友人に薦められなければ読まなかったろう。コンビニにも置いてある本は、大抵コンビニ的な内容だからだ。
結論を先に言えば面白くはあった。評論としてではない。一種の文学としてだ。これはよくできた大衆文学であって、それ以上でも以下でもない。
モチーフとして、『論理』一辺倒の近代的風潮を批判し、論理を紡ぐための出発点や座標軸を得ることこそ重要だとする。数学者らしい考え方で良いが、だから『もののあはれ』だ『武士道』だといわれても、擦り切れた反動の一形態に過ぎない。あるいは反射作用とも。
この作風は時代性への反動ばかりではあるまい。証明し尽くすことに慣れすぎた数学者の、安易な論証放棄も散見される。これは飛躍的な反動だろうか。以下その抜粋。
『ヒットラーと同盟を結ぶという愚行を犯したのも、武士道精神の衰退によるものです。』(P.116)
『日本は品格ある国家であったが故に、植民地にならずに済んだのです。』(P.179)
こうして論証なしの個人的意見と、外国人の好意的日本観だけが随所で紹介され、こう結んでしまう。
『この世界を本格的に救えるのは、日本人しかいないと私は思うのです。』
勝手に思っていてくれ、というのが人文系評論として読んだ場合の返答である。
また、『日本の神聖なる使命』(P156)と称して、その神聖の根拠に、
『日本人にとって自然は神であり、人間はその一部として一体化しています。』と、どこかで聞いたような眉唾な文脈を据え、しかもこう続ける。
『日本人は自然に調和して生きてきましたから、異質の価値観や宗教を、禁教令のあった時期を除き、頑なに排除するということはしませんでした。』
倭人よりもさらに自然と調和して生活するアイヌや琉球の人々を、『排除』し時には武力で同化してきた歴史を知らないのだろうか。
眉唾は続く。経済学について述べる部分。昨今の市場原理主義をアダム・スミスら古典派経済学の復古だとするのは良いとしても、
『イギリスの経済学者ケインズが、これを1930年代になって初めて批判しました。』(P182)
と書く。経済学史をおさらいしてほしいものだ。
と、いうわけで大それた標題の割に本書は評論として成立しえていない。いわばエッセイである。小説といっても良いだろう。
で、私の序言に戻る。大衆文学は何よりも面白さ=心地よさが要求される。本書は心地よさのオンパレードだ。特に『国家』そのものを天与の疑い無い機関であると信じ、その存在と同化して誇りたい人々には。
著者は新田次郎の次男。新田次郎も理系の学者ながら、名作を残している。その血を受け継いだのだろうか。読書へのサービスという大衆文学の要素をついている。眉唾と自覚しつつ、私も面白く読めたのだ。この人は作家に転業したら良いのではないか。
論証放棄や突飛な日本美化の文脈も、心地よい一冊の読み物をつくるための確信犯。かもしれない。
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kob
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