那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

那田家の謎

2018年09月04日 | 歴史

集団ストーカの被害者の方は次のurlを押してください。 http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

  また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日にの8時から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。手前のテーブルの場合もあります。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今後は二回目から講演者に5千円は差し上げます。医療だけでなく歴史や芸術についても講義できるようになりました。私は八王子五行歌会の代表です。賛同される方は私まで電話を下さい。042-634-9230。出ないときは留守電にメッセージを残して下さい。次は煩悩と幸福観がテーマです。これは物凄く面白い話題になるでしょう。その次のテーマは「欲望とのつきあい方」です。これは宗教から精神世界まで幅広いテーマになります。是非ブログをご覧の皆様も「春名先生を囲む会」にご参加下さい。

私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)

後、微笑禅の会(非宗教)のネット会報は中止し、年に5千円の護持会費と数度の紙媒体での会報を出すことにします(メールで済ますこともあります)。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。 http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html             入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

なお、微笑禅の会の口座番号に変更があります。入会手続き入会金なし。会費は年に5千円とし、ゆうちょの以下の振替口座 00130-7-447671 名称「微笑禅の会」に振り込んでください。その際は住所氏名他連絡先、男女の区別を明記してください。退会は自由ですので、私にメールか電話をください。

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以前、このブログで「森家文書」について解説したことがあります。たまたま、手元に森家文書があったので、まず、これをわかり易く解読していきます(以前、鎌倉時代の徒然草よりも難解な森家文書を八王子市教育委員会にコピーを持っていき、解読を約束しながら、後日キャンセルされたことを思い出します。先日の八王子市個人情報条例、審査会、法制課の決定を批判したのと同様に、私が、アンチ創価というだけで、市役所の一部の部署は気に食わないのでしょう。もちろん例外もありますが)

まず、一読して森家文書が物凄いのは、敵方の文書を二つも森家が所蔵していることである。しかも、相手が、明智光秀(確か国宝、東大図書館にある)、と羽柴秀長なのだから、普通ではない。まず、最初から丁寧に解説します。

「森家由来書」から(現代人でもわかり易いように簡略化して解説します)。家伝によれば森家の祖は森監物藤原政次といい、南朝の後村上天皇に使えて、現在の海南市の荘園領主兼地頭であった。しかし、4代目の時、畠山氏によって、領地を失ったが、その孫が梶原大和の守に依頼して、畠山家から元の4分の1を返してもらった(と言っても、現在の海南市黒江一帯ですから相当広いと思ってください)。それから4代後の森家の名前は森甚介正俊であるが、この時に森家は織田信長(守護大名)に属していた。ちょうど本能寺の乱の直前の頃で、地元の有力な武士たちは、ある場所で会議を開き、全員が織田に味方すると書簡を認め、森甚介にその書簡を杖に仕込んで京都に持って行かせ、織田に味方する旨伝えると共に(ここが凄いところですが)、明智光秀の元に行き、援軍をした場合の土地の配分を約束させています。そこで、森甚介の仕事を仲間たちが褒めたたえ、明智光秀の書簡を彼の所蔵品と決定した。小牧の戦いの時には徳川家康(守護大名)に仕え、大阪に出陣し三十六人署名した中の筆頭であった(父親が繰り返し私に、尚史、お前の先祖は、と聞かれたら、「紀州若山黒江の掾・森丹治五郎兵衛の子孫でござる」と答えなさい、と教えてくれたのは、この時の三十六人の筆頭ではないかと思います。現在小牧市に問い合わせ中です。この官位は律令制では天皇から派遣されるときの身分であり、守(かみ)は今でいう知事に当たり、輔(すけ)は副知事に当たり、掾はそれらを補佐する書記官のような身分だったようです)。次いで、豊臣秀吉一派に敗れた時は侍の身分を捨て、農民になります。これも凄いのは、敵方の羽柴秀長の起請文(戦に勝つことを神に祈る祈祷文)を森家が所蔵していることです。森家は日本一の鉄砲隊・雑賀衆に指令をする立場にあり、また雑賀衆は根来衆ともつながりがあったことから、彼らを使ってこのような秘密文書を手に入れていたものと思われます。その後、森家は様々な有力守護大名に使えます。蜂須賀家に仕えた後は、石山の合戦の時は一向宗に仕え、浅野家にも使えます。私が、元中央義士会の会員であり、今でも、寝付けないときは、義士銘々伝を聞いたりして、涙ぐむのはその頃の血が騒ぐのでしょう(ちなみに、三波春夫は中央義士会の顧問でした。彼の死後、俵星玄蕃のyoutubeにおける著作権の問題で、私は直接、三波春夫の娘さんと電話で話したことがあります。理事長になぜ中央義士会の役員にしないのか聞いたところ、大事に育てられ過ぎた住む世界が違う人は付き合いにくい、との話でしたが、私は気が合いました)。そして浅野家がお家断絶となった後はまた海南市黒江に帰り、徳川政権になった時は代々代官になりました。(この部分だけ、森家文書には、森勝右衛門正久は徳川南龍公に召し出され、地士となる、と書いてあります。しかし、普通の地士がわざわざ召し出される意味はありません。先祖から聞いた口伝の方が、説得力があります。最も、土佐と同様に、紀州の(広くて歴史のある地域なので全体だと断定はできませんが、海南市全体は、農民も漁師も普段は平民として暮らしながら、決まった時間には鉄砲隊の一員として統制の取れた軍事練習をしていました。詳しくは司馬遼太郎の「尻くらえ孫市」をお読みください。

さて、問題はこの後です。何故私の苗字が那田になったか、という問題が残ります。江戸時代最後の森家を継いだ森八三郎(後日、福三郎と改名)は、妻(公家の乳母)を連れて紀州から淡路島にわたり、寺々を伝って(つまり、普通の奉行の管轄外になる地域を伝って)現在の愛媛県西予市野村町小屋という愛媛と高知の県境にある(竜馬脱藩の道の直ぐ横)に居を構えます。そして学問があるので、地元有力者に可愛がられ、代書(行政書士、司法書士、弁護士の仕事をまとめたような仕事)に付くわけですが、紀州を立ち去った理由は、戊辰戦争の軍略上の考え方が違うことから、仲間に命を狙われたと言われています。(いうまでもなく紀州は佐幕派でしたから、勤王派の主張でもしたのでしょう)

面白いことに、彼は最後の森家の長男ながら、不行跡により(徳川御三家の旗本ですから、酒か、女か、博打か、刃傷沙汰でも起こしたのでしょう。事実、仲間が酒に酔って飲み屋の二階から、「おいハチ、一緒に飲もう」と言ったのに腹を立て、「武士に向かってイヌコロのように、ハチとは何事か!」と怒りのあまり決闘状を叩きつけたが、上役に説得されて鞘に納めたという話が伝わっています)、有馬家に養子に出されます。森家と有馬家は姻戚関係にありましたが、森家が純粋な武士だったのと異なり、有馬家は坂本竜馬と同じように、漆塗りの商売で儲け、両替商になってさらに豪商になり、一人ぐらいは武士にしようと、士株を買った一族でした。私は大学生の時に有馬家を訪ねたことがありますが、古くて大きな長屋あと(経営者だったようです)と、江戸時代から伝わる見事な先祖の墓石群を見また。後日、愛媛の親戚の有馬家が、後継ぎがいなくなったために、和歌山の有馬家に養子に入った時、格式があまりに高かったこと、反対派のジェラシーの激しさについていけず、養子を止めて愛媛に帰ってきたそうです。つまり、有馬福三郎の男の子たちの子孫が有馬家、女の方の子孫が那田家になったわけですが、森家の最後の長男の子孫ですから、森家の直系の子孫は愛媛の有馬家と那田家ということになります。というのも、有馬家を尋ねた時に、海南市黒江の森家をよく知る(文通している人がいました)人と会ったとき、有馬家の最後の一人は女性で北海道に嫁いでしまい、墓はもう和歌山にはない、と聞いたからです。和歌山には分家の森家は残っているでしょうが、本家は全て愛媛に渡ってしまったわけです。

そこで、最後の謎が生まれます。私の父親の母(私の祖父)は有馬お梅と言います。この人は地元の山本一之丞という男と結婚します。有馬と山本が結婚したのに何故那田になったのでしょう。武士が娘を嫁がせるのですから、山本という男性も、よほど頭が良かったのか、性格が良かったのか、大きな長所を持っていたと考えられます。実は、和歌山には那田家が一軒だけあり、そこにも訪ねていき、先祖の話を一晩かけて話合いました。大正生まれの引退した警官とその息子さんとの二人暮らしでした。戦前は平民は警官にはなれなかったので、武士かと思ったところ、勉強が好きで毎日図書館に通っている息子さんが言うには、那田の姓は紀州の旗本にはなく、おそらく、雑賀衆の隠れ苗字ではないか、と言われました。しかし、雑賀衆に指令を出していた、森家の子孫が雑賀衆の隠れ苗字を名乗る意味がありません。何しろ和歌山に一軒のこっているのですから、既に(由緒ある姓にしても)後継ぎができています。

何故、私が那田の姓を名乗っているのか、いまだに謎です。ただ、私はこの姓が気に入っていることと、那田尚史というのは姓も名前も珍しいので日本中に一人しかいないこと、また娘の朗理、も長男の千宝も同様に日本中で一人しかいません。那田の姓は東北地方にもあり、全部で30軒ほどが那田を名乗っているようですが、先祖の話と那田の姓の謎とでこれまで面白いブログを書けるのは私だけでしょう。このブログは子供たちが(小さい時に森家文書を教えたことがありますが、当時は無関心でした)森家の由来を知りたくなった時の手掛かりになるように、時間をかけて書きました。一部には先祖自慢とジェラシーの念を持つ人もいるかもしれませんが、そういう人は、相手にしません。


西条八十「ぼくの帽子」をめぐって

2018年03月25日 | 歴史

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 また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今後は二回目から講演者に5千円は差し上げます。医療だけでなく歴史や芸術についても講義できるようになりました。私は八王子五行歌会の代表です。賛同される方は私まで電話を下さい。042-634-9230。

私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)

後、微笑禅の会(非宗教)のネット会報は中止し、年に5千円の護持会費と数度の紙媒体での会報を出すことにします(メールで済ますこともあります)。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。 http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html             入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

なお、微笑禅の会の口座番号に変更があります。入会手続き入会金なし。会費は年に5千円とし、ゆうちょの以下の振替口座 00130-7-447671 名称「微笑禅の会」に振り込んでください。その際は住所氏名他連絡先、男女の区別を明記して下さい。以上、会員になりたい方はこの口座に会費を振り込りこんで下さい。

また、八王子4中を卒業して多分八王子東高校に進んだ黒澤千宝(旧姓・那田千宝、平成7年生まれ、男)の現況をご存じの方は左下のブックマークにある「ロータス人づくり企画」から入って一番下にあるメールはここへ、から情報をください。

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このところ変人シリーズを続けているが、思うことあって、別のテーマを取り上げることにする。この詩歌は角川映画の「人間の証明」のテーマソングとして使われている。私はこの詩を読むたびに推理小説と抒情性がまじりあった感覚を覚えるので、必ずこの詩には謎があるだろうと思っていた。たまたま検索すると次のような意見があったので以下、引用する。

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母さん、僕のあの帽子、どうしたんでしょうねえ?

西條八十氏はこの作品で何を言いたかったのでしょうか?
この詩のテーマを教えて下さい。
もしかして、母親が亡くなっていて、墓前か遺影の前で
亡き母に語りかけているのでしょうか?

