那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

京都大学大学院名誉教授加藤幹郎さんの著作を紹介します。

2018年09月15日 | 書評、映像批評

集団ストーカーの被害者の方は次のurlを押してください。 http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

  また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日にの8時から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。手前のテーブルの場合もあります。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今後は二回目から講演者に5千円は差し上げます。医療だけでなく歴史や芸術についても講義できるようになりました。私は八王子五行歌会の代表です。賛同される方は私まで電話を下さい。042-634-9230。出ないときは留守電にメッセージを残して下さい。次は「煩悩と幸福観」がテーマです。これは物凄く面白い話題になるでしょう。その次のテーマは「欲望とのつきあい方」です。これは宗教から精神世界まで幅広いテーマになります。是非ブログをご覧の皆様も「春名先生を囲む会」にご参加下さい。

私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)

後、微笑禅の会(非宗教)のネット会報は中止し、年に5千円の護持会費と数度の紙媒体での会報を出すことにします(メールで済ますこともあります)。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。 http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html             入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

なお、微笑禅の会の口座番号に変更があります。入会手続き入会金なし。会費は年に5千円とし、ゆうちょの以下の振替口座 00130-7-447671 名称「微笑禅の会」に振り込んでください。その際は住所氏名他連絡先、男女の区別を明記してください。退会は自由ですので、私にメールか電話をください。

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以下は加藤幹郎さんの映画に関する著作である。私も数冊持っているが、読みごたえがあるので、映画の好きなひとは是非、買って読んで欲しい。タイトルの下の文章は加藤幹郎さんの概要である。

 

①『映画のメロドラマ的想像力』〔フィルムアート社、一九八八年、二八五ページ〕

 

 念願がかなう本書は、メロドラマという概念が二元論的イデオロギー(思想傾向)の基盤になっている。それゆえ、それは単なる恋愛映画の表象基本形のみではなく、たとえば戦争映画や終生映画などの芸術作品においても、生と死といった二元論に基(もと)づいた物語構造が、映画という二十世紀の娯楽/芸術媒体として浸透していった表象の歴史である。したがって、世界映画史の古典的作品から一九八〇年代までの傑出した映画作品群を、作家論、映画史論、技術論、物語論の諸アスペクトから講演したものである。また文芸雑誌や映画批評雑誌に掲載したものも収録した映画書籍である(ちなみに、本書は当然二四〇〇円だったのに、現在 Amazon.co.jp では昔の拙著群が四二〇〇円から五〇〇〇円などにて売られている)。

 

 

 

②『愛と偶然の修辞学』〔勁草書房、一九九〇年、二四四ページ〕

 

 本書は、三つの物語表象媒体の相関関係を、レトリック(修辞学)的水準をもとに論じる。すなわち映画、小説、漫画である。それらは必然より偶然、全体より細部にこだわる愉しい表象文化論。映画はイタリア、フランス、アメリカ、日本の作品論。そして小説は、急進的な革命小説家サミュエル・ベケット(一九六九年にノーベル文学賞を受賞したアイルランド人)がフランス語で書いた未邦訳の当時の新著論。また彼の先達たる英文学史を解体した、知名度高いアイルランド人だったジェイムズ・ジョイス、この二人の世界文学史上最大の〈モダニズム〉小説の新たな解明/解釈である。そして世界最高水準にある日本漫画作家たちの芸術的論考、ならびに漫画という媒体と読者との受容様態関係論。むろん、映画群はほぼ上記の書物の延長線上で新たに展開している。

 

 

 

③『鏡の迷路  映画分類学序説』〔みすず書房、一九九三年、一八四ページ〕

 

 古典的映画作品から、当時の傑出した映画芸術作家の秀逸な映画作品群まで、映画史上一貫して映画技術媒体とともに変化しつつ、共通する映画概念と人間表象の様態変化場面である。それらをキャメラ・ワークがどのような変貌と共通性を維持しているのか、作家論、作品論のレヴェルを超えて、映画の密度等、従来ありえなかった映画芸術観点から諸作品の映画史的連関性を考察した、映画思想の真の動機に満ちた本格的な書物である。

 

 

 

④『映画ジャンル論』〔平凡社、一九九六年、三五六ページ/文遊社[増補改訂版]、二〇一六年、四九二ページ〕

 

 ハリウッド映画の一九三〇年代から九〇年代までの、十種類の映画ジャンル論の機知に富む変遷(へんせん)史。それにともなう定義の再考、ならびに映画芸術作家たちが娯楽産業たるハリウッド映画会社群内におけるジャンル定式から、どのように独自の変更を加味してきたのか。そして諸ジャンルの厳密な歴史的定義検証と個々の映画作家がメディア社のもとで、いかに傑出したオリジナリティ(独創性)を創造していったのか。それらの両面性から、「映画ジャンル論」の意味と作家論の意義とを論証した、結果的にいたる重要な役割に満ちた信頼を表す学術的書物である。

 

 

 

⑤『映画 視線のポリティクス 古典的ハリウッド映画の戦い』〔筑摩書房、一九九六年、一八四ページ〕

 

 賢明なる小生は、一九九〇年八月から九二年二月まで「フルブライト客員研究員」として、カリフォルニア大学ロサンジェルス校(アメリカ最大の映画学およびメディア学が卓越した学部と大学院のある大学=ハリウッド映画産業の地元)や、一流大学たるカリフォルニア大学バークリー校や別のニューヨーク大学に滞在し、膨大な一次資料を各種アーカイヴで調査し、戦前に喜劇映画の特異なジャンル映画を監督していたプレストン・スタージェスとフランク・キャプラという一流映画作家たちが、戦時中、戦争プロパガンダ映画シリーズの監修を、政府から依頼された数年間の作家的芸術性と戦時イデオロギーとの類縁性、その他の映画作品群と文献資料論にて考察した書籍。

 

 

 

⑥『映画とは何か』〔みすず書房、二〇〇一年、二八三ページ/文遊社[増補改訂版]、二〇一五年、三〇六ページ〕

 

 古典的ハリウッド映画から決別した、「ポスト古典的」ハリウッド映画とも言える、新しき芸術たる娯楽映画も依頼する映画監督アルフレッド・ヒッチコック。彼の代表作たるスリラー・サスペンス映画『サイコ』(一九六〇年)のテクスト分析もある。また、ドイツ表現主義の超一流映画作家フリッツ・ラングは、ナチス・ドイツ戦争期ゆえにアメリカ合衆国に亡命して、ハリウッド映画作家として変遷(へんせん)しても、なお特異な芸術・娯楽映画作品をいかに制作しえたのかも分析テクストした。さらにまた、十九世紀初期の首都ワシントンDCの議会図書館アーカイヴでのリサーチによる、先駆者たる「アメリカ映画の父」と称されている、超有名なD・W・グリフィスの初期インディアン映画群。および、黒人専用劇場向けの黒人専用映画作品を、サイレント期から監督した特異な黒人映画作家オスカー・ミショー論。その他のアメリカ映画のメイジャー側面ではなきマイナーな側面についての、厳格かつ慎重なる論証書籍である。なお本書は、「第十一回吉田秀和賞(副賞二〇〇万円)」を受賞する(讃(たた)えて[心から誉(ほ)められて] 賞状を授与される)表彰状にて、小生に祝辞してくださった方は、有名な映画評論家たる東京大学名誉教授(二〇〇一年三月までの東京大学総長)たる蓮(はす)實(み)重彦(しげひこ)先生であった。さらにまた彼は、『朝日新聞』冒頭の「天声人語」にて小生に提出して下さり、その他の各新聞雑誌においても、才能たる多数の学者たちは拙著に関する書評を多々掲載(けいさい)されていた。

 

 

 

⑦『映画の領分 映像と音響のポイエーシス』〔フィルムアート社、二〇〇二年、三〇二ページ〕

 

 世界映画女優論、ハリウッド映画産業の地元ロサンジェルス市は降雨量が少ないために選ばれた地理なので、当然、プールという液体空間と映画作品との関係性の論証。従来の作家論とは異なる観点から、力量豊かな偉大なハリウッド映画作家たちを新作家論的観点から立証する。したがって、映画批評誌や文芸誌に依頼された種々の論文やエッセイの集大成ゆえに、東京大学名誉教授たる高名な蓮實重彦先生による『産經新聞』書評にて、本書が高く評価された賞讃に値する映画研究書である。

 

 

 

⑧『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』〔筑摩書房、二〇〇四年、二四三ページ〕

 

 「映画作家(監督)の意図」だけでは成立しえぬ、繊細なる映画作品のすぐれた意義を多様なるコンテクスト(社会史、文化史、絵画史、映画史、主題論的分析等)を通して、戦時中のユダヤ人亡命者たちによって構成され、戦後、フィルム・ノワールと呼ばれる(日本では「暗黒映画」と言われていた)、唯一「悲劇」的側面をもちうる卓越した狭義ジャンル映画作品『ブレードランナー』。その伝統を踏まえて、一九八二年に製作されたSF映画が、当時のクローン(純系)科学との類縁性によって、人間の生と死の卓越したシェイクスピア的「悲劇」と比肩しうる映画作品でもある。それをテクスト分析であると同時に、コンテクスト分析として一冊の大部の書物で、一本の作品を多様なる文脈とともに解明した書籍。それはまた、元東京大学総長の蓮實重彦先生が現在インターネット上で高く評価しておられる。要するに、賢明な彼による巧妙な映画学書『映画への不実なる誘い―国籍・演出・歴史』〔NTT出版、二〇〇四年〕には、小生(京都大学大学院映画学助教授)の映画研究書についても執筆してくださった。実際、本作の拙著は二〇〇五年に2刷化され、二〇〇七年に3刷化されて厖大に売られていた。したがって本作は当時二八〇〇円だったのに、現在の Amazon.co.jp では、十二作が五五〇〇円から八四〇〇円まで依頼されている。

 

 

 

⑨『映画の論理 新しい映画史のために』〔みすず書房、二〇〇五年、二三〇ページ〕

 

 一九三〇年代から五〇年代にかけて、米国のきわめて優れた美術家(小箱オブジェ制作家)であると同時に、実験映画作家でもあったジョゼフ・コーネルを、小生はシカゴ美術館で資料検索検証を実施し、日本で見られることがなかったマイナーながら、素晴らしい芸術実験映画作品群との類縁性と特異性の論証。その他、世界映画史上最大の映画芸術作家ジャン=リュック・ゴダールのハリウッド映画史等への引用と独自性の検証、ならびにCGI(コンピュータ作成映像)期が定着した二十一世紀の新規映画論としての代表作映画の検証論証の書籍。要するに、技芸(芸術に関する技術)の熟練にも満ちていた映画論書。

 

 

 

⑩『ヒッチコック「裏窓」 ミステリの映画学』〔みすず書房、二〇〇五年、一五三ページ〕

 

 「みすず書房」が入門書シリーズとして、「理想の教室」群を日本の傑出した大学教授たちに依頼したさい(たとえば、東京外国語大学学長ロシア文学者や吉田秀和賞受賞学者たち)の一環として、小生も最初に依頼され、ジャン=リュック・ゴダールらの一九六〇年代のフランスのヌーヴェル・ヴァーグ新人作家たちが、大評価した英国人ハリウッド映画作家アルフレッド・ヒッチコックの代表作の特異性を論証した。つまり、単なるミステリ映画ではなく、映画という視聴覚媒体が「裏窓」の向こうに主人公が「見た」つもりの「殺人事件」を、観客も「見た」つもりになる古典的ハリウッド映画とは異質な映画的内面性(外見と内実の乖離)を論証した、わかりやすい短い革新的な映画学入門書である。同時に、ヒッチコックの芸術的革新性を新たな観点から論証した画期的書物。第六回本格ミステリ大賞最終候補作品。

 

 

 

⑪『映画館と観客の文化史』〔中公新書[中央公論新社]、二〇〇六年/二〇一七年、三〇三ページ〕

 

 多大に心掛ける(目指して努力する)べき米国と日本の、それぞれの映画群の黎明(れいめい)期から今日までの上映形態と観客の関係を分析解説するもの。要するに、当時の文化的・社会的背景から、各時代の観客が映画鑑賞によって、どのような欲望を満たしてきたのかを入念に考察する。そして映画館をめぐる日本初の網羅的省察を試みている。映画がいかに「場所」と関係づけられてきたか、十九世紀のパノラマ館から始まり、日本の弁士京都市をふくむ世界中のヘイルズ・ツアーズ(擬似列車映画館での列車映画興行)の模様(一九〇〇年代初頭から一九一〇年代まで)、米国のドライヴ・イン・シアター(一九五〇年代ブーム)、フライ・イン・シアター、客船内映画館、テーマパーク内映画館、アイマックスシネプレックスその他、また映画産業都市京都と新聞と観客との特異な関係のリサーチ、日本初の包括的な映画館(観客)論の展開。当時、本書は一万冊ほど売られて、二〇一七年に二刷化されて、また二万冊ほど刊行。しかも日本のすぐれた私立大学群にて、十年間以上(ほぼ毎年)、膨大にダイレクトな「国語」入学試験としても本書は利用されている。

 

 

 

⑫『表象と批評 映画・アニメーション・漫画』〔岩波書店、二〇一〇年、二三九ページ〕

 

