那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

満員電車の中で絶世の美女をナンパした話

2016年02月05日 | 風狂考察

 

ブログを読む前に集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

 また「春名先生を囲む会」への提案に共鳴される方は私のメルアド wasaburo@hb.tp1.jp までメールを送ってください。特にアイム南の元職員の峯尾さん、殿塚さん(チャーミングな看護婦さんです)(この二人は囲む会に賛同されていました)畑さんはもしこのブログを読んでいたらメールを下さい。ぜひ八王子五行歌会の掲示板に投稿してください。

また上記3名をご存じのかたもメールをお願いします。

初めてこのブログを読む人にとっては「春名先生を囲む会」の意味が分からないでしょうから説明します。春名先生は私がアイム北野というデイサービスで出会ったアンチエイジングのプロフェッショナルで様々なサプリメントをメーカーに発注したり、様々な発明をされている医大の教員です。そこで、「春名先生を囲む会」を作り、春名先生だけでなく一芸に秀でた人に講師になってもらい、その後で懇親会を開こうと思いつきました。これは私が発案して様々な妨害が入り空中分解してしまった「ロータス文化学院」の再現、という意味合いもあります。ですから、春名先生の講義だけでなく、私も(坐禅、シュルレアリスム、合気道、五行歌など)、鍼灸院の院長先生(FTという神秘的な施術法やランチェスターの法則、極真空手の変遷)等々、様々な能力を持っている人を集め、講師は飲食料は無料として、お酒を飲める人は4千円、飲めない人は3千円とし、八王子市平岡町にある夢庵(西八王子店)という和風のファミレスに集まることを企画したわけです。このブログを読まれ囲む会に賛同された立川の便利屋さんも素晴らしいHPを作っているだけでなく名刺をもらったところ物凄い肩書の持ち主でしたので、この人にも講義をしてもらおうと思っています。現在の賛同者は約8~9人ですので夢庵に問い合わせたところ平日の夜なら奥の座敷に4人掛けのテーブルがあるので、一回目の囲む会はお互いの時間を調整してそこに集まることにします。もし16人集まった場合は座敷を全て借り切れるとのことでした。特に決まった飲食料金は必要ありません。このブログを読んでいる皆様の中で一芸に秀でた人はもちろん、日常のためになる有意義な話を食事やお酒を飲みながら聞きたいと思う人は上記の私のメルアドまでご連絡下さい。私のケアマネも参加する可能性があります。 

先日、春名先生と話し合って決まったことがあるので報告します。毎月第3金曜日の午後7時から囲む会を催すことになりました。春名先生は7時半から出席され、なるべく急いで来られるそうですから他の人は7時から集まり軽く一杯飲みながら春名先生が来られるのを待ちましょう。講義は8時から1時間です。一回目は春名先生が長生きの秘訣について講義されています。質問タイムもあるので皆さんもドンドン質問してください。二回目は私が五行歌の歌会を行います。題詠は炎ですが、これを作品の中に入れても入れなくても自由です。五行歌は五行以外にルールが無く、添削をしません。三席までに入った人は月刊五行歌誌に基本的に作品レポートと共に掲載されます。投稿と掲載料は無料です。作品が出来た人は私のメルアドまで送ってください。また当日は採点をするためにペンを持ってくるようにお願いします。五行歌の時だけでなく、講義をする人はレジュメや資料を持ってくるので、メモ用にペンは必要ですね。ぜひ16人集めて夢庵の一室を借り切りたいものです。春名先生はプロジェクターを持っているのでスライドショーを見せながら講義したい、とおっしゃっています。なお、一回目は春名先生、二回目は私、三回目は春名先生、四回目は別の人、という風に一回置きに春名先生に講義を受け持ってもらうことにします。

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私は今は無き早大第一文学部を卒業した後、進路について悩んでいた。湯西川温泉のホテルBという劣悪な環境の中でバイトをして三宅島の噴火から避難してきた女の子をナンパしたり、八重洲の大丸でお中元の詰め合わせを作るバイトをしながら、そこにいる一番奇麗な子(元の妻)をナンパしていた。そこで故郷の母から仕送りをズ~としてもらうために大学院を受験することにした。本当は、私は詩人になりたかったので詩学を学ぶために大学院の文学部を受けたかったが、当時は明治以前の文学しか教えていないと知り、あれこれ考えた挙句、寺山修司のような映像詩なら演劇映像専攻で学べると分かり、私は文学青年で、まともに映画を見たことは無かったため、一年間で所謂名画と呼ばれるものは片っ端から見ることにした。池袋文芸地下や、並木座、早稲田にあるACTシアターなどなどである。