「僕が書いたY・S という頭文字」というのは
「八十/Y ・ 西條/S」ですよね?


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帽子


母さん、僕のあの帽子、どうしたんでしょうねえ?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ

母さん、あれは好きな帽子でしたよ
僕はあのときずいぶんくやしかった
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから

母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね
紺の脚絆 に手甲をした
そして拾おうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね
けれど、とうとう駄目だった
なにしろ深い谷で、それに草が
背たけぐらい伸びていたんですもの

母さん、ほんとにあの帽子どうなったでしょう?
そのとき傍らに咲いていた車百合の花は
もうとうに枯れちゃったでしょうね、そして
秋には、灰色の霧があの丘をこめ
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ

母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは
あの谷間に、静かに雪がつもっているでしょう
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と
その裏に僕が書いたY・S という頭文字を
埋めるように、静かに、寂しく

 

jina_tadさん

2009/7/301:13:09

テーマは「喪失感」です。
何を失ったのか?
帽子です。表面的には。

どういう状況で母に語りかけているのかは、読み手の自由です。
この詩を発表した時に、西條八十の母が健在だったかどうか調べるのは、必要かも知れません。
私のイメージでは、
幼い頃に母から買ってもらった帽子。
とても喜ぶ僕を見て、自分のことのように嬉しそうな母。
それは突然、帽子が飛ばされることで悲しみに変わる。
記憶の奥底にしまい込まれる思い出の喪失。

いつの間にか母の背たけを追い越し、今は小さくなった母の背を見つめる。
自分も子供の親となり、子供の悲しみは、親の悲しみということがわかるから、帽子のことを口に出せないでいる。
この微妙な距離感が、濃密な親子間の喪失。
ひょっとしたら、この時言えなかったことを今、墓前で語りかけているのかも知れません。

これがまあ無難な回答でしょうが、私は全然別なことを考えてました。
この帽子はまるで谷底で息づいているようではありませんか。
長い年月たった食器とか服は、魂が宿って妖怪になると言われています。
玄関の、はかなくなった靴をなかなか捨てられないのは、これといっしょだ。
帽子も谷底で生活している、と妄想してしまいました。

質問した人からのコメント

2009/7/9 00:24:53

この帽子はまるで谷底で息づいている。
今でも「あの帽子=母子の絆、つながり、あの頃の生活」が
どこかで保たれている、ということでしょうか。

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https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1027883015

これはヤフー知恵袋で交わされた解釈だが、かなり繊細な神経の持ち主たちの会話だと分かる。

私は、ただの喪失感だけではなく、直観的にだが、母親への怨念のようなものを感じる。多義的な解釈を受け入れる不思議な詩歌でさすが西条八十の描いた作品だと感心した。


「森家文書」補筆ー紀州征伐ー

2017年09月19日 | 歴史

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私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)

今後、微笑禅の会(非宗教)のネット会報は中止し、年に5千円の護持会日と数度の紙媒体での会報を出すことにします(メールで済ますこともあります)。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。 http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html             入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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以前のブログで森家文書を解説した時に、一つ疑問点があったのですが、その理由がほぼ分かったのでここに記すことにします。

疑問というのは、明智光秀が雑賀衆に援軍を求めたのに対し、それを拒否したにも関わらず、間接的に味方になった筈の羽柴秀吉が攻め入ったとたんに帰農したと言う部分です。

以下、wikipediaから「紀州征伐」の部分を引用します。

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
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紀州征伐(きしゅうせいばつ)または紀州攻めとは、戦国時代安土桃山時代)における織田信長羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことである。一般的には天正5年(1577年)の信長による雑賀攻め、同13年(1585年)の秀吉による紀伊攻略を指すが、ここでは天正9年(1581年)から同10年(1582年)にわたる信長の高野攻めも取り上げる。

信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまらなかった。紀伊は寺社勢力惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地だったからである。根来雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのである。

 中世を体現する国、紀伊[編集]

 ルイス・フロイスの言を借りると16世紀後半の紀伊は仏教への信仰が強く、4つか5つの宗教がそれぞれ「大いなる共和国的存在」であり、いかなる戦争によっても滅ぼされることはなかった。それらのいわば宗教共和国について、フロイスは高野山粉河寺根来寺雑賀衆[1]の名を挙げている。フロイスは言及していないが、五つめの共和国は熊野三山と思われる[2]。共和国と表現されたように、これら寺社勢力や惣国一揆[3]は高い経済力[4]と軍事力を擁して地域自治を行い、室町時代中期の時点でも守護畠山氏の紀伊支配は寺社勢力の協力なしには成り立たない状況だった[5]

 紀伊における武家勢力としては、守護畠山氏をはじめ、湯河・山本・愛洲氏などの国人衆が挙げられる。室町時代、これらの国人衆は畠山氏の被官化したもの(隅田・安宅・小山氏など)[6]、幕府直属の奉公衆として畠山氏から独立していたもの(湯河・玉置・山本氏)に分かれていた。
室町時代を通じ、畠山氏は前述の通り寺院勢力との妥協を余儀なくされながらも、紀伊の領国化(守護領国制)を進めていた。奉公衆の湯河氏らも応仁の乱前後から畠山氏の内乱に参戦することが増え、畠山氏の軍事動員に応じ、守護権力を支える立場へと変化していった(教興寺の戦いなど)。一方で15世紀後半以降、畠山氏の分裂と抗争が長期間続いたことが大きく響き、また複数の強力な寺院勢力の存在もあって、武家勢力の中から紀伊一国を支配する戦国大名が成長することはなかった。国人衆は畠山氏の守護としての動員権を認めながらも、所領経営においては自立した存在だった。

 治外法権の地、境内都市[編集]

 中世において、寺領は朝廷も幕府も無断で立ち入ることができない聖域だった。寺院内部への政治権力による警察権は認められず(検断不入、不入の権または守護不入を参照)、たとえ謀反人の捜査といえども例外ではなかった[7][8]。もちろん軍事力による介入など許されない。また、寺領内では政府の徴税権も及ばなかった(諸役不入)。このような、いわば世間に対する別天地である寺院の境内は、苦境にある人々の避難所(アジール)としての性格を持つようになる。一度寺に駆け込めば、外での事情は一切問われない。犯罪者ですら例外ではなかった。境内は貧富貴賎さまざまな人々が流入し、当時の寺社の文化的先進性[9]と結びついて都市的な発展を遂げる。多くの有力寺社は京都など政治の中枢から遠くない場所にありながら、政治的中立、軍事的不可侵に守られて商工業や金融の拠点として強い経済力を持つようになった。これを「境内都市」(自治都市宗教都市も参照)という。高野山や根来寺は、典型的な境内都市である[10]

 

「惣分」と「惣国」[編集]

 

当時の僧侶は大別すると二種類に分けられ、仏法を学び修行する学侶と寺の実務を取り行う行人があった。時代が下るにつれて各寺とも行人の力が増大し、戦国時代の時点では寺院の武力はほとんど行人の占める所となり、寺院の動向も行人らの意思に左右されるようになる。紀北の地侍たちは高野山や根来寺に坊院を建立し、子弟を出家させてその坊院の門主に送り込む行為を盛んに行った。根来寺の主だった行人は、泉識坊が土橋氏[11]杉之坊津田氏、また成真院が泉南の地侍中氏など、紀伊のみならず和泉河内大和の地侍で構成されていた。これら地侍出身の行人[12]たちが「惣分」という会議を構成し、根来寺の方針を決定していた[13]。つまり、実態としては根来寺の看板を借りた地侍の連合による統治だった[14]。地侍らは境内都市根来の富力を背景に和泉南部へと勢力圏を拡大していった[15]

 

雑賀では、『昔阿波物語』に「主護(守護)はなく、百姓[16]持に仕りたる国にて候」と記されるほどに守護の影響力は薄かった[17]。地侍たちは一揆の結束を武器に、守護の支配を排して自治を行った。これを「惣国」と呼ぶ。雑賀惣国の範囲は海部郡から名草那賀郡の一部にまで及んだ。

 

信長の紀州攻め[編集]

 元亀元年(1570年)に始まった石山合戦本願寺優勢のうちに進み、織田信長は石山本願寺を攻めあぐねていた。信長は戦局を打開すべく、本願寺の主力となっていた雑賀衆の本拠である紀伊雑賀(現和歌山市を中心とする紀ノ川河口域)に狙いをつける。兵員・物資の補給拠点である雑賀を攻略すれば、大坂の本願寺勢の根を枯らすことができると考えたのである[19]。天正4年(1576年)5月頃から織田方の切り崩し工作が始まり、翌5年(1577年)2月までに雑賀五組のうち社家郷(宮郷)・中郷・南郷のいわゆる雑賀三組を寝返らせることに成功する。

 

開戦から「降伏」まで[編集]

 

同年2月2日、以前から織田方に加勢していた根来衆に加えて雑賀三組(三緘)の協力も得られることになった[20]ため、信長は雑賀の残り二組、雑賀荘・十ヶ郷を攻略すべく大動員をかけた。信長は9日に安土を発して上洛。膝下の近江の兵に加えて嫡男織田信忠率いる尾張美濃の軍勢、北畠信雄神戸信孝織田信包配下の伊勢の軍勢、さらに畿内越前若狭丹後丹波播磨の兵も合流して13日に京都を出発した。16日には和泉に入り、翌17日に雑賀衆の前衛拠点がある貝塚を攻撃したが、守備兵は前夜のうちに海路紀伊へ退却していたので空振りに終わった。同日根来衆と合流して18日に佐野、22日には志立(信達・現泉南市)に本陣を移した。

 

織田勢は山手と浜手の二手にそれぞれ30,000人の兵を投入して侵攻を開始した。その陣容は、山手に根来衆と雑賀三組を先導役として佐久間信盛・羽柴秀吉・堀秀政荒木村重別所長治同重宗、浜手は滝川一益明智光秀長岡藤孝丹羽長秀筒井順慶・大和衆に加えて織田信忠・北畠信雄・神戸信孝・織田信包である[21]

 

浜手の織田勢は淡輪(現岬町)から三手に分かれて孝子峠を越え、雑賀側の防衛線を突破して南下し、中野城を包囲した。2月28日に信長は淡輪に本陣を進め、同日中野城は織田方の誘降工作に応じて開城した。3月1日、織田勢は平井の鈴木孫一の居館(現和歌山市)を攻撃した。

 

山手の織田勢は信達から風吹峠を越えて根来に進み、紀ノ川を渡って東側から雑賀に迫った。これに対し雑賀衆は雑賀城を本城となし、雑賀川(和歌川)沿いに弥勒寺山城を中心として北に東禅寺山城・上下砦・宇須山砦・中津城、南に甲崎砦・玉津島砦・布引浜の砦を築き、川岸には柵を設けて防衛線を構築した。

 

日時は特定できないが2月24日以降[22]、山手先鋒の堀秀政勢が雑賀川の渡河を試みた。『紀伊国名所図会・巻之二・雑賀合戦』によれば、雑賀勢はあらかじめ雑賀川の底に逆茂木・桶・壺・槍先を沈めておいて渡河の妨害を図った。織田方が川を渡ろうとすると人馬が足を取られて前進できず、また川を越えた者も湿地帯で動きが鈍っている所に、頭上から25人ずつが二列横隊を組んで間断なく鉄砲で狙い撃ち、さらに弓隊が射立てた。これにより織田方は多大な損害を受けて退却した[23]