 満足を与える、愉快な映画論、アニメーション論、漫画論に関する実(みの)りある研究たる三部構成。それぞれ独立した批評的テクスト分析だが、「ポピュラーな視覚媒体のなかに芸術的アスペクトを見いだすこと」という共通テーマ。根強い人気たる映画作家アルフレッド・ヒッチコックによる映画『レベッカ』(一九四〇年)の主題論的テクスト分析。特殊性たるスティーヴン・スピルバーグ監督のスペクタクル映画と、普遍性たる映画監督ジャン=リュック・ゴダールの反スペクタクル映画、そしてまたエドガー・G・アルマー監督のB級映画群を、さらにクリント・イーストウッド監督の西部劇映画を論証。また、すぐれた新海誠のアニメーション映画が可能にした情緒風景映画の特質も規定。さらに漫画作家荒木飛呂彦による厖大な『ジョジョの奇妙な冒険』におけるテクスト分析によって、古典的漫画における人間身体表象や齣(こま)割(わ)りや画面構成から常識を逸脱した、世界的に画期的なマニエリスム芸術漫画であることも論証した注目と人気に満ちた書籍である。

 

 

 

⑬『日本映画論 1933-2007 テクストとコンテクスト』〔岩波書店、二〇一一年、四四三ページ/上下二段組み〕

 

 深い感銘を受ける本書は、徹頭徹尾、映画を見て聴くことについての厖大な書物で、小生の才能を最大限に発揮させたものである。実際、映画の視聴は表象の倫理的領域にかかわる。それはイデオロギーの領域に、そして実践される社会的空間の問題に至り、とりわけ還元不可能な個性の想像力の領域にいたる。その意味で、日本映画史が映画の歴史の切断や区分にもとづく編年体的記述をなおさら意味するのである。そもそも、昔の概念的、歴史的理解だけでは真に映画を理解したとは言いがたい。映画とは、歴史的・概念的説明を超絶する映像と音響の具体的構築物だからである。それは全体化理論では、多様な手法を駆使した経験である。そのなかでも、もっとも還元不可能な経験のひとつが日本映画を見て聴くことなのであるから、映画芸術的価値に満ちた七六作の映画作品群。

 

 

 

⑭『列車映画史特別講義 芸術の条件』〔岩波書店、二〇一二年、一八七ページ〕

 

 本書は、絢爛(けんらん)たる映画理論一般には基本いっさい言及しない。要するに、比類なき才能を発揮した学問的認識のものである。ある映画作品群が、伝統を踏まえたうえで革新的であるがゆえに芸術的であるとすれば、それはなんらかの説明によって解明されるべきものではなく、世界映画史の多様な文脈(コンテクスト)上で具体的に究明されるべきものだからである。現代の少なからぬ人間たちは、芸術作品の革新的創造性と自己刷新的運動をとおして、生の活性化をはかるべきものだと思われる。そうした仮定にもとづいて、整合性ならびに総合性を旨(むね)とする包括的理論によっては、その真髄(そのものの本質)をとらえることなどできない映画芸術の具体的革新性の分析を、本書は、すぐれた映画作品群をとおして見事なバランスにて主眼したものである。

 

 

 

 


突然映画批評です「小原庄助さん」(清水宏、1949)

2014年11月16日 | 書評、映像批評

ブックマークに加えたように最近「レアフィルム批評アーカイブ」というブログを作りました。これは昔のHP「那田尚史の部屋」に数多く書き残した映像書評をアメリカ製の魚拓から掘り起こし、このブログに移動させたものです。戦前の小津安二郎監督の映画でエイゼンシュテインの顕著な影響を受けたものなど、非常に貴重な批評があったのですが、魚拓ですから櫛の歯が抜けた状態になっていて大半が復活できません。

以下の作品は片っ端から探していたらやっと見つかったもの。今後同じ作業をして見つかれば採録します。

ところで映画は音楽と同じ「時間芸術」です。文章なら速読したり、つまらない部分は飛ばして読む、というふうに鑑賞のスピードは読者の自由ですが、時間芸術はそういうわけにはいきません。ベルイマンの映画は早廻しで見ると実に単純なストーリーですが、あのダラダラした時間に付き合うことが重要なんですね。映画を研究・批評していたときに駄作と付き合うことになり「ああ、この時間があれば他のことが出来るのに」と何度後悔したかわかりません。自分の寿命を削って鑑賞しなければならない傑作などそれほどありませんから。そういう意味では未見の作品の評価は非常に重要な意味があります。前田有一さんが今のように有名になる前に何度かメールをやり取りしました。彼の批評はネタバレなしで評価が的確ですから、映画ファンにはお薦めです。「超映画批評」http://movie.maeda-y.com/

 

『小原庄助さん』(清水宏、1949)


{あらすじ}

ある農村の名家に生まれた主人公の男(大河内伝次郎)は人がよくて、朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、村民から「小原庄助さん」と呼ばれ、また自分もそれを気取っている。莫大な遺産も底が尽きているのに、村民から頼まれると嫌と言えず、野球チームのユニホームやら、ミシンやらを寄付して村のために尽くしている。
 村長の病気に伴い、選挙が始まる。村民は主人公の男に村長選出馬を願い出るが、その直前にある狭量な人物から村長選出馬を打ち明けられ、応援演説をする約束をしていたので、その約束を守るために出馬しないと述べ、代わりに仲のいい村の住職に出馬を勧める。村長選は一騎打ち。主人公が応援演説した男が勝ち、住職は落選。しかし、選挙違反が摘発されて、住職が村長になる。
 主人公の男は金貸しに借金をしており、返す当てがない。長年勤めている婆やにヒマを出し、家にあるさまざまな品物を競売にかけ、家まで手放すことになる。馬の代わりに可愛がって乗っていたロバは村の子供たちにやり、愛読書類は村民にただで配る。妻の兄が来て、その様子に落胆し、妻までも実家に連れて帰る。

 道具がなくなっただだっ広い屋敷で、主人公の男が一人でさびしく酒を飲んでいると、二人組みの強盗が入ってくる。男は、一瞬の間に強盗を柔道の技で投げ飛ばす。「お前ら、来るのが遅いぞ。昨日ならくれてやるものもあったのに」という台詞が面白い。そして彼らが生まれてはじめての泥棒だったことを知ると、彼らに酒を振舞いながら次のように言う。「炭鉱夫でも百姓でもやればいいじゃないか。いや、これは俺にいう言葉だ。家柄がいいものだから、肥桶も担げず、安月給取りにもなれず、小原庄助さんをきどって生きてきたが、結局家も手放し、女房にも逃げられた」
 翌朝、男は元の自分の屋敷の門に「小原庄助さん、なんで身上つぶした。朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上つぶした。ああ、もっともだ。もっともだ」と書き残し、カバン一つで旅に出る。後ろから、実家に帰っていた妻が追ってくる。

{批評}

この作品は日本映画を知っている者の中では傑作の一つといわれていたので、この作品を見るのを非常に楽しみにしていた。たまたまスカパーでやっていたので運良く見ることができた。
 あらすじは上記の通り。たまたま私が禅に興味を持っているので、余計にそう思うのかもしれないが、主人公のダメ男は、別の角度から見れば、「本来無一物」を実行した、仏様のような人間である。絶対に悪いことはしない。世のため人のために尽くして、全財産を捨て去る。生き仏ではあるが、可哀想なのは妻やバアヤなど周りの人々である。見ようによっては、この映画は、在家者があまり仏の道に沿って生きると不幸になる、という教訓話のようにも見える。明らかに、禅の思想に触発された映画であろう。在家と出家の修行は違う、というお話でもある。脚本は、監督の清水に映画評論家で大物映画人の岸松雄が協力している。
 私は、この映画は「小原庄助さん」の伝記だろうと思い込んでいた。実際はそうではなく、小原庄助さんを手本に生きる、没落していく名家の主人の生き様を描いた物語である。
 撮影に関していえば、広い屋敷の隅から隅までをノンカット長廻しで撮っていく移動撮影があるかと思うと、ミシンの足踏みと坊さんが木魚を叩くカットを交互に見せる対照のモンタージュの短いカットの連続があるなど、自由自在の撮影が印象的である。
 演技に関していえば、さすがに天下の大河内伝次郎。一言で、うまい。いい役者である。
音楽についても、有名な作曲者・古関裕而(「高原列車は行く」「長崎の鐘」や早稲田の応援歌「紺碧の空」の作者)が手がけ、いたるところに民謡の「小原庄助さん」(「会津磐梯山」)が使われ、悲しい話なのに、どことなく呑気な、明るい世界が描かれる。
 ちなみに戦後の闇市の時代の貴族の没落を表した映画には有名な『安城家の舞踏会』(吉村公三郎、1947)がある。この作品は、有名な割には表現が稚拙で私は好きではないが、戦後日本の上流階級が没落し、家屋敷を手放し、新興勢力に取って代わるという時代を表した作品群というものがあるようだ。小説なら太宰治の『斜陽』がある。
 監督の清水宏は戦前に「有りがたうさん」という大傑作を撮っており、一部では天才映画監督と言われる。
来月からスカパーで清水宏特集が組まれるので、大変楽しみだ。見たら、またHPで紹介する。

 


普通の映画では物足りない人へのメッセージ

2014年07月31日 | 書評、映像批評

http://blog.livedoor.jp/nadahisashi-hitozukuri/

ここに「レアフィルム批評アーカイブ」と題したブログを作りました。映画ファンは世間に多いですが、普通の映画では物足りなくなった人のための批評空間です。

当分はこのブログの書評、映像批評を移動させていきますが、徐々に新しい作品の批評にも取り組もうと思っています。現在の映画批評の紙媒体は「映画芸術」ぐらいしか残っておらず、私が常連執筆者だった「月刊イメージフォーラム」も休刊になって久しく、また映画に関する単行本の売れ行きもこの大不況と「本を読まない大学生」という世相を表してどん底状態のようです。

以前、日本図書センターという大きな出版社から『世界映画大事典』という高価な本が出版されたとき、私も執筆を担当し売り上げに貢献した経緯があるので、当時の編集者に伺ったところ、今では映画関係の学術的な本は600部も売れたらいいほうだ、との話でした。私が現役で執筆していた当時は2000部売れるかどうかが目安だったので、驚きを通り越しています。常に消費者が正しい、というのはマーケティングの鉄則でしょうが、悪貨は良貨を駆逐する、という諺もあり、実際新聞の広告を見ると、タレントや有名人の本、それから手軽に資産を増やすためのハウツー本が多く、本当に読みたいものに出会いません。

そういえば、批評と言えるレベルものは無いにしてもキネ旬こと「キネマ旬報」は生き残っていますね。私はここに生涯で唯一と言っていい「持込み原稿」を電話で依頼したことがあります。それは実験映像を愛する仲間が確か軽井沢辺りで催した映画祭の報告と批評でした。私はキネ旬の世俗的な編集方針が「大嫌い」です。が、このイベントを多くの映画ファンに知らせるために嫌な予感がしながら依頼したところ、想定どおり電話に出た女性編集長の態度のデカサにはウンザリしました。いかにキネ旬の方針が素晴らしいか、実験映像の批評など読む人はいないが自分の裁量で採用してやる、と延々と聞かされ、何度かキレかかりましたが「神埼与五郎股くぐり」の気分で我慢しました。この女性はキネ旬が当初はシネフィユ(活キチ)によるリーフレットから始まったことも当然知らず、その復刻版を数十万出して私が所有していることも知らず・・・・・まあ、分不相応に地位を得て天狗になっている女性(福島瑞穂などなど)ほど醜いものはありません。彼女もその典型でした。その上に、批評を載せた号のキネ旬が送られて来たので読んだところ、なんと一行分がきれいに抜けていて、意味不明の文章になっていました。抗議したところ謝罪もなく、翌月号の一番後ろに訂正のお知らせが載っていたものの、プロの編集者が一行読み飛ばすとは考えられません。フロイトは「間違いの中に無意識の願望がある」とその解読を試みています。私の批評文の意味が分からず、嫌々編集作業をやっていた様子が手に取るように分かります。

話が飛んでしまいました。とにかくネット上に批評の場を作ったので、読者の中で映画が好きな方はぜひご覧になり、希少で批評の難しい映画を見たらその感想でも情報でもいいのでコメント欄に投稿してください。当然コバエたちのアラシを防ぐためにコメントするには友人設定をする必要があります。(今は一時的にオープンにしています)

実験映像を見始めてからほぼ30年が経ちます。大学院2年生のゴールデンウィークに、同じ早大の先輩で「月刊イメージフォーラム」の編集長だった池田さんの指名で批評を書き始めました。思い出せば、当時の早大大学院の演劇映像専修は、30人ほど受けて受かったのは3人のみという狭き門でした。私は文学青年でしたから当初は詩学の研究をしたかったのですが、当時は明治以前の文学しか大学院では教えていないと聞き、仕方なく映像詩の方面で勉強をやりなおすことにしました。そういう事情で映画青年(映画館に行くことに喜びを覚える人たち)を蔑視していたぐらいなので、大学院受験のために、いわば突貫工事で、名画座と言われるところ(池袋の文芸座、早稲田のACTミニシアター、銀座の並木座など)に足繁く通い、映画を見ながらライト付きペンでメモを取って(その後遺症で今も脊椎ヘルニアが残っています)世界中の名画と言われるものの製作年代と内容と歴史的研究的な意義を頭に詰め込んでいきました。普通は大学院に進むためには、大学生の頃から映画の担当教授から、受験するように勧められようですが、私は映画の授業を全く取っておらず、筆記試験に受かった後の面接のときに、ああこの人が受験勉強のときに読んだ参考書の執筆者だったのか、と知った有様でした。3人の同窓生のうち一人は広島の学芸員的な職に就き、もう一人は帰郷して脳梗塞か何かで車椅子生活になりました。その友人にお見舞いの手紙と共に小林よしのりの漫画「戦争論」を贈ったことをはっきり覚えています。今は共に連絡が途絶えたままですが、いつか同窓会でも開きたいものです。

