那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

微笑禅の会ネット会報平成25年8月号 (川上雪担老師から受けた点検の詳細)

2013年08月28日 | 微笑禅の会ネット会報

以下、mixiの川上雪担老師のコミュニティより引用します。

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 *川上雪担老師は平成23年5月20日、遷化されました。 

『座禅はなんでもありありのめっちゃくちゃ、でたらめわがままいっぱいがお薦めです、けつぶんまくってこれだけやってんのに、なぜなんにもしてくんねーんだって座禅に食ってかかる、てめえ殺すぞってなもんです、お行儀見習いじゃないんです、標準通りするんじゃない、おれはおれだ、おれが200%おれにならんけりゃこの世はなんの意味もない、歴史なんぞ糞食らえ、モーツアルトが好きならモーツアルトと刺し違えろ、- 』 


  住職 川上雪担(かわかみせったん) 

 昭和11年神奈川県生まれ。東京大学文学部卒業後、新潟市内の高校で教鞭を執る。三年後思うところ あって出家、福井県小浜市発心寺僧堂に掛搭。以降日夜坐禅に明け暮れるが、この事なかな手に入らず、あるとき浜松市、井上義衍老師の事を聞き及んで早速かけつけ、しばらく逗留。ほどなく法の一端をかいま見る。昭和47年大本山総持寺に安居、その後新潟県東山寺の住職となる。その後も義衍老師の接心に通い、あるときもと脱落底なるを知る 。 

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私が川上雪担老師に電話して点検を受けたのが老師が遷化される直前の5月だった。奥様らしき年配の女性が出られ「今日は法事に行って疲れ、今寝ていますが、少しお待ち下さい」と言われ、待っていたら運よく電話に出られた。

老師を知ったのはある人物から「今のあなたを指導できるのは川上雪担老師と福井県小浜の発心寺の原田雪渓老師しかいない」、と教えられたからである。二人の師匠はともに井上義衍老師。井上義衍老師の師匠は原田祖岳師であり、原田師は曹洞宗ながら臨在の公案を自在に取り入れたことで知られ、その弟子の一人・安谷白雲師は同じ方法を用いて三宝教団を作られた。三宝教団には私の質問にわざわざ手紙を頂いた外池禅雄師がご健在である。その手紙は宝物として大切に仕舞っている。

つまり私が微笑禅の会を作る前から助言を頂いたのは、同い年の玄侑宗久師(師は慶応大学出身なので禅の修業で早慶戦をしましょう、と言って私とメルトモ的関係になり、非常に多忙な中で教義上の質問に常に的を射た助言を頂いている。心から尊敬できる方である)、そして外池禅雄師、故・川上雪担老師の3人である(他にも助言してもらった方がいるが名前を忘れてしまった。「人間禅」の方だった)

玄侑宗久師は私が最初に見性体験をしたとき、祝福の言葉とともに何十回も見性を繰返した中国の禅者のことを教えられ、私が居士だからだろう「維摩詰(ゆいまきつ)」を手本にするように、と助言を頂いた(たまたま維摩経は私の大好きな経典で、あれほど文学的で華麗な経典は他にないと思われる)。

以上は「見性体験記」の中に書いてあるので、遷化直前に点検して頂いた川上雪担老師の言葉を今回は紹介する。

(これは以前作っていたHPや、現在のHPになっても掲示板で何度か語ってきたが、掲示板は作るたびにサイバーストーカーによって荒されるために現在はエッセー的なものはこのブログのみになっている。私は見ていないが、ストーカーたちは私が削除した掲示板を復活されて中傷ネタにしているらしい。事の真相は会員の方々や常連読者の方々は充分ご存知の通り。幾らIPアドレスを禁止にしてもプロキシを使って粘着を繰返し、まともな議論が成立しないので削除しただけの話である)

老師との点検は、突然妻子が失踪した上に、私を介護に愛媛から上京した母までが八王子市高齢者支援課の確信的悪意により保護措置(私が母を虐待したというシナリオ)として隔離されている最中で、最も苦しい時だった。記憶を呼び起こして以下会話を再現する。

私「私は微笑禅の会という一派を作っている八王子市の那田尚史と言います。お疲れのところ点検をお願いします」

老師「君は見性したというが、俺は悟ったという意識が残ってないか?」

私「さらさら残っていません」(以下、私の心境を問う質問が続けてあった。私は思ったままを素直に答え、その後現況を要約して打ち明けた)

老師「君は大変な苦境にいるようだが、そのカルト宗教というのは具体的になんだい?」

私「創価学会です」

老師「ああ~、創価か! あそこは悪い! なるほど分かった。地元で誰か君を助けてくれる仲間はいないのか?」

私「八王子は創価市と言われるぐらいですから、私を助けるような勇気のある人物はいません」

老師「いま君はどんな修行をしているんだ?」

私「多忙なので家では坐禅を組まず、用事で外に出たときに歩行禅をしています」(当時はいまほど歩行障害がひどくなかった)

老師「君はまず体を治すのが先決だ。一切の修行を止めて入院しなさい」

私「私が入院すると失踪した妻子や監禁中の母の問題、それから様々な手続きが山のように溜まっているので入院は不可能です」

老師「那田君、自己を運びて万法を修証するを迷いとなす。万法すすみて自己を修証するは悟りなり、というじゃないか」

私「(この正法眼蔵の現成公案にある一説は理入のときに何度も考えたことがあるので、天から下った言葉のように胸を打った。そこで咄嗟に) 住職様、分かりました。お言葉のとおりにします」

老師「辛いときには、仏様~辛いよ~、と嘆きなさい。そうすれば天地が動き人が動いてどうにかなるから」

私「誠に有難う御座います。住職様に電話した甲斐がありました」

老師「悩んだときにはまた電話してきなさい」

私「有難う御座います。住職様もいつまでもお元気で」(この段階では涙が零れていた)


以上である。

私は入院しなかったが、片っ端から市議やデイサービスに電話を掛けまくったところ、偶然にデイサービスの経営者で男気があると評判の高い市会議員が母を助け出してくれ、緊張の糸の切れた私は、その10日ほど後に倒れ、救急車で運ばれた。救急隊員が色々な病院と連絡をとり偶然運ばれたのが今は潰れた八王子駅のすぐ近くの多摩相互病院。偶然にも担当医が確か東大病院の外科部長だった人で(元院長で当時は顧問をされていた)、この人にしか出来ない達人業で、頚動脈から4,5本の点滴の針を心臓に向けて刺すという治療を行ってもらった。しかし、私は2週間意識不明の危篤に陥った。病院関係者全員がもうダメだと判断して、私のケアマネージャーと母が看取りに来たらしいが私は全く覚えていない。2週間後に気付くと、私は両手両足をベッドに括りつけられていた。無意識に暴れて点滴の針を外すと、血が噴出して看護士では対応できないからである。さらに導尿されて尿はベッドの横の透明な袋に溜められ身動き出来ない状態だった。

意識回復後、担当医は「もう足の拘束は外していい」と言われたが、看護士が言うことを聞かず、さらにナースコールのボタンを手が届かないところに置いて「看護士は家政婦じゃないの。急がしいんだから一々呼び出さないこと」と、鬼のような表情で言った。

意識回復後、私は担当医と婦長(士長)と看護士(全員女性)がいる前で、「こんな態度の悪い看護士たちのいる病院には居たくない。点滴も導尿カテーテルも外せ。家に帰る」と主張した。そして看護士が行った行為を全て暴露した。担当医は「いま退院すると君は死んでしまう。それでもいいのか?」と聞いたので、「死んでもいいです」と答えた。担当医は暫く考えて「1週間だけ待て」と言われたので(或いは五日だったかもしれない)、私も考えた挙句「では待ちます」と答えた。

医師が不在の夜間に看護士たちが悪いことをしないよう、母が夜も付き添うことを条件に出していため高齢者支援課の職員もその場に来ていた。私は母を監禁していた当の相手に「新入居者の本契約を済ませていないから早く帰らないといけない」というとその職員は「本契約はハウスコムとの間でもう終わってますよ」とニヤニヤ答えた。私は意識不明のときに子供たちの夢を見続けたので「子供たちが帰っているかも知れないから」というと「子供は帰っていませんよ」と答えた。