 その後、ゲリラ戦に持ち込まれ戦局は膠着状態となったが、鈴木孫一・土橋若大夫粟村三郎大夫ら7人は連署して誓紙を差し出し、信長が大坂表での事態に配慮を加えることを条件に降伏を誓ったため、3月15日に信長は朱印状を出して赦免した。21日、信長は陣払いして京都へ引き揚げた。

 

だが、足利義昭毛利輝元は「織田方は敗北した」と喧伝した[24]

 

信長は引き揚げるに当たり、雑賀衆の再起に備えて佐野砦(現泉佐野市)を築かせ、完成後は織田信張を駐留させた[25]

 

だが、半年もしないうちに雑賀衆は再び挙兵し、信長と戦うことになる。

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 このように、紀州は中央集権的な勢力に徹底的に戦う気風があったようです。森家文書の中には羽柴秀長の起請文がありましたが、これはwikipedia にもあるように雑賀衆が、羽柴秀長が戦の勝利を神仏に誓う文書を権謀術数を使って取り上げたものと思われます。

森家文書と照らし合わせると、森家は領土拡大の野心はなく、岡田の荘(現在の黒江市と重なった地域です)を大名たちに奪われることだけは拒み、優れた守護大名に味方をして徳川幕府まで持ちこたえてきたことが分かります。

ちなみに私の父親が私が生まれてから耳にタコが出来るほど言い続けてきた「お前の先祖を問われたら、紀州若山黒江の城主(あるいは丞)、森丹治五郎兵衛の子孫でござる、と言いなさい」という件については、学生時代、中野図書館で調べたことがあります。確か氏姓姓名事典という最も大きな事典でした。そこには確かに森丹治五郎兵衛の名前があり、有馬家と共に紀州の名家とありました。

要するに森家は今で言えば町長や市長の役割を果たしていたわけです。母方の先祖は明治政府になって最初の戸長(今の村長や町長、市長)であり、母方の祖母は助役でした。また私の父親も助役でした。つまり、母方は智慧で町長や助役になり、森家は代々、武力で市長になって来た因縁果報があったわけです。

以前も書きましたが私が田辺浩三と気が合ったのも、指導教授に絶縁状を書いたのも、中央集権的な圧力に反発する遺伝子があったからに他なりません。

こういうことを書くと、また「先祖自慢」という愚かな人がいるので、少し解説をします。以前「微笑禅の会」ネット会報にも書いたことがありますが、直系の先祖をたどると、Nの2乗になるのですから、20代前の先祖は合計すると2百万人を超える計算になります。その中には強盗や殺人者もいたでしょうが、天才的な芸術家や学者、見性した人物が必ずいたに違いありません。坐禅をすると言うことは、それらの無数の先祖の中で最も優れた遺伝子を蘇えさせる行為に他なりません。私は酒を飲んで夜の街を歩く時に、誰か絡んで来たら人の見てないところで殴り殺したい、と思うときがしばしばあります。おそらく私の父方の先祖に「辻斬り」をやっていた人物がいたのだろうと思います。

ちなみに最近発見された明智光秀の書から、本能寺の変は天皇親政の政治に戻そうとした明智の意図がハッキリと分かったそうです。


森家文書について

2017年09月07日 | 歴史

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。 http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

 また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。これからは医療だけでなく歴史や芸術についても講義できるようになりました。私は八王子五行歌会の代表です。賛同される方は私まで電話を下さい。042-634-9230。

私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)

今後、微笑禅の会(非宗教)のネット会報は中止し、年に5千円の護持会日と数度の紙媒体での会報を出すことにします(メールで済ますこともあります)。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。 http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html             入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

なお、微笑禅の会の口座番号に変更があります。入会手続き入会金なし。会費は年に5千円とし、ゆうちょの以下の振替口座 00130-7-447671 名称「微笑禅の会」に振り込んでください。その際は住所氏名他連絡先、男女の区別を明記して下さい。以上、会員になりたい方はこの口座に会費を振り込りこんで下さい。

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gooブログの仕様から、横になった森家文書を回転させることができないので、読者の皆様には読み辛いでしょうが、このままにして、簡単な解説を加えることにします。

これは和歌山県海南市の下津図書館から取り寄せた私の先祖の文書です。私が、昔の候文を現代語に訳して欲しいと言ったところ、私には無理なので、地元の教育委員会に頼んだらどうかと言われました。そこでつい昨日、教育委員会のある7階の文化財課に持って行き、これを現代語に訳して欲しいと頼んだところ、気安く引き受けてくれたので、私の名刺を渡して訳したものをメールで送ってくれるように頼みました。ところが、今日になって、突然電話が入り「上司の意見で訳すことは出来ない」と断ってきました。本当に八王子市役所は役に立ちません。おそらく、私が母を保護措置と称して一カ月の間監禁したことで、八王子市長に辞職を迫ったことから、市長に忖度したか、圧力がかかったのでしょう。もちろん、八王子市役所にもいい人はいます。例えば、自立支援課の月丘さん(月岡かもしれません)、総務課の高山さん、社会福祉課の平さんや佐々木さんなどです。

早速「明智光秀書状写」を見てみましょう。これは織田信長さえ撃退した無敵の鉄砲隊・雑賀衆に充てたものです。雑賀衆に充てたものが森家に残っていたという事実から考えると、森家は雑賀衆を指揮指導する立場にあったことを意味しています。内容は、明智光秀最期の手紙で、織田信長を責めるのに雑賀衆の援軍が欲しい、というものです。本物は、記憶ですが、東大図書館に国宝か重文扱いで保管されている筈です。森家にはレプリカがありましたが、私が森家が支配した海南市黒江で聞いたところでは、最後の森家の跡継ぎは女性で北海道に嫁いでしまい地元には森家の子孫が残っていないということでした。

「羽柴秀長起請文」は起請文は戦をするときに神仏に勝利を祈るものです。何故この文書が森家に残っていたかは謎です。続いて書いてある「森家由来書」を読むと次のような内容のことが書いてあります。

森家の祖先は南朝の後村上天皇に仕えた地頭で岡田という地域を支配していた。4代目の時に畠山氏に領地を奪われたが、その孫は梶原大和ノ守の裁量で畠山氏より、領地の4文の1を返してもらった。その後の森家は織田信長に仕えた。明智光秀の援軍要請を断った。天正の小牧の戦いの時には徳川家康に味方して36人衆の連盟の一番手に名前を連ねた。太閤秀吉が入国した時は武士を止めて帰農した。(ここが謎なのですが、明智光秀の援軍を断り、織田に味方したということは秀吉の身内の筈なのに、協力しなかったことになっています。私の推測ですが、秀吉は気が狂ったようになった明まで日本の国土にしようと野望を持ち、朝鮮征伐を始めたので、知恵者が集まって協力しなかったのでしょう。そのために、領地の民衆も歓び、自分の兵隊も犠牲を追わずに済んだのでしょう。それだけではなく秀吉は根来や雑賀という反権力的な地侍の集団を警戒して滅亡しようとしたという記録もありますので、この為かもしれません)。

雑賀では、『昔阿波物語』に「主護(守護)はなく、百姓[16]持に仕りたる国にて候」と記されるほどに守護の影響力は薄かった」という記録があるほどです。

その後は蜂須賀家に仕え、その子供は石山ノ合戦で一向宗に属し、実如(高名な僧侶でしょうか)の書を所蔵していた。慶長6年には浅野家に仕え、80石を得ることになります。その後、国替えになり、元の岡田に戻ります。そして江戸になり最初の紀州徳川家の俗にいう南龍公(徳川頼宣)に召し抱えられて「地士」となる、後代々「地士」相続す。と書かかれたところで「森家文書」は終わっています。ここでいう「地士」とは地侍のことではなく、私の家の家伝によれば「代官」だったと言われています。

そして明治時代になると森庄太夫という県会議員が生まれ、南北朝から受け継いだ森林を地元の黒江市に寄付をしています。

面白いのは、幕末最後の森家の長男は、長男ながら親族の有馬家に養子に出されました。幕末末期の徳川御三家の旗本は道楽者ばかりと考えていいので、不行跡が原因で養子に出されたのかもしれず、有馬家に跡継ぎがいなかったのかもしれません。事実、明治になって、有馬家に跡継ぎが出なかった時には、私の地元愛媛県西予市野村町惣川の有馬家が和歌山まで行って後を継ぎましたが、格式が高すぎるのと、周囲の嫉妬に耐えられず愛媛に戻っています。

私の父方の曽祖父はその森家から有馬家に養子に出された有馬福三郎(もと八三郎)です。その娘がお梅(父の母、私の祖母です)と言い、地元の山本氏と結婚しました。山本と有馬が結婚したなら山本になるのが普通ですが、何故か「那田」を名乗るようになりました。私は大学生の時に、和歌山に渡り、有馬家の子孫に会い、森家のあった黒江で森家のことを調べ(森家文書もその時に取り寄せて、散逸したものを改めて今回下津図書館から取り寄せた次第です)、そして那田家にも行きました。もう亡くなられているでしょうが、退職警官のお爺さんと、結婚をせず、図書館で勉強ばかりしている私より10歳ほどの男の人と酒を飲みながら数時間話しました。その男の人が言うには、「那田」というのは、由緒のある雑賀衆の「隠れ苗字」ではなかったかと言う話でした。

私は単純な因果律は否定しています。というのも例えばブスやカタワが生まれたら、仏教的な因果律では、前世の因縁と言われます。ですから、まさに「不昧因果(因果はごまかせない)であり、因縁果報というのが正確ないい方でしょう。つまり、因果だけではなく、第二原因の縁と第二結果の報があると、緩やかにとらえたらどうでしょう。先祖の話をすると、また「先祖自慢」と嫉妬する愚か者がいるので、そろそろ止めにしますが、私が、剣道、合気道、その他のスポーツ、(ゲームですが)クレー射撃に関して、あっという間にコツを覚えて上達してしまうのは、これら先祖の因縁果報に違いありません。父方といい、母方といい、本当にいい先祖を持ったものだと感謝する毎日です。私の子供たちに教えるためにも、このブログに記録する次第です。


中城家の話

2017年09月01日 | 歴史

 

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私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)

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 私の母方の苗字を中城と言います。先祖の話をすると、また、先祖自慢だという人間がいますが、事実は事実なのでここで子孫のために書き残すことにします。父方の先祖については見性体験記の「父の面影」の中で簡単に触れていますが、「森家文書」を海南市の下津図書館から送ってもらったのでいずれ報告します。

私の母から数えて3代前の先祖は中城武七郎と言いました。明治政府になってから最初の戸長(現在の村長や町長のこと)でした。生まれは現在の西予市城川町です。地元の古文書館で調べてもらったところでは、庄屋を補佐する、組頭ではないかとのことでした。wikipedia には次のように書いてあります。「一般にには庄屋・名主を補佐する役職である。あるいは、組合村の代表者を「組頭」と称することもあった。」。ただ普通の組頭では無かったようです。名前から見ても武士の流れを引いており、昔の東宇和郡(ほぼ西予市全域)で事件が起こった時にはこの人が行かないと収まらなかったようです。今は無くなりました、知り合いのおばあさんに聞いたところでは、刀を差し、籠に載って遠くの事件を解決するために出かけて行ったと聞きました。母が面倒を診た池田家の御婆さんは死ぬ前に、刀を差した偉い人が目の前にいるがお前には見えないのか、と幻覚を見て母に問いかけたと聞いています。