またまた話が飛びました。そういう名画を詰め込みながら、自分が一番興味を抱いたのが実験映像、自主制作の映画で、ポピュラーなところでいうと寺山修司の短編作品のような類いの作品です。商業映画、劇映画などは「映画年鑑」にどんな駄作でも記録されますが、自主映画の場合は誰かが批評を書き残さないと歴史から消える淡雪のように儚い存在です。ですから私は一種の義侠心のような気持ちで批評を残していったものです。

今回「レアフィルム批評アーカイブ」というブログを新たに立て、放っておけば解けていく淡雪を保存する計画に着手した次第です。ブックマークの一番下にもこのブログを入れておきますので、批評、感想、情報などお待ちしています。

文章の構成が無茶苦茶ですが、リハビリ型デイサービスの看護婦さんに「12時前には寝ること」と指きりゲンマンしたので、このまま投稿を終えます。あ、もう午前1時を越えてしまいました。看護婦さんごめんなさい。






「美人論」書評

2013年09月28日 | 書評、映像批評

大正三美人の続きとして、林きむ子を取り上げようと思いましたが、フト昔のHPに「美人論」という本の書評を書いた記憶が蘇りました。このブログに転載した筈、と思って探してみたらどうもないので昔の書評をコピペします。2007年12月に書いた書評です。 

因みに文化人類学では「可愛い顔には普遍性があるが、綺麗な顔には普遍性がない」と実証されています。

私のパソコンは不具合があって、私からは唐人お吉の写真が見えません。読者の皆さんに見えるか心配なので、念の為に面白いurlを貼っておきます。http://micmicmic.blog.so-net.ne.jp/2008-04-06 の上から二番目がお吉。カラーで見たい人はhttp://d.hatena.ne.jp/k-hisatune/20100207 をクリックして下さい。私は学生時代カラー(後から色をつけたもの)の写真を机の前の壁にマチスの絵とともに貼っていました。

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美人論(井上章一、朝日文庫、2005年第二刷)


この本を知ったのは、岸田秀の「性的唯幻論序説」を読んでいたときに、「美人が尊ばれるようになったのは明治以後である」といった文句とともにこの本を紹介していたからである。それで数年経ってフト思い出し、本書を購入してみたのだが、岸田さんは勘違いしていたとが分かった。
 ここで書かれているのは、江戸時代の上級武士の間では家柄で結婚が決まっていたので、不器量(面倒なので以下、ブス、と記す)でも結婚できた、ということである。江戸期以前に美人が重宝されていたことは例えば浮世絵を見ても分かるし、「源氏物語」を思い出せば、末摘花がブスにも関わらず光源氏の寵愛を受けた、という記述は、この時代には美人とブスの区別があった証拠である。恐らく、美人とブスの概念は、労働しなくても生きていける富裕階級が生まれた時点からあったものと思われる。
 そういうわけで、岸田さんの記憶違いがきっかけになって入手し、3日間ファミレスでランチを食べるついでに30分ぐらいずつ読んで読了した。以下、引用は一切せずに、記憶に残った部分のみを書き留める(「性的唯幻論序説」はひどい悪文だが、これも面白い本なのでいつか紹介しよう)。

井上氏は本来建築史の専門家で、理科系の人物だから、文章は余りうまいとはいえない。その代わりに非常に分かりやすい言葉で、しつこいぐらい丁寧に書いてある。文献を引用しては、その引用をさらに解説するというスタイルを通しているし、前節で書いたことを繰り返し書く、という癖があるので、一通り読めば、いいたいことが十二分に伝わって、記憶に残る。恐らく私が同じ本を書けば半分の量で終わっていただろう。そういう意味では丁寧な、あるいは原稿代を稼ぐのに都合のいい本でもある。

さて、本書が明治から現代にかけての様々な文献を駆使して証明しようとしているのは、実に単純なことである。それは明治時代に厳然としてあった美人の概念が1920年頃を境に崩壊し、現代では「誰でも美人」、あるいは美人の価値すら否定する風潮が生まれた、という流れである。
 もう少し細かく見てみよう。

明治時代には美人は「柳腰、うりざね顔、色白、おちょぼ口、スズを貼ったような目」という絶対条件があった。色黒の美人や口の大きな美人、丸顔の美人など存在しなかった。このような条件を満たさねばならないために、美人は稀有の存在だった。つまり現代よりも美人ははるかに強いオーラを持っていた。
 それで明治の元勲たちは美人を妻にした。江戸時代は士農工商という身分序列が確固として存在し、武士は家柄格式で結婚相手を決めていたが、明治の元勲は下級武士の出身であり、その身分序列を自分で破壊した階層なので、純粋に、家柄に関係なく美人を求めることに躊躇しなかった。本書には書いていないが、確かに伊藤博文、木戸孝允、陸奥宗光らは芸者を細君にしている。
 家柄も教養も関係なく、単に容色だけで上流階級に入ることの出来る美人という存在は、逆に言えば、上流階級の大多数を占めるブスにとっては脅威であり、嫉妬の対象となる。
 このために、「倫理」「恋愛論「人生論」といったタテマエの言説の場では、美人は「高慢で、好色で、教養の無い、周りに災難を巻き起こす」まるで悪魔のような存在であると定義され、一方ブスは「教養があり、性格が良く、貞節」であると讃えられた。

面白いエピソードを紹介している。「卒業顔」という言葉が流行っていて、それはブスを意味するというのだ。つまり、明治時代に女学校へ通う生徒は、参観日の折などに近隣の富裕階級の親たちが見学に来て、美人の順から自分の息子の嫁にするために、美人は全員中退する。従って女学校を最後まで勉めて卒業するのはブスであり、まして師範学校へいって教員にでもなろうものなら、ブスの中のブスとして軽蔑されていたらしい。当時は職業婦人は卑しい階級とされていたから、なるほどそういうこともあっただろう。女学校の入試面接のときに「あなたは器量が悪いから卒業できるでしょう」と言われた、といったエピソードが残されている。

そういうわけで、この時代は美人とブスとの差が実に明瞭に意識されていた。
ところが1920年頃になると、突然風潮が変わってくる。健康美人、知的美人、といった概念が導入されるのだ。ついでに言えば、日本には「表情」という言葉はもともと無く、明治に翻訳されて1920年頃から使われるようになる。つまり、江戸から明治にかけて上流階級の婦女子は、ちょうど今の美智子皇后や中山恭子補佐官のように、能面顔で表情を表さないのが上品だと思われていたのである。それがこの時代になると、表情豊かであることは良いものとされていく。
 こうしてこの時代になると、明治時代のような固定された美人の概念が民主化、大衆化していく。
その理由を筆者は詳しく書いていないが、恐らくこの時代重工業が発展し、サラリーマンという新中間層が生まれ、都市化が生まれ、大正デモクラシーと呼ばれる風潮が高まったことで、庶民の声がジャーナリズムに反映されていったからだろう。それまでは華族、政治家、豪商、知識人といった一握りの階級の言説(あるいは常識)だけで成り立っていたジャーナリズムに、中間層の声が反映されるようになった。そうすると圧倒的な多数を占めるブスの権利が主張されることになり、「顔面の造作」を示す美人という言葉の意味に、「知性」やら「健康」やらが侵入して、美人の概念が拡散するわけだ。

こうした美人の大衆化が1920年から始まり、現代まで続いていると作者は主張する。現代になると「誰でも美人」であり、さらに積極的に、美人なんて関係ない、という主張すら現れるようになった。それには化粧品産業の戦略もあったと説く。一握りの人間しか美人になれない時代よりも、誰でも美人になれる時代が来るとすれば、化粧品は顧客を飛躍的に伸ばすことが出来る。だからこういう美人の大衆化には化粧品業界の工作でもあるという。

視点を変えれば、「面食い」の男性への批判が強くなり、顔だけで女性を選ぶのは頭の悪い男のすることだ、という主張が常識になる。

そういう美人をめぐる言説の変化を実証してこの本は終わるのだが、後書きを読むと、どうやら作者の井上氏は、実は「面食い派」のほうに味方してこの本を書いたらしい。フェミニストたちへの一種の挑発の本である。ご丁寧なことに、フェミニストにしてブスの代名詞である東大教授・上野千鶴子の解説までついている。井上氏と上野さんは面識があって、トムとジェリーのように仲良く喧嘩している間柄らしい。


以上が本書の解説である。
私は、物心ついてから徹底した「面食い」なので、この本は大いに面白く読めた。とくに明治時代の美人の絶対条件「柳腰、うりざね顔、色白、おちょぼ口、スズを貼ったような目」は、私の好みのままである。明治時代には、こういう厳しい条件がついていたために、タテマエ論として道徳的には批判されながらも、本音論としては、化け物のように美しい、魂を奪われるほどの美人、という女性が存在したのである。このことが私は非常に面白い。現代のように美人の条件が甘くなり、個性こそが美、といわれるようになると、明治時代の美人のようなオーラというか破壊力が消えてしまう。
 面食いの人間にとって今より明治時代のほうがはるかにスリリングで、美人を娶るという喜びがあっただろう。
 ちなみにこの条件を満たすとすれば、美人はちょうど竹下夢二が描く女性のように、線が細く、不幸、薄幸というイメージが取り巻く。事実、当時の美人は「結核好み」と称されていたらしい。例えば次のような顔である。(右の写真は左に着色したもの)


実はこれは「唐人お吉」の19歳のときの写真である。異論もあるが、ほぼ本物とされている。
とすると1860年の写真ということになり、江戸末期である。お吉は下田一の美人芸妓と評判だったので、これが江戸から明治にかけての典型的な美人顔ということになるだろう。
 読者の皆さんはどう感じるか分からないが、私はこの写真と出合った学生時代から、猛烈なお吉ファンになった。向かって右側の切れ長の瞳と眉毛のバランスといい、鼻から口元にかけての幼さを残したセクシーさといい、文句の言いようが無い。
 ついでに言えば、「結核好み」というよりも、私には神経症の影と不幸の影が感じられる。実際、お吉は50歳のときに(明治24年)アル中+ホームレスになって、川に飛び込んで自殺した。
 こういう異常な強度を持つ、化け物のように美しい女性を私は愛し、哀れに思う。

人生は日常体験のほうが圧倒的に多い。非日常の体験というのは年に数回あるかないかである。私は子供の頃から「美が放出するポエジーの魔力」に取り付かれ、芸術学修士になった(なってしまった)。思い起こせば、医者になるチャンスも弁護士になるチャンスもあったのだが、「医者は病人と老人の相手。弁護士はトラブル解決業。俺は美を追求する」と豪語して、とうとう貧乏研究者になってしまった。
 そういう美に取り付かれた人間にとって、庶民には決して手の届かない、特権的で、徹底エリート主義で、神々しい魔力を放つ、魂を奪われるほどの美人、という存在は、これほど有難いものは無い。私は麻薬は嫌いなのでやらないが、芸術、自然、美人の中に、ごく稀に「非日常」と出会う。その瞬間のためにこの退屈な日常を生きているのだ。

もし近所にお吉が住んでいたら私は妻子を捨てても、その行く末が心中であろうがホームレスの道だろうが、躊躇無く、彼女を愛することに賭けてもいい・・・・・・・・というのは大嘘である。
 美人とは所詮顔の造作のバランスでしかない。諸行無常を悟るために、昔の禅の観法には「九想」というものがあり、私が図で見たものは、美女が老醜を晒し、死体となり、肉体が腐り、野犬に食われ、骨だけになってバラバラに散る、というイメージを坐禅をしながら頭に描いたという(現在でこういう修行をしているところは無いだろう)。
 このように、所詮は無常の美ではある。

しかし、美が無常であるからこそ、私は美を愛し、美人を愛する。お吉さんが今生きていたなら、せめて一緒に酒を飲みたいものだ。
(お吉はハリスの妾となったために、唐人とかラシャメンと言われ、溺死体も「触ると指が腐る」と丸二日も放置された。しかし、ハリスは胃潰瘍だったし、おまけに50歳を過ぎた肥満体で生活習慣病にかかっていたに違いないから、私はハリスはお吉を性的対象として扱わなかったと思っている)

ともかく「美人論」は面白かった。多分この解説で大切なところは全て語られているが、お薦めの一冊である。

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 以上です。6年ほど前に書いた書評なので、いまの私は少し考え方が変わっていていますが、これこれで当時の実感だからそのままに残します。恋愛と言うのは思春期に特有の「一時的視界狭窄」、つまり単なる思い込みですが、自分の中の女性的な部分の顕現(アニマ)ですから、神経が張り詰めている時は、異常な磁力で人をひきつけるのも確かです。

10月から募集する「八王子五行歌会」の題詠は「一目惚れ」です。基本的に上位三席までは月刊「五行歌」に掲載されますので、ぜひ投稿して下さい。詳しい投稿、採点などの手順は後日正式発表します。


 

 

 


