『二十歳のエチュード』でこの著者の名を知った。薄命の天才詩人が“清さん”と親しんだその人は、やはり詩人となって、数十年後『アカシアの大連』で芥川賞を受賞、小説家としても才を発揮した。
というわけで、清岡卓行の著作を読むのは二冊目となる。
先日通読した『三田文学』の中で晩年の清岡卓行について触れた文があり、私は文字通り「え!?」と軽い驚愕の声を上げた。なんと、いま私が在住している市の、同じ町内に暮らしていたというのだ。
それで、さっそく探し当てたのが本書だった。標題の“駅”は、もちろん私の家からも直近の駅であり、詩人がエッセイでこの界隈をどう描くのか、非常に期待して読んだ。
少し長くなるが、引用する。仕事でパリに行き、その情景がまだありありと頭の中に残っていたというときの情感だ。
【東京の片隅のこの駅はこんなにも美しかったのか、と私は驚いた。すると、そのため新鮮なものにされた懐かしさが、心と体にしみとおってきた。この駅にはパリのどんな壮大な建物にも負けない魅力がある、と私は思った。】
続いて、他の近郊の駅が寸描される。
一部を抜粋すると、武蔵大和駅は【人生とはこんなに懐かしいものだよ、と語りかけているかのようであった】。
西武園駅は【人工と野趣がそんなふうに素朴な形で接しており、若く初々しい人生への郷愁を誘うようなところがある。】
平易な言葉で、素直に感慨を綴る。それが詩情を纏うのは、もはや才能としか言いようがないのかもしれない(一部を切り取っているので、これだけでは掴めないが)。
様々なエッセイや詩論が集められ、著者晩年の営みを知ることができた。『アカシアの大連』に見られた叙情的で同時にさらりと乾いた作風はここでも生きていた。
『杉浦非水の仕事は、広告や商品のためのデザインが人間の生活にいかに深くかかわるかを、私に教えて痛烈であった。たとえば彼によるタバコ「光」のパッケージ、それは私に十代末から三十代末までの生活の哀歓を一瞬のうちに思いださせるような深淵であった。』(雲の中の美女に逢いに)
と、晩年の者が至るであろう感傷も、絵を喚起してしまうのだから羨ましい。