もちろん前衛映画や実験映画も片っ端から見て行った。中野にあるプランBという地下の映画館(パフォーマンスにも使われていた)に行くと観客は私一人かせいぜいもう一人しかいなく、寒くてたまらなかったことを覚えている。

実験映画を上映するので有名なかつては新宿三丁目にあった映画館も、また見ている人が少なく、私を含めて一人か二人だった。あるとき、絶世の美女とその映画館で出会った。声を掛けようとしたが、最初は気が引けてしまい声をかけることが出来なかった。そこで家に帰って、今度あの美女と出会ったら絶対に声をかけようと決心した。再度、実験映画を上映するので有名な映画館に行ったところ、偶然にも例の絶世の美女が見に来ていた。私は彼女の後を追って同じ電車に乗ったところ、満員になっていたが、思い切って「いま〇〇―〇〇〇〇〇で映画を見ていませんでしたか?」と声をかけると「その通りです」と答えた。そこで私は「よかったら一緒に食事をしませんか?」と誘ったところ、実に素直にOKの返事をもらった。

一緒に食事をしていると、その美女は全て平らげてしまい、しかもやたらに水を飲むので、私は何か変な気分がした。その美女は個人映像作家のモデルになるなど、その世界では有名な女性だった。私も当時V8と呼ばれる日本で最初の民生用ビデオカメラを持っていたので彼女を撮影して家に帰って再生したところ、対面しているときは絶世の美女だが、再生画面では何というか剣のある修羅のような顔をしていた。ジガ・ヴェルトフが述べているように、肉眼で見るときは思い込みがあるので普通の顔でも、痘痕も靨、の諺のとおりに主観的なバイアスがかかってしまうが、カメラで撮って再生すると客観的な真の姿が現れるのである。

それを証明する出来事がとうとう起こってしまった。二人で渋谷でデートをしている時、翌日までに原稿の締め切りが迫っていたので、確か午後八時ぐらいに、「今日は仕事があるから、また今度」と言ったとたん、彼女はクラゲのように体の力が抜けてしまい地面に倒れてしまった。近くのゲームセンターまで運ぼうと思っても全身の力が抜けているために私一人の力では動かすことが出来なかった。そこで私は救急車を呼んで彼女と一緒に同乗した。病院に着いた時、彼女は知らない薬の名前を医者に言って、医者が分からない、と答えると「そんなことも知らないのですか」と馬鹿にするような言い方で言って、両親を電話で呼んでくれ、と頼んだ。ベッドに横たわる彼女に私が付き添っていると、突然「那田さん、俳句と川柳の違いは何なの?」と尋ねたので私はごく常識的な答えをしたところ、「男のダンディズムの果てが三島由紀夫の転がった首一つですね」と訳の分からないことを言った。彼女の両親が駆け付けると、彼女はお詫びもせずに別人のように立ち上がって去っていった。その時、母親が私にそっと「こういう症状が起きるのは多分娘があなたを好きになったからでしょう」と呟いた。

その他、この絶世の美女の思い出は多々あるが個人情報に触れるので、ここまでで終えることにする。私は若い時は女性に好かれる資質があったが、こうゆう風に精神的を病んだ相手が多く、非常に苦労をしたものだ。


風狂の話・2

2013年03月03日 | 風狂考察
春一番のあとの大雨の中、余りにも用事が集中したので、風狂の続きでお茶を濁す。

wikiによれば次のような歴史的背景がある。
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風狂(ふうきょう)は、中国の仏教、特に禅宗において重要視される、仏教本来の常軌(戒律など)を逸した行動を、本来は破戒として否定的にとり得るものを、その悟りの境涯を現したものとして肯定的に評価した用語である。禅宗とともに日本にも伝わり、一休がその代表者である。