やっと見つかった「狂った一頁」の批評

2013年08月25日 | 書評、映像批評

今日は「微笑禅の会」のネット会報の続きを出す予定でしたが、探し続けていた文章が見つかったので予定を変更します。

先ずは「主権回復を目指す会」のメルマガの紹介です。

*魔法使いの弟子と東京電力(福島第一汚染水)
http://nipponism.net/wordpress/?p=23650

<東京電力とは魔法使いの弟子 もう誰も止められない放射能汚染水 >
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次いで、八王子民主商工会より。

会員特権です。お店の宣伝チラシを作って用紙を300枚用意して事務所に持参すると1枚一円で印刷が出来て、「全国商工会新聞」(毎週発行)と共に宣伝してもらえます。詳しくは電話番号:042ー624ー3144までお尋ね下さい。また民主商工会の活動についてはブックマークをご覧下さい。小さな店の大きな味方です。

このブログの左下にある様々なブックマークは全て会員の参加を呼びかけています。皆様の協力をお願いします。

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さて、昔作っていたHPに書いた「超絶全面批評」や「映像批評、書評」などがUSBメモリに全て残っていました。当時はマメにパソコンがバグった時のために保存していたのでしょう。NTTのリモートサポーターと今使っているパソコンのバックアップを行っていたときに偶然あるフォルダを開いて発見したわけです。サポーターさん、夜の9時半までお手伝いありがとうございました。

この『狂った一頁』の批評は、定説を覆しているので学術的に重要なものだったのですが、捜し求めても見つからず諦めていました。この作品は世界で最初のシュルレアリスム映画『アンダルシアの犬』より2年早く作られた例外的なアヴァンギャルド映画であるとともに、製作方法も含め様々な意味で日本の実験映画の元祖と言えるものです。作品を見てない方でも分かるように書いています。ぜひ御一読下さい。

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注:以下の文章は昔のHPに2006年2月7日に映像批評として残したものです。

『狂った一頁』(衣笠貞之助、1926年、白黒、サイレント)

{あらすじ}

精神病院の中。狂った人々が幻想にとらわれている。踊り続ける女性。
小間使いの男(井上正夫)は、船乗り時代に自分のせいで妻を追い詰めて狂人にしてしまった責任をとり、妻の入院する精神病院の小間使いとなったのだった。
 そこに娘がやってくる。娘は結婚して玉の輿に乗ろうとしているのだが、母親が狂人であるために、それがネックとなって結婚できない。小間使いは妻を精神病院から逃がそうとするが失敗する。
 小間使いは宝籤で一等賞に当たったことを空想する。そして娘の結婚式を空想する。そして、最後に患者達にオタフクのお面をつけることを空想する。


{批評}

上記のように粗筋を書いたが、この作品は会話場面も空想場面も多い反面、無字幕であるために、よほど映画を見慣れている人でも、粗筋を読み解くことさえ困難である。
 この作品は、衣笠が、横光利一、川端康成などと「新感覚派映画連盟」を結成して作った前衛映画である。
 そして、何処が前衛なのかといえば、空想、幻想、回想などの主観ショットの実験、という点で前衛なのだ。
 主観ショットに関しては古典的システムでは、「人物の姿→ディゾルブ→主観ショット→人物の姿」と言ったふうに、観客が主観的事実と客観的事実を混乱しないように規則が定められている。
 この作品でも7割がたはこの規則どおりに主観ショットが使われるが、残りの3割は、この規則を意図的に破っている。具体的に以下に記す。
1、冒頭の狂った踊り子のダンスシーン。突如として豪雨や雷、太鼓を打つ短いカットが挿入される。この場面は、踊り子の幻想とも理解できるし、エイゼンシュテインの「連想のモンタージュ」であるとも理解できる。
2、宝籤に当たる空想場面。これも井上正夫の顔を写すことなく突然、宝籤に当たったシーンが始まる。客観シーンかと思ってみていると、最後に井上の姿が映し出され、空想場面だったことがわかる(といっても、弁士の解説抜きではそれさえ分からないだろう)
3、娘の結婚式の場面。これも突如として主観シーンになり、あとで空想だったと分かる。
4、狂人達にお面をつける場面。これも後から井上正夫の空想だったと分かる仕掛けになっている。

こういうふうに主観シーンと客観シーンが意図的に曖昧になっていて、弁士の解説抜きにはその区別が不可能なのである。
 そもそもこの作品は最初は字幕がついていた。試写会のときに横光利一が無字幕でやろうと提案して無字幕になった、といういきさつがある。しかし、こんなに会話と空想場面の多い作品を無字幕でやる、というのは、その背後に「説明は弁士に任せる」という意図があってのことである。前衛芸術家が、弁士排除ではなく、弁士の腕を信頼して彼らの技量に任せたことは疑いの無いところであり、精密な「弁士用台本」が用意されたことは間違いない。(小松弘氏に伺ったところでは名古屋で出版されていた映画雑誌「逆光線」に弁士用台本の一部があるとのこと)

しばしば日本映画史はこの作品をF・W ムルナウの『最後の人』(1924)と関係付けて述べている。しかし、私が『最後の人』を見たところでは、7つの主観ショットがあるが、お手本どおりとは言わなくても、マスキングや二重露光により、全ての主観ショットが古典的システムの中に入っていて、観客には「これは主観ショットだ」と分かるように出来ている。従って、『最後の人』が『狂った一頁』に与えた影響はほとんど見られないと言ってよい。
 主観ショット以外にも、例えば『最後の人』は主人公(エミール・ヤニングス)の悲劇をプロットが単線的に追っていくのに対して、『狂った一頁』の前半部分では、井上正夫と狂人達の生態とが複眼的に描かれ、登場人物の全てに平等にカメラが注がれる、という意味でエイゼンシュテインの作品のような趣がある。

では、この『狂った一頁』は狂い咲きのように日本映画史に登場した奇跡的作品なのだろうか?確かに主観ショットの実験という点では私はこの時代にこれに類似した作品を知らない。この主観と客観との混乱、という点では「アンダルシアの犬」や「 2/1」を先取りしていると言える。
 なぜこのような先駆的な実験が可能になったのかを想像すると、第一には文学における新感覚派の影響を考えるべきだろう。
 例えばこの映画のシナリオを協力した川端康成の「雪国」では、冒頭に「夜の底が白くなった」という有名な一説がある。これは普通は「夜の底が白くなった、と私は思った」と書く。そう書くことで、夜の底が白い、という主観的な言い回しを、客観的に叙述することが出来るからだ。しかし、新感覚派はあえて主観的な言い回しで止める。散文のなかに詩的言語が混在する。そもそも新感覚派の文学理論には、文学への映画の影響があると言われるが、客観的な事実と空想とをあえて混乱させる『狂った一頁』のテクニックは、新感覚派の文学理論からの影響であり、文学における映画的手法の先祖がえりであったと言えよう。「はい、ここからが空想ですよ」と説明せず、空想場面を混乱状態で見続けたあとに、ああ、あれは空想だったのか、と気づく「混乱の面白さ」。それを分かっていたから横光利一はこの作品を無字幕で上映することを提案したのだろう。
 なお、小松弘氏の指摘では、衣笠が育った日活向島撮影所には独特の空気があり、小道具係が休み時間にショウペンハウエルを読むような、西洋思考があり、進取の気性に溢れていたために、衣笠も多分にその撮影所の気風に影響を受けていたに違いないとの事である。

なお、この作品は岩崎昶のような前衛オタクを除いては封切り後には評判が悪かった。分かりにくかったからではない。この作品の弁士を務めたのは徳川無声だったので、見事にその主観ショットも説明過多にならない範囲で、観客に想像の余地を残しながら解説したと記録に残っている。要するにこの映画が不評だったのは、物語がつまらなかったのである。粗筋を見れば分かるように、いいわけ程度の筋書きで、盛り上がりに足りない。(衣笠はこの反省から傑作『十字路』を作ったのだろう)

 いずれにせよこの映画は日本で最初のアヴァンギャルド映画であり、世界史的にみても非常にユニークな価値を持つ問題作である。機会を得て、この作品の成り立ちを論文の形で発表したいと私は思っている。



山本玄峰の伝記を紹介します。

2012年11月05日 | 書評、映像批評
以下は、ずっと昔に書いた書評で、このブログに書いたと思っていたら無かった。どうにか見つけ出すことができたので採録します。まだ禅の稽古はしておらず鬱病にかかっていた頃の書評です。この本が出版された直後に買って書評を書いたような記憶があります。


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『再来 山本玄峰伝』(帯金充利著、大法輪閣、平成14年発行)


私は山本玄峰(やまもとげんぽう)の名前を、以前に読んだ2冊の本の中で知っていた。一冊は血盟団事件の黒幕であった井上日召の自伝「一人一殺」の中で、もう一冊は、戦前武装共産党のリーダーでありながら獄中で右翼に転向し、戦後は政界のフィクサーとして活躍した田中清玄の「田中清玄自伝」である。
 この超大物右翼の二人が、二人揃って師と慕い、薫陶を受けた男がこの禅僧・山本玄峰である。
 そういうわけで私はこの僧の名前はかなり以前から知っていたが、彼の生い立ち、人となりはこの本ではじめて知ったしだいである。

山本玄峰は生まれてすぐに養子に出された。一説には籠に入れて捨てられていたのを見つけた養父が酒を吹きかけると息を吹き返した、という。養子先は広い山林を持つ大地主であり、彼はそこのお坊ちゃんとして、手配の樵たちに大事に育てられ、同時に10代で、飲む、打つ、買う、の道楽を覚えた。後に結婚をして家督を譲り受けるが、玄峰自身の言葉によれば、若い頃の女遊びが原因で、すなわち性病のために目を患い、盲目となった。
 
盲目となった彼は、離婚して家督を弟に譲り、目が見えるように願を立て、四国八十八ヶ所の霊場めぐりを8度することを誓う。盲目の、しかも裸足での霊場参りである。その苦労は尋常ではなかっただろう。
 そして、なんと事実8度目の巡礼の途中で、かすかに目が見えるようになるのである。玄峰はこれを機に禅寺に入って修行を始める。

彼は学問もなく、目が見えるようになったといっても強い弱視であった。彼が後に禅宗妙心寺派の管長にまで登りつめたのは奇跡としか言いようがない。小僧たちに漢字の読み方から習い始め、夜、人が眠っている間にも座禅を組み、「線香に火をともして」読書をした。
 こうして、キチガイのように禅を組み、公案を解き、心を鍛え上げて、「白隠禅師の再来」と言われるほどの逸材となった。

第二次世界大戦のさなか、誰よりも早く「無条件降伏」で連合国に負けることを最善の策として認識し、敗戦時の総理大臣鈴木貫太郎に首相就任を進めたのも彼なら、終戦の勅語にある「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」の文句も彼のアドバイスによるものであり、また「象徴天皇制」のあり方を時の総理に提言したのも彼であった。

この本は、僧侶としての玄峰がどれほど激しい修行をし、また荒れ寺を次々と復興していくさまを詳しく記しているが、私の関心はそこにはなかった。
 禅僧がいかにして悟ったか、それが知りたかった。
彼の修行の眼目は

「性根玉(しょうねったま)を磨け、陰徳を積め」

の二言に尽きる。
 陰徳を積め、は私にも理解できるし、また私自身もそれを実行しているつもりである。
しかし、性根玉を磨け、という言葉は、鬱病の私には辛かった。頭で理解しても、そうすることが治療上は最も悪いことなのである。担当医も同じことを言うであろう。鬱病患者が根性を鍛えるのは、自殺行為に等しいことなのだ。
 私が剣道に夢中になっていた10歳から15歳までの間は、この根性論が大好きだった。人が寝ているときに寮の屋上に出て500回の素振りをし、「剣禅一如」と書かれた日本手ぬぐいで髪の毛を巻いて、「剣道はスポーツではない、殺し合いだ」という気迫でいつも試合した。おかげで中学生になって以来、公式試合では一本もとられぬまま連勝を続けた。
 この気迫は、甲南大学在校時に、3ヶ月だけ早稲田大学受験のための勉強に打ち込んだとき、また、大学院受験に反対する母が投げ捨てた本を拾い集めて受験勉強をしたとき、そして、恩師の命に従い、英語論文を2度書いたときに役立った。まさに鬼人になれた時期があった。
 しかし、今の私は、「性根玉を磨く」厳しい修行には耐えられない。逆に言えば、この時期は、心に力を入れない練習をすることが、私にとっては「性根玉を磨く」修行なのである。

そういう意味で、玄峰の自伝の内、鬼のような修行に打ち込む彼の姿が描かれている部分は、私には読むのが辛かった。
 ただ二つ、この本で気に入った部分がある。

それは、玄峰が無類の酒好きであり、90を越えても(彼は96歳まで生きた)晩酌に3合から4合の酒を欠かしたことがなかったという事実である。これは、自責の念に責められながら毎夜酒を飲む自分への慰めとなった。
 ちなみに、僧侶にとって飲酒は、戒律の一つ「不飲酒」を破ることを意味する。悟りの頂点を極めた人物が破戒の大酒のみだったことを知って、私は大いに救われたような気がした。
 もっとも彼はどんなに飲んでも乱れず、二日酔いで起きられないようなことはなかったという。このあたりは、一度肝臓を壊して、大酒を食らった翌日には背骨(肝臓)が痛む私には真似できない。ともあれ節度を持ちながら、一生酒と付き合ったいいんだな、ということを玄峰の自伝から認可されて嬉しかった。