中城武七郎の子供は養子で中城文太郎と言います。この人は酒飲みで仕事をしないために、財産を使い果たしてしまいました。その子供、つまり母の父、私にとっては祖父に当たる人の名前を中城周三郎と言います。この人の名前を知らない人は、城川町の役所には一人もいないと聞きました。位は助役でしたが、当時は今の特定郵便局と一緒で、中城家は役所の代わりを務めていて、朝になると数十人が家の前に列をなしたので母たち子供はその接待をするのが役目でした。この周三郎という人は「万語読み」(天才)と呼ばれていました。というのはほぼ2千人いる、城川町の全員の家の地番と、山林の地番を丸暗記していたからです。それだけではありません。城川町という名前は日本で最も凝った町名の2つに入っています。これは、土居、魚成、高瀬川、という3つの地名と川の名前を組み合わせたものです。城川町の歴史には公募して選ばれたと書いてありますが、それは中城周三郎が町民に花を持たせたのでしょう。またそれだけではありません。年に一度、算盤大会が行われて、算盤自慢が競い合いましたが、他の人は、イチイチ駒を動かすのに、周三郎はほとんど暗算で時々、パチリパチリと駒を動かしただけで、毎年優勝し、米一俵などの賞金を持って帰りました。また、詩歌にも秀で、「伊予竹に 土佐紙貼りて 阿波ぐれば 讃岐涼しき お四国の風」という作品を残しています。これは、四国4県を短歌の中に読み込んだもので、意訳すると、愛媛の竹に、土佐の紙(土佐は紙の産地です)を貼って、扇いだら、こんなにも涼しい、四国の風という意味です。周三郎の子供たちはみな高等小学校しか出ていませんが、それは旧制中学に通うには高知か宇和島に行く必要があり、子供の足では2泊しないと行けなかったからです。私はそのことが分からなかったので、母の子供時代は貧乏だったのだと思っていましたが、母に聞いたところでは「貧乏と言ってもレベルが違う。毎日、抹茶を立てて飲んでいたし、周りの家が、父親のことをオトン、母親のことをオカン、と呼んでいた時に、中城家では、トトさま、カカさま、姉のことを姉様、と呼んでいた」と聞きました。また周三郎の妻、つまり母の母、私の祖母は中城ヨシと言って、ミス城川のような美人でした。私は子供の頃に一緒に遊んでもらったことがあるので、お婆ちゃんが無くなった小学生の時は大泣きしました。今でも中城家の子孫は美男・美女が多いようです。

中城周三郎の長女が私の母・中城満留です。母は親のために家を建てただけで無く、戦争に協力したくない、軍事工場で働きたくないという理由で、18歳の若さで軍属として満州に渡り、看護婦助手を務めました。今でも産婆の免許は持っているそうです。(その母を、あなたは従軍慰安婦だったのでしょう、といった、島田市の八木と、審理中に母の家に行って恐喝した松山の織田は、今は罰が当たって死んでいるに違いありません)。母は終戦の後もしばらく満州に残り、中国語の通訳になるつもりでした。そこで最後の病院船に乗って舞鶴に戻ってきました。母の叔父がその知らせを聞いて大喜びしたことを母は今でも時々思い出して感謝しています。舞鶴から上野に移動した時は焼け野が原で母は土地でも買おうと思ったそうですが、こんな焼け野が原が今のように復興する筈は無いと思って郷里、城川町へ戻ってきました。そして私の父と再婚して、30歳そこそこで、「嬉野」という高級料亭兼置屋を経営しました。私が赤ちゃんの時の写真には私が芸者さんに抱かれたものがあります。そして、私が最初に覚えた言葉は「散財しよう」でした。これは、酒を飲みながら奇麗な芸者をはべらして、思い切りお金を使おうと言うものです。

私が八王子芸者と遊んだとか、石和のコンパニオンと遊んだとか、鬼の首でも取ったように言う愚かな人間がいますが、藩の財政を立て直した山田方谷ですら、次のような狂歌を残しています。

楽しみは(世の中は、の場合もある)、後ろに柱、前に酒、左右に美人、懐に金

これは落語にも出て来るので山田方谷のオリジナルではないかもしれませんが、節約で藩の財政を立て直した彼ですら、このような遊び心を持っていたわけです。およそ、男は遊びを知らないとロクな人生観は持てません。私は今はせいぜいスナックでカラオケを歌う程度ですが、リッチになったら、昔のように石和温泉に一週間ほど泊まり込み、コンパニオンと遊びたいと思います。


北一輝とは

2016年11月02日 | 歴史

 

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今月「春名先生を囲む会」でも病院でも治らなかった膝や肩の痛い人をその場で治すそうです。心当たりのある方はぜひ参加して下さい。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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北一機とは熱烈な天皇崇拝主義者と思っていましたが全くの間違いだということがわかりました。以下wikipediaから引用します。

 

明治維新の本義は民主主義にある」と主張し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。

 

すなわち、「天皇の国民」ではなく、「国民の天皇」であるとした。国家体制は、基本的人権が尊重され、言論の自由が保証され、華族貴族院に見られる階級制度は本来存在せず、また、男女平等社会、男女共同政治参画社会など、これらが明治維新の本質ではなかったのかとして、再度、この達成に向け「維新革命」「国家改造」が必要であると主張した。

 

評価[編集]

 

1906年(明治39年)23才の時に、「全ての社会的諸科学、すなわち経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、及び生物学、哲学等の統一的知識の上に社会民主主義を樹立せんとしたる事なり」として大日本帝国憲法における天皇制を批判する内容も兼ねた『国体論及び純正社会主義』を著し、社会主義者河上肇福田徳三に賞賛され、また、『日本改造法案大綱』では、クーデター、憲法停止の後、戒厳令を敷き、強権による国家社会主義的な政体の導入を主張していた。

 

ゆえに、北を革命家と見る意見がある。同時に、北は『日本改造法案大綱』を書いた目的と心境について、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ」と述べている[7]花田清輝は、北を「ホームラン性の大ファウル」と評している。

 

また坂野潤治は、「(当時)北だけが歴史論としては反天皇制で、社会民主主義を唱えた」と述べ、日本人は忠君愛国の国民だと言うが、歴史上日本人は忠君であったことはほとんどなく、歴代の権力者はみな天皇の簒奪者であると、北の論旨を紹介した上で、尊王攘夷を思想的基礎としていた板垣退助中江兆民、また天皇制を容認していた美濃部達吉吉野作造と比べても、北の方がずっと人民主義であると評した[8]

 

また、北は安岡正篤岸信介にも強い影響を与えたとされている。[要出典]

 

宗教[編集]

 

法華経読誦を心霊術の玉照師(永福寅造)に指導され、日頃から大きな声で読経していた事がよく知られている。北一輝は龍尊の号を持つ。弟の昤吉によると「南無妙法蓮華経」と数回となえ神がかり(玉川稲荷)になったという。

 

 

1929年(昭和4年)4月 - 1936年(昭和11年)2月28日に妻のすず子が法華経読誦中神がかった託宣を自ら記録したもの。

 

北の日蓮理解や法華経帰依の契機などは、彼の天皇観とともに依然として定説がない。

 


縄文土器の価値

2016年10月19日 | 歴史

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縄文土器(縄文時代)の時期区分

 

  • 草創期:約16,000年前~(ただし、縄文文化的な型式の変遷が定着するのは草創期後半から)
  • 早期:約11,000年前~
  • 前期:約7,200年前~
  • 中期:約5,500年前~
  • 後期:約4,700年前~
  • 晩期:約3,400年前~(ただし、晩期から弥生時代への移行の様相は地域によって相当に異なる)

 

上記の年代は放射性炭素年代測定を較正した暦年代観に従っているが、いずれにせよ精度の高い推定は難しく、現在でも研究途上である。

 

縄文土器の出現はどうやら氷期が終了する前の事であり、世界的にみて非常に古いものだが、大陸側の極東地域[2]には同時期の土器文化の存在が知られ、東アジア一帯で世界最古期の土器が同時並行的に出現したとみられており、相互の関係が注目される。

 

現在までに知られている日本列島最古の土器は青森県大平山元I遺跡茨城県後野遺跡(うしろの)・神奈川県寺尾遺跡[3]などから出土した文様のない無文土器[4]であり、大平山元I遺跡から発見された土器の年代測定の算定は16,500年前(暦年較正年代法による)とされている。

 

また、愛媛県久万高原町美川の上黒岩岩陰遺跡の最下層の第9層から細隆起線文土器、第6層から薄手の無文土器、第4層から押型文土器と厚手の無文土器が出土している。その中でも細隆起線文土器は約1万2000年前のもので、日本最古級の土器の一つである[5]

 

日本列島最初の土器は次の4段階をたどると考えられている。まず最初の第1段階は無文土器[6]を特徴とし、第2段階は豆粒文土器[7]隆起線文土器[8]であり、第3段階は爪形文土器群[9]であり、第4段階は多縄文土器群[10]である。

 

ちなみに、弥生時代になってからも、東日本では縄文土器の伝統を反映した弥生土器、北海道では縄文土器の直系と言える続縄文土器、沖縄諸島では貝塚時代前半の系統を引く土器が作られた。(以上wikipediaより)

縄文式土器と言えば岡本太郎によってその芸術性が語り尽くされた感があるが、私なりの意見を述べることにする。弥生式土器と比べてみると明らかだが、弥生式土器は単なる機能性のみで作られており、ただの器でしかなく、その傾向は現在まで続いている。要するにものが入ればいいという観点から最も単純な形が選ばれている。

一方縄文式土器は、火焔文様と呼ばれる取っ手から上部にかけての飾りがあり、これは単なる器ではなく、芸術性というか、遊び心の産物があったとしか考えられない。ということは、縄文人は余程生活に余裕があったのだろう。ちなみに土器は現在で言えば冷蔵庫とガスコンロを兼ねたような役割をしており、木の実や穀物や肉を保存するだけでなく、それを煮ることが出来たのである。東アジアで同時発生的に生まれたとしても縄文土器が日本にあったことは日本人として誇らしく思う。

 