高齢者支援課の一職員が何故私の営業内容や家族問題まで把握しているのだろう?誰でも不思議に思うに違いない。これまでに起こった事件を俯瞰的に見れば直ぐに謎は解ける。つまりこの職員と上司たちはまず間違いなく創価の手先だと私は推理している。それは、この監禁事件以前から連続して起きた様々な「生存権を脅かすような出来事」を繋ぎ合わせた合理的推理であり、単純な思い込みではない。一部後述するが、腐るほどの証拠を積み上げた上での心証である。だから私はその職員に「お前は池田大作の犬だろ?犬ならごちゃごちゃ言わずにワンと鳴け」と怒鳴った。職員は「そこまで言いますか?」と言い返したので、「当たり前だろ。ほらワンと鳴いてみろ」と挑発した。(ちなみに情報公開請求した結果、この会話は省略されており、私が手足を拘束され、異常者でもあるかのように書いてあった)。3年以上前のことだが、私は「忘れられない病気」を持っているので、この会話は正確に再現している。この要求はいかにも底意地の悪そうな士長(年配の女性)が、「それほど元気なことを言う人に付き添いは要りません。ダメです」と言って拒絶された。(こういう病院が潰れるのは当然で、後日ネットを見ても「看護婦の態度の悪さに怒りが収まらない。二度と行かない」というクチコミを多数見つけた)

市の職員が帰ったあと、担当医は急患のオペがあり一時病室から消えられたが、30分ほどして血の付いたゴム手袋の姿で戻ってこられた。「あれっ、先生、オペはもう終わったんですか?」と聞いたら、本当に嬉しそうな柔和な顔で「まだ途中だけど、那田君の様子を見にきたんだよ」と言われ、直ぐにオペに戻られた。

地獄に仏とはこのことだろう。私が医師の言葉に従っただけでなく、高齢者支援課の工作員に放った言葉で全てを理解されたのだ。これが良識ある八王子市民の本音で、10人に9人は私のように言いたいのだが、面従腹背で黙っているだけなのである。担当医の行動が菩薩のように見えた。

数日経って、まだ黄疸が残っていたが4日間だけ諸手続きを済ませるために外泊許可をもらったまま、私は家庭裁判所や母の監禁の問題、その他の手続きに追われ、遂に病院に帰らなかった。病院からは体調を気遣う手紙が届いた。

まだある。私の母を助け出した市会議員に感謝して、母のデイサービス(ニチイ)をその市議の経営するデイサービスに変更し、同時に私の所有するマンションの西側の壁に市議の後援会連絡所の看板を設置し、壁半分は市議の所属する自民党に自由に使ってもらうことにした。

その結果なにが起こったか?先ず看板が誰かに引き剥がされ、地面にこすり付けたらしく市議の顔の部分を中心にペンキが剥げてしまった。私は顔にギザギザな擦り傷がついたその看板を一旦倉庫に仕舞って、剥げた部分に色を塗り、工業用ボンドで一層強く壁に貼り付けた(縦1Mほどのものである)。するとしつこいことに(しつこいからストーカーと言われるのだが)黒服の男が2~3人現れ、入居者が見ている前で、その後援会の看板に立小便をして「俺たちは県外から来たから捕まらないぞ」と言い残して消えた。入居者の奥さんは直ぐに110番通報したらしい(その旨、外出中の私の携帯に連絡が入った)。ほぼ1時間後帰宅した私は、まだ警察が来ていないと聞いて驚き、自ら110番通報した。やってきた新米警官が入居者に事情を聞いた後で私の部屋に挨拶に来た。人相を見て真面目な青年だと分かったので「警官を志望するぐらいだから正義感は人一倍強いんだろうが、だんだんと正義感が消えていくのが八王子の風土だから、今の気持ちを忘れないように」と教えた。

ちなみに「創価学会批判の要諦」(2006年7月26日に前のHPに書いたもの。現在でも、有名な‘阿修羅’を含め複数の人が引用している)を書いたあと最初に起きたのが、母と私への名誉毀損と母への脅迫事件だったことは既に何度も書いている。母が住んでいた西予市野村町の自宅に、提訴して審理中にも係わらず被告の立場の男が脅迫に来て、秘密録音した内容をディスクに変換して裁判所に提出した。愚かなことに、その中に自分の脅迫の言葉も残っていた。また、その仲間も静岡からわざわざ母の家を訪れ、ビデオテープを廻した上で、母に「貴方は本当は従軍慰安婦だったでしょう」と態度を一変させて罵倒した。母は助役の娘であり軍属として満州に渡った証明書も持っているし、この発言は第三者の証人がいなくても「伝播可能性の法理」によって立派な名誉毀損行為である。ともかく、単なる私怨でここまでお金と時間をかけて行動することはありえない。常識のあるひとなら「組織犯罪」と分かるだろう。私は一応探偵なのでその決定的証拠を幾つも記録して、信頼できる人物には既に送ってある。

さらに看板事件と同じ黒服の男2~3人が一人暮らしの母の家を訪れ、「創価学会会員の脱会を勧めているのはお前だろう。俺は隣の宇和町の青年部の○○だ」と名前を名乗り、合計3回ほど脅しに来た。たまたま母の家の正面に退職警官が住んでいたので誰何して追い返し、私が本人訴訟した際には「現認書」を書いてもらい、その他複数の証言書を添え、またそれが創価の組織犯罪であることを立証する決定的な証拠を出した。それも被告に散々嘘の準備書面を書かせた上で「隠し玉」として提出したが、地裁では事実調査は一度もされなかった。

高裁は一審で事実調査は終わったという前提で審議を進めるので、法令違反、憲法違反、判例、新しい証拠などだけを提出することになる、私は2時間でA4で8枚の上告の訴状を書いて提出した。二人の被告は一度も法廷に現れないまま私たちの敗訴となったが、これも稀有な判決として歴史に残るだろう。高裁の裁判官4人のうち、一番左の一人は私を燃えるような怨念の目で睨みつけていた。この時は一緒に活動していた瀬戸弘幸氏が傍聴に来ていただき、母を紹介した。ちなみに、そういう判決が出るのは一審の裁判官の態度から分かっていたので私は甚平姿で原告席に座った。知り合いの弁護士は「そういうのが裁判官の心証を悪くしたんじゃないですか?」と言ったが「裁判官の心証」とは法律用語では「提出証拠や文書の説得力を元にした事実の存否判断」のことであり、スーツを着ていようが着流しだろうが、全く関係の無い問題である。先に結論ありき、だということはとっくに分かっていた。

話が脇に逸れたが、まだ後日談がある。

私が意識を回復した後に八王子保険所の職員が2人病室にやってきた。上司の若い女性(仮にNさんとしておこう)は、一目見ただけで尋常ではない目付きをしていた。彼女は私には断酒治療が必要だから精神病院に入院するよう、実にしつこく説得した(集団ストーカーのマニュアリ通りで笑えますね)。私が事情を説明して、そんなことをしている場合じゃないといっても、何度もオームのように同じ勧誘を繰返す。部下の青年がその女性の話を遮って病室を出るように促してくれた。

さらに、Nさんは今度は母のいるデイサービスに現れ、私を精神病院に入れるようにと母をしつこく説得した。これまでのいきさつを充分に知っているデイサービスの責任者の女性がNさんを外に追い出したらしい。帰ってきた母からその様子を聞いた。八王子の公務員の中にはこういう連中が要所要所に配備されているのである。まあ日本中どこでも公務員試験は形式だけで決まるから、八王子でなくても同じ状況なのかもしれない。

私が受けた具体的な組織犯罪について、私は半分も公にしていない。第三者が信じられないような事実は皆隠している。証拠の残っているものだけでも上記のような信じがたい事実があった。まあ、ご苦労様としか言いようが無い。

本題に戻る。要するに、川上雪担老師が言われた通り、評判のいい市議に無事母は救い出され、入院も名医に当たって危篤から蘇生したわけで自己を運びて万法を修証するを迷いとなす。万法すすみて自己を修証するは悟りなり の言葉の通り万法が動いてくれたのである。

以上、私と川上雪担老師の点検とその時の状況を丁寧に紹介した。さて、今回のブログのもう一つのテーマはここから始まる。

禅における祈り(祈祷)の方法とはこういうものである。禅は仏教の中で最も密教性が薄く「大般若祈祷会」を例外として、基本的に祈らない。普段の心がけと禅定を繰り返して悟っていれば、あとは万法(全存在)が成すがままに任せておけば、どうにかなるという教義である。「自分が一生懸命頑張って世界の真相を見極めようとするうちはまだ迷いだよ。世界のほうが勝手に動いてくれて思うようになるときに本当の悟りというんだよ」というのが禅の祈祷法なのだ。つまり、「破れ坐蒲(ざふ)に座り 祈らず願わず 言葉も私も消える」訓練(私は苦行は嫌いなので、これを趣味道楽にするのがコツだといつも言っている)をするだけである。