もう一つは、玄峰が引用する北条時頼の歌に感銘を受けたことである。

 心こそ心迷わす心なれ心に心心許すな

という和歌であり、ここに禅の奥義があり、セルフコントロールする秘訣がある。
 日蓮はよく知られているように、法華経以外の全ての経典を否定したから、禅宗に対しては「禅天魔」と批判し、「心の師となるとも心を師とせざれ」という有名な文句を残している。この日蓮の言葉と時頼の法歌は同じことを示している。
 対自的な我を鍛えること、強烈な自我を育成すること。そのことは私には良く分かる。そして、今もう一歩のところにきているのだが、なかなか自分の思うがままに自分の心を統治することは難しい。
(もっとも、この自我論はあくまでもフロイトの説く自我心理学の見地からのべたものであり、禅においては「我」など「無い」と断言するだろう。しかし、それは悟りの境地から見た話であり、ここではあくまで「常識」の範囲内で解釈しておく)

ところで、この本は「人間にとって徳がいかに大切か」ということを説いた本であり、山本玄峰は近代まれに見る「有徳」の人として描かれている。
 さて、このような山本玄峰に近い人物が私の周りにいるだろうか?と考えてみた。玄峰師ほどの傑物はいないが、人徳のある人物は何人かいる。私の交友関係は、学者、芸術家、民族派(右翼)、といった面々が多いので、中には何人か陰徳を積んで、一般人よりも高い境地にいる人物がいる。

鬱病の私にとって、この本は一部は大いに参考になったが、一部は参考に出来なかった。
この本は、「男を磨きたい青年」に向いている。勝海舟の数冊の本(「氷川清夜」や「海舟座談」など)とともに必読書と言えよう。


『月はどっちに出ている』(崔洋一、1993年)映画批評(再投稿)

2012年09月27日 | 書評、映像批評
すみません。映画批評を掘り起こす批評です。多分、もう一度ぐらいで終わります。
(カテゴリーを間違えて投稿したので、再度の投稿になります)


『月はどっちに出ている』(崔洋一、1993年)


{あらすじ}

この映画は3つのエピソードから出来ている。
一つ目は、在日朝鮮人で、母親がフィリピンパブを経営していて自分はタクシードライバーをしている主役(岸谷五郎)が、母の店のチーママであるフィリピン人(ルビー・モレノ)をナンパして同棲し、一度は別れるが、また結ばれるという、はなはだいい加減で猥雑なラブストーリーである。
 二つ目は、主役の勤めている在日系のタクシー会社(金田タクシー)の社長が、同じ在日系の金融屋の口車に乗って、ゴルフ場経営に乗り出そうとして騙され、15億の借金を背負う。そして、自己破産のかわりに会社に火をつける話である。
 もう一つは、上の二つの物語に比べると小さなエピソードだが「俺は朝鮮人は嫌いだが、忠さんは好きだ」と主役の男を追い回す日本人にまつわる物語である。この男は妻に逃げられ、子供二人を故郷の母親に預けているが、いつかは妻とヨリを戻し、一軒家を立てて2世代一緒に暮らすのが夢だという。そして、別れてクラブのホステスをしている妻から、ヨリを戻したい、と電話があったというのだが、この男は家に電話などもっていない。結局不可解な行動を繰り返した挙句、警察に捕まって精神病院に強制入院させれることになる。
 以上、3つの逸話が絡まりあっている。


{批評}

封切り当時は割りと評価の高かった映画だが、私はダメな作品だと思う。
まず、長所から言おう。この映画は、「被害者コンプレックス」の塊のようなこれまでの在日のイメージを根底からひっくり返したところにある。60年代から70年代にかけて、日本の革新的な作家たちは朝鮮人を被害者と規定し、彼らにシンパシーを寄せることが自分の良心の証でもあるようなスタンスをとっていた。『ユンボギの日記』や『絞首刑』の大島渚がいるし、『書を捨てよ町に出よう』の寺山修司も、人力飛行機にのって対馬海峡を越えようとして墜落した朝鮮人の話とそのイメージをこの映画のライトモチーフにしている。それのみか、寺山は、女子高校生を強姦殺人した朝鮮人の高校生を擁護する発言すらしているのである。我が金井勝は、さすがにこの二人のような「行き過ぎた同情」に傾いたことはないが、『GOOD-BYE』のラストでは日本の侵略から祖国を守った韓国の英雄の銅像の下に立ち、朝鮮人の目から日本を見る。
 このような過去の大物映画監督のシンパシーに対して、崔監督はまるでアカンベーでもするかのように、金儲けしか頭にない、ゴキブリのようにたくましいチンピラまがいの在日たちをアッケラカンと描いているのである。この容赦ないリアルな視点は、崔監督自身が在日であることに裏付けられている。「加害者コンプレックス」に罹っている日本人監督ではとても描けない人物像である。
 このように、在日のイメージを一変させたことはこの映画の値打ちだが、表現として純粋にこの映画を見たときには、平均点以上のものはない。
 この映画は、ほとんどリアリティがない。主役がフィリピーナをナンパするところでも、ほとんどレイプなのに、女は男に腕を廻して簡単に寝てしまい、男と同棲を始める。滑稽なほどに汚らしいベッドシーンもあり、一体監督はこのシーンを何のために挿入したのか分からない。男性観客へのサービスだろうか?それにしては肉感性のほとんどない、大げさなセックスシーンである。
 そうだ、滑稽なほどに、と今言ったが、おそらく崔監督はこの映画を「コメディタッチ」として描きたかったのだろう。在日の世界という暗いモチーフを、わざと喜劇調に描くことを彼は発見し、その発見に自分で酔ったにちがいない。しかし、その喜劇調が、全ての演出からリアリティをなくしてしまった。早い話、この映画は漫画のように人物描写が軽いのである。いや、漫画にももっと優れたものがある。要するに、崔監督はメリハリをつけ、描ききるところは描ききり、流すところは流す技量がないのだ。
 表現スタイルとしても目立つのは移動撮影が必要以上に多いことぐらいで、特別に個性はない。
ラストシーンは、一旦別れたフィリピーナを主役の男が連れ戻して二人でドライブする場面だが、ここでも崔監督は「憂歌団」の音楽を使って、もっとも安易な終わらせ方をしている。なんだかスッキリしない、巧く決めることの出来なかった作品のラストに挿入歌を入れてごまかす、というのは学生映画でもやらない臭い技術といっていい。
 なお、「月はどっちに出ている」というタイトルは、タクシーの運転手の一人がしょっちゅう迷子になって、自分の車がどこにいるのか会社に電話をかけてくるのに対して、係りの者が「月はどっちに出てますか?月の方向に進んで下さい」と答えることに由来している。なんだか訳ありげなタイトルだが、別に特別な意味はない。
 私は恐らく崔監督の作品を他に見ていないので、この作品だけで彼の才能を断定することは出来ないが、この作品を見る限りでは才気のかけらも感じない凡庸な監督であって、これから追いかけようとは思わない。私はこの映画を見ている途中で退屈になってタバコばかり吹かしていた。読者にはお奨めできない作品である。

『血と骨』(崔洋一 2004年)

2012年09月27日 | 書評、映像批評
これで過去に書いた映画批評の拾いなおし作業は多分終わります。今後はまた自由に書きたいと思っています。


『血と骨』(崔洋一 2004年)


{あらすじ}


1920年代、日本で一旗揚げようと、済州島から多くの出稼ぎ労働者が大阪へとやって来た時代。そこでは朝鮮人集落が形成されており、人々が助け合いながら生活していたが、その中で一際特異な存在で、極道にさえ恐れられている一人の男がいた。並外れて強靭な肉体を持ち、凶暴な感情の持ち主である金俊平(ビートたけし)である。
 大阪の蒲鉾工場で働く彼は、ある時、幼い娘を抱えて飲み屋を営み、必死で生きている李英姫(鈴木京香)と出会う。ひと目で気にいった俊平は、力ずくで英姫を自分のものとし、強引に結婚。やがて二人の間には花子と正雄が生まれる。しかし、愛情に満ちた暮らしは望むべくもなく、大酒を飲んでは牙をむき、家財道具を破壊して外へ放り出して荒れ狂う俊平に、家族は怯えて暮らす毎日だった。

 時は流れ、英姫の連れ子である春美(唯野未歩子)は、俊平の弟分の高信義(松重豊)と結婚。俊平は蒲鉾工場を立ち上げ、信義、元山(北村一輝)らを従えて事業を動かし、巨万の富を得ていた。そんな折、「俊平の息子」と名乗る、朴武(オダギリジョー)が突然現れる。済州島で俊平が15才の時に人妻を寝取った際に生まれた実の息子だった。
 武は俊平の家に転がり込むと女まで呼び寄せ、好き勝手に振舞うようになる。複雑な思いを抱く英姫とは対照的に、恐ろしい父親にびくともしない武に羨望の眼差しを向ける正雄。しばらくして武は、俊平から金をもらって出て行こうとするが、家族にはビタ一文使う気のない俊平と大乱闘になる。それから1年、長屋は新しいスキャンダルで持ちきりだった。すっかり成り上がった俊平が、家族の住むすぐ目の前に新しく家を買い、清子(中村優子)という若い女を囲い暮らし始めたのだ。
 白昼から戸を締め切り、行為にふける二人に嫌悪と嫉妬を覚える英姫。しかしそれは反面、再び家族に平穏をもたらすことでもあった。強烈な金銭への執着をみせる俊平は、儲けた金で高利貸しへと転じていく。

 一方、19才になった花子(田畑智子)は、工場で働く張賛明(柏原収史)にほのかな恋心を抱いていたが、非合法組織「祖国防衛隊」の活動に身を投じていた賛明は逮捕されてしまう。賛明を思いつつ、別の男との結婚を決める花子。しかし夫との生活も幸せとは言いがたく、花子は次第に心を閉ざしていく。ある日、清子が脳腫瘍で倒れたことにより、俊平のやり場のない憤怒は再び家族へと向けられるようになった。更に清子の介護を名目に新しい愛人、定子(濱田マリ)を迎え入れる俊平。その一方で長年の無理がたたり、英姫はついに倒れてしまう。妻の治療費も出さない父親に対する怒りと反発から、正雄(新井浩文)は初めて俊平に立ち向かう。ただ恐怖に怯えるだけだったかつての正雄の姿はそこになかった。
 生涯「おまえはわしの骨(クワン)だ」と叫び続け、息子を欲した俊平だったが、破滅は老いて病んだ肉体の凋落とともに、やってきた。運命は過酷な終末を用意していた...。

(ここまでhttp://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=4849より引用)

脳腫瘍の清子を俊平は濡らした新聞紙で口をふさぎ殺してしまう。
花子は自殺する。その葬儀に暴れこんだ俊平はその場で半身マヒになる。愛人定子に金を握られた俊平は、それでも金貸しを続けるが、年老いて、全ての財産を北朝鮮に寄付し、自分も定子の息子をつれて北朝鮮に帰還し、寂しい死を迎える。


{批評}

話題になった作品なので期待して見たが、大駄作である。
 まず決定的なのは、一度見ただけでは俊平をとりまく人間関係がさっぱり分からないことである。この映画はもともと7時間以上あったもの2時間半に短縮したらしい。このため、人間関係の描写を省略することになり、朝鮮人社会の関係(親子なのか、親戚なのか、子分なのか、など)がさっぱり分からないまま最後まで続くのだ。
 私は「月はどっちに出ている」を批評したときに、崔洋一監督を才能のない監督だと言ったが、この映画を見てその確信をさらに強く持った。
 まず映像美がない。
それから、展開にメリハリがない。暴力とセックスと金の亡者になった鬼のような朝鮮人を描いているのだが、最初から最後まで、怒鳴りっぱなし、殴りっぱなし、セックスし放題で、次第に飽きてきてインパクトが無くなってしまっている。
 ちょっとでも演劇をかじったものになら分かることだが、怒鳴りっぱなしの芝居は、笑う芝居より10倍も20倍も簡単なのだ。ビート武はほとんど演技をしていない、と言ってもいい。
 それから、セックスシーンが5回ある。そのうち一回は女のあえぎ声だけが聞こえ、そのあえぎ声を聞きながら家族が食事するという仕掛けになっている。俊平は、怪しげな精力剤をいつも飲み、女とセックスするのが生きがいなのだが、崔監督は、一体どのような観客を想定してこの映画を撮ったのだろう。
 むろん、家族連れではこの映画は見れない。女性向けでもない。男性の大人の観客のみに対象を絞って描く、という、ピンク映画並みの企画がよく通ったものだと思う。

ちなみに「血と骨」は原作小説があり、これも在日の小説家が書いている。だから、一般の日本人がこの映画を見たら大げさに感じるかもしれないが、そういう在日朝鮮人の実態を私はたまたま知っていたので、「血と骨」を見ても私は驚かないし、崔監督が執拗に在日の悪の部分をクローズアップするのも、特に「露悪趣味」だとは思わない。ただのリアリズムである。
 
しかし、同じ同胞として、崔監督はどのような視点にたって在日の悪を描いているのか、その心理が分からない。自虐史観に染まった線の細い日本人監督には描けない在日朝鮮人の真の姿を骨太のリアリズムで描く「語り部」に徹しよう、ということなら分かる。しかし、その在日が余りに野蛮で非文明的な存在なので、「朝鮮人というのはこのような蛮族なんだぞ」と逆に居直って威張っているようにすら見える。
「月はどっちに出ている」は金にしか関心のないゴキブリのような在日朝鮮人をコミカルに描いていた。「血と骨」では、暴力と金とセックスにしか関心の無い悪魔のような在日朝鮮人をシリアスに描いている。

