富田林を豊かにする会 代表 武藤宏 ~我が街、豊かに 

地方の繁栄、豊かさの実感
「住みやすい街」から「豊かな楽しい街」を目指して
生活を楽しみながら、心構えと精進の日々

南河内の歴史

2018-04-12 12:12:34 | 日記
 大阪府の南東、富田林市は、大和川支流の石川左岸の河岸段丘で、東に二上・葛城・金剛連山、南を和泉山脈がゆるやかに囲む、河内平野の南部に位置します。


左の山が「葛城山」、右の山が「金剛山」

 いまから約5000年前の縄文時代前期、河内平野北部には入り海(河内湾)が広がっていました。富田林は、この入り海の南側。市域の中央を流れる石川の河原からは、アケボノ象足跡の化石や太古植物の化石などが発見されています。縄文前期の錦織遺跡など多くの遺跡が点在し、この地に有史以前から暮らしの営みがあったことを証明しています。

 

 6世紀後半、難波と大和飛鳥を結ぶ日本最古の宮道・竹内街道が開かれました。難波宮から住吉、堺を経て、南河内の古市、太子を通り、大和に入る沿道には、大陸からの高度な土木技術や産業がもたらされ、古代日本文化を形づくる基礎になりました。現在も5世紀頃の応神陵をはじめとする巨大古墳群(羽曳野市古市)や、聖徳太子ゆかりの叡福寺(太子町)など古代史ファン必見の史蹟が数多く残っています。大和飛鳥王朝を支えた物部氏、大伴氏らは、この地を基盤とする古代豪族でした。




     新堂廃寺跡          オガンジ池瓦窯跡         お亀石古墳


     応神天皇領模型


     応神天皇領模型

 

 平安時代末期、武士が勢力を持ち始める頃、源氏三代は、やはりこの地を基盤に勢力を伸ばしました。
 清和源氏の中でも河内源氏、頼信(よりのぶ)は河内国司に任ぜられて、河内国石川郡壺井に屋敷を構えました。その後、頼信の子である頼義(よりよし)と孫の義家(よしいえ)の三代が壺井本拠地としたことから「河内源氏の発祥(はっしょう)の地」と言われるようになりました。 頼義と義家は、前九年の役や後三年の役で活躍し、特に義家は八幡太郎(はちまんたろう)と呼ばれて東国に地盤を広げ、武家の棟梁としての地位を確立しました。

 
源氏三代を祀る「坪井八幡宮」
  
頼信の墓             頼義の墓            義家の墓

 平氏が滅び、鎌倉時代から南北朝にかけて、南河内は有力武士や土豪が家督、土地の権限を奪い合う主戦場になりました。千早城(現千早赤阪村)を根城に活躍した楠木正成は、南河内を代表する武将一人でした。



戦乱の世、人々は仏にすがり、融通念仏(念仏が功徳を広げ、それが融通しあって御利益になるという信仰)を唱えはじめます。本願寺八世を継いだ蓮如(1415~1499)が摂津(高槻市富田、枚方市光善寺)から河内地方(八尾市久宝寺)へ布教にやってくるのは応仁の乱の最中のこと。本願寺・一向宗門徒たちは、争いのない、平和な仏の国をこの世に建設しようとしました。


宗教自治都市”じないまち”中心「興正寺別院」

 阿弥陀仏の名号を本尊とする極楽浄土の町。時の領主の支配や武士階級の抗争に左右されない、門徒衆や信者らが生活をともにする町。“宗教自治都市”「じないまち」は、こうして産声を上げたのです。(文章は富田林市教育委員会文化財課発行「じないまち探究誌」からの引用です)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