しかし、再再考してみよう。私と天地が一体になり、私と万物が同根となり、私(個我)への執着が消えたときに、思うがままに状況のほうが動く、と言っても、「思うがまま」の中には祈りが存在する。例えば日蓮宗は「日蓮密教」と言われるぐらいだから、祈祷は得意技で、日蓮自身も様々な祈祷を行っている。だから祈りの形は大きく違うが、禅が祈りを全否定しているわけではない。

なるべく合理的に説明したい。例えば、私が坐禅をしているときは、丹田呼吸をして非常に細く長い呼気になる。これは交感神経を押さえて、副交感神経を活性化させる効果がある。このときに驚くべき脳内快感物質が出るのは過去に説明した通りである。脳波も目覚めたままシータ波になる。

逸話の一例は記すと、私は「余命3週間」と言われた猫の癌(絶対に治らないと言われ、火葬して高尾のペット霊園に埋葬する見積もりまで取った)に罹った猫を、坐禅のときに猫を膝の上において、操体の要領で、祈るのではなく、自分の至福の快感を伝えるという方法で、完治させたことがある。「見性体験記」に書いた通りで、5~6年前の話だから当の獣医が覚えているかどうか知らないが、病院の名前も書いてある。多分カルテが残っている筈だ。癌に罹った猫の両足は伸びたまま動かず、頭は痙攣し、餌も食べない状態だった。私の妻はただ泣くだけだった。それが治ったのだから奇跡と言っていいが、「治るよ」、と私は家族に宣言していた。切れた手足が生えることは無いが、免疫系等の病気ならどんなカルト邪教でも奇跡的に治癒した体験談が幾らでもある。NK細胞や自己治癒力を強くする手伝いをしただけのことで、出来る人には簡単に出来ると思う。

つまり①自分の苦しさを消す、②一緒に「苦しさを消したい」と感じている存在の思いを実現する、この2つは合理的な解説が可能になる。問題は、共に祈ることもせず、むしろ反感を抱き、あるいは洗脳され、または意図的な憎しみを抱いているような相手を対象にして、祈りに効果があるか?という点だ。

もしこれが可能だとすれば、自分の祈りを伝える媒介が存在しなければ説明が付かない。この不思議な媒介を中村天風(宗教否定論者)は宇宙霊と呼んだ。ユングの思想や量子力学では存在の統一性を示す様々な現象が認められているにせよ、人間の心が他者に通じる具体的な前提、例えばテレパシーは実在する、という科学的証拠がなければ「祈りの効果」の根拠が壊れてしまう。

私は現在、体が幾つあっても足りないほどの重要な雑務を抱えているので、真剣な理入をする時間が取れないが、私の善き助言者・ 玄侑宗久師は複雑系の理論でその仮説は説明が付く、と言われている。

人間の思いを受け取る「宇宙の意思」のようなものがあるかないか? それは霊能者にしか分からない、と神秘の世界にお任せするという態度では仏教の根本テーゼの一つ、無疑曰信(疑いなきを信と言う)が壊れてしまう。疑って疑って検証を繰返した結果、なるほどそうか、と理解するから信仰なのであり、ここを無視して信じることを「盲信」とも「狂信」とも言う。言うまでも無くこういう人々はカルト、セクトと呼ばれ、敵対者を不幸にすることが正しいと思い込むことすらあり、結果的に最初から信仰が無く、お金のためなら何でもやるサイコパスと同じ精神構造になっていく。

これから先は私の課題であると共に、微笑禅の会の会員だけでなく、信仰を持つ人々全員の課題として残しておこう。


もう午前4時を過ぎた。出来るなら中村天風のように冬でも早起きして冷水に浸かるような生活をしてみたいものだ。

最近時々youtubeで合気道の達人たちの技や解説を見ているが、藤平光一は独特で、自分の求めているものに非常に近い気がしている。暇なときに調べてみよう。

読者の皆さんも課題について調べ、実践してみてください。最後に、断酒を口実に精神病院に入れようとする保健所職員がいたら叩き出しましょう。肝臓が悪くなったら自然に酒が不味くて飲めなくなり、自然に禁酒できます。特に酒を愛し、一生酒を飲みたいと思っている人間は自然に自己コントロールが可能です。とにかくマニュアル通り、段取りのままで、面白いことをする人が一杯いますね。

そういう訳で今日はこれで失礼します。話がアチコチに飛びましたが、非常に重要なテーマを書いたつもりです。

 


微笑禅の会ネット会報平成25年8月号 閑話休題(風評流布の構造)

2013年08月26日 | 微笑禅の会ネット会報

昔行っていた授業のように、途中で雑談を入れます。但し本質と係わる雑談で、中傷や風評被害の構造に触れようと思います。

噂、都市伝説を研究した名著に「オルレアンの噂」があり、作者のエドガール・モランは、wikiによれば

エドガール・モランEdgar Morin、本名Edgar Nahoum1921年7月8日 パリ - )は、フランス哲学者社会学者である。ユダヤ系スペイン人(セファルディム)の出身である。その仕事は諸学問の境界を横断する超領域性で知られている。また、文化人類学者ジャン・ルーシュと共同監督した『ある夏の記録』(1961年)によって、ヌーヴェルヴァーグ映画監督としても知られる。

とあり、実験映画・シネマヴェリテとも絡んで私にとっては興味深い人物です。「『オルレアンのうわさ - 女性誘拐のうわさとその神話作用』、杉山光信訳、みすず書房(初版1973年 をhttp://www5d.biglobe.ne.jp/DD2/Rumor/column/la_rumeur_d'orl'eans.htm より要約して引用します。途中多くの省略があることをお断りしておきます。

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 『オルレアンのうわさ』とは、1969年5月、フランスのオルレアンに流れた女性誘拐の噂の事です。
 オルレアンは、パリの南方100kmほどのところにある、当時人口十数万人の地方都市でした。この街にあるブティックで、女性が消えると言う噂が流れたのは、1969年5月のことでした。最初期のうわさは、若い女性がブティックの地下にあるという試着室に入ると、催眠性のある薬品を嗅がされたり薬物を注射されたりして、前後不覚になったところを誘拐され、外国の売春宿に売り飛ばされていく、というものです。当初は1軒だけだとされていた、女性誘拐を行なっているブティックは、次第に数を増やしていき、最終的には全部で6軒のブティックと靴屋が、この事実無根の風聞の対象とされました。実はこの6軒の店舗うち、5軒までがユダヤ人経営の店であり、残る1軒も、噂の少し前、ユダヤ人の前店主から引きつがれた店でした。

 モランはこの噂が、思春期の少女にありがちな、性的なものへの恐れと憧れの中から生まれた物だとしています。最初期の噂は、『神話』化し、社会問題となった後期型の噂と違い、いかにも根も葉もない世間話といった趣の話でした。噂を生み出した女学生達自身にしても、この話を現実の出来事と考えていたとは言えないようです。

モランは、少女ら以外で最初にこの噂に反応したのは、母親や女教師など、少女達との接点がある大人の女性であったと指摘しています。そのかかわりの構図とは、この噂を否定することで、少女らの性への芽生えを抑圧しようとした、というものです。結果的に、この反応が、それまでほとんど女学生の間にのみ広まっていた無責任な噂話を、より多くの人に広める契機になったようです。

 やがて、この噂が広範に広まるにつれ、ある一つの新しい要素が付加されていきます。それが、『誘拐を行なっているのはユダヤ人である』、という民族差別的な内容でした。当初は、どことなく淫靡な雰囲気を醸し出しているだけだった噂が、ユダヤ人という触媒を得たことで、オルレアンの人々にとってより現実的な脅威として認識されるようになり、急速に拡大していきます。
 やがて、猛威を振るった噂騒動も、発生から数週間が経つうち、急速に沈静化へと向かいます。けれど、噂が完全に消滅したかと言えばそうでもありませんでした。『ブティックから女性が消える』と言う、騒動のきっかけとなった巨大な噂それ自体は瓦解しつつも、この噂が持っていた多種多様なモチーフごとに細分化され、それを発展させた、多くの『ミニ神話』という残滓はなおも生き続けます。
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つまり、噂、風評というのは、その底に噂を広める人にとって「都合のいい願望」と「無意識の欲望の抑圧」によって広まる、と分析したわけです。