本来、風狂という用語は仏教語ではない。「風」字も「狂」字と同様に風疾あるいは瘋疾の意味である。瘋癲(ふうてん。寅さんのフーテンの語義)や癲狂と同義語である。よって、雅やかで世俗を超越したさまを表す「風流」とは本来、用法が異なっている。但し、日本では、江戸時代になって、松尾芭蕉の俳風に用いられたりして、風流と同義語の如く扱われるようになった。

風狂の風は、古くは中国への仏教伝来より余り時間の経過していない東晋頃より南北朝にかけて、すでに史伝に現れている。杯度や宝誌という僧が、その代表である。また、北周の廃仏で武帝を煽動したという衛元嵩も、その還俗前には、蜀(四川省)の成都で風狂の所行があり、杯度・宝誌の流と目されたと、『北史』や『周書』に見える。

唐代になると、万廻という僧が玄宗朝に見られるが、この時期になり、新興の禅宗と結びつくことで、その存在意義を前面に打ち出すようになる。その代表は、「臨済録」中で当の臨済義玄以上に活躍する普化である。天台山国清寺に伝わる寒山拾得や豊干も風狂の代表であり、特に「寒山子詩」に収録される風狂の禅詩で名高く、その風姿は禅画の画題となっている。また宋代になって、普化の名に托した普化宗という禅の一派も現れている。

また、唐末五代の江南に現れたという布袋も風狂僧の一人であるが、弥勒の化身として信仰を集め、寺院の本尊として安置されるまでになる。また、日本に伝わって七福神の一人となる。
宋以降の風狂の僧といえば、南宋の済顛が第一である。済顛は済公の名で知られ、明清の章回小説の主人公となり最近ではテレビドラマ化され、あたかも日本の一休の如き存在である。
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http://kotobank.jp/word/%E9%A2%A8%E7%8B%82によれば

もとは瘋癲(ふうてん)などと同じ精神病者,狂人,狂者を意味する言葉であったが,のち世間の常識的生き方や価値観の俗悪さにがまんがならず,それへの強烈な反発,批判として,狂人と見まがうような奇行,狂態を演じること,ないしその人をいうようになった。古い時代の風狂は多くの場合宗教人で,わけても禅林では寒山・拾得がその象徴的存在として渇仰された。また禅林以外では〈名聞コソ苦シカリケレ。乞食(かたい)ノミゾタノシカリ〉(《発心集》)とうそぶいていたという増賀上人が,風狂の先達として西行,長明,兼好,芭蕉らに慕われている。


①精神の平衡を失っていること。また,その人。
②風雅にひたりきること。 「此の中,産を破りて-し,家を忘れて放蕩せるもあり/近世畸人伝」
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となっている。

一般社会では対立概念だが風狂は、狂人=見性者=超俗=風雅(超俗のファッション化)、と意味内容が絡み合っている様が面白い。なるほど、十牛図の十番目にくる布袋様は弥勒の化身で酒を飲みながら町をふらつくのだと分かる。

そこで増賀上人について検索すると
http://kotobank.jp/word/%E5%A2%97%E8%B3%80?dic=sekaidaihyakka

ぞうが【増賀】 917‐1003(延喜17‐長保5)

平安時代の僧。狂人をよそおって名利を逃れ,道心を貫いた高僧。橘恒平の子。幼いときから仏法に志し,慈恵大僧正(良源)の弟子となった。比叡山で学ぶうちに遁世の思いがつのり,周囲の人々の制止にもかかわらず多武峰(とうのみね)に籠居し,法華経読誦と念仏にあけくれた。しかし聖僧としての名声は高まり,冷泉天皇の護(御)持僧(ごじそう)に召し出されたが逃げ帰った。また三条太皇太后の出家の戒師に召されたとき,儀式が終わるや,下痢でたえられないといって宮中の所かまわず汚物を落とした話など,その奇行の数々は,いずれも道心を貫くためのもので,世俗化した大寺院の仏教に批判的な人々の間で,増賀が遁世者,極楽往生者の理想として語り伝えられたことが知られる。
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とあり、高校時代に「今昔物語」でこの人の逸話を読んだ記憶が蘇る。
 奈良時代の風狂のオリジンはこの人だったわけだ。さらに詳しい伝記は
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/f561a52ee8453c60730013205c8b3236に紹介されている。

