那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

気になることあれこれ

2012年09月30日 | 世直しのためにどうすべきか
最近カスミ目と頭痛が続いているのはパソコンが原因と分かっているので走り書きします。

まず、以前同じカテゴリーの「窮鼠はどうやって」に、東宮侍従長が創価学会と書いたのは私のカスミ目による間違いで、東宮侍従、が正解でした。先ほど訂正しておきました。なお宮内庁長官が創価学会員なのは間違いありません。


それで今日の(9月30日)ニュース速報を見たら、岩間公典東宮侍従が依願免、とあった。そこで「ドス子の事件簿」から「博士の独り言」まで読んでみたが、急のニュースなのでどちらも取り上げてない。

「ドス子の」によれば、現在の侍従は小和田家の人脈で固められているそうなので、真相はまだ藪の中だが、岩間氏は元の外務官僚のほうが良かったのか、なにかトラブルがあったのか気になるところだ。

ついでに、これも初めて知ったのだが、侍従職の中で一番権限を持っているのは侍従長ではなく侍従大夫とのこと。今の大夫(小町恭士)も元は外務官僚のトップレベルの人。
 こうしてみると皇太子妃が適応障害と言われながら、元外務省職員のキャリアを生かした仕事にはやる気を見せており、侍従等に外務関係者が多いのが推察できる。

それにしても将来皇后陛下(国母)になる可能性のあり皇太子妃が、親子ともにカルトと深い付き合いがあるのは一国民として憂慮せざるを得ない。ある憂国の士によれば「崇拝できる対象としては昭和天皇で終わった」とのことだし、私自身も現在の天皇皇后両陛下、特に美智子皇后への国民の尊敬がかろうじて皇室の権威を維持していると思う。

明治天皇は色んな伝説があり、替え玉説もあればあれだけの和歌を次々と読む才能にしても超人的で、大帝、と呼ぶにふさわしく、世界中のジャーナリズムが褒め称えた。西郷隆盛は幼少のころの明治天皇と相撲をとって思い切り投げつけて鍛えたらしい。

世の中が腐ったときには西郷星が出現して改める、という。皇太子妃と小和田家に面と向かって、西郷さんのような人物がじっくりと心がけの違いを説教しえくれればいいなぁ、と思う。名君の横には必ず大久保彦左衛門のようなアドバイザーがいる。イエスマンで周りを固めるとロクなことにならない。

ちなみに明治大帝は生涯に10万首詠まれたと言う。最後に御製を数首引用する。あるサイトの上から順にコピペしただけだが、全て感動に涙が零れる歌ばかりである。

 「玉」
 曇りなき心のそこのしらるるは ことばのたまのひかりなりけり
 
 大意:少しも曇りの無い心の奥底(誠)の知らるゝのはまことに言葉の珠といふべき
歌の上に光となりてよく現はれて居るぞ、との御意と拝誦す。
 
 「子」
 思ふことつくろふこともまだしらぬ をさなこころのうつくしきかな
 
 大意:おもふて居る胸の中の事共を、取り繕ふことも、未だ少しも知らぬ、幼き頃の
心は愛すべき(うつくしき)ものであることよ、の御意と拝す。
 
 「薬」
 こころある人のいさめの言の葉は やまひなき身のくすりなりけり
 
 大意:君に対して、忠誠の心篤き良臣の諌言は、我が身に病ひはなけれども、身に取
っての良薬であるぞ、の御意と拝す。
 
 「社頭祈世」
 とこしへに民やすかれと祈るなる わがよを守れ伊勢の大神
 
 大意:とこしへに何時々々までも、我が治めて居る国民が安くあれかしと祈って居る
我が心を知ろしめして、わが世を守りたまへ、皇祖天照皇大神よ、の御意と拝す。
 
http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/88/8801/880103.htm




















ネットの風評被害への対策

2012年09月29日 | 集団ストーカー被害者を救う会
映画批評復活作業が終わって、やっと自由に発言できるようになりました。

カルト宗教のストーカーにあって苦しんでいる人は、このブログでも左下にあるブックマークから「ロータス人づくり企画」に入って私宛のメールでも電話でもいいので相談してください。

試しに、西村修平、瀬戸弘幸、博士の独り言、那田尚史(私)、誰でもいいから興味のある名前でグーグル検索を掛けてみてください。
 揶揄中傷が必ず1頁から2頁にかけて乱立しています。
そしてその文章を読んでみてください。実に卑しい嘲り、悪口、下手な文章で普通の人間なら反吐がでそうになります。

私はこの3年の間、様々なトラブルに巻き込まれ、入退院を繰り返し、寝たり起きたりでしたから世直し運動もろくにしていませんが、「必死なだ」「ストーカーだ」「東久邇宮(ひがしくにのみや)記念賞」等々のタイトルで3つトップページに出てきます。面白ですね。全て更新は去年で終わっています。「ストーカーだ」なんか3年も前に終わっているのに、1万2千以上ヒットする検索の第一頁に乗っているわけです。分かりますね?このカラクリ。

つまり大雑把な表現ですが、3年の間、複数の仲間内(カルト工作員)が「一日10回はこの三つのブログをクリックすること」というルールを作っているわけですね。大体1万ヒットする名前なら、一日100アクセスあるとグーグル検索の1頁目に来ます。

これと同じことを、上記の愛国者にも同様にやっているわけですね。突然潰されたサイトもあります。

私はwin95からパソコンを使い始めて、2003年から自分のHPを作っていますので(今のが2代目)、詳しいメカは分かりませんが、エンジン構造は理解していなくても運転は巧いドライバーのように使いこなすことは出来ます。それで、明らかにスタンバイ状態からバグってリカバリーしたこと数度、今でも時々ブルーバックになってどうにかこうにか使い続けている状態です。

カルトの集団ストーカーになっている人、これだけを覚えて置いてください。
①連中は貴方を孤立させ、あらゆる方法で追い込み、精神異常→自殺に追いやろうとしている。
②逆に言えば、相手の手口が分かっているんだから、孤立しない、堂々と外へ出て行く。そして連帯を組む。つまり相手の手に乗らない。
③どうしても無視できない人へ。殺人予告でもしない限り警察も警視庁も動きません。いい人に当たれば別ですが、ネット犯罪は物凄く多いので、悪口ぐらいではまず動かないと思っていいでしょう。弁護士でさえ動かないと思っていいです。20数万円出せば削除する法律事務所の広告を見かけましたが、プロバイダやサーバは基本的に使用者の表現の自由を守ろうとしますから(お金になりますからね)、削除するには相当煩瑣な手続きが必要で、それを弁護士その他の法律家がやってくれるだけです。だったらプロバイダのプライバシーポリシーを読んで、自分で訴えたほうが安上がりです。印鑑証明とかいろいろ面倒な手続きがありますが。
④ネット工作員は絡みのプロです。が、決して相手のブログ等に入って言い返さないように。「論争」「叩きあい」と看做されると向こうの悪口と相殺されます。だから、自分への中傷を印刷するなり、フラッシュメモリ等に保存しておきましょう。

以上、なにかの幸いになれば嬉しいです。とにかく、被害者同士で連帯を組むこと。悩みを聞いてくれる相手を見つけること。世の中、悪党ばかりではありません。

『月はどっちに出ている』(崔洋一、1993年)映画批評(再投稿)

2012年09月27日 | 書評、映像批評
すみません。映画批評を掘り起こす批評です。多分、もう一度ぐらいで終わります。
(カテゴリーを間違えて投稿したので、再度の投稿になります)


『月はどっちに出ている』(崔洋一、1993年)