私は「創価学会批判の要諦」(2006年7月)をウェブ上に書いて以来、とんでもない犯罪(助役の娘で軍属だった母を従軍慰安婦と決めつけ、私の論文や批評を読みもせず全て価値が無いと断定する工作員の登場、等々)に巻き込まれて名誉毀損訴訟を起こし、妻子の失踪(言論の暴力によるDVシェルターへの保護から妻の両親さえ住所が分からない状態が2年続き、そこから移転後の住所を知って2年以上になります。もちろん接見禁止=保護命令は出ていません)、八王子高齢者支援課による母の保護処分(私が高齢者虐待をしたという100%が作文に基づくもの)、相当重い刑事罰に相当する中傷ブログが立っている、など一般人では経験できない様々な犯罪にあってきました。

この中で、モランが指摘したのと同じ構造が底流にあることが分かっていました。これらの工作員の行動に共通する風評被害の目的が、「私の女性関係のだらしなさ」と「すぐに暴力を振るう」という神話を流布させようとしていること、その筋書きに早くから気付いていました。

特に、「微笑禅の会」の活動にしても「ロータス人づくり企画」の様々な構想にしても、現代の道徳や価値観を糾すという目的が根底にあります。ですから、これを潰すには過去に「悪の論理」に引用したとおり、その主導者のシモネタを流布させるのが一番効果的なわけです。

そしてモランが指摘したように、風説を流す主人公自身が無意識に、自分自身の劣等感(男の嫉妬は凄まじいですからね。怨念の塊になります)と性的欲望を暴露しているのです。具体的に言えば、韓国人の留学生と同棲していた、人妻と付き合っていた、石和のコンパニオンと恋仲になった、キャバクラに通っている、デルヘル嬢の写真を見ている(代表の座を一時譲った人物すらここに拘りました)、そして100%根拠のない「幼女に性的悪戯をした」「デリヘル嬢を買って支払いに文句をつけた」と、どんどんエスカレートしていきました。

こうすることで、こんな人間が禅の指導をする資格はない、こんな人間が道徳教育や世直しをする資格がない、と神話化に方向性を持たせたいのですね。創価中学自主退学にも裏があるはず、早稲田卒業も嘘、修士論文は他人が書いた、大学辞職も本当はクビだった、中央義士会の顧問は経歴詐称(その事情はブログに説明済みです)、等々、嘘も100回つけば事実になる、という悪の論理で確信的に神話化を強めていったわけです。

噂によって自分たちの組織を批判する人間を社会から抹殺するための実に幼稚なシナリオで、もっと推敲して欲しいと思いますが、実はこの単純な手口で充分なのです。つまり「人間は人間にとって狼ですから、噂がその主人公の評判を高めるほうに広がることは絶対にありません」。権力への欲望に囚われて生きるしかない人間は、常に「自分のほうが上位に立つように噂を解釈する」からです。簡単に言えば、人間は「人をけなして喜ぶ本能を持っている」ということです。

滑稽なのは、下半身スキャンダルの内容です。人妻と付き合ってどこが悪いのでしょう。もう姦通罪はありませんよ。キャバクラ遊びは東京では一流企業の接待にも使われます。バブル崩壊以後デリヘル(新風営法により合法)には女優なみの美人が集まり、それを見て楽しむことのどこが悪なのでしょう? 悪い悪いと囃し立てている人間は、本当は自分もそんな体験をしてみたい、また本当は自分がデリヘル嬢を買いたい(或いは買ったことがある)と思っているから、そこばかり気になるわけです。モランが言ったとおり「性的なものへ憧れ」が隠れた悪評を流す人々の深層意識、つまり自分でも気が付かない本音です。

禅の指導者が酒を飲み、女遊びをしてはいけない、などというのは思い込みに過ぎず、己の心境の低さを物語っています。遊びは大いに結構。良寛、一休禅師の人生を調べて御覧なさい。公案にも恋や性愛がテーマになっているものがあります。ちゃんと読んで心境を述べて欲しいものです。もし私に甲斐性があれば、不遇に生きている女性を片っ端から恋人にして幸せにしたいぐらいです。

さらに「よさこい節」の価値観から見れば、どうせやるなら掟を犯して晒し者にされ国外追放するぐらいの恋をせよ、という思想があり、戦前の映画では「狂恋もの」というジャンルがありました。八百屋お七などその典型で、坪内逍遥は恋人に逢いたいために大火を起こしたお七の恋心を絶賛しています。大体、不倫や娼婦や芸者との恋愛をタブーにしたら、日本の芸術の殆どが消えてしまいます。歌舞伎、文学、演劇などなどの名作の大半はこの種のものがテーマです。私は「五行歌」同人で「八王子五行歌会」の代表を務めていますが、大いに恋をせよ、不倫上等、という気風があり、主宰の草壁焔太先生自身が性愛の重要性を力説されています。事実、自分を振り返ると、夜の帝王、キャバレンジャーと言われていた時代が最も精力的に仕事をこなしていました。テストステロンが出なくなると全てにおいて活動的でなくなります。現在の私は意識不明の危篤2週間から蘇生し、リハビリの途中ですから、恋愛に興味がもてず、禁酒も続け、坐禅が唯一のストレス解消法というストイックな生き方をしています。これは正しいようで本当は悪い状態です。趣味道楽は人間を健康に保つ構造的に不可欠な要素ですから、これが消えると生の全体のバランスが壊れます。危篤から蘇った人なら分かる筈ですが、そういう体験をした人は滅多にいないでしょうね。

ともかくこういう訳でオルレアンの噂を分析したモランがズバリと指摘したとおり、噂を流す人々は己の無意識の性的欲望を否認して私に投影し、自分の差別意識(邪魔な存在への殺人願望)を自分で暴露しているわけです。モラン自身がユダヤ系スペイン人だったので、この著作には身につまされる思いがあったでしょう。現在は「都市伝説」の構造を知る上での古典となっています。

ところで、昔のHPに書いた映画批評の中から法廷映画の傑作について書いたものが出てきたでここに復元します。モランの考察と合わせてお読み下さい。

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『12人の怒れる男』(シドニー・ルメット 1957年 白黒)

 


{あらすじ}

スラムに住む18歳の少年が、「父親をナイフで刺し殺した」として第1級殺人罪で死刑に問われる。無作為に選ばれた12人の陪審員たちが、殺人事件に対する評決を下すまでを描いた法廷劇(密室劇)だ。

  はじめはたった1人の陪審員だけが「無罪」を主張していた。それが、議論を重ねるに従って少しずつ「無罪」が増えていく。「有罪に決まっているじゃないか。早く終わらせて帰ろうぜ」。そんな空気が議論を重ねるうちに少しずつ変わっていく。「疑問があるから話し合いたいんだ」。そんな主張が少しずつ受け入れられていく過程が息詰まるタッチで描かれる。

  ドラマは、裁判所でのすべての審理を終えたところから始まる。見知らぬ者同士の12人の陪審員は、株の仲買人、会社社長、建築家、広告会社社員、時計職人、高校のフットボール・コーチなどと職業はさまざまだ。移民もいれば、スラム出身者もいるという具合に階層も幅広い。夕方からの野球のナイター見物を楽しみにしている男もいる。「義務だからここの場にいるが、陪審なんて早く切り上げて帰宅したい」。多くの陪審員はそう思っている。

  評決は全員一致でなければならない。有罪の評決が出れば、少年は電気いすで死刑になることが決まっている。1回目の投票では、ただ1人の陪審員(ヘンリー・フォンダ)だけが「無罪」を主張した。圧倒的多数の11人は「有罪」だった。「無罪の証拠はなかった。目撃者もいる。事実は動かせない」というのが「有罪」の理由だ。これに対し、ヘンリー・フォンダは訴える。「6日間の証言を聞いて、あまりにも明確なので奇妙にさえ感じた。弁護士は十分な反対尋問を行っていない。手抜きをしている。目撃者は1人の女性だけ。あとは物音を聞いた老人と状況証拠だ。この2人の証言が間違っているとすれば?」

  陪審員たちの空気は、明らかにヘンリー・フォンダに冷たかった。なぜ1人だけ、みんなと違うことを言うんだ…。どこにでもいるんだ、そういう奴って…。しかし彼は言う。「人の命を5分で決めてもし間違っていたら? 1時間話そう。ナイターには十分間に合う」

