグマティズムを挙げている。日本の政党政治が勝つためであれば、外交でも国の基本原則に関ることだろうが、なんでも政争の具として平然としていると言う。氏がこの一文を書いたのは'94年9月であり、それから15年後の現代もこの傾向が続いているのは暗然とさせられる。そして戦前、これが英米への反発に繋がっていくのだった。
日本が真珠湾を攻撃、太平洋戦争に突入した時、大方の日本人は興奮し、戦争に協力する意志を表明した。斉藤茂吉、高村光太郎、三好達治などの当時の第一級の文学者たちも詩や歌を発表する。それは基本的に長年に亘る白人の世界支配の恨みの吐露でもあった。「何なれや心おごれる老大の耄碌国を撃ちてやまむ」(斉藤茂吉)などが典型といえる。戦後、進歩的文化人として名を成した住井すゑも、「日の丸少女」「戦争はありがたい」等と書いていた(※戦後、其のことを問われ「いちいち責任取って腹切るのなら、腹がいくつあっても足りない」と居直り)。
これは長期に亘り泥沼化、戦争目的も不明瞭だった「支那事変」に割り切れぬ心情がすっきりした、という面もあったのではないか、と高坂氏は見る。支那事変には軍への献金を拒否、軍に睨まれるのも意に介さなかった岩波茂雄さえ、太平洋戦争となると会合の席で「米英をやっつけるならぼくも賛成だ」と語っており、同様の感情を感情を持った知識人は少なくなかった。これに異を唱える者もいても、結局力のない少数派に過ぎなかった。
日本の大失敗は日中間の戦いに始まり、破局に至ったのはアメリカとの戦争である。本来、この2つが結びつく論理的な必然性はないのだが、それは心情的に結び付けられ、昭和16(1941)年には明白なものとなる。
日本の大陸進出は白人の支配する世界への反発と何処かで結びついていた。後者は理由がないものではないが、前者は結局侵略ということになる。後者が大目的であり、前者はそのための一里塚だった。それゆえ、少なくない日本人が大陸への進出を何かおかしいと感じながら、その過ちを修正できなかった、と氏は指摘する。2つの行為は戦略的に結び付けられ、第一次世界大戦前から諸列強は広い勢力圏を求められるようになっており、それは第一次大戦で理論化され、1930年代に入り支配的とさえなったのだ。アメリカは保護政策をとり、イギリスはブロック経済を始め、ドイツが生存圏を口にするようになったのが証拠である。
その③に続く
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