{あらすじ}

この映画は3つのエピソードから出来ている。
一つ目は、在日朝鮮人で、母親がフィリピンパブを経営していて自分はタクシードライバーをしている主役(岸谷五郎)が、母の店のチーママであるフィリピン人(ルビー・モレノ)をナンパして同棲し、一度は別れるが、また結ばれるという、はなはだいい加減で猥雑なラブストーリーである。
 二つ目は、主役の勤めている在日系のタクシー会社(金田タクシー)の社長が、同じ在日系の金融屋の口車に乗って、ゴルフ場経営に乗り出そうとして騙され、15億の借金を背負う。そして、自己破産のかわりに会社に火をつける話である。
 もう一つは、上の二つの物語に比べると小さなエピソードだが「俺は朝鮮人は嫌いだが、忠さんは好きだ」と主役の男を追い回す日本人にまつわる物語である。この男は妻に逃げられ、子供二人を故郷の母親に預けているが、いつかは妻とヨリを戻し、一軒家を立てて2世代一緒に暮らすのが夢だという。そして、別れてクラブのホステスをしている妻から、ヨリを戻したい、と電話があったというのだが、この男は家に電話などもっていない。結局不可解な行動を繰り返した挙句、警察に捕まって精神病院に強制入院させれることになる。
 以上、3つの逸話が絡まりあっている。


{批評}

封切り当時は割りと評価の高かった映画だが、私はダメな作品だと思う。
まず、長所から言おう。この映画は、「被害者コンプレックス」の塊のようなこれまでの在日のイメージを根底からひっくり返したところにある。60年代から70年代にかけて、日本の革新的な作家たちは朝鮮人を被害者と規定し、彼らにシンパシーを寄せることが自分の良心の証でもあるようなスタンスをとっていた。『ユンボギの日記』や『絞首刑』の大島渚がいるし、『書を捨てよ町に出よう』の寺山修司も、人力飛行機にのって対馬海峡を越えようとして墜落した朝鮮人の話とそのイメージをこの映画のライトモチーフにしている。それのみか、寺山は、女子高校生を強姦殺人した朝鮮人の高校生を擁護する発言すらしているのである。我が金井勝は、さすがにこの二人のような「行き過ぎた同情」に傾いたことはないが、『GOOD-BYE』のラストでは日本の侵略から祖国を守った韓国の英雄の銅像の下に立ち、朝鮮人の目から日本を見る。
 このような過去の大物映画監督のシンパシーに対して、崔監督はまるでアカンベーでもするかのように、金儲けしか頭にない、ゴキブリのようにたくましいチンピラまがいの在日たちをアッケラカンと描いているのである。この容赦ないリアルな視点は、崔監督自身が在日であることに裏付けられている。「加害者コンプレックス」に罹っている日本人監督ではとても描けない人物像である。
 このように、在日のイメージを一変させたことはこの映画の値打ちだが、表現として純粋にこの映画を見たときには、平均点以上のものはない。
 この映画は、ほとんどリアリティがない。主役がフィリピーナをナンパするところでも、ほとんどレイプなのに、女は男に腕を廻して簡単に寝てしまい、男と同棲を始める。滑稽なほどに汚らしいベッドシーンもあり、一体監督はこのシーンを何のために挿入したのか分からない。男性観客へのサービスだろうか?それにしては肉感性のほとんどない、大げさなセックスシーンである。
 そうだ、滑稽なほどに、と今言ったが、おそらく崔監督はこの映画を「コメディタッチ」として描きたかったのだろう。在日の世界という暗いモチーフを、わざと喜劇調に描くことを彼は発見し、その発見に自分で酔ったにちがいない。しかし、その喜劇調が、全ての演出からリアリティをなくしてしまった。早い話、この映画は漫画のように人物描写が軽いのである。いや、漫画にももっと優れたものがある。要するに、崔監督はメリハリをつけ、描ききるところは描ききり、流すところは流す技量がないのだ。
 表現スタイルとしても目立つのは移動撮影が必要以上に多いことぐらいで、特別に個性はない。
ラストシーンは、一旦別れたフィリピーナを主役の男が連れ戻して二人でドライブする場面だが、ここでも崔監督は「憂歌団」の音楽を使って、もっとも安易な終わらせ方をしている。なんだかスッキリしない、巧く決めることの出来なかった作品のラストに挿入歌を入れてごまかす、というのは学生映画でもやらない臭い技術といっていい。
 なお、「月はどっちに出ている」というタイトルは、タクシーの運転手の一人がしょっちゅう迷子になって、自分の車がどこにいるのか会社に電話をかけてくるのに対して、係りの者が「月はどっちに出てますか?月の方向に進んで下さい」と答えることに由来している。なんだか訳ありげなタイトルだが、別に特別な意味はない。
 私は恐らく崔監督の作品を他に見ていないので、この作品だけで彼の才能を断定することは出来ないが、この作品を見る限りでは才気のかけらも感じない凡庸な監督であって、これから追いかけようとは思わない。私はこの映画を見ている途中で退屈になってタバコばかり吹かしていた。読者にはお奨めできない作品である。

『血と骨』(崔洋一 2004年)

2012年09月27日 | 書評、映像批評
これで過去に書いた映画批評の拾いなおし作業は多分終わります。今後はまた自由に書きたいと思っています。


『血と骨』(崔洋一 2004年)


{あらすじ}


1920年代、日本で一旗揚げようと、済州島から多くの出稼ぎ労働者が大阪へとやって来た時代。そこでは朝鮮人集落が形成されており、人々が助け合いながら生活していたが、その中で一際特異な存在で、極道にさえ恐れられている一人の男がいた。並外れて強靭な肉体を持ち、凶暴な感情の持ち主である金俊平(ビートたけし)である。
 大阪の蒲鉾工場で働く彼は、ある時、幼い娘を抱えて飲み屋を営み、必死で生きている李英姫(鈴木京香)と出会う。ひと目で気にいった俊平は、力ずくで英姫を自分のものとし、強引に結婚。やがて二人の間には花子と正雄が生まれる。しかし、愛情に満ちた暮らしは望むべくもなく、大酒を飲んでは牙をむき、家財道具を破壊して外へ放り出して荒れ狂う俊平に、家族は怯えて暮らす毎日だった。

 時は流れ、英姫の連れ子である春美(唯野未歩子)は、俊平の弟分の高信義(松重豊)と結婚。俊平は蒲鉾工場を立ち上げ、信義、元山(北村一輝)らを従えて事業を動かし、巨万の富を得ていた。そんな折、「俊平の息子」と名乗る、朴武(オダギリジョー)が突然現れる。済州島で俊平が15才の時に人妻を寝取った際に生まれた実の息子だった。
 武は俊平の家に転がり込むと女まで呼び寄せ、好き勝手に振舞うようになる。複雑な思いを抱く英姫とは対照的に、恐ろしい父親にびくともしない武に羨望の眼差しを向ける正雄。しばらくして武は、俊平から金をもらって出て行こうとするが、家族にはビタ一文使う気のない俊平と大乱闘になる。それから1年、長屋は新しいスキャンダルで持ちきりだった。すっかり成り上がった俊平が、家族の住むすぐ目の前に新しく家を買い、清子(中村優子)という若い女を囲い暮らし始めたのだ。
 白昼から戸を締め切り、行為にふける二人に嫌悪と嫉妬を覚える英姫。しかしそれは反面、再び家族に平穏をもたらすことでもあった。強烈な金銭への執着をみせる俊平は、儲けた金で高利貸しへと転じていく。