  そして、議論が始まる。「非常に珍しい型」とされた凶器のナイフは、どこにでもあるナイフだったことが分かった。再投票で10対2になった。「無罪」評決に転じた老人が言う。「有罪に確信がないだけで、この方は1人で闘ってこられた。大変な勇気だ。だからこそ彼の賭けに応じたくなった。有罪だとしても、もっと話を聞きたい」。うんざりした表情ながらも、陪審員たちの議論は続けられることになった。

  同じアパートに住む老人と、目撃者とされる女性の証言にはあいまいな点が多いことが、白熱した議論と検証を通じて少しずつ分かってくる。8対4、6対6、3対9…、投票を重ねるに従って「無罪」の評決が増えていく。「なぜ無罪に変えた」「疑いの余地がある。不明確な点も多いし」。裁判所での事件審理自体に疑問を感じる陪審員が出てくる。

  「あの不良が。連中は平気でうそをつく。真実なんてどうでもいいんだ。大した理由がなくても奴らは人を殺す。気にするような人種じゃない。奴らは根っからのクズなんだ」。議論に興奮したのか、少年やスラム住民へのあからさまな中傷を夢中でしゃべった陪審員は、自分の心の中に強くある差別感情と偏見を自ら告白する結果になった。ほかの陪審員たちは絶句して無言で彼を非難する。「偏見抜きで物事を考えるのは難しい。偏見は真実を見る目を曇らせる。事実は私も分からないし知る人はいない。だが、われわれは疑問を感じている。そこが重要な点だ。確信もなく人の命は裁けない」

  最後まで「有罪」を主張し続けた男は、息子と喧嘩別れしてもう2年間も会っていないことで苦しんでいた。自分の息子と被告の少年を心の中でだぶらせて、だから「有罪だ」とかたくなに繰り返していたのだった。男は泣きながら「無罪だ」と言って机に突っ伏した。

  少年に対する評決はついに「無罪」で一致した。12人の陪審員は裁判所の建物を出て、それぞれの家へと帰って行く。 http://www.geocities.jp/ookaminami/angry-men.htmlより引用。



{批評}

この作品も映画研究者としては当然見ておくべきものなのだが、法廷ドラマということで、あまりに退屈そうな作品だとの偏見を持って今日まで見るのを延期してきた。それで退屈覚悟で見たのだが、案に反して、実に面白い。この作品のいい点を列挙しておく。
 この映画は冒頭とラストの数十秒を覗けば、上映時間の1時間半全てが、物語上の経過時間と一致する。その上、場所は陪審員の会議室を一歩も出ない。そういう時間と空間を固定した実験的な構造になっている。
 第二に、いうまでもなく、アクションもラブシーンもない、ひたすら会話が続くだけだが、これが脚本が抜群にうまく作られていて、会話の中で事件の全貌が少しずつ分かる仕掛けになっていると同時に、会話の中で陪審員一人一人の境遇や性格が徐々にあぶりだされるようになる。面白い話は少しも無いのに、ぐいぐいと観客を引き込んでいく作りになっている。
 最初無罪を訴えるのはヘンリー・フォンダだけなのだが、次に無罪に態度を変える老人(何と言う役者か忘れてしまったがさぞかし名優に違いない)が実に上手い芝居をする。私は外国の俳優に関しては無知に近いが、12人の陪審員全員が個性的なキャラクターを演じていて、実に芸が細かい。

限られた空間、上映時間と劇時間の一致、そして会話だけの映画、という極端にストイックは構造をもちながら、一瞬も退屈することなく最後まで魅入らせるルメットの技量は天才的だと言っていい。
 カメラワークは、極端な長廻しがあるかと思うと素早いカットバックがあったり、自由自在。白黒の画面も非常にシャープで魅力的だ。

ルメットの作品としては私は「セルピコ」「狼達の午後」を見ているが共に面白かった。社会派監督だが、この退屈させない技は大したものだ。

ある殺人事件を解明しながら、実は陪審員の心の傷や偏見といったものが、有罪無罪を決定する心の奥に隠れていることを暴露する。そして、民主主義というものは、ヘンリー・フォンダの演じる男のように、納得できないことを見逃さず、徹底して議論しあうことから生まれる、という強いメッセージ性ももっている。

未見の人にはお奨めする。というよりも、この作品は「見なければならない」映画史上の傑作である。

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私はモランの学説を読むよりも、この映画を見ることをお奨めします。私はこの頃「芸術」という言葉を使うことも抵抗を覚えるようになりました。しかし、映画でもこのレベルになるとアンガージュマンになるでしょう。

現実には中々映画のように、真相解明が出来てハッピーエンドで終わることはまずありません。ヘンリー・フォンダが演じるような人物が計画的に無力化、つまり消されていったからです。

モランはユダヤ人に対する差別が、ルメットはスラム街に住む人間への差別が、真実を見る目を曇らせて神話(噂の捏造)を作り上げていくことを喝破しました。被差別階級ですね。ところが私は先祖が武士であり(後村上天皇に仕えた守護大名です。和歌山県海南市からとりよせた公文書があります)、大学教員を延べ13年続け、東京工芸大では「伝説の授業」と言われて先輩から後輩に、この授業だけは受けろ、と言われるまでの名物になりました。だから、「先祖自慢ばかりする」「虚言癖がある」、「クビになった」等々の中傷をしないと気がすまないわけです。

権力を批判するとどういうふうに社会から抹殺されるか、その大掛かりな、典型的な実例をここに書きました。何かの参考になれば幸いです。

八王子高齢者支援課の策略により母は右肩の治療をしないまま一週間以上も嘘の自白の強要をされたために、現在右手の握力が殆どなくなっています。危篤寸前のときに私の子供に電報を打っても何ら連絡がありません。元妻の母親が協力してくれましたが、手の打ちようのない状況に置かれています。

しかし私は全く後悔していません。子供と逢えないまま今殺されても、全然気になりません。何故だと思いますか? 見性体験をしたといっても当然人間ですから心労で危篤にもなったし当然辛いですよ。しかし、フッと微笑が零れるときがあります。自分はこういう使命をもって生まれてきたんだなぁ、大変な宿題をこなさないといけないんだ、と今の苦境が楽しみに変化する時があります。この気持ちを共有できる人がいると嬉しいのですが・・・

今後は、祈りの意味、罰功徳論、遷化された川上雪担老師から受けた点検のより詳しい内容など、思うが侭に書いていく予定です。今回のように重要な雑談になる場合もありますのでご了承願います。以下、月刊五行歌の3月号の巻頭に選ばれた自作です。

夜中 台所の水滴の音で 目が覚める 握力が弱くなった母の 命の音


追伸:そうそう、このブログは「カルトストーカー被害者を救う会」も兼ねているので一言付け足します。マスコミが真実を報道しなくなって何年になるのでしょう。現在ですら電磁波や音波による敵対者への攻撃が妄想だと思っている人がいるようです。格好のブログがあったので貼っておきます。私も昔は信じていない時期がありましたが、100%事実だと分かりました。電磁波や音波で敵対者を殺したり病気にしておいて「仏罰が当たった」という、もっとも卑怯な、遠隔操作によるマッチポンプが日本中で実行されています。以下のブログと、そこにリンクされたブログを熟読して下さい。知性が少しでもあれば誰も反論できないはずです。(思考盗聴はありません。それは本当の盗聴の可能性が強いと思います) 暗黒時代ですね。念の為に「母と私が突然死した場合は必ず司法解剖すること」と遺言を残しておきましょう。 http://kkytea.blog44.fc2.com/blog-entry-132.html

今の政府が健全ならすぐさまこの凶悪犯罪を防止する法案を作るべきです。 

今夜はこれで失礼します。

 


やっと見つかった「狂った一頁」の批評

2013年08月25日 | 書評、映像批評

今日は「微笑禅の会」のネット会報の続きを出す予定でしたが、探し続けていた文章が見つかったので予定を変更します。

先ずは「主権回復を目指す会」のメルマガの紹介です。

*魔法使いの弟子と東京電力(福島第一汚染水)
http://nipponism.net/wordpress/?p=23650

<東京電力とは魔法使いの弟子 もう誰も止められない放射能汚染水 >
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次いで、八王子民主商工会より。