白洲次郎発言集

2016年08月08日 | 歴史

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私が小野洋子ほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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  • 「われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない」(Although we were defeated in war, we didn't become slaves.)
  • 「僕は手のつけられない不良だったから、島流しにされたんだ」(ケンブリッジ大学に留学した理由を問われて)
  • 「Masa: You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals. Jon」(交際中に正子に送ったポートレートに添えられた言葉。Jonは次郎のことである)
  • 「お嬢さんを頂きます」(正子との結婚を承諾してもらうため、正子の父・樺山愛輔に言った台詞)
  • 「ネクタイもせずに失礼」(新婚当初、正子との夕食の席で)
  • 「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」(GHQによる憲法改正案を一週間缶詰になり翻訳作業を終え、鶴川の自宅に帰ったときに河上徹太郎にはき捨てた台詞)
  • 「吾々(われわれ)の時代にこの馬鹿な戦争をして、元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的の立て直しを要求しているのだと思う」(『頬冠りをやめろ―占領ボケから立直れ』より)
  • 「憲法にしろ色々の法規は、米国でさえ成立不可能な様なものをどしどし成立させ益々得意を増していった。一寸夢遊病者の様なもので正気かどうかも見当もつかなかったし、善意か悪意かの判断なんてもっての外で、ただはじめて化学の実験をした子供が、試験管に色々の薬品を入れて面白がっていたと思えばまあ大した間違いはなかろう」(「文藝春秋」1954年臨時増刊号より、GHQ内部の人々を評して)
  • 「自分は必要以上にやっているんだ。占領軍の言いなりになったのではない、ということを国民に見せるために、あえて極端に行動しているんだ。為政者があれだけ抵抗したということが残らないと、あとで国民から疑問が出て、必ず批判を受けることになる」(日本国憲法制定を巡ってのGHQとの攻防の折、宮澤喜一に対して)
  • 「この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった。歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える」(『プリンシプルのない日本』より)
  • プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。…西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい」(「諸君」昭和44年(1969年)9月号)
  • 「新憲法のプリンシプルは立派なものである。主権のない天皇が象徴とかいう形で残って、法律的には何というのか知らないが政治の機構としては何か中心がアイマイな、前代未聞の憲法ができ上ったが、これも憲法などにはズブの素人の米国の法律家が集ってデッチ上げたものだから無理もない。しかし、そのプリンシプルは実に立派である。マッカーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」(『プリンシプルのない日本』より)
  • 「私は、“戦後”というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて“戦後”は終わったと自己満足してもよかろう」(『プリンシプルのない日本』より)
  • 「占領下の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいたとすれば、ただ二人――一人は吉田茂であり、もう一人はこのぼくだ。吉田さんは、そのことが国民の人気を得るところとなりずっと表街道を歩いたが、もう一人のぼくは別に国民から認められることもなく、こうして安穏な生活を送っている。けれども一人くらいはこういう人間がいてもいいとおもい、別にそのことで不平不満を感じたこともないし、いまさら感ずる年でもないと思っている」(『「占領秘話」を知り過ぎた男の回想』より)
  • 「税金がふえて、我々の生活が今よりぐっと苦しくなっても、なお外国の軍隊を国内に駐留させるよりもいいというのが国民の総意ならば、安保など解消すべし」(「諸君」昭和44年(1969年)9月号)
  • 「死んだらこれに“俺の墓”と彫るんだ」(東北電力会長時代、只見川柳津ダム建設現場を訪れた際、石を見つけて)
  • 「“No Substitute”(かけがえのない)車を目指せ」(2代目トヨタ・ソアラ開発に際して開発責任者の岡田稔弘に)
  • 「人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人には嫌われるように積極的に努力しないと良い仕事はできない。」(東北電力会長時代にダム建設を請け負っていた前田建設工業社長・前田又兵衛へのアドバイス)
  • 「地位が上がれば役得ではなく“役損”と言うものがあるんだよ」(犬丸一郎帝国ホテルの社長に就任するに当たって贈った言葉。地位に固執しなかった白洲の考え方が良く表れている)
  • ツイードなんて、買って直ぐ着るものじゃないよ。3年くらい軒下に干したり雨ざらしにして、くたびれた頃着るんだよ」三宅にアドバイスとして。
  • 「わからん!」(正子の『西行』を読んで)
  • 「一緒にいないことだよ」(晩年、夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて)
  • 「Hope She will be MORE TIDY! 1979」(武相荘にあるブラシ入れの底裏のメッセージ。おそらく正子へのうっぷん)
  • 「今の政治家は交通巡査だ。目の前に来た車をさばいているだけだ。それだけで警視総監にはなりたがる。政治家も財界のお偉方も志がない。立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違いしている奴が多い」(「週刊朝日」1976年(昭和51年)11月18日号)
  • 「相撲も千秋楽、パパも千秋楽」(晩年、東京赤坂・前田医科病院に入院する前にテレビで相撲を見ていながら、長女の(現・牧山)桂子に向かって)
  • 「右利きです。でも夜は左」(入院した病院で看護師に「右利きですか?左利きですか?」と尋ねられて。ちなみに“左利き”とは“酒飲み”という意味を持つ)wikipediaより

 

白洲次郎が「しかし、そのプリンシプルは実に立派である。マッカーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」と発言していたのには驚きました。

皆さんもご存じでしょうがソフトバンクのCMでは白洲次郎を茶化したとしか思われない内容のものが流されているようですが、所詮孫などというのは在日ですから仕方ないことですね。(本人は先祖は中国だと言っていますが)

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全くない話をしますが、facebookでは嫌な相手をブロックできますが、現実生活では嫌な相手をブロックすることが出来ません。嫌な相手は個人情報ですから言えません(ヒントは●●ww)ではありませんよ。K君w。


石原莞爾とは(その2)

2016年03月27日 | 歴史

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(あと一カ月ほどで決定版が出ます。既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げます。いまのうちに増補改訂版を購入すると非常にお得です。決定版は3千円ですから)http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html 一回目の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私が小野洋子ほどの資産家であれば5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp

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 太平洋戦争へと到る激動の1930年代において重大な役割を果たした陸軍軍人である。満州事変2・26事件、そして日中戦争に関わり、その個性的な才能は多くの追随者を生み出した。

日中戦争は東アジアの中の仲間内での争いであり、速やかに終わらせることが、必要であると考えていた。

法華経・日蓮信仰と結び付いた独特の歴史観・戦略観を持っていた。

『世界最終戦論』では、最終戦争は日本とアメリカにおいて行われる。そのために日本は力を蓄えなければならない。そのため、現在の戦争(日中戦争・太平洋戦争)は時期尚早である、と主張した。

最終戦争は圧倒的な武器によって一瞬の内に勝負が決まる、と考えていた。

昭和12年(1937)1月の林銑十郎内閣の組閣の際には、板垣征四郎陸相・末次信正海相等を実現しようと画策するが失敗。

東条英機と対立。太平洋戦争前に現役から離れる。在野で、東亜連盟の運動を強力に進める。

国柱会会員。

敗戦後戦犯として裁かれることはなかったが、証人として訊問を受ける。

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父親の転勤のため、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であった。まだ小学生でなかった石原を姉が子守のため学校に連れて行った時には、教室で大暴れして戸を叩きながら「破るぞ、破るぞ」と怒鳴り散らした。しかし、利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると、一年生で一番の成績であった。また、石原の三年生の頃の成績を見てみると読書算数作文の成績が優れていた[5]

また、病弱でもあり、東北帝国大学付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると、小児時代に麻疹にかかり種痘を何度か受けている[5]

石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた[5]

明治35年(1902年)、庄内中学二年次途中で仙台陸軍地方幼年学校に受験して合格し、入学した。石原は、ここで総員51名の中で一番の成績を維持した。特にドイツ語数学、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で、器械体操剣術などの術科は不得意であった。

明治38年(1905年)には陸軍中央幼年学校に入学し、基本教練や武器の分解組立、乗馬練習などの教育訓練を施された。石原は、学校の勉強だけでなく戦史哲学などの書物をよく読んでいた。田中智学法華経に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は、仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。この上には、横山勇、島本正一などがいる。また、東京に在住していたため、乃木希典大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている[6]

明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入学し、ここでも軍事学の勉強は教室と自習室で済ませ、休日は図書館に通って戦史や哲学、社会科学の自習や名士を訪問した。学科成績は、350名の中で3位だったが、区隊長への反抗や侮辱のため、卒業成績は6位であった。

士官学校卒業後は、歩兵第65連隊に復帰して、見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここでは、軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、箕作元八の『西洋史講話』や筧克彦の『古神道大義』など、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。南次郎よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には、孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて、共に「支那革命万歳」と叫んだという。

連隊長命令で、不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。受験科目は、初級戦術学、築城学、兵器学、地形学、交通学、軍制学、語学数学、歴史などであり、各科目三時間または三時間半で解答するというものであった。部隊長として勤務することを望んでいた石原は、受験に対してやる気はなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく淡々と普段の部隊勤務をこなし、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。しかし、その試験に合格し、大正4年(1915年)に入学することになる。ここでは、戦術学、戦略軍事史などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を思想宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。

大正7年(1918年)、陸軍大学校を次席で卒業した(30期、卒業生は60人)。首席は、鈴木率道であった。卒業論文は、北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。

ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンフリードリヒ大王らの伝記を読みあさった。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者として知られる。大正12年(1923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。そのころ田中智學には「人殺しをせざるをえない軍人を辞めたい」と述べたといわれる。

石原が昭和2年(1927年)に書いた『現在及び将来に於ける日本の国防』には、既に満蒙領有論が構想されている。また、『関東軍満蒙領有計画』には、帝国陸軍による満蒙の占領が日本の国内問題を解決するという構想が描かれていた[7]。昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして、関東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行し、23万の張学良軍を相手に、わずか1万数千の関東軍で日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であった。しかし、その実は、石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。

昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立った。この時の石原の態度について、昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している[8]。 この時、ほとんどの軍中枢部の将校は、反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は、反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて、石原の登庁を陸軍省入口で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ、参謀本部に入った。反乱軍は、石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった[9]。また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考えが違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか」と威嚇的に訊ねられるも、「俺にはよくわからん。自分の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と言い、「こんなことはすぐやめろ。やめないと討伐するぞ」と罵倒し、石原の凄まじい気合いにおされて、栗原は殺害を中止し、石原は事なきを得ている。

1930年代後半から、関東軍が主導する形で、華北や内蒙古を国民政府から独立させて勢力圏下とする工作が活発化すると、対ソ戦に備えた満州での軍拡を目していた石原は、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることは看過しがたく不拡大方針を立てた。

1936年(昭和11年)、関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、中央の統制に服するよう説得に出かけた時には、現地参謀であった武藤章が「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。

1937年(昭和12年)の支那事変日中戦争)開始時には参謀本部作戦部長であったが、ここでも作戦課長の武藤などは強硬路線を主張、不拡大で参謀本部をまとめることはできなかった。石原は無策のままでは早期和平方針を達成できないと判断し、最後の切り札として近衛首相に「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したものの、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時の関東軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢と対立し、9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍へ参謀副長として左遷された。

昭和12年(1937年)9月に関東軍参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。翌年の春から参謀長の東條英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにした。以後、石原の東條への侮蔑は徹底したものとなり、「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと罵倒し、事ある毎に東條を無能呼ばわりしていく。一方東條の側も石原と対立、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。昭和13年(1938年)に参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に補せられ、さらに同14年(1939年)には留守第16師団に着任して師団長に補せられるが、これは東條の根回しによるものと考えられる。太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に現役を退いて予備役へ編入された。これ以降は教育や評論・執筆活動、講演活動などに勤しむこととなる。

現役を退いた石原は昭和16年(1941年)4月に立命館総長中川小十郎が新設した国防学講座の講師として招待された。

日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、政治学経済学を教える大学には軍事学の講座が必要だと考えていた石原は、大学に文部省から圧力があるかもしれないと総長に確認したうえで承諾した。昭和16年の『立命館要覧』によれば国防学が軍人のものだという旧時代的な観念を清算して国民が国防の知識を得ることが急務というのが講座設置の理由であった。さらに国防論、戦争史、国防経済論などの科目と国防学研究所を設置し、この研究所所長に石原が就任した。講師には第一次世界大戦史の酒井鎬次中将、ナポレオン戦史の伊藤政之助少将、国体学の里見岸雄などがいた。週に1回から2回程度の講義を担当し、たまに乗馬部の学生の課外教育を行い、余暇は読書で過ごした。

しかし東條による石原の監視活動が憲兵によって行われており、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告されている。大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して講義の後任を里見に任せた。送別会が開かれ、総長等の見送りを受けて京都を去り、帰郷した。この年の講義をまとめた『国防政治論』を昭和17年(1942年)に聖紀書房から出版した。

昭和19年(1944年)6月、柔道家の牛島辰熊津野田知重少佐は、東條英機首相暗殺を企てた[12]。共に東亜連盟で石原莞爾に師事していた。

津野田は、大本営参謀部三課の秘密文書を読み、予想以上の日本軍の惨敗ぶりに愕然とし、牛島辰熊に相談した。「このままでは国民は全滅だ」と悟った2人は、東條を退陣させて戦争を止めるために、皇族への「大東亜戦争現局に対する観察」という献策書を書き上げ、三笠宮高松宮らを通じて直接お上へ渡してもらうことにした。