 一方、19才になった花子(田畑智子)は、工場で働く張賛明(柏原収史)にほのかな恋心を抱いていたが、非合法組織「祖国防衛隊」の活動に身を投じていた賛明は逮捕されてしまう。賛明を思いつつ、別の男との結婚を決める花子。しかし夫との生活も幸せとは言いがたく、花子は次第に心を閉ざしていく。ある日、清子が脳腫瘍で倒れたことにより、俊平のやり場のない憤怒は再び家族へと向けられるようになった。更に清子の介護を名目に新しい愛人、定子(濱田マリ)を迎え入れる俊平。その一方で長年の無理がたたり、英姫はついに倒れてしまう。妻の治療費も出さない父親に対する怒りと反発から、正雄(新井浩文)は初めて俊平に立ち向かう。ただ恐怖に怯えるだけだったかつての正雄の姿はそこになかった。
 生涯「おまえはわしの骨(クワン)だ」と叫び続け、息子を欲した俊平だったが、破滅は老いて病んだ肉体の凋落とともに、やってきた。運命は過酷な終末を用意していた...。

(ここまでhttp://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=4849より引用)

脳腫瘍の清子を俊平は濡らした新聞紙で口をふさぎ殺してしまう。
花子は自殺する。その葬儀に暴れこんだ俊平はその場で半身マヒになる。愛人定子に金を握られた俊平は、それでも金貸しを続けるが、年老いて、全ての財産を北朝鮮に寄付し、自分も定子の息子をつれて北朝鮮に帰還し、寂しい死を迎える。


{批評}

話題になった作品なので期待して見たが、大駄作である。
 まず決定的なのは、一度見ただけでは俊平をとりまく人間関係がさっぱり分からないことである。この映画はもともと7時間以上あったもの2時間半に短縮したらしい。このため、人間関係の描写を省略することになり、朝鮮人社会の関係(親子なのか、親戚なのか、子分なのか、など)がさっぱり分からないまま最後まで続くのだ。
 私は「月はどっちに出ている」を批評したときに、崔洋一監督を才能のない監督だと言ったが、この映画を見てその確信をさらに強く持った。
 まず映像美がない。
それから、展開にメリハリがない。暴力とセックスと金の亡者になった鬼のような朝鮮人を描いているのだが、最初から最後まで、怒鳴りっぱなし、殴りっぱなし、セックスし放題で、次第に飽きてきてインパクトが無くなってしまっている。
 ちょっとでも演劇をかじったものになら分かることだが、怒鳴りっぱなしの芝居は、笑う芝居より10倍も20倍も簡単なのだ。ビート武はほとんど演技をしていない、と言ってもいい。
 それから、セックスシーンが5回ある。そのうち一回は女のあえぎ声だけが聞こえ、そのあえぎ声を聞きながら家族が食事するという仕掛けになっている。俊平は、怪しげな精力剤をいつも飲み、女とセックスするのが生きがいなのだが、崔監督は、一体どのような観客を想定してこの映画を撮ったのだろう。
 むろん、家族連れではこの映画は見れない。女性向けでもない。男性の大人の観客のみに対象を絞って描く、という、ピンク映画並みの企画がよく通ったものだと思う。

ちなみに「血と骨」は原作小説があり、これも在日の小説家が書いている。だから、一般の日本人がこの映画を見たら大げさに感じるかもしれないが、そういう在日朝鮮人の実態を私はたまたま知っていたので、「血と骨」を見ても私は驚かないし、崔監督が執拗に在日の悪の部分をクローズアップするのも、特に「露悪趣味」だとは思わない。ただのリアリズムである。
 
しかし、同じ同胞として、崔監督はどのような視点にたって在日の悪を描いているのか、その心理が分からない。自虐史観に染まった線の細い日本人監督には描けない在日朝鮮人の真の姿を骨太のリアリズムで描く「語り部」に徹しよう、ということなら分かる。しかし、その在日が余りに野蛮で非文明的な存在なので、「朝鮮人というのはこのような蛮族なんだぞ」と逆に居直って威張っているようにすら見える。
「月はどっちに出ている」は金にしか関心のないゴキブリのような在日朝鮮人をコミカルに描いていた。「血と骨」では、暴力と金とセックスにしか関心の無い悪魔のような在日朝鮮人をシリアスに描いている。

人間の欲望を直視する監督としては、今村昌平がいるが、今村と崔とでは月とスッポンで技量に差がありすぎる。矯正不可能な人間の悪を描いた作品としてブレッソンの「ラルジャン」があるが、これは神の存在を問いかける映画であり、欲望の肯定とは逆の立場にある。
 醜い朝鮮人を描くという、崔監督の目的がどこにあるのか、私は最後まで理解できなかった。

まあ、いずれにしても、崔監督が映画監督として3流であることはこの作品ではっきりしたので、今後この監督の作品を見ることはないだろう。
 

ロベール・ブレッソン『田舎司祭の日記』(1950) 映画批評

2012年09月26日 | 書評、映像批評
このところ散逸した映画批評を復元しています。これもその一環です。映画ファンなら必見の作品、お奨めします。


ロベール・ブレッソン『田舎司祭の日記』(1950)

{あらすじ}

田舎の町に赴任してきた司祭が、「奇跡も何もない日常を日記につけていくことにする」と決意して、日常を記録していく。彼は胃が悪くパンをぶどう酒につけて食べるだけの食事を続けている。町の人たちは閉鎖的でなかなか心を開かない。
 町の名士である伯爵家では、伯爵と家庭教師の女性が不倫関係にある。それを知った娘が司祭に相談を持ちかける。司祭は伯爵の妻の悩みを聞きだす。妻は神を憎む心境だったが、司祭と話しているうちに心が開かれ、安らぎを得る。司祭の家に伯爵の妻から感謝の手紙が送られるが、その夜彼女はベッドから落ちて死亡する。
 彼女の死は、司祭が余計なことを妻に告げたために起こったのではないかと誤解を受ける。また、彼の食生活から、司祭はアルコール中毒患者だと村人の間に噂が広まる。
 司祭は悩みぬく。祈る勇気も生まれてこなくなる。遂に彼は道端で倒れ大量の吐血をする。
彼は電車に乗って都会の医院で診察を受ける。胃がんと告げられる。
 その帰り、元の司祭仲間で現在は女と暮らしている友人の家に行き、そこで再び倒れる。
画面に十字架が映る。司祭の上司のナレーションで彼が死んだことが語られる。最後彼は「全て神の思し召しです」と語って死んだことがわかる。

{批評}

どんなにつまらなくても一度は見なければならない映画というものがある。この作品もそうだ。私はブレッソンのファンだったが、この作品はどうにも気が進まず、長い間見ないで来た。
 まず、技術的なことから。一つのエピソードの前に日記が写され、その内容を司祭の声で読み上げる。そしてエピソードが終わると必ずフェイドアウトで画面が切り替わる。時間の省略はディゾルヴ。このルールがパラノイア的に守れていて、非常に折り目正しい、スタイリッシュな作品となっている。画面のつなぎは古典的な透明の編集。映像を異化するような実験的な編集は一度も現れない。

日記を見せて、なおかつ読むことで、次に展開する物語の大意が分かる。それに沿って映像が現れる。これは、徹底的にサスペンス性を排除した映画作りである。従って、ブレッソンの映画には、象徴性や、意味の連想(コノテーション)の要素がほとんどない。誤解の余地の全くない、中性的で清潔で、潔癖症の画面である。

この作品には、「ブローニュの森の貴婦人たち」や「スリ」や「抵抗」のようなカタルシスはない。これらの3作品は神の恩寵がハッピーエンドの形で現れる。この作品は「バルタザールどこへいく」「少女ムシェット」「ラルジャン」など、救済のない世界を描いた一連の作品の中で、もっとも地味で重苦しい作品である。おそらく、現代におけるキリストの苦悩を再現させたものだろう。

ブレッソンはジャンセニズムといわれるキリスト教の異端の信徒だった。運命予定説と自殺の肯定が特色だったと記憶している。ブレッソンによれば、人生は半分が予定通り、半分は偶然に進行するような感覚を持っている、と述べている。