会員特権です。お店の宣伝チラシを作って用紙を300枚用意して事務所に持参すると1枚一円で印刷が出来て、「全国商工会新聞」(毎週発行)と共に宣伝してもらえます。詳しくは電話番号:042ー624ー3144までお尋ね下さい。また民主商工会の活動についてはブックマークをご覧下さい。小さな店の大きな味方です。

このブログの左下にある様々なブックマークは全て会員の参加を呼びかけています。皆様の協力をお願いします。

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さて、昔作っていたHPに書いた「超絶全面批評」や「映像批評、書評」などがUSBメモリに全て残っていました。当時はマメにパソコンがバグった時のために保存していたのでしょう。NTTのリモートサポーターと今使っているパソコンのバックアップを行っていたときに偶然あるフォルダを開いて発見したわけです。サポーターさん、夜の9時半までお手伝いありがとうございました。

この『狂った一頁』の批評は、定説を覆しているので学術的に重要なものだったのですが、捜し求めても見つからず諦めていました。この作品は世界で最初のシュルレアリスム映画『アンダルシアの犬』より2年早く作られた例外的なアヴァンギャルド映画であるとともに、製作方法も含め様々な意味で日本の実験映画の元祖と言えるものです。作品を見てない方でも分かるように書いています。ぜひ御一読下さい。

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注:以下の文章は昔のHPに2006年2月7日に映像批評として残したものです。

『狂った一頁』(衣笠貞之助、1926年、白黒、サイレント)

{あらすじ}

精神病院の中。狂った人々が幻想にとらわれている。踊り続ける女性。
小間使いの男(井上正夫)は、船乗り時代に自分のせいで妻を追い詰めて狂人にしてしまった責任をとり、妻の入院する精神病院の小間使いとなったのだった。
 そこに娘がやってくる。娘は結婚して玉の輿に乗ろうとしているのだが、母親が狂人であるために、それがネックとなって結婚できない。小間使いは妻を精神病院から逃がそうとするが失敗する。
 小間使いは宝籤で一等賞に当たったことを空想する。そして娘の結婚式を空想する。そして、最後に患者達にオタフクのお面をつけることを空想する。


{批評}

上記のように粗筋を書いたが、この作品は会話場面も空想場面も多い反面、無字幕であるために、よほど映画を見慣れている人でも、粗筋を読み解くことさえ困難である。
 この作品は、衣笠が、横光利一、川端康成などと「新感覚派映画連盟」を結成して作った前衛映画である。
 そして、何処が前衛なのかといえば、空想、幻想、回想などの主観ショットの実験、という点で前衛なのだ。
 主観ショットに関しては古典的システムでは、「人物の姿→ディゾルブ→主観ショット→人物の姿」と言ったふうに、観客が主観的事実と客観的事実を混乱しないように規則が定められている。
 この作品でも7割がたはこの規則どおりに主観ショットが使われるが、残りの3割は、この規則を意図的に破っている。具体的に以下に記す。
1、冒頭の狂った踊り子のダンスシーン。突如として豪雨や雷、太鼓を打つ短いカットが挿入される。この場面は、踊り子の幻想とも理解できるし、エイゼンシュテインの「連想のモンタージュ」であるとも理解できる。
2、宝籤に当たる空想場面。これも井上正夫の顔を写すことなく突然、宝籤に当たったシーンが始まる。客観シーンかと思ってみていると、最後に井上の姿が映し出され、空想場面だったことがわかる(といっても、弁士の解説抜きではそれさえ分からないだろう)
3、娘の結婚式の場面。これも突如として主観シーンになり、あとで空想だったと分かる。
4、狂人達にお面をつける場面。これも後から井上正夫の空想だったと分かる仕掛けになっている。

こういうふうに主観シーンと客観シーンが意図的に曖昧になっていて、弁士の解説抜きにはその区別が不可能なのである。
 そもそもこの作品は最初は字幕がついていた。試写会のときに横光利一が無字幕でやろうと提案して無字幕になった、といういきさつがある。しかし、こんなに会話と空想場面の多い作品を無字幕でやる、というのは、その背後に「説明は弁士に任せる」という意図があってのことである。前衛芸術家が、弁士排除ではなく、弁士の腕を信頼して彼らの技量に任せたことは疑いの無いところであり、精密な「弁士用台本」が用意されたことは間違いない。(小松弘氏に伺ったところでは名古屋で出版されていた映画雑誌「逆光線」に弁士用台本の一部があるとのこと)

しばしば日本映画史はこの作品をF・W ムルナウの『最後の人』(1924)と関係付けて述べている。しかし、私が『最後の人』を見たところでは、7つの主観ショットがあるが、お手本どおりとは言わなくても、マスキングや二重露光により、全ての主観ショットが古典的システムの中に入っていて、観客には「これは主観ショットだ」と分かるように出来ている。従って、『最後の人』が『狂った一頁』に与えた影響はほとんど見られないと言ってよい。
 主観ショット以外にも、例えば『最後の人』は主人公(エミール・ヤニングス)の悲劇をプロットが単線的に追っていくのに対して、『狂った一頁』の前半部分では、井上正夫と狂人達の生態とが複眼的に描かれ、登場人物の全てに平等にカメラが注がれる、という意味でエイゼンシュテインの作品のような趣がある。

では、この『狂った一頁』は狂い咲きのように日本映画史に登場した奇跡的作品なのだろうか?確かに主観ショットの実験という点では私はこの時代にこれに類似した作品を知らない。この主観と客観との混乱、という点では「アンダルシアの犬」や「 2/1」を先取りしていると言える。
 なぜこのような先駆的な実験が可能になったのかを想像すると、第一には文学における新感覚派の影響を考えるべきだろう。
 例えばこの映画のシナリオを協力した川端康成の「雪国」では、冒頭に「夜の底が白くなった」という有名な一説がある。これは普通は「夜の底が白くなった、と私は思った」と書く。そう書くことで、夜の底が白い、という主観的な言い回しを、客観的に叙述することが出来るからだ。しかし、新感覚派はあえて主観的な言い回しで止める。散文のなかに詩的言語が混在する。そもそも新感覚派の文学理論には、文学への映画の影響があると言われるが、客観的な事実と空想とをあえて混乱させる『狂った一頁』のテクニックは、新感覚派の文学理論からの影響であり、文学における映画的手法の先祖がえりであったと言えよう。「はい、ここからが空想ですよ」と説明せず、空想場面を混乱状態で見続けたあとに、ああ、あれは空想だったのか、と気づく「混乱の面白さ」。それを分かっていたから横光利一はこの作品を無字幕で上映することを提案したのだろう。
 なお、小松弘氏の指摘では、衣笠が育った日活向島撮影所には独特の空気があり、小道具係が休み時間にショウペンハウエルを読むような、西洋思考があり、進取の気性に溢れていたために、衣笠も多分にその撮影所の気風に影響を受けていたに違いないとの事である。

なお、この作品は岩崎昶のような前衛オタクを除いては封切り後には評判が悪かった。分かりにくかったからではない。この作品の弁士を務めたのは徳川無声だったので、見事にその主観ショットも説明過多にならない範囲で、観客に想像の余地を残しながら解説したと記録に残っている。要するにこの映画が不評だったのは、物語がつまらなかったのである。粗筋を見れば分かるように、いいわけ程度の筋書きで、盛り上がりに足りない。(衣笠はこの反省から傑作『十字路』を作ったのだろう)

 いずれにせよこの映画は日本で最初のアヴァンギャルド映画であり、世界史的にみても非常にユニークな価値を持つ問題作である。機会を得て、この作品の成り立ちを論文の形で発表したいと私は思っている。



教条主義の危うさ、武士道のことなど

2013年08月20日 | 世直しのためにどうすべきか

主権回復を目指す会よりメルマガがありました。


『虐日偽善に狂う朝日新聞』(酒井信彦 日新報道)
http://nipponism.net/wordpress/?p=23469

        水道水(言論メディア)に猛毒(虐日偽善)を注入するテロリスト

          <酒井信彦が朝日新聞の虐日とその精神構造を解明>
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その他、このブログのブックマークに紹介している様々な組織は会員を募集しています。ぜひ一つずつご覧下さい。

朝日新聞と言えば、私が学生時代だから37年ほど前になるが、ウンザリしたことがある。新聞の再販制度を頑なに守る一方で(再販制度とは独禁法の例外で、値引きしない制度。例えば販売店ごとに値引きするとか、売れ残った新聞を翌日半額で売る、という普通は当たり前のルールを違法とすること)、農家に対してルサンチマンの典型のような社説が書かれていた。

