伸ちゃんのブログ

ひたちなか市にある、お寺の住職のブログ
毎朝の境内の一コマと坊主の一言を毎日更新中

充実感が大切

2008年04月20日 | Weblog
曇り空ですが昨日までの不安定な天候から
は開放されたみたいですね。
「諸行無常・・あらゆるものは常に変化している」は
何度かこのブログで扱ってきましたが、変化=不安定
とも言い換えられます。不安定であるから変わり続ける
のです。心もそうです。いつも不安定だから周りの状況に
すぐ反応し、くるくる変わります。本当に必要な反応というのは
その場その場ですべきことだけで済みます。運転している時は
そのことだけ、包丁を使っている時はそのことだけ、
つまり“~しながら”はよくないということです。
心や身体は不安定なものであるのは仕方ありませんが、
集中して物事に向かえば、生きていくなかでとっても充実感を感じ、
余計な考えや悩みから離れることができるのです。
充実感を感じるということが生活の中で幸せなことですよね。
ちょっとしたことに充実感を感じて一日一日が過ぎていければ
それが幸福な人生を生きていることなんでしょう。
わたくしもそうありたいと思います。

あの頃聞いた風の音

2008年04月19日 | Weblog
台風が通過したあとみたいな朝です。風はまだ強いですね。
私が子どもの頃は家の近くにポプラ並木があり
風がふくとゴウゴウ音をたて、よけい風の強さを
強調していました。その音がとても怖かったのを思い出します。
子どもの頃に受けた印象はなかなか消えません。
傷つけられたこと、傷つけたこと、子どもの時に見た景色やにおいなど、
ふとした時にいまだに思い出すものです。
親となった今、“落ち着き”を持って「あの頃自分はいったいどう感じ、どう見たのか」と思い出すことが出来れば、その場の感情で子どもに対するのではなくもっとうまく対処できるはずです。
“落ち着くこと”は佛教の最終目標ですが、ふだんの私達の生活においても
“究極的落ち着き”は無理でもいくらか落ち着いているだけでも物事に対処する際に必ずいい方向へ運んでくれます。
「ちょっと落ち着け!」と自分に言い聞かせることが出来れば、それだけですごいことなんですよ!


原因と結果の法則

2008年04月18日 | Weblog
だんだん激しさを増す雨になるようですね。
今日一日は仕方ないですね。
雨水により草花は成長します。種を原因とし、水・日光などの条件を縁として
花が咲くという結果がおこります。縁起の法則を花を例えに説明してみました。
すべての現象はこの縁起の法にしたがって起こる、
これは佛教の原則となっています。“原因と結果の法則”ともいいます。
映画「マトリックス」も“原因と結果の法則”を扱っていましたが、
この世において偶然は存在しません。すべて原因がありその結果があるだけです。
しかし、我々には起きてしまった結果のその原因をすべて知るということは出来ません。
でも自分の身に起きたことはすべて自分に原因がある“自己責任”が原則なのです。
そういう意味では佛教はきびしい教えでもあります。
ですから、言い訳や責任転嫁はしてはいけないのです。
しかし、よい行いには必ず良い結果がめぐってきます。
“善因善果 悪因悪果(ぜんいんぜんか あくいんあっか)”これは絶対です。
すぐ出る結果もあれば、すっかり忘れた頃やってくる結果もあります。
瞬間・瞬間を大切にすることが良い結果をもたらしてくれます。
いい花(結果)を咲かせるのは自分しだいなのです。

家族

2008年04月17日 | Weblog
曇り空で少しかすんだような朝です。
土曜日半ばまで天気は崩れるようですね。
昨日寺からちょっと離れ、郊外を散策してきました。
腰まである長靴をはいて小さな川を渡る老夫婦をみかけました。
リュックを背負い竿・イスをかかえて渡る姿に、転倒しないか
ひやひやして遠くから見守ってしまいました。
自分達もあのように仲よくお互い年をとりたいものだと思ってしまう光景でした。
家庭はわがままを吐き出しやすい環境でもあります。
家の内と外で全然振る舞いが変わるという人もいますが、家族だからこそ
気遣いがとても必要であると佛教は説きます。
ある方がお釈迦様に聞きました。「何者が人々のすみかであるか、この世で最上の友は誰ぞ」
お釈迦様は答えます「子らは人々のすみかである、妻は最上の友である」と。
これが佛教的な家族にたいする倫理観です。人の居場所として基本にある家族を
大切にすること、これなくして幸せは訪れません。とても道徳的なことですが、
道徳を説くのが佛教なのです。


慈悲

2008年04月16日 | Weblog
朝は少しひんやりですが昼間は20度を越えるそうですね。
ちょっと前まではブログに載せる境内の花を探すのに
苦労していましたが、今はいっきに咲き始めどれを選んで良いか
迷うほどです。どれもかわいい花を咲かせています。
本当に小さい花もアップで撮ると、とても見ごたえがあります。
どんなに小さな存在にもこころをくばりましょう…これは慈悲の精神です。
慈悲=抜苦与楽(ばっくよらく)とも言い換えます。
佛教で言う慈悲とは生きとし生ける物の苦を抜き、楽を与えるということです。
どんな存在も苦を抱えながら生きています、だからこそお互い思いやりの気持ちで
接し、楽しく生きていきましょう、という精神です。
大切なのはすべての生き物に対し、ということです。差別をしないことです。
慈悲があるところに、怒り・争い・欲・差別はありません。
周りも、自分も幸せに導いてくれます。
見過ごしてしまいそうな小さな花に眼を配れるように・・いつもこころに余裕をもちたいですね。