この田舎司祭は敬虔な真面目すぎる男でありながら、映画の中では全くといっていいほど喜びなく、癌で死亡する。一度だけの喜びは、伯爵夫人の手紙で、「あなたのおかげで安らぎの気持ちになれた、あなたは私の子供です」と感謝の言葉を読んだときぐらいのものだ。
 キリストの人生も、マグダラのマリアが高価なオイルで体を洗ってくれたとき以外は、苦悩に覆われるものばかりで、最後には処刑される。「主よ、主よ、私をお見捨てになるのですか」との言葉を最後にキリストは息絶える。しかしキリスト教では、この死は人類の罪を背負っての身代わりの死であるとされる。田舎司祭の死もまたそのように解釈すべきなのだろう。最後のカットの十字架の固定長廻しがそれを意味している。

それにしても陰鬱な世界である。私は最近禅宗の高僧の本を読んでいるが、彼によれば、十字架の上で磔にあって死んだイエスは「気配りが足りない」の一言で切り捨てられていた。大悟に達すれば、そんな無残な死に方はしない。悠々自適と寿命を全うし、来世にどこに生まれるかまで悟って遷化する。この仏教の悟りの世界の歓喜や勇猛心と比較すると、キリスト教の運命への服従と忍耐は、重すぎる。が、現実にはこの田舎司祭の一生のような悲劇的連鎖で終わる場合も多く、ハッピーエンドの人生のほうが少ないかもしれない。

おそらく「田舎司祭の日記」の台詞のあちこちには非常に大切な教義の問題が隠れている。だから、この映画の本当の解説は、キリスト教の司祭が行うべきであろう。

なお、この作品には原作(ジョルジュ・ベルナノス)がある。また、こういう作品に最も向いている批評書としてポール・シュレイダーの「聖なる映画」がある。この本は私が繰り返し読んだ値打ちのある批評書だ。神の実在を証明するための映画、という特殊な映画を批評する特殊な方法論に基づいた本で、ぜひ一読をお奨めする。
 ちなみにこの作品はカトリック教会そのほか宗教団代から複数の賞を受けており、ブレッソン映画の完成作としてヨーロッパでは高い評価が与えられている。また、面白いことに研究者用の辞典を見ても、ブレッソンは、「天才」「奇人」「パラノイア」などの言葉で評されている。全く例外的な映画監督と言っていいだろう。

『DOOLS』(北野武、2002) 映画批評

2012年09月25日 | 書評、映像批評
これも昔書いた映画批評です。
 なお、私は北野武の「brother」と「座頭市」は割合好きです。ただ、突拍子もない比較ですが、同時代に武士道三部作を作った山田洋次監督と比べるとまだまだ道楽芸ですね。私は「寅さんシリーズ」を含めて山田監督を高く評価しています。

{あらすじ}

この映画は形を異にする3組の男女の愛(狂恋)を描いている。
一組目は、結婚の約束をしながら、社長令嬢からのプロポーズを受けて出世のために、元のフィアンセを裏切った男の話である。元のフィアンセは自殺未遂をしてしまう。そして気が狂ったままになる。男は、結婚式の当日に式への出席を拒否して、元のフィアンセの入院している病院へ行き、女を連れ出して、車で転々とする。やがて車も捨てて、男女は赤いヒモで結び合って、美しい風景の中を歩き続ける。
 二組目は、ヤクザの組長が若い頃に愛を誓い合った女性との話である。工員のころに、恋人が毎土曜日にお弁当を作って公園のベンチにやってくる。男は、出世をするために遠くの町に行くという。女は、土曜日には必ずお弁当を持ってこのベンチで待っている、と約束する。それから数十年、ヤクザの組長になった男がその公園に行ってみると、弁当を持った老女がいる。昔の恋人だと気づかずにその女性は組長に弁当を渡す。
 三組目は、売れっ子アイドルとその追っかけの物語。アイドルが自動車事故で顔に傷を負ったために芸能界を引退する。彼女の熱狂的な追っかけは、自分の目をカッターナイフで切ることで盲目となり、アイドルの顔が見えない状態を作り出す。
 これら3つの話が、オムニバス風に順次に展開され、第一話が縦糸となって、2つの話を横断する。そして、最後、赤いヒモで結ばれあった二人は雪の中を進み、崖から転落して木の枝に引っかかる。この「心中」と「道行」の最後の場面は、文楽の上演の場面と交互にカットバックされる。


{批評}

この映画は、さほど高い評価を得られていないが、私が見た北野映画の中では、もっとも上質な部類に入る。
ざっと概観すると、この作品は「狂恋もの」という日本映画に伝統的なテーマと、「道行」という歌舞伎・文楽に伝統的な演出、という2つの日本的な美意識を基に作られた、実に日本的な映画である。
 狂恋もの、というのは、この映画の3つの物語のように、人を恋するあまりに狂気に陥った人間を描くもので、自殺未遂して精神を病んだ女、弁当を持って土曜の公園で待ちながら老婆になっていった女、アイドルを思うあまりに両目を切断するファンの男・・・・・これら3者が、恋の究極の姿を示している。
 道行、というのは、第一話の二人が、赤いヒモでつながりあいながら、ドンドンと風景の中を闊歩していく場面である。そこには約束事のように、桜やモミジが際立って美しく背景をなしている。これから死に向かうものを祝福するかのように、花や紅葉が爆発し、男女の悲劇的運命に対して無関心に美しさを際立たせている。
 私が見たこれまでの北野映画は、彼の劣等感の裏返しが気になって仕方なかった。北野は気の弱い人間だからこそ強いヤクザの役をやりたがり、間を持たせる技術がないから、妙に間延びした、間の腐った時間を作り出していたし(ゲイの映画人はこういうのを好む傾向がある)、演技が下手だからこそ、台詞は棒読みで、演技しない演技に頼るしかなかった。それが芸能人特権というのか、逆に美学と受け取られている。贔屓の引き倒しになると、欠点までも長所に見えてくるから世の中は面白いものだと思う。

このように、これまでに私が見た北野映画は、「北野ファンにとっては素晴らしくても、第三者にとってはただの駄作」としかいいようのないものだった。淀川長治さんが北野を天才といっても、それは映画の質が全体的に低下している時代、ヨドチョウさんの戦略的なエールだと見ていたし、黒澤明が北野に「これからの日本映画をよろしく」といったとしても、あの所ジョージをいい役者だという黒澤の人気芸能人に対するお世辞だとしか思えなかった。私は、北野映画を「芸術映画を意識して作られたB級娯楽映画」だと思っていた。

しかし、この「DOOLS」はなかなかいい。北野は恋の究極の姿に祝福を与えたかったのだろう。狂恋の人物たちを美しい風景の中において歩かせる、ただそれだけをしたかったのだ。大金をかけてただそれだけをする、というところが洒落ている。
 駄作を作る割りに評価の高いB級監督だった北野は、「ときにはいいものを撮るマアマアの監督」と思えるようになった。ベネチアでグランプリを獲った「HANA-BI」などよりはずっと高度な映画である。(ところでキタノブルーなどという迷信を流したのは一体誰でしょう。小津安二郎の「浮草」1959年の色使いと比較して欲しいですね)。

『A』(森達也、1998) 映画批評

2012年09月24日 | 書評、映像批評
以下、昔書いた批評なので文章が硬いですが。

オウム真理教がサリン事件を起こした後に、オウム真理教広報部長の荒木氏を中心にして、オウムの側の視点から取られた問題作。
 この作品の優れている点。
一般概念として「悪」と思われてきたオウムの内側に入ることで、むしろマスコミや一般庶民が悪であり、オウムの信者に立派な人間が多い、という逆説を映像で見せた点である。
 ある信者が出家した動機は、恋愛して結婚しようとしたが、愛すれば愛するほど死による別れは悲しくなる。だから生死を超越した世界に解脱を求めた、という。また、大学に入学して3日目に退学したのは、周りの大学生を見て、こいつらが社会を牛耳るのだから社会が腐敗するのは当然だ。自分は出家者となってその腐敗をくい止めよう、と決心したのだという。これらの発言を見ていると、オウムの信者の多くは、一般人よりも心がけのピュアな、心のステージの高い人々から構成されていることが分かる。
 それに対して、取材攻勢で阿修羅のようにうろつきまわるマスコミ関係者のゴロツキぶりや、オウム信者をエイリアンのように忌み嫌う「善良なる市民」の無知蒙昧ぶりが写される。
 このように、オウムの内部に入り込み、オウムの視点から社会を逆照射することで、思わぬ真実が現れてくる。

