よい子の読書感想文 

読書感想文509

『天声人語2』(荒垣秀雄 朝日新聞社)

 十年ほど前に、『天声人語』の単行本を読んだ。それは私の幼少期に重なる時代のもののうち、“人物編”として編まれたものだった。元来、『天声人語』の好きな私はそのとき、もっと様々な時代のものを通読したいなと思いながら、それきりになっていた。
 今回手にしたのは、1950~1954年の選集だ。朝鮮戦争やサンフランシスコ講和条約、再軍備といった目白押しの時代。濃い内容のコラムだろうと期待して開いた。
 印象として、現在の『天声人語』よりも、口調に強さがある。自信と言い換えてもいいだろう。特に、権力者に対する表現はなかなか歯切れが良い。いまのコラムは遠まわしで、文学的だが、当時は喫緊の問題で、背は腹に変えられぬ話だったからだろうか。
 ひとつだけ引用してみる。
【吉田首相は先日外務省の幹部を招いた席上で例の「臣・茂」の寿詞が話題になったところ「臣茂といって何が悪いんだね。総理大臣にだって臣が入ってらあな」とタンカをきったそうだ。(中略)臣・茂の吉田総理大臣はあの日から“天皇の家来”に成り下がったらしい。新憲法で主権在民になり国民の一人一人が主権者のはずだが、吉田さんはまず自分の主権を放棄して天皇に主権を奉還する気なのかも知れぬ。それも吉田個人一人だけのことなら“明治の草莽の臣”に還元するのは勝手だが、国民が選んだ総理大臣が率先独走して主権を天子様にお返ししたり、人民どもにも“家来”になっちまえと勧誘されたりしては、たまったものじゃない。象徴天皇もノー・サンキューと辞退されるだろうが、国民も今さら主権を皇居のお濠に投げこんでバンザイを三唱するのはイヤでござんす。】
 なかなか痛快だ。しかしこうまで書かせたのは、逆コースを辿るのでは? という疑念が現実的に感じられたからだろう。なにせ生まれたてなのだ、日本国憲法は。
 読んでいて、歴史的な大事件を、どう日本人は受容していったのかが察せられ興味深いが、末恐ろしいのは、今の時代と問題意識が非常に似ているということだ。
 憲法を改正もせずに再軍備するのか、という話題が再三挙げられている。九条が骨抜きになる、と。ああ、先送りした問題が、いま繰り返されているのだと気づいた。それも、解釈の変更などというマジックによって、法律は際限なく歴史の回帰を用意する。
 もっと、切実に歴史を学ばねば、と思う。世代交代によって痛みを忘れ、繰り返すなら、もはや文字を持たぬ未開人と同じではないか。
 話は変わるが、『天声人語』の内容として意外だったことをひとつ挙げておく。水爆実験等を痛烈に批判する同じ筆で、原子力のエネルギーとしての利用について夢のような希望的観測を語っているのだ。事故の数々を経てきた現代から見れば滑稽なことであるが、当時は鉄腕アトムがヒーローだった時代、安全神話以前の、夢物語、仕方ないのだろう。
 しかし、それにしても、本書の通読は疲れた。800字に、濃縮されたエキスがつまっていて、それを立て続けに読むのは、きつかった。トイレに置いて1日1編読むくらいがちょうど良いのだろうが・・・  

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