歩く

2008年04月15日 | Weblog
葉の表面の朝露が朝日に輝いています。
ちょっとひんやりしていて高原の朝という感じに似ています。
学生時代は北アルプスや東北の飯豊によく通いました。
ひたすら登る、下るをくり返していたわけです。
今思うと体力がみなぎっていたなと思います。そんな時にじつに
よく歩くことに体力を使い切ったものだと思います。
今では移動は車がほとんどです。歩くということは本来人の生活において
基本的なことですが、現代は気をつけないとその大切な部分が抜けてしまいます。
佛教と歩行も深い関係が有ります。「経行」と書いて“きんひん”と読みます。
瞑想中、組んだ足の疲れをとるためまた睡魔を除くためにゆっくり歩くこと、
また仏道修行そのものを意味します。
瞑想の方法の中にも“歩く瞑想”というものもあります。考え事をして歩くことは瞑想になりません。
足を運ぶことだけに集中する・・それが瞑想になります。
背筋を伸ばしてひたすら歩く、心も身体もきれいに入れ替わるようですよね。
こんな日は“歩く”ことを楽しみたいですね。

面倒くさいは・・

2008年04月14日 | Weblog
雨の朝です。みずいろの雨というタイトルの
曲がありましたが、みずいろの朝と勝手に見ちゃいます。
昨日、鉾田市の環境NPO主催の「里山づくり&コンサート」という
イベントに途中からですが参加してきました。
午前は雑木林の下草刈りや間伐をしながらここちいい里山づくり体験
をした後みんなでおいしいお昼をいただき午後はオカリナ奏者、
シンガーソングライターを迎えてのコンサートを楽しみました。
昨日は冬のような寒さでしたが子ども達は大喜びで自然とのふれあいを
楽しんでました。もうおたまじゃくしがいるんですね。
ぬかるみに落ちそうになりながらも手を伸ばす子にまわりはハラハラさせられましたが、
こども本来の姿を見たようでした。
大人にとっては寒い中遠くまでという考えが先にたち、“面倒くさい”で頭をいっぱいにします。
こころを貧しくさせてしまうのが“面倒くさい”の思考ですよね。
“面倒くさい”を超えたところに“充実感”があります。なにをやってもそうです。
面倒なことと感じたらそれは逆に“充実感への合図”と見れば前向きになれますよね!
この発想の逆転使えますよ。

捨(しゃ)

2008年04月13日 | Weblog
カメラを持つ手が冷たさを感じる寒い朝です。
昨日との温度差は身体にこたえそうです。
身体は外界からの情報を五つの感覚器官によって
とりいれます。眼・耳・鼻・舌・身(身は皮膚感覚で
温・冷・痛・圧を感じる):げん・に・び・ぜつ・しん・と読みます。
佛教では五根(ごこん)といい、その情報から「意(心に思うもの)」
へとつながります。眼・耳・鼻・舌・身・意を六根ともいいます。
六根からその対象が自分にとって苦か楽か苦でも楽でもないかを判断します。
つまり快適・不快・苦も楽も感じない・・の三つへ分別します。
佛教はとても科学的です。すべてこの過程を経ながら生活はおこなわれます。
“苦も楽も感じない”を「捨(しゃ)」といいます。つまりとらわれのない心です。
とらわれのない心を保つことがとても大切であると佛教では言います。
ですから「今日は寒いから嫌」ではなく「今日は寒い」だけで終われば
余計な苦や執着はなくなりおちつた心で一日に臨めるんですね。
(超難しいけどこれが大切)

四苦(しく)

2008年04月12日 | Weblog
春の朝という感じです。
草花の成長がよくわかります。様々な木々が芽吹いています。
今は成長の時期。しかし同時に刻々と終わりの時期にも近づいて
いるとも言えます。「生・老・病・死」を佛教では四苦といいます。
生きて行くこと、老いること、身体が衰え病にかかること、そして死をむかえること、
この四つは誰もが通り過ぎなければならない苦であるということです。
ですから、逆はなりたちません。一生老けないようにとか、絶対病気にかからないようにとか、
不死なんてことはありえないということです。
つらいことは誰にもあります。老けたら老けたなりに楽しみましょう。
病もかかります、そんな時は落ち込まないで周りのありがたみを感じながら
こころは病にならないように明るくいきましょう。
死を迎えるときは落ち着いて向き合い感謝の気持ちできちんと皆とお別れしましょう。
四苦をきちんと理解するということは、落ち着きある明るい生き方をするということなんですね。

“こころは年をとらない”partⅡ

2008年04月11日 | Weblog
雨の朝が続いてます。梅雨時みたいです。
昨日小学校に娘を迎いに行くことになり
昇降口で待っているとランドセルを背負ったまま
こちらに向かって校庭の水溜りをバシャバシャと走り抜けて
競争している低学年の児童を見かけました。ニコニコして
校舎に入って行きました。親が見たら叱るところですが、
子どもには楽しいことなのですよね。私も小さい頃
水溜りでバシャバシャしました。どなたにも経験ありますよね。
子どもはその場を楽しんでいるだけ、でもそれを徐々に失って
大人になっていきます。子どものパワーはそこにあります。
バシャバシャは大人には出来ませんが、その場をいかに楽しむか
が佛教で言う“こころは年をとらない”ことなんでしょうね。
実はこっそり長靴をはいてバシャバシャやりたくなってしまいました。