この作品のピークは、あるオウム信者に付きまとい、その信者が逃げようとすると、後ろから追いかけて突き倒しながら、まるで自分が被害を受けたかのような演技をして、信者を「公務執行妨害」で逮捕する警察官のあざとい行動を一部始終捉えている部分だろう。
 この信者は逮捕されるが、オウム側弁護士がその様子をとったフィルムがあることを警察に突きつけると、不起訴になって出てくる。
 警察は、なんでもやるところだとは知っていたが、この場面を見ると、なるほど、逮捕しようと思った相手にはこんなことまでして無理やり逮捕するのだな、と分かる。

もう一つの見せ場は、荒木広報部長を一橋大学のゼミの学生が応援する場面だろう。女子大生たちは、興味深く彼に、「性欲はどうやって処理するのか」と聞く。荒木氏は、性欲の強い人にはそれを消す修行法があるが、自分には必要ない、と答える。このあたり、女子大生の関心のありかが明瞭に分かっておかしかった。
 別の場面で荒木氏は、キスもしたことのない童貞であることを打ち明ける。この場面も、なかなか感動的だった。同年代の若者たちが愛欲のルツボの中で青春をバカ騒ぎしているときに、解脱を求めて出家する人間の尊さが浮きだって見えてくる。
 このゼミの学生たちは、オウムの破防法適用反対を主張してハンストを行う。

この作品の劣っている点。
撮影が素人並みである。完全な素材主義で、映像に美学が全くない。
音楽の使い方では、上記した公務執行妨害の場面に「グッナイベイビー」をかぶせて「対位法」的使い方をしているのに感心したが、ラストシーンでは、荒木広報部長が祖母の家を訪ねる場面で、センチメンタルなロックを流して台無しになっていた。作品の中で音楽が使われるのはこの2回だけである。一度目はうまく、二度目は下手である。要するにこの監督は、映画作家としての美学を持っていない、ということである。
 最大の欠点は、オウムが坂本弁護士一家を殺し、地下鉄サリン事件を起こした、という事実を「当然の前提」として省略しており、どこにもその説明がない。
 だから、この作品は外国上映や、年代が立って人々がこの事件を知らない時代に上映されたときには、全く意味の分からない作品になってしまうことだ。
 このあたり、作品を構想する段階で配慮すべきところだが、それがなされていない。致命的な欠点である。

結構話題になり、あちこちで上映会が開かれた作品なので見た人も多いかと思う。私としてはマアマア面白い作品だった。
 個人的に気になったのは、結跏趺坐の組み方。座禅の組み方と逆になっている信者のほうが圧倒的に多かった。右足を左の太ももの上に乗せるのが本当の足の組み方である。私も座禅修行をして悟りを目指しているので、このあたりが気になった。
 それから、彼らの修行に対する心構えの誤りが気になる。悟り=解脱の途中で現れる神通力(超能力)に異常に興味を示し、教祖=グル=麻原に対する個人崇拝が異常であることである。

禅では神通力を「魔境」とか「外道禅」と片付けて重視しない。その力を得ても救済の絶対的な力になりえないと、軽視する。また個人崇拝も許されない。仏と言えば全ての人間が仏なのである。特定の個人を絶対視することは仏教では禁止されており、それを「依法不依人(法に依って人に依らざれ)」という。様々なカルト宗教がそうだが、人間はどうしても個人信仰に陥る。人を偶像化する、というのは人間の業といっていい。宗教は基本的にその思想体系を信じるのであり、師弟の関係はあっても、人本尊に偏るのは邪道である。詳しくは「三身」((法身・報身・応身)説を調べて下さい。この辺りの人間一般の持つ弱さを追求すると、この作品はもっと普遍的価値を持つことができただろう。

この作品は、悩める青年=荒木君を主人公とした青春ドキュメンタリー、の要素が後半になるに従って強くなる。
 話題作ではあるが、傑作とはいえない。原一男のドキュメンタリーなどとくらべると、素材に対する踏み込み方が足りなりので不満が残る・・・・・・・

山本玄峰ふたたび

2012年09月23日 | 
 今日は忙しかったので、私が禅僧の中で最も尊敬する山本玄峰師の言葉を引用しました。
師に関しては既にこのブログに書いていますが、読み直すと本当に勉強になります。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kuromakuron/genpo.htm より抜粋引用


「人間の心は意馬心猿といって、ちょっと油断をすると、心が馬や猿のように飛んで廻るから、何時も自分で自分の心を引き締めておらねばならぬ」。
 「一番業の深い、最悪の生物は人間じゃ」。
 「木は気を養うものだ」。
 「人とたばこの良し悪しは、煙になりて 後にこそ知れ」。
 「臨済の一喝、ある時は人を殺し、ある時は人を活かす」。
 「僧堂にはいろいろな人がくるが、まともな人間は余人に任せる。わしは世間から、あばれもの、やくざもののように見られている連中を世話する」。
 「法に親切、人に親接、ご自身に辛切」(松原泰道氏の評伝)。
 「隠徳を積め」。「人間は若いときに陰徳を積んでおかないと、歳を取ってから苦労するから、常に陰徳を積むことを考えよ」。
 「学問はいくらでもせい。しかし学問を鼻にかけちゃいかんせ、坊主で何より肝腎なのは、道心じゃ。これに学問があれば鬼に金棒さ」。
 「わしの部屋は乗り合い舟じゃ。村の婆さんも来れば、乞食も来る。大臣も来れば、共産党までやって来る。皆同じ乗合舟のお客様じゃ」。
 「棚からボタ餅の堕ちてくるのを待つように、天命は俟つものではない。天命には従うものだ」。
 「お前は、まだ解らぬのか!わしは、世のため、人のためにと念じて修行したことは一度も無い。みんな自分のためにやっているのや」(田中清玄に放った言葉)。
 「いや、あんたは座禅組まんでもええわ。あんたは、ええ新聞つくりなはれ。それが、あんたの座禅やで」(老師が進藤次郎氏へ述べた言葉)。
 「足の裏と肛門をきれいにしておくのが、健康の秘訣じゃ」。
【玄峰老師の名言その二、講話系
 「正法興るとき国栄え、正法廃るとき国滅ぶ。よろしく正法を守り仏法を興すべし」、「正法の行われる家は繁栄し、正法の栄える家は隆盛になる。ひたすら正法の久住に勤めよ」。
 「性根玉を磨くのが修行じゃ。人間の性根玉は元来、清浄であるけれども、永らくの宿業によって性根玉が曇っておる。それで元のきれいな性根玉に磨き出してゆかねばならぬのじゃ」。

 「性根玉が磨かれると、どうなるかといえば、自然に物事の道理が解ってくる。『天下の理に従う者は天下を保ち、天下の理を恣(ほしいまま)にする者は天下を失う』ということがあるが、物事の道理が解ってくるとろ、一切の物が語法神となって自分を守ってくれる。又何を行っても自然に成功し、成就するようになる。人生において一番大切なことは、この、なにゆえかは知らぬが、何事も自然に成就することである。そうなるには、性根玉を磨かねばならぬのじゃ」。

