集団ストーカーの被害者の方は次のurlを押してください。 http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531
http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日にの8時から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。手前のテーブルの場合もあります。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今後は二回目から講演者に5千円は差し上げます。医療だけでなく歴史や芸術についても講義できるようになりました。私は八王子五行歌会の代表です。賛同される方は私まで電話を下さい。042-634-9230。出ないときは留守電にメッセージを残して下さい。次は「坐禅の効果」になります。既に資料は揃えてあります。禅の理論や密息の実技を見たい人は集まってください。その次は「日米関係」になります。左翼のかたも右翼の方も大勢集まってください。是非ブログをご覧の皆様も「春名先生を囲む会」にご参加下さい。
私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)
今後、微笑禅の会(非宗教)のネット会報は中止し、年に5千円の護持会費と数度の紙媒体での会報を出すことにします(メールで済ますこともあります)。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。 http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)なお、微笑禅の会の口座番号に変更があります。入会手続き入会金なし。会費は年に5千円とし、ゆうちょの以下の振替口座 00130-7-447671 名称「微笑禅の会」に振り込んでください。その際は住所氏名他連絡先、男女の区別を明記してください。退会は自由ですので、私にメールか電話をください
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どんな場合でも慌てない人となるには
平素の言動をできるだけ落ち着いて
行うよう、心がけるべきである。
中村天風
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以前から疑問に思っていた謎が一つ解けたのでここで報告します。森家文書には、私の先祖の森甚介正俊という人が本能寺の辺の直前に織田信長に仕えており、同時に地元の有力な武士一段(雑賀衆や根来衆を含む)が会合して織田家に属すと決定し、その書簡を甚介に持たせて、織田に報告するついでに、明智光秀に味方した場合の知行を約束させて帰り、その大仕事をした褒美に明智の書簡を森家が所有することになった、と書かれています。本物は確か東大図書館にあるはずです(明智光秀最期の書簡として国宝)。これは当時の凄まじい軍略で、織田に味方すると決めながら、敵方の明智光秀にも援軍する、と言っているわけです。そこで、長年疑問だったのは、織田に味方したなら、本能寺の変のあと、織田信長の後を継いだ羽柴秀吉にも仕えていたはずなのに、森家文書によれば、「天正13年、豊臣秀吉が入国の時、領地に放れ農民となる」と書かれていることでした。何故時の守護大名に仕えてきた森家が、上司に当たるべき秀吉にのみ使えず、帰農したかという問題です。
そこで、仲間内の武士軍団、雑賀衆や根来衆を調べてみました(彼らも、土佐や紀州独特の制度で、武士でもあり、場合によっては農民や漁民になるといった、言わばその時代の変化に合わせて身分を変える戦闘部隊だったわです)。
wikipedia を見ると次のような一説がありました。
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1580年(天正8年)に門主顕如が石山本願寺から退去して石山戦争が終結すると、雑賀衆の門徒たちは雑賀の鷺森(現在の鷺森別院)に顕如を迎え入れた。しかしこれ以降、織田信長に進んで従おうとする派と反織田を貫こうとする派が対立し、雑賀衆の内部は分裂することとなった。1582年(天正10年)には親織田派の鈴木孫一が反対派の土橋氏を倒すが、同年の本能寺の変によって信長が横死すると、孫一は織田信張のもとに逃亡し、土橋派が主導権を握る。
なお、毛利方が本能寺の変報を入手したのは羽柴秀吉撤退の日の翌日で、雑賀衆からの情報であったことが吉川広家の覚書(案文)から確認することができる[6]。
以後は、もっぱら中央集権化を進めて土豪の在地支配を解体しようとする羽柴秀吉の動きに雑賀衆は一貫して反発し続け、根来衆と組んで小牧・長久手の戦いでは大坂周辺にまで出兵して尾張に出陣した秀吉の背後を脅かした。1585年(天正13年)、徳川家康と和解した秀吉が紀伊に攻め入ってくると(千石堀城の戦い、第二次紀州征伐)、雑賀に対して攻撃が加えられ、雑賀衆は抵抗したが壊滅した。
かつての雑賀衆は、滅びた土豪勢力として帰農したり、各地に散らばって鉄砲の技術をもって大名に仕え、集団としては歴史から消滅した。