よい子の読書感想文 

読書感想文563

『レイテ戦記(上)』(大岡昇平  中公文庫)

 何度か読もうとしながら、その分量に躊躇して先送りしてきたのを、ようやくこの夏、手にした。
 野呂邦暢『失われた兵士たち』で取り上げられていたのを目にしたのは、ひとつのきっかけとなったようである。

「レイテ戦記」を書いた大岡昇平氏はその動機を、戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものと語っている。死んだ兵士の霊を慰めるには遺族の涙もウォー・レクイエムも十分ではない、と大岡氏は断言するのである。(『失われた兵士たち』22章「滅亡と救済」)

 
さて、感想をと思うのだが、正直言葉が出てこない。これまで北はシベリア南はニューギニアに至る、様々な悲惨を、戦記やドキュメントという形で目にしてきた。だから、いまあらためて、レイテの悲惨に驚愕したわけではない。
 聴き続けるのに体力を要する交響曲というのがある。疲れてしまい、ストレスさえ感じてしまっているかもしれないのだが、その場を離れることができない。『レイテ戦記』を通読するということは、そういう体験だったように思う。
 野呂邦暢はこう続けている。

 
しかし大冊の「レイテ戦記」をもってしても死者たちの霊が完全に慰められたとは私は信じない。著者もおそらくそうであろう。大岡氏はあるとき、生きながらえた自分には罪の意識があると語っていた。(中略)大岡氏は作家として超人的な努力をこころみ、この上なく細密にレイテ戦を記述した。努力を可能ならしめたのは罪の意識であった。 
 
 もしこういう表現が許されるなら、私を『レイテ戦記』に向かわせたのも、ある種の罪悪感だったように思う。
 戦記ものに接するようになった初めは、月刊誌『丸』や光人社“よもやま話”シリーズがきっかけだった。若かった私は、中でも華々しい海軍や航空隊に関するものが好きで、レイテと聞けば『捷号作戦』と連想できても、具体例として頭に浮かぶのはレイテ沖海戦や『武蔵』の最期くらいだった。
 ここ数年来、学徒出陣にまつわるものに手を伸ばし、フィリピンで戦死した方々の多さを知った。実は沖縄や硫黄島よりも戦死者の数が多いというのは、最近知ったくらいだった。
 そういう無知や偏りを、恥ずかしく思う。『失敗の本質』において捷号作戦にみられる日本軍の組織論的欠陥を知り、或いは『大本営参謀の情報戦記』で大本営と南方総軍に翻弄された山下方面軍司令官の苦悩を見、私は知った気になっていたのである。その結果としてのレイテにおける地上戦を知らぬくせに。
 こうして盆休み明けから、電車内で、私は来る日も来る日も72年前のレイテ島にトリップしたのだった。このところ感じていた疲労は、夏バテだけが要因ではなかったのかもしれない。
 喊声、砲声、爆音、銃声、断末魔の声、雨音・・・それらが織りなす交響曲に、ただただ私は張り付けられていた。
 解釈も、感想も、まだ出てこないのである。上巻の“感想”は、ここまでで筆を置くことを許されたい。(三巻の通読を終えてからこれを書き始めたので、わざわざ分ける必然性はないのだが、感想が組み立てられぬという個人的理由で、三つに分割して書くことにした)。


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