 「性根玉は磨くだけではいけない。性根玉を自覚し、悟らねばならない。本当に自分の性根玉が解ると、いつでも風呂から上がりたてのような、饅頭の蒸したてのような、ぽかぽかした楽しい気持ちがするものだ」。
 
 「時世には流れと勢いというものがある。これに逆らってみたところでどうにもならん。人が東に走る時には、共に東に走り、西に向かう時には、共に西に向かわねばならんが、泥棒と巡査のようなもので、同じ方向に走っていても、心掛けはそれぞれ違っていなければならん。それと同様に、同じことをしていても、心の置き場所が違わねばならぬ」。
 「人間は早く出世することを考えてはならん。若いときにはなるべく人の下で働き、人を助け、人の為に働かなければならん。40歳以前に人の長上に立ってはいけない。40歳以前に出世すると、60、70になって凋落してしまう。『年年に咲くや吉野の山桜 木を割りて見よ花のありかを』という歌があるが、これは人生には根肥(ねごえ、寒中の葉も草も無い時に木の根にやっておく肥料)が大切ということだ。花も葉も無い寒中に、木の根に肥料をやっておくように、人生には何よりも根肥えが大切なのじゃ。人間は40よりも50、50よりも60と、歳を取るに従って人に慕われ、人の役に立つ人間になり、むしろ喜んで人に惜しまれ、人を教えてゆくような人間にならなければならん。それが為には出世を急がず、徳と知恵と力を養っておくことじゃ」。
 「人間は手足を大切にせねばならぬ。炊事や風呂の世話をしてくれる人が旅館の手足じゃ。この人たちが一番大切な人じゃ。『車の功を云うときは輪は与らず』と云って、車で一番大切なものは輪であるのに、人は輪の有り難味を忘れがちである。輪を大切にすることを、よく考えねばならぬ」。

微笑禅の会ネット会報8・9月合併号

2012年09月22日 | 微笑禅の会ネット会報
私は「微笑禅の会」を主催していて、基本的には毎月HP(左下のブックマークから入って「微笑禅の会」をクリックして下さい)でネット会報を出しています。このところ激務続きで2ヶ月に一度になっていますが、宗教や禅に興味のある方はぜひご覧下さい。

微笑禅の会の特徴を箇条書きします。
①勧誘しない。
②神仏などいない、という前提で自分が行動する。
③歩行禅、寝禅などなど、日常の中で禅を実行する。
④宗教ではない。
などなど。

それで、割と最近「慧可」の思想について、このブログに移行する前に使っていた掲示板に書きました。仏教の基本は、良いことをすれば良い結果が出る、悪い事をすれば悪い結果が現れる、所謂「善因善果」「悪因悪果」です。が、慧可はこれを否定しました。こういう思想にはまだ「我執」「分別」が残っている。良いことをしてもご褒美を期待せず、悪い事をしてもクヨクヨ悩む必要はない、という危険思想です。善悪という区別を否定しているわけですね。

が、これは但し書きが必要で、慧可ぐらいの心境になったうえで、凡夫即仏の徹底的な性善説の上に立てば、こういうことが言えなくはありません。一歩間違えば「野狐禅」になります。つまり、因果律の否定です。危険ですがこれはリアルな見方でもあります。

十牛図の9番目は、我執が綺麗に消えて柳は緑、花は紅、といった一切偏見のない世界が現れます。ピカピカに磨いた鏡のように曇一つなく現実が見える境地です。すると、どうでしょう。今1千万あれば死ななくて済む、という時にお祈りをしたらポンと神仏が1千万を渡してくれるでしょうか。あるいは手術すら不可能な不具者の子供が生まれたとする。神仏にお祈りして治るでしょうか。当然無理ですね。
 ポップな喩えをわざとしましたが、相手が話す前に言おうとしている内容が分かるとか、一つの兆候で全体が分かる、など怖い能力です。俗世間で汚れた心の塵が全て払い落とされて、生まれたばかりの赤ちゃんのような水晶の目に戻る、と言えばいいでしょうか。別の言い方をすれば「王様は裸」と見抜く目ですね。   

普通の宗教者なら、それ自体は不可能でも、その代わりに仕事が舞い込むとか、一家が幸福になるとか、別の形で因果律は成り立っている、というでしょう。それはそうかもしれません。仮に万法(宇宙の全存在)に「善因善果」「悪因悪果」という法則が満ち溢れていれば、の話ですが。

とすれば、この難問を解くためには謂わば多元宇宙論を想定し、自分の意思で決めるしかないでしょう。「善因善果」「悪因悪果」を信じ続ける。あるいはそんなものはないと諦観する。などなど。

慧可の思想はリアルだが非常に危険で、文字通りに受け取ると生きている意味すら見出せなくなります。これには様々な要因があり、個人だけの問題ではなく「悪い事をしたらお天道様が見ているよ」というモラルがある社会と「ばれなきゃ悪い事をしたほうが利口だ」という社会とでは、言葉の意味が違ってくるでしょう。

疲れた頭ながら少しずつ考えていくと、善悪、因果律、自力と他力、などが全て定義不可能な要素があり、大きな悩みと疑いの塊になって身動きが取れなくなります。
 日本はついこの前まで神仏儒の教えの中で大多数の人が「悪い事をしたらお天道様が見ているよ」という倫理観を持っていました。これが崩壊してしまった現在、我々に出来ることは何なのか。私は、例えご褒美がなくても、自分で出来る範囲の陰徳を積む道を選んでいます。が、これは敢えて茨の道を選ぶことになるので人に勧めることは出来ません。今ある幸せを壊さずに静かに生きる、というのも菩薩行でしょう。

寺山修司は「この世に解けない謎はないのか」と言いましたが、謎は解けても人間は白髪一本黒くすることも出来ません。が、生きているうちに日本が蘇る姿を見たいものですね。





自殺率の上昇を考えてみた

2012年09月21日 | 世直しのためにどうすべきか
小学校の苛めは過去最多
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120911/edc12091122110002-n1.htm
自殺者統計                              http://www.lifelink.or.jp/hp/statistics.html
81代 村山富市 1994/06/30~1996/01/11 561日 日本社会党、その他連立
82代 橋本龍太郎(1) 1996/01/11~1996/11/07 302日 自由民主党、その他連立
83代 橋本龍太郎(2) 1996/11/07~1998/07/30 631日 自由民主党、その他連立
__________________________________________________________________
先進国の中で日本は異常に自殺が多い。特に1997年以降は急激に増えて年間3万人を突破するようになった。
 それで原因を調べてみた。人間は直ぐに自殺するものではない。数年はアレコレもがいて手段が無くなり、死んだほうがマシになり実行するのだから、失恋自殺のようにはいかない。そこで過去数年を見ると、結局バブル崩壊後の失政によるものだと分かってきた。

言うまでも無くバブルの主役は銀行です。そのツケが回って潰れそうな銀行や証券会社等々に莫大な予算をつぎ込んだ。これは預金者を守る意味では仕方なかったかもしれない。(それにしても「貸しましょう、貸しましょう」から血税導入で立ち直った瞬間「貸し渋り」になったのだからモラルハザードもいい加減にせよ、と言いたいですね)
 が1997年4月1日、村山内閣で内定していた消費税等の税率引き上げと地方消費税の導入(計5%)を橋本内閣が実施。その翌年から日本はデフレ不況に突入した。さらに健康保険の自己負担率引き上げ、 所得税収、法人税収はそれぞれ1998年度、1999年度と減少し続け高所得者の負担が軽減。法人税は税率が引き下げられたので税収減となった。

