今なお様々な歴史シュミレーションゲームが発売されるほど、戦国時代は日本史上、日本人には最も人気のある時代だろう。ただ、ゲームや関心の対象となるのは合戦や戦国大名であり、非戦闘員、殊にこの時代の女性の働きについては記録も少ないためか、一般に知られていない。そんな中、自らの戦国体験が記載されているのが「おあん物語」。合戦時の城内の様子はもちろん、当時の社会が伺える貴重な史料であることは書くまでもない。
「おあん物語」の背景はちょうど関ヶ原の戦いの頃。いざ合戦となると、城には戦闘員である武士はもちろん、その家族も集まってくる。要塞でもあり一番安全ということもあるが、弾丸(たま)つくりや怪我人の世話などを手伝うためもあり、非戦闘員よりも準戦闘員が実態だった。石田三成の家来、山田去暦(きよれき)の娘で17歳になるおあんも、石田方の城で弾丸つくりをした1人である。現代で17歳は少女だが、当時では立派な成人女性とされた。それでも未婚なので、娘と見なされたかもしれない。
火薬は当時の新兵器であり、大きな弾丸を込めて打つ大砲を石火矢(いしびや)と呼んだが、これを打つ時は、「打つぞ、打つぞ」と城内にふれて廻ったという。さもないと、発射の轟音で目を回す女達も出てくるからである。おあんも初めは生きた心地もなかった。「ちょうど稲光がした後、雷がごろごろっと来るのを待つような」と、彼女は後に語っている。
しかし、それも慣れると何でもなくなった。女達は弾丸つくりの他、討ち取ってきた首の化粧もやらされたという。死人の首に討ち取った者の名札をつけて並べ、歯にお歯黒までつけたそうだ。当時お歯黒をつけるのは貴人ということになっていたため、首を取ってきた侍は、なるべく大物を討ち取ったように見せかけるため、女達にお歯黒をつけるように頼んだのである。まさに首化粧であり、偽装申請といえる。
何年も前、地元博物館の何かの特別展で、ある戦国武将の肖像画を見たことがある。鎧姿で床几に座り、片手には討ち取った首を抱えて肩肘を張るポーズで描かれているが、敵の首はさながらトロフィーといったところか。平成の日本人と感性があまりにも異なる。
合戦時の極限状態でも、ちゃんと褒美への工夫も抜かりない戦国武士の胆も相当なものだが、頼まれた女達はどうだったのか?平時の現代と戦国時代では死生観もかなり違うにせよ、怨霊やら迷信への恐怖が当時は根強かったはずだ。「後は首もこわい物ではおりない。其首共(そのくびども)の血くさい中にねた事もおじゃった」から、17歳のおあんも初めは気味悪がっていたことが伺える。だが、これにも神経が慣れてしまったのだ。それくらいの図太さがなければ、戦国時代を生き抜けなかっただろう。丁寧に化粧を施された首が並ぶ部屋で、若い女が寝起きをする様を想像しただけで、鬼気迫るものを感じる。
これは西軍側の陣営ならず、東軍も同じ情況だったはず。おあんに限らず武家の女性は首化粧をされられており、武器つくりや怪我人の世話もしていたのだ。戦国女性といえば、大抵は哀れな政略結婚の犠牲者と思われがちで、いかに当時の女性は虐げられていたのか批判する人もいる。
ただ、この時代に限らず支配階級は政略結婚が当り前であり、それはどの文化圏でも変わりない。自由恋愛の末、結婚するというケースは極めて稀であって、現代の倫理観で歴史を見るのは、過去の時代への無理解に繋がる。
おあんの家族は落城寸前に城を抜け出している。父の去暦、母、おあん、その他大人4人。そっと塀に梯子をかけて乗り越え、縄を伝って堀際まで下り、たらいに乗って堀を渡る。おあんは晩年になり、この脱出劇を子供達に語り聞かせる際、それを大阪城のこととしているが、これはおあんの記憶違いではないか、と見る人もいる。石田三成の城で徳川方の総攻撃を受けたのならば、佐和山城となるはずだから。