2人は、献策書を持って石原が蟄居する山形県を訪ねた。石原は献策書を通読すると「一晩考えさせてくれ」と言って2人を泊まらせた。その献策書の欄外には、はっきりと「非常手段、万止むを得ざる時には東條を斬る」と書かれていたからである。次の日の朝6時、津野田と牛島を座敷に通した石原は、「今の状態では万事が手遅れだ」と言って赤鉛筆を取り、献策書末尾に「斬るに賛成」と書いた[13]

石原の賛意を得た津野田と牛島は、勇んで東京に戻り、暗殺方法について話し合った。結果、習志野のガス学校で極秘開発されていた青酸ガス爆弾「茶瓶」を使い、牛島辰熊が実行することになったが、直前になって東條内閣が総退陣となった。しかし、東條退陣後、どこで計画が漏れたのか、2人は9月に逮捕される。

後年、作家の増田俊也は、著書「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の中で、この時牛島は弟子の木村政彦を鉄砲玉(実行犯)として使おうとしていたと記した[14]

石原は、東條との対立が有利に働き、極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れた。また、実生活においては自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて同志と共同生活を送った。

石原は東亜連盟を指導しながらマッカーサートルーマンらを批判。また、戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきとし、大アジア主義の観点から「我等は国共いづれが中国を支配するかを問わず、常にこれらと提携して東亜的指導原理の確立に努力すべきである」と主張した。

終戦間もない頃、満洲事変で朝鮮軍-関東軍間の連絡将校を務めた、元陸軍少将で大亜細亜協会幹部の金子定一が石原を訪問した際、石原が自身を訪問したマッカーサーの側近に話したこととして「予は東条個人に恩怨なし、但し彼が戦争中言論抑圧を極度にしたるを悪む。これが日本を亡ぼした。後に来る者はこれに鑑むべきだ。又、日本の軍備撤廃は惜しくはない、次の時代は思いがけぬ軍備原子力武器が支配する。」と語ったという[15]


石原莞爾とは

2016年03月26日 | 歴史

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html 一回目の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。

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日本史上類まれなる軍略の天才。知られざる名将石原莞爾将軍

日中戦争において、20倍の兵力を誇る中国軍を20分の1の兵力で打ち破った。
竹中半兵衛や黒田官兵衛。2000人の兵で徳川軍を破った真田昌幸のような戦略家である。

少年時代に乃木希典の家にアポ無しで遊びに行きご飯を食べた。
学生時代、面倒臭い写生の授業に対抗する為、一計を案じ、自分の一物を写生。「我ガ宝ヲ写生ス」と提出。教官大激怒。
戦地における便所での暗殺防止に野糞を推奨。部下の羞恥心を取り除く為、部下を集めて目の前で用便をした。
宴会で上官から酒を勧められる。「飲まぬ」。


連隊長時代。農地を避けて突撃させた演習のやり方を、視察官に咎められた時は死んだふりをしてやり過ごした。
2.26事件時に荒木貞夫大将と出会った時、おまえのせいだ馬鹿を連発。荒木は若手将校をとても可愛がり、それが彼らの増長につながった事を咎めての事だと思われる。当然荒木大激怒。当時石原の階級は大佐であった。
東條英機を「東條上等兵」と評して嫌い、それを隠そうともしなかった。講演会で東條英機は銃殺されるべきと暴言。慌てる開催者のフォロー虚しく、これは公的な発言ですと嘯く。
辻政信から「導師」と呼ばれて心酔されていた。
東京裁判出張所に赴く為にリアカーを使い、運転手は大山倍達たちが務めた。

石原莞爾、満州を「王道楽土」にする思想に触れて、「日本人、満州人、中国人さらにシナ人も含めて利己的権益は放棄し、各民族協和の独立国をつくって、東亜に理想国をつくる。これこそ、最良の国防政策(日本にとって)でもある」

 昭和二十一年四月は、講和条約締結前で、まだ交戦状況下にある。他の軍人たちは自殺・自決したりして自ら「心の法廷」に決別したが、石原は連合軍最高司令官マッカーサーや米大統領トルーマン、アメリカ国民に向って堂々と反論した。それがマーク・ゲインの『ニッポン日記』に、こう書かれている、
「私が現役に止まっていたら、あなた方アメリカ人にもっと金を使わせたでしょう。戦線を縮少し、アメリカの補給路を延長させ、日華事変を解決すればもっとうまくやれたと思う(中略)。日本の指導者たちがミッドウェーの敗戦の意義を埋解し、ソロモン群島の防衛線を強化していたら、太平洋の広さが日本に味方していたにちがいない。山本五十六大将らは誤りを犯した。どこに根拠地を求めるかを知らなかったからだ。サイパン失陥を聞いたとき、私は敗戦を覚悟した」


「私は支那とは和平できたと思っている。われわれは東亜連盟に非常に確信を持っていた。その精神を中国民衆に浸透させることができたら、戦いを終ることはできた。東亜連盟は終始非侵略主義だった。連盟は、中国が満州国を承認さえすれば、日本軍隊は中国から撤退しうると論じた。蒋介石は相互に結末をつける段どりとなっていたから満州国を承認しただろう。私は終始、中国本土から撤退し、満州国をソ連との緩衝地帯にせよ、との意見だった。勿論我々はソ連と戦う意志はなかった」
 そして石原は、東條について「無能な男」と語る。
「対中国政策に関しては、東條と私との間に別に意見の相違はなかった。なぜなら、東條という男は、およそプラン(作戦)など立てる男ではないからだ。彼は細かい事務的なことはよくできる。しかし中国政策というような大問題に関しては全く無能だった。彼は臆病者で私を逮捕するだけの勇気もなかった。東條のような男やその一派が政権を握りえたという事実が、すでに日本没落の一因でもあった」
 さらに東條に迫害され続けた東亜同盟会員とマッカーサーについても語っている。
「不幸なことは、東亜連盟は貴国の命令で解散させられた。東條も連盟を弾圧しようと試みたが連盟は朝鮮でも満州でも、また支那においても力強い勢力を維持し続けただろう。マッカーサーが東亜連盟を解散させたとき、我々は旧日本の軍国主義とアメリカの軍国主義者とは何の違いもないことを知った。東亜連盟こそ、共産主義思想と対等の条件で戦える唯一の組織だった」


ブログ「陸軍飛行第244戦隊ー調布の空の勇士たち」に目を見張った

2014年04月23日 | 歴史

様々な経緯を経て、府中飛行場の陸軍飛行戦隊による防空発進から知覧の特攻隊まで幅広く記録研究された、桜井隆(昭和26年生まれ)のブログを見つけ、ブックマークの10番に入れた。

調布で生まれた桜井氏が膨大な資料を集め、また聞き取りを重ねて自費出版の形でタイトルの本を出すのだが(こんな貴重な本すら自費出版扱いになっている日本の文化レベルと出版不況にタメ息が出る)、ブログをほんの一部読んだだけでも、一市民が一つのことに興味を持ち、一気に才能が開花して史実研究者に育っていく過程が分かり、感動を受けた。

余談になるが、私の母は青春を軍属として満州で過ごした。そのとき志願して選ばれた女性軍属は30人、母は戦争大嫌いだったために軍需工場には行かず唯一看護婦助手になって助産婦の免許を取った。軍属とは軍人と同じ立場の文官だから、病院に入るのも軍人に敬礼され、待遇もよかったらしい。そして、「B29に日本の飛行機が特攻突撃した。最後のほうでは飛行機がなくなりヘリコプターで突撃した。B29はビクともせずに飛行機やヘリコプターがバラバラになって落ちてきた」と時々語る。なにかの見間違いではないかと思っていたが、このブログを読んで本当にB29への体当たり攻撃があり、撃墜した上でしかも生還例が記されている。特殊な体当たり方法だと想像するが、まだ詳細は分からない。

(さらに余談が続くが、八王子市の総務課と地元の八王子テレメディアが連携して、こういう貴重な戦争経験者の記録を残し、共にアーカイブを置いて定期的に放映するという構想を、地元ビデオクラブの会長の助言も得て、私は市とテレビ局に何度か電話で趣旨を説明し実行するように段取りをつけた。テレビ局とは半年ぐらい前から折衝している。彼らがどれだけ動いてくれるか待っている状態である。母だけでなく、南方戦線から生還した96歳の男性や、被災者の側だが多分唯一残っている「待合」の女性経営者(長らくお会いしてないがお元気だろうか)など何人か私と個人的接点のある情報源もある。すぐに動けば今なら辛うじて戦争を現役で体験した90代の生き証人の声が拾えるだろう。だれも動かないなら私が動かざるを得ないが、個人では限界がある。

尚、これに類した過去の思い出として、戦前の小型映画の価値とその収集保存公開の意義を当時の日本フィルムセンターに強く訴えたが黙殺され、何年か後に海外でその重要さが指摘されて慌てて動いたときは、ほとんどの生き証人が逝去されていた、という研究者時代の苦い体験がある。公務員になって身分保障される立場に立つと切迫感(埋もれる文化への哀れみの情)が鈍くなるのだろう。二の舞にならなければいいが、と思っている。ついでに言えば、もし天命が私に健康と経済の余力を許すなら、浪曲の譜面の保存と演奏者の育成を促進する企画を実行してみたい。浪曲はオペラにも劣らない日本の伝統演芸である。この灯火を消してはならない)

本題に戻る。私は桜井氏のブログを一見して、元々研究者の才能があったのだろう、厳格な実証主義の立場が貫かれているのに強く感動した。例えば、映画化された特攻隊を扱った戦争映画『月光の夏』に対してhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/gekko.htm で指摘をしている。余り美化せず、情緒や感傷に浸らず、虚構と事実を峻別せよ、との、資料を持って語らせる有無を言わせぬ反論である。

一方、

「「あゝ祖国よ恋人よ―きけわだつみのこえ 上原良司」という本の、韓国のテレビが取材、放映して「いまや世界の上原良司になりつつある」などと、はしゃいだ「あとがき」の中に、その番組が賞を受けたと書いてありました」

から始まるhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/uehara.htm では特攻隊を反戦の材料とするイデオロギーに対して、これも事実を指摘した上で反論する。一部引用する。

 現役将校を養成する陸軍士官学校の場合、いかにも軍国少年が集まったかのように思われるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。

 予科士官学校は中学4年程度の学力で受験できたため、「腕試し」で挑戦して受かってしまった者や、一人でも多くを陸士へ送りたい学校側が、成績はよいが経済的に大学進学が困難な生徒を受験させた例も少なくありません。
 入校当初は、天皇制を批判する生徒さえいたそうです。しかし、それを排除するのではなく、教官が真心と情を持って時間をかけて生徒を感化し、卒業までには一人前の軍人に育てたのです。

 上原少尉の場合には、操縦と同時並行の速成教育ではありますが、それでも無事に少尉に任官しているわけですから、彼の言動は陸軍にとっては許容範囲だったことになります。
 また、彼は自ら志願して合格した幹部候補生(特操)の課程を修了、少尉任官を果たし、そして命令を忠実に承行して戦死しました。その軌跡と結果を見れば、
彼が立派な陸軍将校であったことは明白な事実です。

 上原少尉と56振武隊の同僚である小沢(こざわ)幸夫少尉は、飛行機受領のために一旦調布に戻った際、同期生が渋谷の神泉で開いた送別の宴で6航軍参謀の言動を批判し、
「俺はあんな奴らのためには絶対に死にたくない」
と、語っていました。でも彼もまた、命令を承行して特攻戦死を遂げました。