長過ぎるので内容は貼り付けないが、ハンパではない人物で圧倒される。勿論説話なので後代に粉飾された部分も多いだろうが、話半分としても痛快すぎる。
 
この僧も夢にヒントを得て境地を広げていった事実を知り、かなり前に河合隼雄が明恵上人(1173年─1232年)の夢をユング派の立場から分析した本を読んだ記憶が蘇ってきた。

風狂と禅に密接な関係があるという前提で言えば、日本の最初の禅者として行表(ぎょうひょう、養老6年(722年) - 延暦16年2月(797年)。最澄の師)の名前が残っているがほとんど広まらず、本格的には明庵栄西 (1187年入宋し虚庵懐敞の禅を伝灯)から始まる。
 だから、法華経と念仏の増賀上人の風狂は、書物のレベルでは中国の影響は受けている可能性もあるが、かなり突然変異的な発生の仕方で、彼の強烈な個性に帰する部分が多いと思える。

最澄→日蓮の真面目系に対して、増賀→一休の風狂系(トリックスター系)を比較するのも面白い。
 人間は対立する性格が混在しているから真面目な部分とカブク部分がある。どっちが良くてどっちが悪いという問題ではなく、都市のコスモロジーから見ても、官庁街、歓楽街、悪場所、住宅街、聖域等々があるのが当然で、こういう多種多様な地域が多重に生活を取り囲んでいるからこそ、人間はしなやかな生き方が出来る。

お茶を濁すつもりがつい長くなってしまった。このテーマは閉塞状況のど真ん中にある今の日本を生き抜くためのいいヒントになると思うので、おりに触れて考えていくことにする。


風狂について

2013年03月01日 | 風狂考察
あっという間に二月末。本当は微笑禅の会ネット会報を書くべきときだが、余りにも「重要な雑務」が多く、なるべく簡単に引用で済むブログでお茶を濁すことにした。

昨日一休禅師の歌を紹介したついでに再度「風狂」について考えてみた。
一休さん(後小松天皇の落胤とも言われている)の生まれたのは室町時代。
 室町時代は「広義には、1333年の鎌倉幕府滅亡と建武新政の開始から、1573年の足利義昭の追放による室町幕府の滅亡までを言う。足利時代とも。朝廷が分裂して対立した前期を南北朝時代、応仁の乱から関ヶ原の戦いまで全国で戦乱が起こる後期を戦国時代とすることもある」と言われている通り、非常に長い時代を指す。

そこでふと「一期は夢よ ただ狂へ」という文句を思い出した。それで検索をかけると面白いブログに出合った。http://blog.goo.ne.jp/cookie_milk/e/323dca070453f0c04f043dd47e6113a2より引用する。

くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して

――まじめくさった人なんて見られたものじゃない。夢の夢の夢のようにはかないこの世の中を、さも一人悟ったような顔つきをしてさ

何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え

――何になろう、まじめくさってみたところで。所詮、人生は夢よ。ただ面白おかしく遊び暮らせ

(閑吟集 54、55番)


※「くすむ」:非常に謹厳で分別くさい顔をしている、の意
※「狂」:忘我遊狂の意


室町時代の小歌集『閑吟集』より。
編者は序文で自らを「ここに一狂客あり」といい、本名を明かしていません。
この序文がまた美しい。
「小歌の作りたる、独り人の物にあらざるや明らけし。風行き雨施すは、天地の小歌なり。流水の淙々たる、落葉の索々たる、万物の小歌なり」
「命にまかせ、時しも秋の蛍に語らひて、月をしるべに記すことしかり」
なんて、これ自体が文学ですよねぇ。

馬場あき子さんは『閑吟集を読む』のなかで、「私はことにこの『梁塵秘抄』から『閑吟集』への過程において、日本語はもっとも美しく洗練された日常語をもち、歌謡の世界にはそういう日常語が生きていると思っています」と言い、また「狂うということはひとえにやりきれない日常を脱出するただひとつの手段でしたし、その日常の秩序のなかに、どうしても住みきれない、入って行けない自分というものを卑下して、「狂」と呼ぶことによって、逆に自分を受け入れてくれない日常や、従いきれない浮世の常識、掟、しきたり、といったものを侮蔑する精神的自負にもなっていたのであろうと考えられます」と言っています。