現代の佐和山城は城址のみで建造物はない。ここを訪れた人の話では上の方は道も細く急斜面だったそうだ。城があった頃は大手(正面)からのいい道もあったにせよ、脱出時には通れなかっただろう。脱出には急斜面の細い裏道でも進む他ないのだ。
無事に城を抜け出したおあん一行が、5~6町行くと、にわかに母が腹痛を訴え始める。母は妊娠中だったのだ。脱出のショックで急に産気づいたのであろう、その場で女の子を産み落とす。付いて来た大人が田の水で赤ん坊に産湯を使わせ、青息吐息の母を担ぎ、父が走る。とにかく逃げねば命はないのだ。
その②に続く
よろしかったら、クリックお願いします
「おあん物語」の背景はちょうど関ヶ原の戦いの頃。いざ合戦となると、城には戦闘員である武士はもちろん、その家族も集まってくる。要塞でもあり一番安全ということもあるが、弾丸(たま)つくりや怪我人の世話などを手伝うためもあり、非戦闘員よりも準戦闘員が実態だった。石田三成の家来、山田去暦(きよれき)の娘で17歳になるおあんも、石田方の城で弾丸つくりをした1人である。現代で17歳は少女だが、当時では立派な成人女性とされた。それでも未婚なので、娘と見なされたかもしれない。
火薬は当時の新兵器であり、大きな弾丸を込めて打つ大砲を石火矢(いしびや)と呼んだが、これを打つ時は、「打つぞ、打つぞ」と城内にふれて廻ったという。さもないと、発射の轟音で目を回す女達も出てくるからである。おあんも初めは生きた心地もなかった。「ちょうど稲光がした後、雷がごろごろっと来るのを待つような」と、彼女は後に語っている。
しかし、それも慣れると何でもなくなった。女達は弾丸つくりの他、討ち取ってきた首の化粧もやらされたという。死人の首に討ち取った者の名札をつけて並べ、歯にお歯黒までつけたそうだ。当時お歯黒をつけるのは貴人ということになっていたため、首を取ってきた侍は、なるべく大物を討ち取ったように見せかけるため、女達にお歯黒をつけるように頼んだのである。まさに首化粧であり、偽装申請といえる。
何年も前、地元博物館の何かの特別展で、ある戦国武将の肖像画を見たことがある。鎧姿で床几に座り、片手には討ち取った首を抱えて肩肘を張るポーズで描かれているが、敵の首はさながらトロフィーといったところか。平成の日本人と感性があまりにも異なる。
合戦時の極限状態でも、ちゃんと褒美への工夫も抜かりない戦国武士の胆も相当なものだが、頼まれた女達はどうだったのか?平時の現代と戦国時代では死生観もかなり違うにせよ、怨霊やら迷信への恐怖が当時は根強かったはずだ。「後は首もこわい物ではおりない。其首共(そのくびども)の血くさい中にねた事もおじゃった」から、17歳のおあんも初めは気味悪がっていたことが伺える。だが、これにも神経が慣れてしまったのだ。それくらいの図太さがなければ、戦国時代を生き抜けなかっただろう。丁寧に化粧を施された首が並ぶ部屋で、若い女が寝起きをする様を想像しただけで、鬼気迫るものを感じる。
これは西軍側の陣営ならず、東軍も同じ情況だったはず。おあんに限らず武家の女性は首化粧をされられており、武器つくりや怪我人の世話もしていたのだ。戦国女性といえば、大抵は哀れな政略結婚の犠牲者と思われがちで、いかに当時の女性は虐げられていたのか批判する人もいる。
ただ、この時代に限らず支配階級は政略結婚が当り前であり、それはどの文化圏でも変わりない。自由恋愛の末、結婚するというケースは極めて稀であって、現代の倫理観で歴史を見るのは、過去の時代への無理解に繋がる。
おあんの家族は落城寸前に城を抜け出している。父の去暦、母、おあん、その他大人4人。そっと塀に梯子をかけて乗り越え、縄を伝って堀際まで下り、たらいに乗って堀を渡る。おあんは晩年になり、この脱出劇を子供達に語り聞かせる際、それを大阪城のこととしているが、これはおあんの記憶違いではないか、と見る人もいる。石田三成の城で徳川方の総攻撃を受けたのならば、佐和山城となるはずだから。