 特操に限らず特攻隊員の中で、疑念を抱かず全てを納得して死んでいった者など、果たしていたのでしょうか。けれど、苦悩しながらも、軍人としての責務は皆、忠実に果たした。そこが立派なんです。

 上原少尉も、決して戦争を否定していたわけでも、軍を否定していたわけでも、国家を否定していたわけでもありません。ただ、客観的に、この戦争に勝ち目はないと考え、それを表明していただけです。

 にも拘わらず、編者は「思想形成」「思想変革」「思想闘争」などの耳慣れない言葉を羅列して、上原少尉を「思想家」に祭り上げようとしています。
 軍人としての彼を評価せずに、いかにも彼が反戦あるいは反天皇制国家の闘士でもあるかのようにアピールすることは、上原少尉に対して実に非礼だと私は思います。

 更に、編者は「農民兵士」(これも学徒兵も、おかしな言葉です)
の残した紋切り型の遺書と上原少尉の遺書を比較して、その違いを「先進的」と賞賛しています。
 しかし、上流の裕福な家庭に育って大学にまで進んだエリートと、高等教育は受けていないであろう、ごく普通の庶民の文章が、元々同じであるはずがないです。また前述のように、彼が言いたいことを言えたのも、厳格な階級社会である軍の中で、将校という立場であったことと決して無縁ではありません。
 比較するのなら、編者が「高い教養を身につけた…」と書く、「学徒兵」のそれと比較すべきでしょう。

事実を踏まえて論じるからブレがない。作意が無い。中々出来ないことだである。

その素晴らしい業績はブログを読んでもらうことにして、興味深い逆説を発見した。これほど実証的客観的な姿勢を貫くと、逆に神秘体験を繰返すらしい。次のような記録が散見できる。ブログ中「私の原点」より引用する。


 正直なところ、つい数年前までは自分自身が本を書くなどとは夢にも考えておらず、244戦隊は有名な部隊なので、誰かの手によって記録が出版されるものと確信し、それを待っていた。が、一向にその気配はなく、このままでは30年来の疑問を永遠に晴らせないのでは…と不安を感じ、しびれを切らして自ら乗りだしてしまった。

 平成2年に本格的調査を開始以来、不思議なことはいくつもあった。目に見えない誰かが、天の高いところから眺めていて指図してくれているとしか思えなかった。なかでも、かつての飛行場用地で、陸軍の飛行服を着て南西の空を静かに見通している大学生くらいの青年を一瞬目撃し、後日その人物が特定できたという体験は、我ながら信じ難いものだった。彼は、昭和20年6月、沖縄の海に散った特攻隊員だったのである。
 生まれて初めて出会ったこの出来事はショックだったが、長年会いたかった旧友に会えたようで嬉しくもあり、沖縄の海の底から40数年の歳月を超越して何かのメッセージを伝えに来てくれたものと確信した。彼が言いたかったことは何なのか考え続けたが、自分なりにこう結論してみた。
「予断や虚飾を排して実相を記録しろ…」と。

 だが、村岡戦隊会長が「自分も戦隊史を書きたかったが余りの資料のなさに断念した」と言われるように、戦隊に関する確たる資料は皆無に近く、作業は困難を極めた。それでもここまで来られたのは、天佑に違いない。
 「自分がやらねば…」という使命感が徐々に強まる一方、まだ多くの戦隊員各氏が健在である今日、244戦隊の一ファンでしかない人間が、おこがましくも「戦隊史」などと銘打って、さも見てきたようなことを書いていいものか…という疑念もつきまとい、果たしてどこまで実相に迫れたか自信はない。もしできることなら、特攻隊の彼にも感想を聞かせてほしいものだと思っている。

1995年夏 櫻井 隆

 

 

さらに「陸軍特攻」の中の「黒木少尉の微笑」の項では以下のような不思議な体験を綴られている。

 そんな知覧での写真の中で、私が以前から気になっていた一枚がありました。
 その写真に写っている特攻隊員の、死の直前にも拘わらず、全く緊張も不安も感じられぬ、微笑さえ浮かべた表情は私にとって衝撃でもあり、これが誰なのかを知りたいと思っていたのです。

 その後、「従軍カメラマンの戦争」という本の中に同じ写真が掲載されていて、この操縦者が、調布から出た55振武隊の隊長黒木國雄少尉(陸士57期)であることを知りました。
 黒木少尉の知覧での様子は、本書にも、高木氏の「知覧」にも、このサイトにも詳しく書かれておりますが、死の直前の彼が、何故こんなにも穏やかな表情を浮かべ得たのでしょうか。
 そして、彼の視線。いったいどこを見ているのだろうか。このときの知覧飛行場が映っているのか。いや、もっともっと遙か遠くを眺めているように、私には思えてなりません。

 作家の伊藤圭一氏が以前新聞に、「戦記を書いていると、英霊が導いてくれたとしか思えない経験をする」という意味のことを書かれていましたが、私も航空戦史に関わるようになってから実に不思議な出来事に出会いました。

 本を書く端緒にもなったのが、平成2年に、かつての飛行場の用地で160振武隊の佐々木少尉が私の眼前に現れたことです。
 佐々木さんは、更に今から6年ほど前の秋の夜、「ドーン」という家を揺るがすほどの衝撃音(完全に地震だと思った)とともにこの世に姿を現されて、その時には家族が間近で目撃しています。
 この事件を英霊からのメッセージと受け止め、その意味するものを半年悩み考え続けた末の結論が、実は当サイトの開設でした。

 これを戦隊会で話したこともありますが、「あぁ、あなたも。やっぱり…」という反応が多く、不思議がる人がいないのです。
 死が身近な戦争の時代には、人の第六感が鋭敏になって霊的な経験をする人が多いのかもしれません。戦死する人は、一週間ほど前から死相が出て分かったとも聞きましたし、遺族の中にも不思議な経験をした人がおります。

 戦隊史に着手した当初、初対面の方に、「あなたには戦没者の亡霊が取り憑いている」と言われました。そのときはピンと来ませんでしたが、生来臆病な怠け者が、英霊に励まされ動かされて、なんとかここまでやって来れたのは事実ですから、今となってみると、やはりそういうことなのかと思います。

 最初に佐々木さんが現れたとき、決して凝視しているのではない彼の眼差しが、なんと遠くを見ているのだろうと感じたのですが、改めて思い起こすと、その視線は、写真の中の黒木少尉のそれと共通しているようです。

 では、彼らの目には何が映っていたのでしょうか。
 勿論、全くの空想でしかありませんが、昔の言葉ならば「まほろば」というのか、平和な理想郷となった遠い遠い未来の祖国の姿が見えていたのではないかと、私は考えます。だからこそ、こんな穏やかな表情になり得たのではないかと。

 


これは資料の積み上げとインタヴューによる徹底的な実証主義の調布飛行場を本拠地とする航空隊の歴史の本である。しかし、鬼神のように資料を解読し、隊員たちに感情移入するに連れて、このような神がかり的体験に至った、という点が面白い。私は現代科学は諸法実相の万分の一も解読していない、と思っているので、実証主義も神秘体験も両方そのまま受け入れる。気合の入った一本の弓が岩を貫く奇跡を桜井氏は体験されたのだろう。それは史実に迫りたい、英霊の声を聞きたい、という謙虚な心が産み出したものであり、真面目な研究者であればこういう体験をするのが当たり前、「図書館の天使」と言われるシンクロニシティの強烈な恩寵の産物だと思う。

次々とブックマークを増やしているが、これは私自身が余りに多忙なため、ここに残してあとからジックリ読もうと思うブログの本棚の意味合いもある。30代だったら徹夜でこのブログを読むところだが、早寝早起き命令が出ているのでこの辺で止めておきます。


偶感:河野談話、検閲、中井コッフの歌、封建制度のことなど

2014年03月11日 | 歴史

先ず、呉竹会アジアフォーラム「十周年記念大会」が500人を越える入場者の中で盛大に執り行われたとのこと。呉竹会がウヨもサヨも飲み込む大きな世直しの器になることを祈ると共に、大会の成功をお祝いいたします。

以下、思いつくままに記す。

 

つい先日、「安部総理が河野談話・村山談話を検証する必要性を述べたとたんに、アメリカと韓国、さらに国内から批判の声が上がっている不思議さ」、と書いた。

西村修平さんは、今更国会議員が国民に署名運動などせず早く国会で議論してはどうか、やることが遅すぎる、との意見だった。

いずれにしても、政府が調査するのはいいことだ、とヌカ喜びしたとたん「調査はするが、見直すつもりはない」との発表。アメリカの圧力に屈したらしい。日本でも「歴史は政治」の下にあり、「学の独立」は未だに実現していない、ということがはっきりした。

「見直すつもりがない」のなら時間と予算の無駄だから調査など最初からしないほうがいい。また調査結果はとっくに出ている。話にならない。が、政治の世界はカケヒキだから、調査して事実を発表し、見直さざるを得ない状況を作り上げる作戦かもしれないと、一縷の望みを残している。


*前回、終戦直後の中井コッフの短歌は、当時の世相から見れば「抵抗文学」だと書いた。原爆、極東裁判、米兵による強姦事件などを糾弾する歌を多数残している。以下その証拠を、wikipediaの「プレスコード」から引用する。

 プレスコード(英:Press Code for Japan[1])とは、太平洋戦争大東亜戦争)後の連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部GHQ)によって行われた、新聞などの報道機関を統制するために発せられた規則(新聞紙法)である。これにより検閲が実行された。

 正式名称はSCAPIN-33「日本に与うる新聞遵則」で、昭和20年(1945年9月19日発令、9月21日に発布された。「日本新聞遵則[2]」また「日本出版法[3]」ともいう。

  (略)

江藤淳の調査によって、アメリカ国立公文書館分室の資料番号RG331,Box No.8568にA Brief Explanation of the Categories of Deletions and Suppressions,dated 25 November,1946が保管されていたことがわかった[12]。この「削除と発行禁止のカテゴリーに関する解説」において次のような具体的な検閲の対象カテゴリーが30項目も規定されていた[13]。検閲では以下に該当しているか否かが調べられた。

  1. SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
  2. 極東国際軍事裁判批判
  3. GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判
  4. 検閲制度への言及
  5. アメリカ合衆国への批判
  6. ロシア(ソ連邦)への批判
  7. 英国への批判
  8. 朝鮮人への批判
  9. 中国への批判
  10. その他の連合国への批判
  11. 連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
  12. 満州における日本人取り扱いについての批判
  13. 連合国の戦前の政策に対する批判
  14. 第三次世界大戦への言及
  15. 冷戦に関する言及
  16. 戦争擁護の宣伝
  17. 神国日本の宣伝
  18. 軍国主義の宣伝
  19. ナショナリズムの宣伝
  20. 大東亜共栄圏の宣伝
  21. その他の宣伝
  22. 戦争犯罪人の正当化および擁護
  23. 占領軍兵士と日本女性との交渉
  24. 闇市の状況
  25. 占領軍軍隊に対する批判
  26. 飢餓の誇張
  27. 暴力と不穏の行動の煽動
  28. 虚偽の報道
  29. GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
  30. 解禁されていない報道の公表

民間検閲支隊(CCD)はさらに10月1日には「進駐米軍の暴行・世界の平和建設を妨げん」という論説を掲載した東洋経済新報9月29日号を押収した[14]。この記事は石橋湛山によって執筆されたものだった[15]村上義人は、これ以降、プレスコードの規定のため、占領軍将兵の犯罪自体が報道されず、各メディアは「大きな男」と暗に仄めかさざるを得なかったと発言している[16]

