ずいぶん前に読んだはずだが、それが二十代前半のことか、十代後半のことかも覚えていない。面白いなと感心しながらも、その後、手にすることはなかった。
現代人受けするように工夫された表紙、それが私の食欲を失せさせていたらしい。また、解説にあるように『しかつめらしく覚えたり、読むのではなく、Tシャツでも着るように』というスタンスが時代錯誤だと感じ続けていた。ちょうど、活字離れな世代に対して『書を捨てよ街へ出よう』というのが皮肉に聞こえてしまうように。
しかし、良いものは良いのだ。引用にも技術やセンスがある。そのコラージュはまた、ひとつの作品なのであって、寺山修司という濾過器を通してしか編まれないであろう言葉たちが、ここに連なり、まるで歴史のように、私にこうして届けられるのだ。
思わず付箋紙を貼った幾つか。
【人は仰いで鳥を見るとき
その背景の空を見落とさないであろうか】(三好達治『鳥鶏』)
【お嫁さんを貰って、家具を入れて、書き卓を買って、文房具を揃えた。ところが何一つ書くことがなかった】(チェーホフ『手帖』)
【科学的にとりあつかわれたものが自然であるのに反して、作詩されたものこそ歴史である。】(シュペングラー『西欧の没落』)
そして寺山修司本人の名言。
【美しくない真実は、ただの「事実」にすぎないだろう。】
【ガラス玉を星のかけらと思いこめる感受性は、その星のかけらの鋭い刃先でみずからの心を傷つける。】
と、端々に、寺山修司の感性が迸る。そう、それは“迸る”と表現するのがふさわしいような、高速度カメラが撮影した、刹那の短詩形だ。
【言葉を友人に持ちたいと思うことがある。
それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だと言うことに気がついたときにである。】
一見すると青臭いような言い様なのだが、この年齢になると胸に迫るものがある。
妙な見栄や先入観は捨てて、若い頃親しんだものを、また手にとろうと思った。