現代の佐和山城は城址のみで建造物はない。ここを訪れた人の話では上の方は道も細く急斜面だったそうだ。城があった頃は大手(正面)からのいい道もあったにせよ、脱出時には通れなかっただろう。脱出には急斜面の細い裏道でも進む他ないのだ。
無事に城を抜け出したおあん一行が、5~6町行くと、にわかに母が腹痛を訴え始める。母は妊娠中だったのだ。脱出のショックで急に産気づいたのであろう、その場で女の子を産み落とす。付いて来た大人が田の水で赤ん坊に産湯を使わせ、青息吐息の母を担ぎ、父が走る。とにかく逃げねば命はないのだ。
その②に続く
よろしかったら、クリックお願いします


ちょっと調べたら山田去暦を祖とする土佐の山田家は幕末明治にも人を輩出しているようですね。
おあん物語は未読ですが、ちらほら内容を聞いたことはあります。首実検の話も、現代人なら気絶する情況でも図太くなって平然と出来るようになる辺りは関心します。人間は案外柔軟性があって強いものです。私は以前からドラマなどで必ず女性や農民は無力な犠牲者として描かれる点に違和感がありましたが、こう言う話にしないと現代では受けないのでしょうか。
ところで、「百姓から見た戦国大名」と言う本がちくま新書で発売されていますが、これがかなり興味深い本です。とにかく百姓は権利を守る為に、百姓同士ですぐ合戦します。そして、なにかトラブルがあると人質を取っての交渉とか、死人が出た際の相手方犯人の引渡し交渉+処刑とか、非常にたくましい。百姓は領主が頼りないと思えばすぐ逃散したり、統治不適格とみなして敵方の大名についたり、その中で大名も自分の領域防衛のために「道理」を追求して公平な裁判をするよう心がけるようになり、大名の強大な権威が確立されていきます。喧嘩両成敗と言う考え方もこの本によると、当事者同士での武力解決を許さず、領主の裁判を通じての解決を目指す中で生まれたもので、ある意味目からウロコの本でした。
この本によると、武田信玄も上杉謙信も相手の領地から略奪したり、相手方領民を奴隷に売って自国を豊かにしていて、戦争をするほど自国領民が豊かになるのです。無力なはずの百姓が略奪して豊かになる、こんな話、今の戦国ドラマでは絶対にできないでしょう。
山田家は土佐では有名なのでしょうか?山田去暦のことはおあんの父で石田光成の家来ということしか知りませんでした。おあんは土佐の雨森氏に嫁ぎますが、この家も山田家の親戚筋になるそうです。雨森家が幕末明治に人を輩出したのかも、私は知りませんが。
現代の17歳と戦国の同年代は違いますが、それでも若い女性が生首にお歯黒をつけているというのは、私もスゴイと感じました。本当に現代に生まれてよかった(笑)。
仰るとおり、私も戦国ドラマでの女性や農民のステレオタイプの描き方に違和感があり、この記事を書きました。いささかでも戦国時代をかじっていれば、同じ思いの人もいると思います。
私は「百姓から見た戦国大名」を未見ですが、実に面白そうな内容ですね。戦国武将のみならずこの時代の百姓も生きるため、食うために戦っており、現代人と価値観や死生観はかなり違うのです。
ある作家が名画「七人の侍」での百姓の描き方はおかしいと指摘していました。当時丸腰の百姓など考えられず、彼らも武装していたので、野武士にやられ放題であるはずがない、と。しかし、史実どおりなら、この映画は成り立ちませんね。
戦国ドラマで女性や百姓が型にはまった虐げられる存在として描かれるのは、戦後の左翼思想ばかりでなく、明治以降の武家時代否定主義もあるかもしれません。漫画もそのパターンだし、白戸三平あたりの影響もかなりあるかも。