凄く簡単なまとめですがざっとこんな感じでしょう。
昔、ビデオを見て批評や資料を提出する原稿依頼があり、引き受けて原稿料と諸必要経費を請求したら「赤字だったので出せません」と言って逃げた出版社がありましたが(バブルの頃でした)、必要経費を抜きにして儲かったら払う、が通るならサルでも出来る経営ですね。同様、予算が足りないので税を上げるというのは最も無能な政策です。しかも高所得者には減税ですから、一体何を考えているのやら。自民党はこれで信用を失い、さらに小泉内閣で疲弊した地方にさらに追い討ちをかけて廃墟にし、地方の反乱が起こったわけです(橋本も小泉も何故か慶応大学)。それで民主党に任せたらもっと酷かった。

ところで現在、この政策をまた繰返そうとしています。消費税増税、TPP賛成。今度の選挙の台風の目=日本維新党ですか、橋下大阪市長には何か隠し玉があるのかと思ったら、何もありませんでした。
 子供のイジメが陰湿になり自殺が過去最高になっているのも、こういう逆に舵を取る経済政策とモラルハザードのせいでしょう。父親が働きたくても雇用がない。離婚が増える(今、3組に1組だそうです)。子供は心を病む。父親は自殺する(50代から60代の男性の自殺が一番多く、女性はなぜか自殺率がグンと低いです)。どこかでこういう負の連鎖を断ち切らないと、と思う毎日です。



大アジア主義2

2012年09月20日 | 世直しのためにどうすべきか
以下、有名な大アジア主義に関わる結社や人物です。(個人的なことですがブログを書く頃はいつもフラフラなので、文章を推敲する暇がありません。乱文失礼します)

興亜会 東邦協会 善隣協会 岡倉天心 植木枝盛 犬養毅 玄洋社(頭山満が主宰。福岡県を拠点にし、中国の孫文や、朝鮮の金玉均を援助した。日露戦争時には、馬賊を編成し、ロシア軍の後方を撹乱した。在野の立場を貫き、日本政府の「大東亜共栄圏」構想に与しなかったため、のち迫害される立場になった。広田弘毅は正規のメンバーだったといわれる)
黒龍会 中国同盟会(宮崎滔天や梅屋庄吉、北一輝らが参加。東遊運動を開始し、辛亥革命に協力した)
___________________wikipediaより抜粋編集

当時の日本はアジアでは特殊に文明が発達していたという条件があります。特殊といえば世界最古の土器=縄文式土器の発見から数えていくと、日本はいい意味で異常な能力を持っていますが、それは後に回します。要するに圧制に苦しんでいるアジアの愛国者を支援し、上下関係のない「一つのアジア」を目標とした、と大雑把に説明しておきます。

今でも国民総生産が世界2位の中国に対して3位の日本がODAを出しているようですが、これは邪悪な取引きと無能な外交のせいですから論外です。大アジア主義というのは任侠道(弱きを助け強き挫く)や武士道を信念とした国士達の運動と考えると分かりやすいでしょう。それだけの経済力と精神的風土(エトス)が残っていた。この条件の上での一種の菩薩行みたいなものだと私は理解しています。司馬遼太郎は宮崎滔天を絶賛していますね。

今現在、日本には当時の経済力とエトスはありません。まして中国の反日暴動(中国政府への不満が日本に向けられたという意見もありますが)、韓国の竹島、対馬実質支配などの中でロマンティックな大アジア主義的発想が生まれる可能性があるか、と言えばあり得ないでしょう。ブログランキングhttp://blog.with2.net/rank1510-0.htmlのベスト50を見ても、ほとんどが保守、愛国ばかりですね。つまり特定アジアに対しては敵視、あるいは攘夷の意見です。これは状況を見れば当たり前の流れでしょう。

ところで視点を変えると、保守陣営(私は保守という言葉にネガティブイメージがあるので革新愛国と言っていますが)は、反米と親米に分かれます。親米でも戦略的親米もあります。私個人は「アメリカが都市大空襲と原爆投下を公式に謝罪限り」反米です。明らかな国際法違反ですから。で、反米を真っ直ぐ進むと核武装による軍事大国への道が待っている可能性があります(日本は既に核を持っているという説もあります)。憲法9条はとっくに破綻しているのだから改正して堂々と軍隊と武力を認め、軍需産業で経済の危機を乗り切しかないと思ったこともあります。あくまでも専守防衛のハイテク兵器の開発ですが。反米ならアジア主義と結びつきそうですがそれどころではない情勢です。

時間が来ました。いずれまた続けます。ともかく現代の日本に必要なのは、内需拡大、教育改革、食料自給率の上昇などなどやるべきことは山ほどあるのに、消費税増税、TPP賛成など亡国の政策ばかりに舵を取っています。あまりに不思議なので、もしかしたら意識的に国を潰そうと思っているんじゃないかと思います。橋下大阪市長はなにか隠し玉があるのでは、と期待していましたが何もないようです。逆に嫌な噂が入ってきました。では。




大アジア主義について

2012年09月19日 | 世直しのためにどうすべきか
wikiより

欧米列強の脅威の排除とアジアとの連帯を目指した主張で、明治中期までの日本ではもっぱら興亜会に代表される「興亜論」(こうあろん)の名称で呼ばれた。その内容は開国文明化、協同、合邦、新秩序構築など、論者の思想、立場によって異なり一義的な定義はない。また国際情勢の変化に伴って主張内容が変化する。
当初は日本と中国(支那)・朝鮮との対等提携指向を指すものであったが、江華島事件や壬午事変、甲申政変を経て起こった日清戦争で、元来のアジア主義の理念は一旦崩壊し、政府や国内の新聞も清や朝鮮への侵略を正当化する対外強硬論が主流となり、日清戦争以後の亜細亜主義の定義は、元来のアジアとの平和協調路線とは完全に正反対のものになった。
日露戦争以降のアジア主義の定義は、東アジアにおける日本の優位を前提にアジアの革命勢力を支援する思想に発展し、やがて日本を盟主としたアジアの新秩序構築(アジア・モンロー主義あるいは大アジア主義)、そして昭和研究会による「東亜協同体論」としての政策化、「大東亜共栄圏」構想へとつながっていく。1945年の日本の敗戦によって、近代アジア主義は終焉したとされる。
___________________________

余りにも大きな問題を取り上げたので飛び飛びの連載になるかもしれません。
この記事はかなり左翼的立場から思い切り簡略化して書いてあります。重要なことは明治の一時期の右翼は、自由民権運動と平行して左翼やアナキストとまで連帯し、朝鮮と中国を同胞と考え、弾圧されている反体制運動に協力し、欧米のアジア差別にたいして「同胞としてアジアを救う」という非常にロマンティック、というか人情味溢れるを展開してという点です。頭山満のような大物は誰でも知っていますが、日本における映画興行の父・梅屋庄吉も莫大な資金を孫文に与えています。

ところがこれが左翼的な視点から見れば、後年は「アジア侵略」「大東亜共栄圏」へと変貌した、となり、愛国者の視点から言えば「自国さえ守れない他国のために日本人が血を流して防衛し、アジア諸国を独立させたうえに文明国に導いた」となります。

人情味溢れるロマンティックな大アジア主義に反論する人はまずいないでしょう。

問題は、今現在、竹島や尖閣諸島などの問題を巡って戦争状態ともいえる特定アジアに対してどうスタンスを取るべきかという点です。

日本がODNやIMF、また技術提供により、中国、韓国にどれほど貢献しても、相変わらず歴史の教科書には捏造された反日思想が満載されています。当然頭にきます。が、一方日本に憧れ日本文化を学んでいる人たちも大勢いるのも事実です。だから、一くくりにして中韓を憎むのはレイシズムになってしまうし、かと言って村山談話、河野談話のような根拠無しの土下座外交、被虐史観に傾くのは亡国の思想です。