要約すれば、「農家は減反政策の助成金で遊んで暮し、何台もの車を所有している」というもので、この程度の人間が社説を書いているのかと呆れた記憶がある。私の叔母には2人兼業農家がいるが、夫は都市部に出稼ぎに行き、残った奥さんは日焼けで真っ黒になるほど働いて一生懸命子供たちを育てていた。減反制度を一番拒否したのは農家自身で、それを推進したのは政府だった。確かに複数の車は保有しているが、作業のために軽トラックは必須であり、農家を継続するために跡取りの子供に車を買って説得する、というのが実体だった。跡取りもまた農業だけでは生活が出来ないので別の仕事に出るためには乗用車が必要だった。

朝日新聞の社員といえば相当の高給取りでアッパークラスに属する筈だが、こういう現実も知らず、再販制度(諸外国では廃止されている)を死守しながら、こうして農家を攻撃し、農産物の自由化となって農家が潰れ、僻地の商店街がゴーストタウンになり、農家は建設土木関係の作業員に転職したが、これも公共事業の予算縮小で所謂「地方の地方」は原爆が投下されたかのように活気を失った。こういう現実を知らずよく社説が書けるものだと思う。

農産物の自給率が40%以下などという先進国は他に無い。自然災害や外交の駆け引き等により、いつ輸入がストップするか分からない、などというのは常に脅迫を受けているのと同じで、国防の面から見ても日本を守るためには自給率が120%程度あるのは当然のことだろう。農本主義は国策の第一に置かれるべきものである。

ところで、前回のブログで原理主義の危うさを指摘し、思想体系は閉じず、開放系である必要を訴えたが、今日は教条主義の危うさについて簡単に触れたい。

あるマルクス主義者との議論の中で、「武士道」という褒め言葉を使ったら「封建制度の中の搾取階級で許せない」との返答だった。また、私の親友が酒場を経営し始めたときに、「遅れた世代の新左翼」の一人が「経営者は搾取階級だから許せない」と同じ反論をしたことがある。全く金太郎アメのような硬直した頭である。

だったら一生アルバイトで暮すのが正しいのか?アルバイトの多くは大企業の下請け労働者ではないか? 自営業や中小企業は労働組合すら存在しない一番苦しい経営者である、という実態が分からないのだろうか?

また武士道=身分差別=搾取階級=男尊女卑、と言った発想は単純な勉強不足で http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai1.htmにあるように、

西郷が郡方に任命された時の郡奉行は、迫田太次右衛門利済(さこたたじうえもんとしなり)という人物でした。迫田は城下でも有名な気骨ある武士で、西郷はこの迫田に非常に大きな影響を受けています。
 ある時、迫田は重税に苦しむ農民の窮状を憤り、役所の門に、

「虫よ 虫よ いつふし草の根を断つな 断たばおのれも 共に枯れなん」

 と書いて、郡奉行を辞職しました。
 虫とは役人を意味し、いつふし草とは重税に苦しむ農民のことを指しています。
 つまり、「役人が農民に過剰な税を課すことは、自らを破滅に導くことに繋がる」という事を暗に風刺し、迫田は郡奉行を辞職したのです。
 この句には「国の根本をなすものは農民である」という、迫田の信念が表れているような気がします。
 西郷はこの迫田から農政に関する考え方を一から学んだのです。また、迫田から学んだ農政に関する知識や経験が、後に西郷が藩主・島津斉彬に見出される要因となるのです。

こういう気骨と慈悲の心が武士道の武士道たる所以である。

また、武士の夫婦が外出するとき、主人は手に荷物を持たず、後ろから歩く妻が荷物を持っている姿は映画やテレビドラマなどでもおなじみだが、これは男尊女卑でもなんでもない。武士は軍人であり、いつ敵が物陰や後ろから切りつけるか分からない。そういう時に男が荷物を持っていると、刀を抜く前に荷物を捨てる必要がある。その1秒に足りない瞬間に斬られてしまう。だから妻は、敵が現れたら声を出して危険を知らせると同時に手荷物を敵に投げつける。それでひるむ瞬間に夫は敵を斬り倒す。そういう2人1組のチームプレイが必要とされていた。徳川270年の平和な時代に自然と形骸化されていっただろうが、本来はそういう命がけのチームプレイを夫婦で行っていたのであり、食事のときに夫には一品多くおかずが出るが、それをそっと妻に分け与えるマナーがあった。現代には見られない夫婦愛である。

同様に武士は人通りを歩くときには決して大声で話さなかった。目に見えないところから敵が近づく音や気配に対する勘が鈍くなるからである。こういう事実は「使ってみたい武士の作法」という本を読めば直ぐに分かることなのに、史実よりも自分の固定観念や先入観を優先させるのが教条主義の最大の悪弊である。

私はよく「100%思想が同じということはあり得ない」「最終的には人柄である」と言うのは、右翼でも左翼でも、様々な宗教団体でも、個々の人柄次第で世界観、人生観が全く異なり、この部分で理解し会えば思想の違いは副次的問題になるからだ。私の代表する微笑禅の会は、あえて非宗教としており、宗派を問わず会員になれる、という規約を作った理由の一つは原理主義や教条主義の悪弊に陥らないためである。

我執を捨てる、つまり「自分を勘定に入れない」ことが禅で強調されるのは、自分の固定観念や先入観を優先させず、教条主義に陥らず、君子は豹変すの元の意味の通りに、より優れた思想や、より正確な情報があればそれを取り入れる自在さを重視するからである。

実はこのブログを書く前、日本共産党の綱領を暫く読んでいた。共感する面もあり、共感できない面もあるが、実践において社会主義国家が全て自己疎外に陥り、独裁と粛清を繰返してきたのは、多分「性悪説」(フロイトなどの)や、唯識論における末那識、阿頼耶識(真妄和合識)の理解が欠如しているからだと感じた。簡単に言えば「人間は人間にとって狼である」という根本的な無明への認識が甘く、性善説が前提になっているとしか思えなかった。

だからと言って共産党を罵倒するつもりはさらさら無い。国家権力には健全な批判政党の存在は必須であり、今の日本から共産党が消えたら、と思うとぞっとする。

繰返すが、この未曾有の国難のとき、内部分裂を避け、憂国の志のある人間が打ち解けて手を結ぶには、原理主義を捨て、教条主義を捨て、思想体系を閉ざさず開放部分を残し、人柄を通して理解しあうことだろう。これ以外により優れた方法があれば私は躊躇せずそれを取り入れるつもりである。

深夜を過ぎたのでこれで失礼します。

 


ブッダとその言葉を原理主義から見れば

2013年08月16日 | 宗教

深夜を過ぎてしまった。

微笑禅の会ネット会報を書こうと思いながら、余りに多くのことが頭をよぎり、とりわけ「原理主義」「教条主義」がいかに人間の柔軟な思考と行動の邪魔になるか、この頃気づくことがあったため、それを説明しようとした。そこで、原理主義的な思考に基づけば、我々が思っているブッダの人物像やブッダの言葉ですら非常に曖昧なものであり、「釈迦は仏教を説かなかった」という逆説を証明するために、その第一人者だった故・中村元氏の研究の一部を紹介する。

中村元氏によれば釈迦の言葉に最も近いと思われるのは『スッタ・ニパータ』の第4章、第5章であり、その中にすら後世の解説が混じっている。私がかなり前に読んだ記憶では、釈迦の教えは結局諦観主義に落ち着くのかと失望したことがある。(漢訳で日本に伝わった仏典の中には『スッタ・ニパータ』はなく、仏教伝来以来、中村氏が生前に翻訳するまで仏教徒はこの事実を全く知らなかったのである)

これは別に釈迦を貶めるものではない。要するに原理主義に拘ると日本の伝統仏教は全て釈迦の言葉を誤解していたことになるが、大乗非仏説が出てもほとんど揺らがなかった事実が示すように、様々な思想の中でより優れたものを理解し実践していくことのほうが大切だ、といういいサンプルになるだろう。思想体系は固定すると死んでしまう。常に「遊び」の部分があり、そこで試行錯誤し、学び、実験する、という運動の繰り返しが必要だと私は思っている。中村元氏の業績もそこにある。清流が常に流れているように、自説も常に吟味し改良を加えるのが生きた思想だと思う。

http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/folder/1838140.html

仏教最古の経典『スッタ・ニパータ』よりもさらに古い資料を含むと言われているジャイナ教の聖典『イシバーシャーイム』(聖仙のことば)の中には、サーリプッタとマハーカッサバなどがブッダとして紹介され、サーリプッタが仏教の代表者であるとされている。そこには、なぜかゴータマ・ブッダの名前が全く登場してこない。これは一体どういうことなのか?
 