人間の欲望を直視する監督としては、今村昌平がいるが、今村と崔とでは月とスッポンで技量に差がありすぎる。矯正不可能な人間の悪を描いた作品としてブレッソンの「ラルジャン」があるが、これは神の存在を問いかける映画であり、欲望の肯定とは逆の立場にある。
 醜い朝鮮人を描くという、崔監督の目的がどこにあるのか、私は最後まで理解できなかった。

まあ、いずれにしても、崔監督が映画監督として3流であることはこの作品ではっきりしたので、今後この監督の作品を見ることはないだろう。
 

ロベール・ブレッソン『田舎司祭の日記』(1950) 映画批評

2012年09月26日 | 書評、映像批評
このところ散逸した映画批評を復元しています。これもその一環です。映画ファンなら必見の作品、お奨めします。


ロベール・ブレッソン『田舎司祭の日記』(1950)

{あらすじ}

田舎の町に赴任してきた司祭が、「奇跡も何もない日常を日記につけていくことにする」と決意して、日常を記録していく。彼は胃が悪くパンをぶどう酒につけて食べるだけの食事を続けている。町の人たちは閉鎖的でなかなか心を開かない。
 町の名士である伯爵家では、伯爵と家庭教師の女性が不倫関係にある。それを知った娘が司祭に相談を持ちかける。司祭は伯爵の妻の悩みを聞きだす。妻は神を憎む心境だったが、司祭と話しているうちに心が開かれ、安らぎを得る。司祭の家に伯爵の妻から感謝の手紙が送られるが、その夜彼女はベッドから落ちて死亡する。
 彼女の死は、司祭が余計なことを妻に告げたために起こったのではないかと誤解を受ける。また、彼の食生活から、司祭はアルコール中毒患者だと村人の間に噂が広まる。
 司祭は悩みぬく。祈る勇気も生まれてこなくなる。遂に彼は道端で倒れ大量の吐血をする。
彼は電車に乗って都会の医院で診察を受ける。胃がんと告げられる。
 その帰り、元の司祭仲間で現在は女と暮らしている友人の家に行き、そこで再び倒れる。
画面に十字架が映る。司祭の上司のナレーションで彼が死んだことが語られる。最後彼は「全て神の思し召しです」と語って死んだことがわかる。

{批評}

どんなにつまらなくても一度は見なければならない映画というものがある。この作品もそうだ。私はブレッソンのファンだったが、この作品はどうにも気が進まず、長い間見ないで来た。
 まず、技術的なことから。一つのエピソードの前に日記が写され、その内容を司祭の声で読み上げる。そしてエピソードが終わると必ずフェイドアウトで画面が切り替わる。時間の省略はディゾルヴ。このルールがパラノイア的に守れていて、非常に折り目正しい、スタイリッシュな作品となっている。画面のつなぎは古典的な透明の編集。映像を異化するような実験的な編集は一度も現れない。

日記を見せて、なおかつ読むことで、次に展開する物語の大意が分かる。それに沿って映像が現れる。これは、徹底的にサスペンス性を排除した映画作りである。従って、ブレッソンの映画には、象徴性や、意味の連想(コノテーション)の要素がほとんどない。誤解の余地の全くない、中性的で清潔で、潔癖症の画面である。

この作品には、「ブローニュの森の貴婦人たち」や「スリ」や「抵抗」のようなカタルシスはない。これらの3作品は神の恩寵がハッピーエンドの形で現れる。この作品は「バルタザールどこへいく」「少女ムシェット」「ラルジャン」など、救済のない世界を描いた一連の作品の中で、もっとも地味で重苦しい作品である。おそらく、現代におけるキリストの苦悩を再現させたものだろう。

ブレッソンはジャンセニズムといわれるキリスト教の異端の信徒だった。運命予定説と自殺の肯定が特色だったと記憶している。ブレッソンによれば、人生は半分が予定通り、半分は偶然に進行するような感覚を持っている、と述べている。

この田舎司祭は敬虔な真面目すぎる男でありながら、映画の中では全くといっていいほど喜びなく、癌で死亡する。一度だけの喜びは、伯爵夫人の手紙で、「あなたのおかげで安らぎの気持ちになれた、あなたは私の子供です」と感謝の言葉を読んだときぐらいのものだ。
 キリストの人生も、マグダラのマリアが高価なオイルで体を洗ってくれたとき以外は、苦悩に覆われるものばかりで、最後には処刑される。「主よ、主よ、私をお見捨てになるのですか」との言葉を最後にキリストは息絶える。しかしキリスト教では、この死は人類の罪を背負っての身代わりの死であるとされる。田舎司祭の死もまたそのように解釈すべきなのだろう。最後のカットの十字架の固定長廻しがそれを意味している。

それにしても陰鬱な世界である。私は最近禅宗の高僧の本を読んでいるが、彼によれば、十字架の上で磔にあって死んだイエスは「気配りが足りない」の一言で切り捨てられていた。大悟に達すれば、そんな無残な死に方はしない。悠々自適と寿命を全うし、来世にどこに生まれるかまで悟って遷化する。この仏教の悟りの世界の歓喜や勇猛心と比較すると、キリスト教の運命への服従と忍耐は、重すぎる。が、現実にはこの田舎司祭の一生のような悲劇的連鎖で終わる場合も多く、ハッピーエンドの人生のほうが少ないかもしれない。

おそらく「田舎司祭の日記」の台詞のあちこちには非常に大切な教義の問題が隠れている。だから、この映画の本当の解説は、キリスト教の司祭が行うべきであろう。

なお、この作品には原作(ジョルジュ・ベルナノス)がある。また、こういう作品に最も向いている批評書としてポール・シュレイダーの「聖なる映画」がある。この本は私が繰り返し読んだ値打ちのある批評書だ。神の実在を証明するための映画、という特殊な映画を批評する特殊な方法論に基づいた本で、ぜひ一読をお奨めする。
 ちなみにこの作品はカトリック教会そのほか宗教団代から複数の賞を受けており、ブレッソン映画の完成作としてヨーロッパでは高い評価が与えられている。また、面白いことに研究者用の辞典を見ても、ブレッソンは、「天才」「奇人」「パラノイア」などの言葉で評されている。全く例外的な映画監督と言っていいだろう。

『DOOLS』(北野武、2002) 映画批評

2012年09月25日 | 書評、映像批評
これも昔書いた映画批評です。
 なお、私は北野武の「brother」と「座頭市」は割合好きです。ただ、突拍子もない比較ですが、同時代に武士道三部作を作った山田洋次監督と比べるとまだまだ道楽芸ですね。私は「寅さんシリーズ」を含めて山田監督を高く評価しています。

{あらすじ}

この映画は形を異にする3組の男女の愛(狂恋)を描いている。
一組目は、結婚の約束をしながら、社長令嬢からのプロポーズを受けて出世のために、元のフィアンセを裏切った男の話である。元のフィアンセは自殺未遂をしてしまう。そして気が狂ったままになる。男は、結婚式の当日に式への出席を拒否して、元のフィアンセの入院している病院へ行き、女を連れ出して、車で転々とする。やがて車も捨てて、男女は赤いヒモで結び合って、美しい風景の中を歩き続ける。
 二組目は、ヤクザの組長が若い頃に愛を誓い合った女性との話である。工員のころに、恋人が毎土曜日にお弁当を作って公園のベンチにやってくる。男は、出世をするために遠くの町に行くという。女は、土曜日には必ずお弁当を持ってこのベンチで待っている、と約束する。それから数十年、ヤクザの組長になった男がその公園に行ってみると、弁当を持った老女がいる。昔の恋人だと気づかずにその女性は組長に弁当を渡す。
 三組目は、売れっ子アイドルとその追っかけの物語。アイドルが自動車事故で顔に傷を負ったために芸能界を引退する。彼女の熱狂的な追っかけは、自分の目をカッターナイフで切ることで盲目となり、アイドルの顔が見えない状態を作り出す。
 これら3つの話が、オムニバス風に順次に展開され、第一話が縦糸となって、2つの話を横断する。そして、最後、赤いヒモで結ばれあった二人は雪の中を進み、崖から転落して木の枝に引っかかる。この「心中」と「道行」の最後の場面は、文楽の上演の場面と交互にカットバックされる。


{批評}

この映画は、さほど高い評価を得られていないが、私が見た北野映画の中では、もっとも上質な部類に入る。
ざっと概観すると、この作品は「狂恋もの」という日本映画に伝統的なテーマと、「道行」という歌舞伎・文楽に伝統的な演出、という2つの日本的な美意識を基に作られた、実に日本的な映画である。
 狂恋もの、というのは、この映画の3つの物語のように、人を恋するあまりに狂気に陥った人間を描くもので、自殺未遂して精神を病んだ女、弁当を持って土曜の公園で待ちながら老婆になっていった女、アイドルを思うあまりに両目を切断するファンの男・・・・・これら3者が、恋の究極の姿を示している。
 道行、というのは、第一話の二人が、赤いヒモでつながりあいながら、ドンドンと風景の中を闊歩していく場面である。そこには約束事のように、桜やモミジが際立って美しく背景をなしている。これから死に向かうものを祝福するかのように、花や紅葉が爆発し、男女の悲劇的運命に対して無関心に美しさを際立たせている。
 私が見たこれまでの北野映画は、彼の劣等感の裏返しが気になって仕方なかった。北野は気の弱い人間だからこそ強いヤクザの役をやりたがり、間を持たせる技術がないから、妙に間延びした、間の腐った時間を作り出していたし(ゲイの映画人はこういうのを好む傾向がある)、演技が下手だからこそ、台詞は棒読みで、演技しない演技に頼るしかなかった。それが芸能人特権というのか、逆に美学と受け取られている。贔屓の引き倒しになると、欠点までも長所に見えてくるから世の中は面白いものだと思う。

このように、これまでに私が見た北野映画は、「北野ファンにとっては素晴らしくても、第三者にとってはただの駄作」としかいいようのないものだった。淀川長治さんが北野を天才といっても、それは映画の質が全体的に低下している時代、ヨドチョウさんの戦略的なエールだと見ていたし、黒澤明が北野に「これからの日本映画をよろしく」といったとしても、あの所ジョージをいい役者だという黒澤の人気芸能人に対するお世辞だとしか思えなかった。私は、北野映画を「芸術映画を意識して作られたB級娯楽映画」だと思っていた。

しかし、この「DOOLS」はなかなかいい。北野は恋の究極の姿に祝福を与えたかったのだろう。狂恋の人物たちを美しい風景の中において歩かせる、ただそれだけをしたかったのだ。大金をかけてただそれだけをする、というところが洒落ている。
 駄作を作る割りに評価の高いB級監督だった北野は、「ときにはいいものを撮るマアマアの監督」と思えるようになった。ベネチアでグランプリを獲った「HANA-BI」などよりはずっと高度な映画である。(ところでキタノブルーなどという迷信を流したのは一体誰でしょう。小津安二郎の「浮草」1959年の色使いと比較して欲しいですね)。

『A』(森達也、1998) 映画批評

2012年09月24日 | 書評、映像批評
以下、昔書いた批評なので文章が硬いですが。

オウム真理教がサリン事件を起こした後に、オウム真理教広報部長の荒木氏を中心にして、オウムの側の視点から取られた問題作。
 この作品の優れている点。
一般概念として「悪」と思われてきたオウムの内側に入ることで、むしろマスコミや一般庶民が悪であり、オウムの信者に立派な人間が多い、という逆説を映像で見せた点である。
 ある信者が出家した動機は、恋愛して結婚しようとしたが、愛すれば愛するほど死による別れは悲しくなる。だから生死を超越した世界に解脱を求めた、という。また、大学に入学して3日目に退学したのは、周りの大学生を見て、こいつらが社会を牛耳るのだから社会が腐敗するのは当然だ。自分は出家者となってその腐敗をくい止めよう、と決心したのだという。これらの発言を見ていると、オウムの信者の多くは、一般人よりも心がけのピュアな、心のステージの高い人々から構成されていることが分かる。
 それに対して、取材攻勢で阿修羅のようにうろつきまわるマスコミ関係者のゴロツキぶりや、オウム信者をエイリアンのように忌み嫌う「善良なる市民」の無知蒙昧ぶりが写される。
 このように、オウムの内部に入り込み、オウムの視点から社会を逆照射することで、思わぬ真実が現れてくる。

この作品のピークは、あるオウム信者に付きまとい、その信者が逃げようとすると、後ろから追いかけて突き倒しながら、まるで自分が被害を受けたかのような演技をして、信者を「公務執行妨害」で逮捕する警察官のあざとい行動を一部始終捉えている部分だろう。
 この信者は逮捕されるが、オウム側弁護士がその様子をとったフィルムがあることを警察に突きつけると、不起訴になって出てくる。
 警察は、なんでもやるところだとは知っていたが、この場面を見ると、なるほど、逮捕しようと思った相手にはこんなことまでして無理やり逮捕するのだな、と分かる。

