北一輝の『日本改造法案大綱』についてこのブログを書いた際、明治になって武士がキリスト教徒になった例が多いが、ややこしいので省略する、と書いた。
今日は簡単にその例を示し、理由について推察してみる。
例
新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、1862年9月1日(文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日)は、日本の農学者・教育者・倫理哲学者。国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。
内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日(万延2年2月13日)- 1930年(昭和5年)3月28日)は、日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。
横井小楠(明治政府の参与)の娘・海老名みや子、日本初の男女共学を受ける キリスト教連合会長として活躍(小楠暗殺の一因は日本をキリスト教国にしようとした、というガセネタだった)
今井伸郎、知る人ぞ知る坂本竜馬暗殺者(私は郷里愛媛にいたとき「坂本竜馬研究会に入り、会報に原稿を書くなどして、徹底的に暗殺者を調べたことがある。諸説取り寄せて調べたが、犯人は今井に間違いない。なお、徳川幕府にとって竜馬は前科のあるお尋ね者だったので、暗殺ではない。今井は京都見廻組み、いわば公安警察みたいなものなので合法的に斬り捨てただけである)。
明治になり静岡県榛原郡初倉村(現・静岡県島田市)に帰農し、初倉村の村議及び村長を勤める。当初はキリスト教を迫害していたが、横浜の教会でたまたまキリスト教の教義を知り大いに感銘を受けて自らの不覚を愧じ、ついにその信者となって後半生は矯風事業に貢献した。
これはごく一部の有名人の例だが、とりあえずはこれで充分と思う。そうそう、同志社大学の創始者・新島襄もいますね。
なぜ旧武士がキリスト教徒になったのか、理由はおよそ次のように考えられる。明治になり武士という階級は滅んだ。士農工商という身分社会を、特権階級の武士(およそ人口の1%)自身が壊したのだから見事なものだと思う。この辺がプロレタリア革命と全く違う日本特有の精神文化だ。
そこで、旧武士は平民の中に溶け込まざるを得なかった。ところが平民には武士道が通じない。新たな倫理観を模索する中で、敬虔なクリスチャンの禁欲的な生き方に共鳴すると共に、キリスト教国アメリカの(金と名誉という功利主義のみの価値観)とのギャップに疑問を抱く。そこで新渡戸は「武士道」を英訳して世界的名著になったわけだ。
要約すれば、滅び行く武士道、平民の倫理的規範とのギャップ、敬虔なクリスチャンへの共鳴という3つのベクトルの中で、新たな倫理的規範としてキリスト教徒になった旧武士が多かったというわけである。
理屈で考えればこれらは徳川幕府に従った武士の魂の彷徨(いわば信仰喪失)であり、所謂官軍のほうは天皇という絶対的な存在があったのだから、あえてキリスト教に帰依する必要はなかったと考えられる。あくまでも理屈の上の推察だが。所謂賊軍になった武士たちの評価については有名な研究者が本を出してかなりヒットした記憶があるので割愛する。
明治6年にキリスト教禁止令が解かれ、封建主義道徳を批判するクリスチャン(プロテスタント)が日本を啓蒙しに入国した背景があり、やがて尊王思想と対立していく。ややこしい話を簡単にまとめたので遺漏も多いが、ブログの一つのネタとしてはこんなところだろう。
蛇足として付け加えれば、この時代の日本のクリスチャンは物凄く禁欲的で真面目だった。
興味のある人は日本人で最初の賛美歌を作詞した「西村 清雄」(これも旧武士)で検索してみてください。以下が有名な西村作詞の「山路越えて」です。
山路こえて ひとりゆけど、
主の手にすがれる 身はやすけし。
松のあらし 谷のながれ、
みつかいの歌も かくやありなん。
峰の雪と こころきよく、
雲なきみ空と むねは澄みぬ。
道けわしく ゆくてとおし、
こころざすかたに いつか着くらん。
されども主よ われいのらじ、
旅路のおわりの ちかかれとは。
日もくれなば 石のまくら、
かりねの夢にも み国しのばん。
(日本基督教団,賛美歌404番)より