『世間知ラズ』(谷川俊太郎 思潮社)
ふと谷川俊太郎の詩を読みたくなって手にした。
メジャー過ぎて、教科書で、雑誌で、本屋に並ぶ背表紙で、探すまでもなくその名は目につく。ひねくれ者の私は、有名な、主流の、売れているものを無意識か故意にか避ける傾向があって、谷川俊太郎の著書は一冊も持っていなかった。(出版業界においては、その発行部数の少なさで、詩集じたい傍流のような扱いなのだろうが)
若い詩人の、きらきら、ひりひりするものとは対極にある詩集である。だいぶ齢を重ねてからのもので、年齢ゆえの気付き・反省が、違和感なく詩情に溶け込んでいる。それが味わい深くもあり、気配なく肩を叩かれたときのような小さな衝撃にも見舞われる。
だが自分の詩を読み返しながら思うことがある
こんなふうに書いちゃいけないと
一日は夕焼けだけで成り立っているんじゃないから
その前で立ちつくすだけでは生きていけないのだから
それがどんなに美しかろうとも
(『夕焼け』より)
谷川俊太郎が年老いてもなお詩人であり続けている理由を垣間見た気がする。
安住しないのだろう。詩は静的なものに見えて、それを表現するほうは絶え間なく動いている。アングルを変えるためだけではない。自分を脱皮し、あるいは俯瞰し、場合によっては生まれ変わるためにも。
私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの
世間知らずの子ども
その三つ児の魂は
人を傷つけたことにも気づかぬほど無邪気なまま
百へとむかう
詩は
滑稽だ
(『世間知ラズ』より)
と、表題作は本詩集の特徴を、最後の7行に凝縮して結晶化している。
唸らされる。けれども、これは“谷川俊太郎”という詩人のキャラが立っているゆえに成立する詩作でもあるなと感じる。という意味では、私小説みたいな特殊なスタイルに依った詩なのかなと思う。
その是非を言えば、きっと幾度となく繰り返された私小説に関する論争を煎じ直すだけになるだろう。
理屈で考えず、是非は問わず、詩は感じれば良いのだと、いまぱらぱらと再読の頁をめくりながら思った。
ふと谷川俊太郎の詩を読みたくなって手にした。
メジャー過ぎて、教科書で、雑誌で、本屋に並ぶ背表紙で、探すまでもなくその名は目につく。ひねくれ者の私は、有名な、主流の、売れているものを無意識か故意にか避ける傾向があって、谷川俊太郎の著書は一冊も持っていなかった。(出版業界においては、その発行部数の少なさで、詩集じたい傍流のような扱いなのだろうが)
若い詩人の、きらきら、ひりひりするものとは対極にある詩集である。だいぶ齢を重ねてからのもので、年齢ゆえの気付き・反省が、違和感なく詩情に溶け込んでいる。それが味わい深くもあり、気配なく肩を叩かれたときのような小さな衝撃にも見舞われる。
だが自分の詩を読み返しながら思うことがある
こんなふうに書いちゃいけないと
一日は夕焼けだけで成り立っているんじゃないから
その前で立ちつくすだけでは生きていけないのだから
それがどんなに美しかろうとも
(『夕焼け』より)
谷川俊太郎が年老いてもなお詩人であり続けている理由を垣間見た気がする。
安住しないのだろう。詩は静的なものに見えて、それを表現するほうは絶え間なく動いている。アングルを変えるためだけではない。自分を脱皮し、あるいは俯瞰し、場合によっては生まれ変わるためにも。
私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの
世間知らずの子ども
その三つ児の魂は
人を傷つけたことにも気づかぬほど無邪気なまま
百へとむかう
詩は
滑稽だ
(『世間知ラズ』より)
と、表題作は本詩集の特徴を、最後の7行に凝縮して結晶化している。
唸らされる。けれども、これは“谷川俊太郎”という詩人のキャラが立っているゆえに成立する詩作でもあるなと感じる。という意味では、私小説みたいな特殊なスタイルに依った詩なのかなと思う。
その是非を言えば、きっと幾度となく繰り返された私小説に関する論争を煎じ直すだけになるだろう。
理屈で考えず、是非は問わず、詩は感じれば良いのだと、いまぱらぱらと再読の頁をめくりながら思った。