もう一つの見せ場は、荒木広報部長を一橋大学のゼミの学生が応援する場面だろう。女子大生たちは、興味深く彼に、「性欲はどうやって処理するのか」と聞く。荒木氏は、性欲の強い人にはそれを消す修行法があるが、自分には必要ない、と答える。このあたり、女子大生の関心のありかが明瞭に分かっておかしかった。
 別の場面で荒木氏は、キスもしたことのない童貞であることを打ち明ける。この場面も、なかなか感動的だった。同年代の若者たちが愛欲のルツボの中で青春をバカ騒ぎしているときに、解脱を求めて出家する人間の尊さが浮きだって見えてくる。
 このゼミの学生たちは、オウムの破防法適用反対を主張してハンストを行う。

この作品の劣っている点。
撮影が素人並みである。完全な素材主義で、映像に美学が全くない。
音楽の使い方では、上記した公務執行妨害の場面に「グッナイベイビー」をかぶせて「対位法」的使い方をしているのに感心したが、ラストシーンでは、荒木広報部長が祖母の家を訪ねる場面で、センチメンタルなロックを流して台無しになっていた。作品の中で音楽が使われるのはこの2回だけである。一度目はうまく、二度目は下手である。要するにこの監督は、映画作家としての美学を持っていない、ということである。
 最大の欠点は、オウムが坂本弁護士一家を殺し、地下鉄サリン事件を起こした、という事実を「当然の前提」として省略しており、どこにもその説明がない。
 だから、この作品は外国上映や、年代が立って人々がこの事件を知らない時代に上映されたときには、全く意味の分からない作品になってしまうことだ。
 このあたり、作品を構想する段階で配慮すべきところだが、それがなされていない。致命的な欠点である。

結構話題になり、あちこちで上映会が開かれた作品なので見た人も多いかと思う。私としてはマアマア面白い作品だった。
 個人的に気になったのは、結跏趺坐の組み方。座禅の組み方と逆になっている信者のほうが圧倒的に多かった。右足を左の太ももの上に乗せるのが本当の足の組み方である。私も座禅修行をして悟りを目指しているので、このあたりが気になった。
 それから、彼らの修行に対する心構えの誤りが気になる。悟り=解脱の途中で現れる神通力(超能力)に異常に興味を示し、教祖=グル=麻原に対する個人崇拝が異常であることである。

禅では神通力を「魔境」とか「外道禅」と片付けて重視しない。その力を得ても救済の絶対的な力になりえないと、軽視する。また個人崇拝も許されない。仏と言えば全ての人間が仏なのである。特定の個人を絶対視することは仏教では禁止されており、それを「依法不依人(法に依って人に依らざれ)」という。様々なカルト宗教がそうだが、人間はどうしても個人信仰に陥る。人を偶像化する、というのは人間の業といっていい。宗教は基本的にその思想体系を信じるのであり、師弟の関係はあっても、人本尊に偏るのは邪道である。詳しくは「三身」((法身・報身・応身)説を調べて下さい。この辺りの人間一般の持つ弱さを追求すると、この作品はもっと普遍的価値を持つことができただろう。

この作品は、悩める青年=荒木君を主人公とした青春ドキュメンタリー、の要素が後半になるに従って強くなる。
 話題作ではあるが、傑作とはいえない。原一男のドキュメンタリーなどとくらべると、素材に対する踏み込み方が足りなりので不満が残る・・・・・・・

次郎物語

2011年11月05日 | 書評、映像批評
『次郎物語』(清水宏、1955年、白黒)

 {あらすじ}

村一番の旧家で元士族の本田家には3人の男の子がいるが、次男の次郎は母親のおっぱいの出が悪いこともあって、分教場の小遣いをしている女性が乳母となって育てている。その女性には女の子がいるが、実の子供より大事に育てる。
 ある日、次郎は家に引き取られる。母は冷たい感じのする人で、祖母は封建制度の悪いところを全部引き継いだような身分主義者。次郎はこの家が気に入らず、乳母を慕う。ただ父親への尊敬の念はある。
 懇意にしている医者の娘に美しい女性が居る。次郎はこの女性にほのかな好意を寄せるが遠くに嫁に行ってしまう。
 父親が他人の保証人になったことから莫大な借金を背負い、大邸宅は売り払われて、町へ出て酒屋を営むことになる。これをきっかけに次郎は母の実家に引き取られる。
 母は思い病に罹り、実家に静養に来て次郎と暮らす。そしてそこで息を引き取る。
中学になった次郎は、酒屋の父親の元に引き取られる。父には後妻ができる。他の兄弟二人は後妻に対して「お母さん」と呼べるが、次郎だけは「おばさん」としか言えない。
 そこに乳母とその娘がやってくる。娘が学校も出たので、この家の奉公人になるのだ。子供たちがこの娘のことを「○○ちゃん」と呼ぶと、祖母が、奉公人は呼び捨てにしなさい、と注意する。次郎は、祖母に反感を持つ。
 修学旅行になる。1年生から3年生まで一緒に旅行に行くので、次郎は兄と一緒の旅行になる。学校の決まりで、お小遣いは一人5円と決まる。兄が、みんな隠れてそれ以上持って行っているんだ、とせがむと、祖母は、今は昔と違って贅沢はできない、兄は3円、次郎は1円で上等、と決め付ける。
 修学旅行先で、兄が上着のポケットに余計に2円入っていたことに気づく。次郎は兄にだけ祖母がやったのだろうと思っていたが、自分の上着を見ると自分にも2円余計に入っている。後妻が入れてくれたものだと知る。
 兄は祖母にお土産を買うが、次郎は後妻にお土産を買う。
修学旅行から帰った次郎は、後妻(義母)を探して「お母さん」と叫びながら家の中を探し回る。裏庭にいた義母は、大喜びで次郎を探し出し、初めて「お母さん」と呼んでくれたことに感謝して、次郎を抱きしめる。


{批評}

ご存知のとおり、児童文学の名作・下村湖人の「次郎物語」の映画化である。
たまたま私はこの小説を読んでいなかったので、小説と映画を比較することなしに、先入観を持たずにこの映画を見た。あまり評価の高くない映画だが、とんでもない、堂々とした佳作である。
 私は『しいのみ学園』を批評したとき、清水宏の真骨頂は、その「即興演出」からくる「ポリフォニックな構造」にあり、物語が単線的になると、凡庸な監督に落ちる、と書いたが、この意見は取り下げねばならない。
 この映画は、物語が単線的に進んでいくが、非常に良くできていて見ごたえがある。その理由を述べる。
第一には、主役が次郎という子供であることだろう。次郎役は小学生と中学生と二役になっているが、特に小学生役(一般公募で選ばれた)がいい。演技が素直で、きかん気の強い少年の性格が良く出ている。中学生役もそれなりに自然な演技をしている。物語が単線的であっても、少年の演技には計算外の「自然」が含まれていて、人為のいやらしさを壊す力がある。
 ここでテマティック批評あるいはモチーフ批評的な見地から一言言えば、清水宏は作品の中で「子供を走らせる」ことを好む。この映画でも、何度も次郎や他の子供たちは走る。3里も離れた病院に薬を取りにいく、といった場面もあり、途中で上着を脱いで上半身裸になって走り続けるシーンもある。実際、子供というものはパタパタとよく駆け出すものだ。走る、という演技は演出を超えた、肉体の自然の表出だ。特に子供の動きには、人間の本能を刺激して、愛らしさ、いとおしさを感じさせる力がある。清水監督はそのことをよく理解していて、わざと子供を走らせているのである。
 ついで、ロケーションと撮影の技術である。室内撮影も多いのだが、『しいのみ学園』の時と異なり、非常に大きな旧家を使っているために、広々とした空間性を感じることができる。
 清水監督はその空間性を出すために、ロングショットを多用している。例えば、二人の人物が対話をするときの切り返しのショットを例に挙げると、人物Aが喋っているときにはバストショットで撮影し、それに対して人物Bが答える場面では、逆アングルから10メートルも離れたロングショットを用いる、といった具合である。こうした工夫によって、屋敷の広々とした空間性が体感できて、芝居に「自然」の空気が舞い込む。
 それから、露出がシャープで非常にいい。『しいのみ学園』の場合は、アンダー気味で、しかも涙のシーンが多くて鬱陶しかったが、この作品では程よいシャープな露出になっていて、人物と周りの風景とがバランスよく映っている。
 それから、これまで書こうと思いながら書きそびれていたが、清水映画は音楽がいい。特別な使い方ではなく、悲しいときには悲しい曲想の音楽を、楽しいときには楽しい曲想の音楽を、といった実に素直な使い方だが、繊細に音楽を取り入れて、旨く観客の心をリードしている。
 以上が技術的に見たこの映画の素晴らしさである。
一方、物語を見直すと、この映画は、喪失の映画である。次郎は、実母の愛を拒否し、乳母を失い、医者の娘を失い、祖母への愛を拒否する。少年にとって母の愛は不可欠だが、次郎にはそれがない。愛を喪失した上に、旧家の厳格すぎる教育、世間体を気にする表面的な道徳の中で、心をかたくなに閉ざし、ますますきかん気の強い、強情な少年に育っていく。その閉ざされた心を開くのは、後妻になってきた義母である。
 愛の喪失と発見の物語である。その少年の寂しい情緒を、村の風景や広々とした旧家の佇まいが育む。

私はこれまで見た中で清水宏の最高傑作は『有りがたうさん』と『按摩と女』だ。特に『按摩と女』のポリフォニックな構造と、即興演出による雰囲気の取り入れは、これまでに見た日本映画のなかでは突出して優れていると思っている。しかし、『次郎物語』のような原作と脚本がしっかりした、単線的な物語映画を撮らせても、それなりに巧いということが分かった。私は、これまでの経験から、原作が名高い文芸映画というのは、大抵つまらないので、この映画もあまり期待せずに見始めたのだが、見るに従い、ぐんぐん惹きつけられ、巨匠清水宏の腕前に脱帽した。たいしたものである。
 なお、『次郎物語』は何人もの監督が映画化しており、中でも島耕二監督の作品が傑作として名高い。しかし、清水宏のこの作品も捨てたものではないことを、再度強調しておく。



歌女おぼえ書

2011年11月05日 | 書評、映像批評

『歌女おぼえ書』(清水宏、1941年、白黒)



{あらすじ}

時は明治30年代。男3人、女1人の旅役者が山道を歩いている。
ある田舎宿に泊まる。そこには大店の製茶問屋の主人が来ており、芸者の到着を待っている。
芸者の到着までの暇つぶしに、旅役者の女・お歌(水谷八重子)が踊りを披露する。
旅役者の男たちは女が足手まといとなり、この宿に売り去ろうとする。
それを聞いた茶問屋の主人が、同情と酔狂心から、自分の店に連れて帰る。
 大勢の手代や女中から、お歌は邪魔者扱いを受ける。女学校に通う娘も、お歌を嫌う。
突然主人が死亡する。東京の大学にいっていた長男(上原謙)が戻って、家計を調べてみると、借金だらけ。
長男は、全ての従業員に暇を出し、自分は大学を中退して店を一から再興させようとする。
お歌は、二人(小学生の弟と女学生の妹)は私が見るから、あなたは大学を卒業しなさい、と訴える。
長男は考えた末に、突如として、他人のあなたに兄弟を任せることはできないが、女房にだったら任せられる、俺の女房になってくれ、と言って、求婚する。お歌、うなづく。
 広い屋敷にお歌と二人の子供。弟は同級生たちに、お前の家にはお化け(お歌のこと)がいる、と苛められ、姉はお歌になつかない。茶問屋に金を融通していた男の家が弟と姉を引き取るが、やがて、やっぱり家がいいと、二人ともお歌の元に戻ってくる。お歌、長男の言葉を信じて二人を懸命に育てる。
 そこへ、アメリカのトーマス商会の支配人がやってきて、この店のお茶がアメリカで非常に評判が良かったので、今年も注文したい、今休業中なら商標だけでも貸してくれ、と言ってくる。
 お歌、自分を拾ってくれた故人となった主人と長男のために、このチャンスを生かそうと考える。そして商標を貸すだけでなく、製品もこの店で引き受けることにする。そして同業のお茶問屋の経営者たちに何度も頭を下げて、新茶を廻してもらう。
 これを機に、店に再び暖簾が下がり、元通りににぎわい始める。
長男が大学を卒業して店に帰ってくる当日、昔の旅役者の仲間が金をせびりにくる。お歌、何を思ったか、その男と一緒に姿をくらまし、元のたび役者の生活に戻る。
 長男はお歌を探し回る。
遂に、お歌の前に現れる。お歌はわざと嘘をついて「かたぎの暮らしは窮屈です。旅役者なら好きなときに起きて好きなときに寝れるし、タバコも吸える」と悪態をつく。長男はお歌を平手打ちして、「そんな女が自分の弟たちを育てて、店を復興できるわけがない。俺の女房になってくれ」という。
 そのとき、芝居が始まりお歌の出番となる。お歌は鏡の前に座り、嬉し涙を流す。
お歌は、長男の嫁としてお茶問屋に嫁入りする。


{批評}

この作品はあまり評価は高くないが、私は感動して泣いた。
確かに、新派の大物女優・水谷八重子の演技は、他の出演者と比べると「芝居臭く」、少し浮いて見える。
しかし、その欠点は次第に薄れて行き、気にならなくなる。
 この映画でも、清水監督の「実写精神」は生きている。大きな木の林立する中をお歌が歩く場面や、大きな商家の中を自在にカメラが移動して空間の広さを充分に味あわせる場面など、清水宏のロケーションのセンスを存分に生かした演出が冴えている。
 小学校の土手からお歌の歩行を俯瞰で撮るショットなど、土手の部分が画面の3分の2以上を占めており、大変大胆な構図になっている。このあたり、自然の中の「点景」として人物が描かれる「清水調」は健在だ。