これを書いている間に2回電話があり、別の件で動かねばなりません。妙案のある人はコメントして下さい。

どうでもいい話

2012年09月19日 | 雑談
今、9月18日の午後11時。
大雨が降り、雷鳴激しい中、パソコンがダウンすると困るので簡単に。

アクセスランキングもかなり上がって来ましたが、こんな夜中に書いたものはアクセスする人がほとんどいないので夕方早目に書くほうが賢明と気付いた次第です。結局アクセス数は明日に持ち込まれるのでしょうが。

ところで私は女子アナに興味はないので知りませんでしたが、川田亜子という美人アナウンサーの練炭自殺は実は他殺だったそうですね。プロダクションの社長の愛人になり地獄の日々を送って鬱病状態だったときに、細木数子のアドバイスがyoutubeに貼られています。

実に間抜けなアドバイスで「公私混同しないこと」「仕事が終わったら人生を楽しむこと」「ど根性で頑張りなさい」wwwww

社長の愛人でヤク漬けにされ、中絶やら他の男との枕営業?やら、ぼろ雑巾のような扱いを受けている最中に、このアドバイスは大外れもいいところで、逆神ですね
 細木など、霊感商法というかインチキ占い商法で千万単位の墓石を買わせるなどして一時期週刊誌が取り上げ「女ヤクザ」と言われたのに、今でも初版350万部ぐらい売れてるそうです。

ついでに、私は殺される直前の鬱病状態のときの川田亜子の写真を見て、ビビビっと惹かれました。

そういえば、明るい顔の典型的な美人で、少しも病んだ様子はなかった嘉門陽子(漢字が違うかも)が大好きで、3000円もするカレンダーや写真集を持っていました。ところがビックリ。三田佳子のドラ息子のセックス部屋の常連で、例の山口組系後藤組元組長の愛人だったことが情報流出で後日暴露されました。

藤谷美和子も大好きでした。演技と歌声の艶っぽさは天才的だと思っていました。そしてついに皇居に車を乗り付けて・・・・・後は調べてください。我ながら感動する的中率です。タイプの女性がことごとく尋常じゃなくなるという意味で。

魔性の女・藤あや子なんか完全にど真ん中ストライクです。でも彼女の場合はアクが強すぎるので意外と平穏な人生を送るか、予定調和的に殺されるかどっちかのような気がします。

あ、12時を過ぎましたね。実は私の現実の恋愛履歴もこの路線上にありますが、それこそどうでもいい話ですので、これで失礼します。






ネット犯罪被害者の皆様へ

2012年09月17日 | 集団ストーカー被害者を救う会
いつものことですが、起きてからこのブログを書くまでにメールや電話でフラフラになっています。おまけに食事も未だです。
 そして五行歌を左下に書いている自分のHPの投稿欄に投稿して、ネット通販や宅配などを準備し、やっと食事、という日々。これじゃ体にいいわけないですね。

ところで、カルト批判をする色んなサイトが突然削除されたり、また不法な中傷サイトが乱立していることはご存知でしょう。「博士の独り言Ⅱ」などその典型です。

私もこのブログの「カルトストーカー被害者を救う会」に書いてきたように様々な嫌がらせを受けてきました。「ロータス文化学院」「那田塾」はドタキャンや途中で連絡が取れなくなるなどしばしば起こりました。リンクを切られるなどパソコン被害などは日常です。私は電話等で脅迫されたのだろうと判断していましたが、それだけではないようです。

2年ほど前でしょうか、脳波研究者が座禅中の私の脳波を測定しに来ていただき「初めて見た」と明言されましたが、覚醒シータ派とローアルファーファが同時に測定器の限界を振り切る様子を記録され、改めて別の機材を持ってくる、と言われたので楽しみにしていました。ところがその方のサイトに最初は私のことが書いてあって「非常に興味深いので再度調査して公表する」だったのが、後日、「公表を控える」と変わりました。電話を入れて真相を聞いたところ、中傷記事を読まれて、会社としてはこういう記事のある人のことを公表するのはリスクが多い、とのことでした。
 その人自身も禅には興味があり、どういう中傷記事があるか色々アドバイスをもらったり、微笑禅に関する様々な質問に私も答えていたりしたのですが、その後私が何度か救急車で運ばれて入退院するなどして、すっかりそのことも忘れていました。
 このように、こういう風に味方を減らしていくのがカルトストーカーの狙いです。
 
他にも、カルト宗教被害者を救う専門家の方も、中傷サイトをご覧になったらしく「私個人は那田さんを信用しているが、こういうサイトが立っていると普通の人は不信に思う」と素直な意見を言ってくれました。私が甘いのですかね。ああいうコバエの中傷記事など文体から人格を読み取る普通のリテラシーがあれば、こいつら狂ってる粘着野郎だな、とすぐ分かると思いそれほどは気にしてなかったのですが。文は人なり、といいますから。

こういうネット被害を受けている人たちはかなり多いと思います。まずは警視庁に電話しましょう。

*警視庁サイバー犯罪対策課では、サイバー犯罪に係る相談や情報提供を電話で受け付けています。 

    ミヨミライ ハイテク
電話相談 03- 3431- 8109

受付時間は、平日の午前8時30分から午後5時15分までです。
夜間及び祝日・土日は、相談業務を行っていません。

*また、風評被害、ネット犯罪、などで検索すると専門の弁護士や司法書士が対応してくれます。予算のない人は法テラスがありますが、弁護士の当たり外れが多いので私はお奨めできません。

その他、意見交換歓迎です。とにかくブログの政治部門のベスト10はカルト批判と愛国運動ばかりで、私が健康で批判を繰返していた時代とは隔世の感があります。圧倒的に被害者のほうが多いのですから、勇気をもって頑張りましょう。



五行歌を紹介します

2012年09月16日 | 芸術・表現

原文      読み下し文       日本語訳
 
渭城朝雨裛輕塵 渭城の朝雨 軽塵を裛し 渭城の朝の雨が道の埃を落ち着かせ
客舍青青柳色新 客舎 青青 柳色新たなり 旅館の柳も青々と生き返ったようだ
勸君更盡一杯酒 君に勧む 更に尽くせ一杯の酒 さあ君、もう一杯やりたまえ
西出陽關無故人 西のかた 陽関を出づれば故人無からん 西方の陽関を出てしまえばもう                            酒を交わす友もいないだろう

これは高校の漢詩の授業で習ったもの。
酒の歌なのでてっきり李白かと思っていたら王維の作でした。大好きな歌で漢詩の教師がテープで原語バージョンを聞かせてくれたものです。

和歌、短歌と言われるものは57577になっていますが、これは五行歌会を主催されている草壁 焔太(くさかべ えんた)先生の研究により、聖徳太子の時代以降にこれらの漢詩が次々と日本に紹介されたために、漢詩の五言,七言の影響でこのリズムになったものであり、本来の大和歌は、

 やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし

のように自由律だったことを統計学的に実証されて、基本的に「五行以外のルールなし」の五行歌を提唱され、世界中に広まって行ったわけです。

私は生まれが愛媛ですので、幼い頃から俳句には親しんでいました。俳句短歌はもちろん散文詩、稲垣足穂の「少年愛の美学」のような詩歌と論文と随筆のフュージョンのような文章などが大好きで、今フト思い出しましたが、小学生の時に七夕になると、「小説家になりたい」「学者になりたい」「総理大臣になりたい」などと短冊に書いたものです。

不思議な縁で草壁先生と出会い、現在「八王子五行歌会」の代表を務めています。大ベテランの かわせみ様が毎日投稿して頂き、私の駄作にもアドバイスを頂いています。ネット投稿は無料ですから、ぜひ「ロータス人づくり企画」から入って「八王子五行歌会」の掲示板に投稿してください。ペンネームでいいです。
 面白いもので、疲れたときは投稿できないか、疲れた歌になるし、元気があるときは元気な歌になります。仕事が終わったら一首詠む、というのも心が落ち着いていいものですよ。