そんな一狂客が紹介した上記2首。
これらは決して自暴自棄になった無責任な歌ではありません。
辛く苦しいこの世(憂き世)は、所詮儚い浮き世である。それならば、夢の間の人生をぱぁっと思う存分楽しく生きよう。
そんな心を歌った歌です。

司馬遼太郎は「何せうぞ」の歌について、『この国のかたち<3>』のなかで次のように言っています。
「これはおのれへの励ましであって、虚無的なものではなかった。禅が流行し、念仏がいよいよ大衆化し、ひとびとは前世からきて後世へ去ってゆく今生の一瞬をより充実しようとしていたのである」
なお全311首中、三分の二を占めているのは恋の歌でした(^^) 

今回ご紹介した歌の現代語訳は『閑吟集』(岩波文庫)より拝借しました。
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とある。


そこで、この時代庶民の間で流行した「幸若舞」と言えば有名な

人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ(敦盛)

を思い出す。

一休禅師の歌、閑吟集、幸若舞を通し共通低音として流れているのが風狂という世間を見るアングルとライフスタイルであり、リアリズム、諦観の末の一見ヤケッパチのような態度ながら、時代を生き抜く智慧とエネルギーの宝庫にも思える。

この問題およびこの時代は極めて面白いのでいずれ改めて取り上げることにする。


一休宗純師の歌

2013年02月27日 | 風狂考察
20代から30代「よく学びよく遊べ」の精神で生きていた頃、笑いや風狂に興味を持ち資料を集めていた時期がある。
 映画映像研究は非常に間口が広く、機材論、技術論、映画映像理論、理論史、映画史、記号論、心理学、などは勿論、歴史や世相などなど、総合芸術だけあって研究も自ずから総合的になってくる。古本屋巡りをしていると片っ端から買わないといけない状態になり、そういう生活の中で何かのきっかけで「風狂論」を書きたい気持ちが生まれたのだろう。
 現在は必要最低限のもの以外は処分しているが、一休禅師のことを最近書いたついでにここで彼のエピソードと歌をネットから引用して紹介することにする。

一見ニヒリズムやナンセンスのようでも、一休さんの風狂の世界には現代を生き抜くヒントが豊富に詰まっていると思える。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94

応永22年(1415年)に京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となる。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指す。

1481年、88歳で酬恩庵においてマラリアにより没した。臨終に際し、「死にとうない」と述べたと伝わる。(那田注:山本玄峰師は臨終のとき「旅に出る、支度をせい」と述べた。両極端の言葉で興味深い)

http://i.prodr.com/zen/z-19.html

 親当は一休に尋ねる 邪正一如とは何か?
(邪と正とは別々ではなくて、一つの心から
 出たものだから、もとは同一という事)とは?

一休は歌で答える。
 「生まれては 死ぬるなるけり
  おしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も」


 親当は 空即是色とは何か?

一休は歌で
 「白露の おのが姿は 其のままに
  もみじにおける くれないの露」


 親当  色即是空は如何に?

一休は
 「花を見よ 色香も共に 散り果てて
  心無くても 春は来にけり」


 親当  仏法とは一口に言えば?

一休「仏法は なべのさかやき 石のひげ
   絵にかく竹の ともずれの音」

.*.・:★'.・*.・:☆.・*.・:★'.・*.*.

『道歌問答』

一休・・門松は めいどのたびの一里塚
   馬かごもなく とまりやもなし・・

 親当・・年越は めいどの旅の問屋場か
   月日の飛脚 あしをとどめず・・・

一休・・光陰は 矢ばせを渡る舟よりも
   はやいとしらばすえを三井寺・・

 親当・・分限に 粟津にゼゼをつかうなよ
   こころ堅田に しまつからさき・・

一休・・金銀は 慈悲と情けと義理と恥じ
   身の一代に つかうためなり・・・

 親当・・世の中に 負者有徳者苦者楽者
   なん者か者とて末はむしゃくしゃ・

一休・・今日ほめて 明日わるく言う人の口
   泣くも笑うも 嘘の世の中・・・・

 親当・・世の中に 乗合舟のかりすまい
   よしあしともに 名所旧跡・・・

   一休も やぶれ衣で出る時は
   乞食坊主と人はいうらむ・・・

一休・・袈裟衣 有り難そうに見ゆるども
   これも俗家の他力本願・・・
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この問答はまだまだ続いていく。興味のある方はurlをご覧下さい。