この映画は明治時代の旅役者という存在の意味を知らないと本当の感動は味わえない。
川端康成の「伊豆の踊り子」に描いてある通り、旅芸人とはなみの下層階級だった。
だから、茶問屋にお歌が連れて来られた時、女中たちはお歌を嫌うし、娘の女学生も冷たく当たる。
 ところがその下層階級の女が、自分を拾ってくれた主人への「恩」と、自分に求婚してくれた長男への「愛」を
支えにして、一度潰れたお茶問屋を復興させるのである。
そして、そういう卑しい階級の女であることを承知で長男はお歌と結婚する。
 このように、当時の身分制度を理解してこの映画を見ると、実に大胆で奇抜とも言えるストーリーになっており、この映画は一種のシンデレラストーリーだと分かる。
 (余談だが伊藤大輔の傑作『王将』も、主人公の坂田三吉がエタ階級の出身であるという隠れた意味を知ってみないと本当の感動は味わえない)
 お歌が、潰れた店を再興させながら、長男の気持ちを知りながら、あえて失踪する理由は、この身分の違いを本人が知っているからである。そのけなげさ、哀れさが、この映画の主旋律となって漂うために、最後に二人が結ばれるときに感動があるわけだ。

但し、ラストシーンには物足りなさが残る。
長男の求愛が本物だと知ったお歌→芝居が始まり、お歌は長男を置いて小屋に戻り鏡の前に座り、涙ぐむ。
ここでお歌の涙をクローズアップにして音楽を流して映画を終えるべきだった。
 実際にはこの鏡の場面の次に字幕が映り、お歌がお茶問屋に嫁として迎えられることが説明されて終わる。
この、文字による説明、で終わるところがあまりに淡白で頂けなかった。
 清水宏は、「大芝居」を嫌い、ドラマに大げさなクライマックスを持ってくるのを嫌う傾向がある。だから、ラストシーンをわざと恬淡とした形で終わらせたのだろうが、観客の眼から見れば、やはりお歌の言葉にならない喜びをともに分かち合って、思い切り泣いて終わって欲しい。いわゆるカタルシスが最後にもう一つ爆発しない不満が残る。

このような、部分的な欠点が残るものの、全体としては良くできている、現代の映画では決して味わうことのできない感動の残る佳作である。
 蛇足かもしれないが、タイトルの「歌女」は「うたおんな」ではなく「うたじょ」と読む。



しいのみ学園

2011年11月05日 | 書評、映像批評
『しいのみ学園』(清水宏、1955年、白黒)


{あらすじ}

児童心理学を教えている大学教授(宇野重吉)の家庭。兄弟の子供が居るが、その兄のほうが高熱を発する。病院で調べてみると小児麻痺で、片足が不自由になる。
 小学生になって、野球をしたがるが、同級生たちは仲間に入れてくれない。それどころか、みんなでビッコの真似をしたり、泥棒の濡れ衣を着せたりしていじめる。兄は、大きくなったら、小児麻痺の子供を集めて学校を作ろう、と決意する。
 ある日、小学校低学年の弟も高熱を出して小児麻痺にかかる。兄より重く、両足が利かない。
悩む両親。ついに、あらゆる財産を処分して、自分たちで小児麻痺で足の悪い子供たちを集め学校を作ることを決意する。名前は「しいのみ学園」となる。
 生徒たちが集まってくる。教授の教え子の一人(香川京子)が学園の教師になる。
そこへ岡山の鉄工所を営んでいる男とその後妻が小児麻痺の子供(テツオ)をつれてやってくる。
後妻が小児麻痺の子どもと暮らすのを、世間体が悪い、と嫌がるので、引き取って欲しいと男は言う。教授は、そんな子供を捨てるような動機では引き受けられないと一度は拒絶するが、そんな後妻に育てられる子供が可哀想になり、結局面倒を見ることになる。
 ある日、みんなで両親に手紙を書くことになる。テツオは「歌が歌えるようになったから、おとうさん会いに来てください」と手紙を書く。他の子供にはすぐに返事が来るが、テツオにはなかなか返事が来ない。返事を待っている間に、テツオは高熱を出して倒れる。医者に見せると、テツオは先天性の心臓疾患がある上に、急性肺炎になっていることがわかる。教授は父親にすぐに来るよう電報を打つ。テツオはうなされながら、父親の手紙が読みたい、という。女教師は、父親の名前で手紙の返事を書き、郵便局に出す。そしてその手紙をテツオの枕元で読み上げる。テツオはその嘘の手紙を聞きながら息絶える。
 教室の生徒たち、テツオの眠るお寺をあて先にして、全員で手紙を書く。書けた生徒から順番に手紙を読んでいく。女教師はそれを聞きながら涙が止まらない。
 生徒と教師、しいのみ学園の歌を歌いながら、その手紙を郵便局に出しにいく。


{批評}

『蜂の巣の子供たち』で戦災孤児を取り上げた清水宏はここでは、当時差別を受けていた小児麻痺にかかった子供たちを題材にしている。現在ではテレビのニュースやドキュメンタリーがこの種の話題を取り上げることがしばしばあるが、当時はこのような題材を取り上げることは画期的だった。
 そういう意味でこの作品は高い価値を持っているし、また割合評価も高い。
しかし、私はこの作品については、美学的な立場から高い点数はつけられない。
 まず、前半はほとんど室内撮影で、苦悩する大学教授一家を描く。露出もアンダー気味で重苦しい。
後半になり、しいのみ学園が出来た後、ピクニックのシーンや校庭で子供たちが遊ぶ場面に少し実写の明るさが見られるが、それでもいつもの清水監督の自然を背景としたオールロケーションの味わいからは程遠い。結局室内劇が中心を占めるのである。しかも悩んだり、泣いたりする場面が多く、新派悲劇的な古臭ささえ感じる。
 次いで、清水映画の特徴である、独立した各シーンが一つの宇宙を持っていること、つまりポリフォニックな構造がこの映画では見られない。物語が単線的に展開するのだ。前半は教授夫婦とその子供が主人公になり、後半は女教師とテツオが主人公になる。清水宏のポリフォニックな物語構造は、シーンごとに「即興で」味付けを施していったことで生まれたようである。しかし、この映画は原作に基づいてきちんと作られすぎているため、逆にそれが欠点となって、清水映画の個性を失っているのである。
 第三に、『蜂の巣の子供たち』では本物の戦災孤児を使っていたが、ここでは本物の小児麻痺の子供を使わずに、子供たちに芝居でビッコの役をやらせている。この点が、どうも気になる。倫理的にも、大勢の子供にビッコのまねをさせるのはどうかと思うし、演技の上でも、ちょっと無理があるように見える。ここは本物の小児麻痺の子供を使うべきだったと思う。
 最後に、あまりにこの映画は涙の場面、苦労の場面が多すぎることである。身障者の世界にも、笑いもあれば、喧嘩もあるだろう。しかし、この映画では彼らの哀れさばかり強調されていて、どうしても新派悲劇調になってしまう。このあたり、清水宏の素朴なヒューマニズムが裏目に出ている。もっと透徹した眼で身障者のリアリティを描くべきだろう。
 以上の理由から、私はこの映画を評価できない。ただ、彼の着眼点が、時代の先端を行っていた、それだけは価値がある。清水は「自然」と「長閑さ」を描くと天下一品だが、このような単線的な物語を描くと凡庸に落ちてしまう。
 ヒューマニズムと美学という2点に問題を絞って考えると、清水は前者に留意したために彼独自の美学を退けてしまっている。表現者は、両者を両立させねばならない。いや、悪魔のように冷徹な眼で、美学を優先すればこそ、ヒューマニズムの訴求力が生まれるのである。『蜂の巣の子供たち』で清水は美学を優先することが出来たが、この作品ではそれが出来なかった。原作に忠実でありすぎたこと、小児麻痺の子供たちに「憐れみを抱きすぎたこと」が、このような欠点を生み出した理由だろう。残念だ。



蜂の巣の子供たち

2011年11月05日 | 書評、映像批評
『蜂の巣の子供たち』(清水宏、1948年、白黒)


{あらすじ}

戦後まもない下関駅。復員兵の青年が駅に降り立つと、何人かの戦災孤児がやってくる。食べ物をやると、片足の男(孤児たちの親分)に取り上げられる。
 また、故郷が戦災に会い、帰るところのなくなった女性もここで思案にふけっている。
復員兵と、片足の男と、孤児たちは、トラックに載せてもらって旅をする。
 途中で子供たちは片足の男から逃げて、復員兵と一緒に行動し始める。彼らは塩田に行って働く。
働いて食べる食事は美味しいと、と復員兵は子供たちに教える。
 一番小さい子供のヨシ坊は、たまたまめぐり合った、帰るところのなくなった女性と一緒に、彼女の親戚のある島に渡る。
 いつまでも、親戚の家にいるわけにもいかず、女性とヨシ坊は島を去り、たまたま復員兵たちと出会う。復員兵はヨシ坊を引き取り、一緒に四国に渡って、森林伐採の仕事に就く。
 ヨシ坊は大病に罹る。彼はサイパンから離れるときに、母親を海で亡くした経験がある。それで、海を見たら病気が治るので、山の頂上まで負ぶってくれ、と仲間の孤児に頼む。孤児はヨシ坊のための牛乳を一杯をもらうことを交換条件に、その仕事を引き受ける。
 傾斜の急な山を孤児は必死にヨシ坊を背負って登る。とうとう海の見える頂上につくが、そのときヨシ坊は死んでしまっていた。子供たちと復員兵はヨシ坊を海の見える山の頂上に埋めて、四国を去る。
 神戸に渡ると、孤児たちを仕切っていた片足の男が、故郷を失った例の女性に売春婦の仕事をさせようとしていた。復員兵は片足の男を殴りつける。
 復員兵は自分の育った感化院に、孤児たち、片足の男、女性を連れて行く。感化院の教師と子供たちは、彼らを大歓迎して迎える。


{批評}

ストーリーの主な部分は上記した通りだが、清水監督の真骨頂は、全編オールロケーションで、室内場面がほとんどない風景の中、子供たちが実に自然な演技を繰り広げることだ。
 この映画も戦後間もない都会の焼け跡や、塩田、森林などを「実写精神」で、堂々と明るく描いている。
ストーリーを追いかける、のではなく、その場その場のシーンのリアルな空気を吸う楽しさ、これが清水映画の本当の味わい方だろう。
 戦後、世界の映画界に強烈な影響を与えたものに「ネオリアリズム」がある。この作風は高名な映画批評家のアンドレ・バザンにより、「中心のない構図」あるいは「映画よりも現実を信じる」というキャッチフレーズで有名になった。しかし、私はネオリアリズムの作品を見るたびに、キャッチフレーズの割には、構図は綺麗で人物中心だし、物語主義で、ハリウッド映画と大差ないのが不満だった。
 むしろ清水宏のこの映画こそネオリアリズムの精神にふさわしいと思う。自然の中の点景として人物が置かれ、子供たちや登場人物は、ほとんど「棒読み」のような台詞回しだが、それがまさにリアリズムを生み出している。
 特に見せ場は、孤児の一人が、ヨシ坊を背負って山の頂上に上る場面。ほとんど省略せずに、延々とよじ登る。その様子を、隣の山にカメラを置いて望遠で撮影する。力技の、胸に迫る演出である。また、ヨシ坊が死んだのを復員兵に知らせるために孤児が山を駆け下りるシーンは、ワンショットで捉える。このカメラワークのこだわりによって、山の空間性が体感できる。
 この映画は、イタリアのネオリアリズムが生まれる前に作られたが、ネオリアリズムの美点の全てを備え、さらにそれを超えていると私は断言する。

 ちなみに、文献を読むと、この映画に出てくる8人の孤児たちは「本当の孤児」で、さらに、清水宏は彼らを自分の家で育てていたのである。そういえば、この映画の冒頭に「この子たちに見覚えはありませんか」というタイトルが現れる。だから、この映画は、戦災孤児の里親や親戚を探すための映画でもあるわけだ。
 こうなると、もうこの作品はフィクションとは言いがたい。ネオリアリズムを超えている、というのは演出や撮影だけのことでなく、その背景にある事実性においても言えるわけである。
 この逸話、清水監督の人間性を良く表している・・・・・・・・・といっても、彼が素晴らしい人間であった、というわけでもない。文献を読むと、彼は自信過剰で小心で、ホラ吹きで、あまり評判のいい人物ではなかったようだ。一例を挙げれば、小津安二郎が癌で「イタイイタイ」と苦しみながら死に、清水宏がポックリ往生を遂げたのを知った映画関係者の一人は「これだから神も仏もない」と嘆いたそうだ。それぐらい、あくの強い、一筋縄ではいかない人物であったようである。そのような人徳の欠如が、彼の作品がそのレベルの高さの割りに、これまで評価が低かった原因の一部でもあることは確かである。
 いずれにせよ清水宏の映画は冴えている。こんなすごい監督が、世界的に知られていないというのは、日本文化にとってもったいない。是非、海外で回顧上映し、日本映画の底の厚さを知らしめたいものだ。