 
 このことに関して、中村元博士の解説を分かりやすくまとめた安部慈園先生の言葉を引用してみようと思う。(以下『中村元の世界』(青土社)P.142~145より引用)
 
 
 近年刊行されたジャイナ教の古い典籍『イシバーシャーイム』(聖仙のことば)は、四十五人の聖仙の思想を伝えている。仏教者としては、サーリプッタ(本文中ではサーティプッタ)とマハーカッサバ(アハーカーサヴァ)などが言及されている。彼らは、みな「ブッダ」と呼ばれているが、サーリプッタは特に「ブッダであり、阿羅漢(尊敬されるべき人)であり、仙人である」と呼ばれており、「慈悲の徳」を強調していた、という。
 
 
 奇妙に思えることであるが、仏教の開祖である釈尊が、本書中のどこにも言及されていない。むしろ、ブッダとなる教えが、サーリプッタ(など)の教えとして紹介されていることである。すなわち、初期のジャイナ教徒からは、仏教は釈尊の教えとしてではなく、サーリプッタの教えとして伝えられていたこと、つまり、サーリプッタが最初期の仏教の指導者と、彼らから見なされていたという事実である。博士は、そこから、次の如く推理される。
 
 
  【釈尊は臨終時にもアーナンダその他の多くの極く僅かの人々につきそわれていただけの微々たる存在であったが、それを大きな社会的勢力に発展させたのは、サーリプッタその他の仏弟子のはたらきではなかったか?】(⑫390項)
 
 と。さらに、
 
 【『聖仙のことば』に伝えられている・・・・・教えが歴史的に古い。もとのものを伝えていて、現在のわれわれが<仏教>と考えている内容が実は後代の成立のものであるかもしれないという可能性も考えられる。】(前同)
 
 と提起される。かくの如く、サーリプッタの一側面を論じられたのち、博士は、さらに、「ブッダ」という観念すなわち仏陀観の変遷を次のようにたどられる。以下は取意して述べる。
 
(1)最初期のジャイナ教においては、『聖仙のことば』を見るかぎり、聖仙はすべて宗教の区別を問わず<ブッダ>であった。
 
(2)ところが、サーリプッタだけが特にブッダであることが強調されているのは、彼がブッダになることを強調したからではなかろうか。
 
(3)『スッタニパータ』の古い詩句には、ブッダということばがでてこないのは、この時代の仏弟子たちは、釈尊を特にブッダとも思わなかったし、また特別にブッダと称せられるものになろうともしなかったからである。
 
(4)次の段階として、尊敬されるべき人を、一般にブッダとか仙人とかバラモン仙人とかバラモンと呼んだ。
 
(5)このうち、ブッダは特別にすぐれた人と考えられ、その呼称として用いられるようになった。
 
(6)ついに、ブッダとは釈尊(あるいは釈尊に匹敵し得る人)のことであると考えられるようになった。(⑫391-393項)
 
  サーリプッタが、「ブッダ」と呼ばれているのは、これらの発展の初期の段階を示している、と述べられ、さらに、博士は、
 
 【なおこの原典から見ると、当時<仏教>というものは認められていなかったし、開祖釈尊なるものも、後代になって現われ出たのであろうと考えられる。】(⑫393-394項)
 
 (引用 終わり)
 
 
 余談ではあるが、「中村元選集⑫」の中で、中村氏は次のように解説している。(以下 引用)
 
 【修行者をサマナ(沙門)と呼ぶことは仏教でもジャイナ教でもかなり古くから行われていたが、仏教でも理想の修行者を「バラモン」とよんだ段階のほうが以前であり、最古のものである。】P.207
 
 【ジャイナ教の最古の原典である『アーヤーランガ』のガーターの中ではどこにもサマナという語が出て来ないで、理想の修行者は「バラモン」と呼ばれている。また仏教最古の経典『スッタニパータ』のうちの最古の部分である「パーラーヤナ編」では理想の修行者はつねに「バラモン」と呼ばれていて、「サマナ」とは呼ばれていない。】P.208
 
 【仏の弟子という表現が最初期の仏教には見当たらない。〔この点はジャイナ教の場合も同じである。〕】P.228
 
  【マウリヤ王朝以前には、仏教徒たることを示す(インド一般に認められた)定まった呼称がなかったらしい。】P.234
 
 【仏教の最初期には、戒律の体系もなかったのみならず、戒律に関する一定した呼称さえもなかったのである。】P.283
 
 【最初期においては仏教特有の戒律なるものは存在しなかった。・・・・・そうして仏教の本質なるものは、戒律規定のうちにあったのではなくて、それによって実現される智慧、すなわち、実践認識の実現のうちに求められねばならぬのであろう。】P.297 
 
 【普通には釈尊はいつも多勢のビクを連れて歩いていたように考えられ、仏典にもそのように記されているが、それは後世の仏教徒の空想であり、最古のことばによってみると、釈尊は森の中でただ一人修行していた。『ゴータマはひとり森の中にあって楽しみを見出す。』(SN.Ⅰ,p.4 G.)悪魔がゴータマに呼びかけた語のうちにも、『汝は森の中にあって沈思』(SN.Ⅰ,p.123 G.)という。】P.335
 
 【釈尊が千二百五十人の修行僧をつれて歩いていたなどというのは、全くののちの空想の産物なのである。(千二百五十人もつれて練り歩くなどということは、今日のインドでもヴィノーバやシャンカラ法王のような崇敬されている人でも不可能である。食糧の手配だけでも大変である。シャンカラ法王が巡歴する場合でも、ついて行く人は数十人にすぎないし、それもバスや自転車によって食糧を運ぶからこそ可能なのである。)】P.336

 【最初期の仏教ではひとりでいることを讃えていた。】P.336
 
 【最初期の仏教修行者は寺院や僧房はおろか、住む小屋さえももたず、村人にもつき合わなかった。】P.337
 
 【『スッタニパータ』のパーラーヤナ編やアッタカ編を見ても慈悲の教えは殆ど説かれることなく、専ら「執着するな、こだわることなかれ」ということが教えられている。慈悲の教えは『スッタニパータ』の新層になって現われる。仏典とジャイナ教聖典との所伝が一致するところから見ると、慈悲の徳を特に強調したのはサーリプッタであり、それ以降仏教が急激にひろまったのだと考えられないだろうか。『聖仙のことば』に記されているサーリプッタの実践は、『スッタニパータ』に述べられているものに大体対応する。】P.395

中村元氏は、「中道」や「八正道」、「四諦」、「十二支縁起説」の成立時期について興味深いことを言っている。(以下 引用)
 
 『パーリ文「アリヤ・パリエーサエ経」がつくられたときには、中道も八正道もまだまとめられていなかったか、少なくとも重要視されていなかった。相当漢訳の原本がつくられたときに、漸く中道と八正道とがベナレス・サルナートの説法と結びつけて考えられていたが、しかし四種の真理の説は編纂者の念頭にはなかった。サルナートの説法と四種の真理とが結びつけられて考えられたのは、かなり後世のことだと言わなければならない。詩句(ガーター)の中にもサルナートの説法と四種の真理・八正道・中道と結びつけたものは一つも存在しない。』(『中村元選集・第11巻・p239)
 

多忙中につき掲載が遅れています

2013年08月08日 | ご挨拶

猛暑とゲリラ豪雨など、異常な夏に加え、余りに多くの「重要な雑務」を抱えているためにブログ更新が停滞しています。

腱鞘炎だけでなく、座りすぎによる重度の坐骨神経痛でさらにパソコン禁止令が出て、メールへの返事と「八王子五行歌会」の投稿、そして重要な雑務だけで深夜になっている日々です。

人間の体は夜中12時から2時までの間に再生されるので、徐々に朝方に生活のリズムを変えている途上です。

性格は中々変わるものではなく、簡単に、といいながら長い評論文になっていますが、簡潔に読み応えのあるものを、なるべく毎日書く、という方針でやろうと思っています。

ズルズルとブログを中断しているので、一言ご挨拶する次第です。