ロシアのメシアニズムについて調べていて、文豪ドストエフスキーの知られざる超保守性(狂信的といえるほどの)を知り、カルチャーショックを受けた。
では、トルストイはどうだったのだろうかと思ったとき、感心の深いクリミアに係る作品の存在を知り、手にした。それが本作である。
長くなるが、作中の一節を引用する。(旧字体は常用漢字に改めた)
『軍医たちは、切断という、厭わしくはあるが有益な仕事に従事しているのである。そこで君は、鋭利なまがったメスが、真白な、健康そうな肉体へ、ずぶりとはいるさまを見、つづいて、負傷者が急に正気に返り、世にも恐しい、胸をかきむしるような叫び声と呪いの言葉を吐くのを聞くであろう。なお君は、看護兵が切断された片腕を、部屋の一隅に投げ出すのを見、同時に同じ部屋で、まだ担架の上にころがっているいま一人の負傷兵が、戦友の手術を眺めながら、肉体の苦痛よりもむしろ期待からくる精神的苦痛に、もがきうめくさまを見るであろう、──つまり君はこうして、凄惨魂を震撼させるような恐ろしい光景をつぶさに目撃するのである。つまり戦争というものを、響く軍楽、鳴る太鼓、ひるがえる旗、颯爽たる馬上の将軍などといったふうの、整然として美しい、きらびやかな相でなく、その実相──流血と、苦痛と、死とにおいて見るのである・・・』
本作の序盤は、こうしてVRで歴史を紹介するかのようにセヴァストーポリが写実的に描かれる。若きトルストイの観察眼と描写力が光る。しかしそれは傍観者の眼ではなく、当事者の眼なのだ。
当然、トルストイの心に、強く戦場は作用していったのだろう。ドストエフスキーのような狂信的な物言いではないにせよ、彼もまた、愛国的な感情に支配されていた。
『十字勲章のためや、名誉のため、威嚇のためくらいでは、人はこんな恐ろしい条件と妥協することはできない──どうしてもそこには、他に崇高な動機がなくてはならない。そしてこの動機こそ、ロシヤ人の中にひそんでいる、内気な、表面へは滅多に現れないけれども』
とはいえ、トルストイは作中で、これ以上には、声高に“崇高な動機”を語りはしなかった。
前編のエピローグはこう記されている。
『もしかすると、こんなことは言うべきでなかったかも知れないし、或は私の要ったことは、各人の心理に無意識的にひそんでいる邪悪な真理の一つに属するもので、ちょうど酒をそこなわないためにはみだりに揺り動かしてはならぬ沈殿物のように、害毒を惹き起こさないためには、口にしてはならないものであったかも知れないのである。』
沈殿物・・・
トルストイは本能的にか、その知性のなせる業か、ロシアの愛国心、メシアニズムを、警戒もしていたようだ。
とはいえ、祖国愛は強く、葛藤のようなものが垣間見える。
文学作品以外で、どのような表現がなされていたのか、ドストエフスキーとの比較という観点からも調べてみたい。
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