また、一般市民の手紙・私信のうち月400万通が開封され、検閲をうけていた[17]。さらに電信や電話も盗聴された[17]

江藤淳はGHQによる言論統制についての著書『閉ざされた言語空間』のなかで次のように指摘している[18]検閲を受け、それを秘匿するという行為を重ねているうちに、被検閲者は次第にこの網の目にからみとられ、自ら新しいタブーを受容し、「邪悪」な日本の「共同体」を成立させて来た伝統的な価値体系を破壊すべき「新たな危険の源泉」に変質させられていく。この自己破壊による新しいタブーの自己増殖という相互作用は、戦後日本の言語空間のなかで、おそらく依然として現在もなおつづけられているのである。

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もしコッフの短歌が同人誌などに公表されたら即座に検閲削除になっていただろう。その辺りの詳細は中井コッフの書画と短歌』を編集出版した薬師神義武氏がご存知と思う。(「中井コッフについて」という一文を私が書いたのは2003年、昔作っていたHPの書評欄だった。後日、薬師神義武氏本人だったかそのご子息の方だったか失念したが、丁寧な感謝の手紙を頂いたことがある。このブログの書評は当時書いたものをバックアップして2011年にこのブログに移動させたものである)。

コッフは生涯に6万首ほどの歌を詠んだ。だから決して思想歌人だったわけではなく、古典主義的な歌も恋の歌も多岐にわたっている。一番知られているのが次の歌。

  夕山に鳴きのこりたる鳥の声
       一つひゞきて静かなるかも

こういうオーソドックスな歌を詠む一方、上記のような言論と思想統制の時代に、抵抗の歌を残している業績はもっと顕彰されていい。前回のブログでは紹介しなかったが、


 豚にさえ試さぬ前に 日本の無辜の民の上に原爆落とす

 一瞬に骨となりたる三十万 魂あらば呪え鬼畜原子国

 東条氏ら七名は皆一角の人物なりき 南無阿弥陀仏

 東條氏ら 天皇陛下万歳を唱へて 安く果てしとあはれ


などの歌もある。だからこそ東条英機の孫として生まれ苛め抜かれたお孫さん(東條由布子さん「祖父東條英機 一切語るなかれ」の著者)に、愛媛の宇和島にこういう歌を歌った人がいますよ、という気持ちを込めて歌集を贈呈したわけだ。コッフ(本業は医師)の勇気は、時代状況を知れば知るほど異様なほどである。GHQに知られたら投獄されていた可能性も否定できない。

一方、映画に関しては所謂「忠臣蔵」を含め仇討ちものは上映禁止となった。封建制度は身分差別で忠君愛国思想などもってのほか、とされた。

ところが、「庶民階級に生まれるなら江戸時代に生まれたい。貴族階級に生まれるならイギリス」と言った歴史家がいる。以前どこかに引用したことがあるが、次のブログに丁寧な解説がしてあるので参考にされたい。

http://webtoy.iza.ne.jp/blog/entry/851131 この中には「もちろん、だからといって平等な社会だったと言うつもりはありませんが、欧米の階級社会に較べれば驚くほど階級差の少ない社会でした。これを杉浦日向子は、武士と町人は上下ではなく、二つの社会が平行して存在していたと言っています」という記述がある。

また武士の農民にする態度はhttp://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai1.htm の冒頭に、西郷隆盛の上司に当たる迫田太次右衛門利済(さこたたじうえもんとしなりの行動について、
___________________

迫田は重税に苦しむ農民の窮状を憤り、役所の門に、

「虫よ 虫よ いつふし草の根を断つな 断たばおのれも 共に枯れなん」

 と書いて、郡奉行を辞職しました
____________________
と解説してある。

このような上司あってこそあの大西郷が生まれた。農本主義は国防と外交の基本中の基本であり、食の自給率が40%を切る日本は先進国の中では最下位、世界でも類を見ないレベルだろう。海外からの食料輸出をストップされた瞬間、日本が敗戦状態になる危険性になぜ気付かないのか、不思議でならない。

時代劇などで安易に使われる「切捨御免」にしても実態は全く違っており、これもwikipediaを引用すると以下のように厳しい規則があった。

  • 斬った後は速やかに役所に届出を行うこと
  • どのような事情があったにせよ、人一人斬った責任の重みゆえ、20日以上に及ぶ自宅謹慎を申し付けられること
  • 斬った刀は、詮議に使う証拠品として検分のため一時押収されること
  • 無礼な行為とそれに対する正当性を立証する証人も必要とされる

など、適用の条件は厳格であった。

証人がいないなど、切捨御免として認定されない場合、その武士は処分を受け、最悪、武士としたまま名誉の死を遂げる切腹も申し付けられず斬首刑を受け、お家断絶の可能性もあった。そのため本人謹慎中は家人及び郎党など家来・仲間が証人を血眼になって探すが、見つかりそうにない場合、体面を保つために評定の沙汰(裁判)を待たずして自ら切腹する者が絶えなかった。無礼討のために刀を抜いたが、相手に逃亡された場合なども武士の不名誉とされ処罰の対象であった。

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だからこそ「神崎与五郎股くぐり(侘び証文)」などの浪曲や講談が、フィクションにせよ、説得力を持って受容されたのである。斬捨ててしまったら上記の手続きで身動きが取れなくなり、血判状を交わした仲間との約束を破ってしまう。「なる堪忍は誰もする。ならぬ堪忍するが堪忍」という名台詞、私もことあるごとにこの言葉を心で呟いている。

封建時代は「男尊女卑」だったという俗説も歴史を知らない証拠である。この種の話題は尽きないので終わりにするが、ある価値づけ(善悪、正邪など)は歴史的背景や世相への理解度により、いつ逆転するか分からない非常に流動的なものだと思う。

私は脱構築という言葉が嫌いなので「自分からの脱藩」と呼んでおり、脱皮出来ない蛇は滅びる、というニーチェの言葉に賛同する。自分の思想を絶対化せず、過ちに気付けば直ぐに改め、論敵の立場も尊重できる人間になりたい。今こそ頭山満翁のような器量の大きい人物が輩出してほしいと感じる。

この何年かの間に右翼という言葉が「○○ウヨ」となり、時流に乗りすぎて変質劣化、酸化してきた感を覚える。以前の愛国右翼にはある種のオーラが漂っていた。ヤクザは金のために人を殺し、愛国右翼は祖国のためにいざとなれば命を棄てて行動するというプライドがあった。

私は「革新愛国」という言葉を使っているが、「国想う人」とでもすれば維新の会から共産党まで全てが共通部分を持つ集合になり、新たな思想と行動のモデルが見つかるのではないだろうか?アジアの対立と日本人の愚民化を喜ぶのは誰か分かり切っている以上、そろそろ一緒に脱皮しませんか?これがとりとめもない偶感の結論である。

最後に。現代は後世どう評価されるだろう?

非政府組織・国境なき記者団」が発表した「世界報道の自由度ランキング 2014」で日本は59位。幸福度については地球幸福度指数、地球幸福度ランキング、地球幸福地図など調査機関によって幅があるが40位台から90位台に位置づけられている。

 


菊竹六鼓のこと

2014年01月13日 | 歴史

ネット上の知り合いから菊竹六鼓のことを知った。以下プロフィールと彼の書いた記事を引用する。今日は風邪気味なので論評は加えず、引用のみに留める。こういう日本人もいたことを、この時代だからこそ肝に銘じたい。右翼左翼の2項対立は現在通用しない。右も左も「愛国心」は同じで、そのベクトルが異なるだけだ。現在必要なのは日本人が菊竹六鼓のような気骨を心の芯に据え、個々の立場で可能な限りの抵抗すること、と強く感じる。

①プロフィールhttp://fukuoka-senjin.kinin.com/data/item/637 より

1880年01月25日~1937年07月21日
明治13年~昭和12年

浮羽郡吉井町生まれ / 五・一五事件の翌日05月16日付け西日本新聞に掲載された論説「首相凶弾にたおる」を執筆する。

1932年(昭和07年)05月15日、時の首相犬養毅が海軍の青年将校に暗殺された。この事件に際し多くの言論人が口をつぐむなか、軍部を痛烈に批判した言論人が福岡にいた。福岡日々新聞の編集局長菊竹六鼓である。

福岡日々新聞の軍部批判に対し「久留米師団の軍用機が威嚇のため福博の街に飛来し、福岡日々新聞社の上空で爆撃訓練をした。」という伝説まで生まれた。この反骨の編集局長は後に長谷川如是閑とともに世界新聞協会の「世界の報道人百人」に日本から推薦された。

1880年(明治13年)、うきは市吉井町福益の豪農菊竹辰二郎の次男として生まれた。六鼓は二歳の時、左脚を負傷して骨髄炎となり、何度も手術したが成功せず、これが原因で生涯脚を引きずった。六鼓の号はこれにちなむという。

六鼓は障害によって言論界に身を投じる決意をし、久留米中学明善校から東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治学科に進学した。しかし、障害のため東京の「国民新聞」(徳富蘇峰)に入れず、1903年(明治36年)地元の福岡日々新聞社(西日本新聞の前身)に入社。27歳の時、野口静子と結婚した。静子は看護士として働き、質屋通いをしながらも五人の子どもを育てるなど、六鼓を物心両面で生涯支えた。

六鼓は、市民の目線からエリアの問題を果敢に取り上げた。1905年(明治38年)、日本海海戦(05月27日~28日)で大勝利し、国中が戦争の勝利に高揚していたとき、堅粕の踏切番の11歳の娘宮崎お栄が線路を歩く人に危険を知らせるため、紅白の旗を振り、自らが轢死した事件を「理想の死」として掲載した。また公娼廃止を主張したため、遊郭業者が自宅まで押しかけてきて凄んできた。しかし公娼廃止の論陣を変えることはなかった。

1911年(明治44年)に編集長に就任、1928年(昭和03年)に編集局長となった。編集局長時代の1932年(昭和07年)、五・一五事件が起きた。翌日(05月16日)に「首相兇手にたおる」の論説を掲載し、夕刊に「軍人が国を誤る・・・」を載せ、軍部の暴力を厳しく糾弾した。新聞各社が軍部の圧力に屈し口をつぐむなか、菊竹六鼓は「うちはいつもの通りいきましょう。」との方針を確認し、05月17日は「敢て国民に覚悟を促す」、05月19日は「騒擾事件と世論」を掲載した。福岡日々新聞の論説に久留米第12師団の将校達は「反軍」だと怒り、軍用機の威嚇飛行の噂さえ流れた。

五・一五事件の一周年の1933年(昭和08年)、「憲法かファッショか」の論説を掲載したが、同年日本は国際連盟を脱退し、一歩一歩と暗い時代に進んでいった。 1935年(昭和10年)に福岡日々新聞社副社長兼主筆に就任した。

羽織袴で通し「古武士」といわれた反骨の言論人菊竹六鼓はデリケートな神経の持ち主でもあった。若くして編集長になった六鼓は、先輩のイジメにあいノイローゼ気味となった。これを献身的に支えたのは妻静子であった。また公娼廃止を唱えながらも、妻以外の女性と情を交わしたことも弱さのあらわれであった。

1937年(昭和12年)07月、結核で倒れた六鼓は、新聞社の仲間や家族に後事を託し、皆に看取られながら薨じた。享年57歳であった。

k・s

②彼の書いた記事 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E7%AB%B9%E5%85%AD%E9%BC%93 より

理想の死

花の下にて春死するも理想の死なるべし。巌頭に所感を書して飛瀑に投ずる(藤村操のこと、転記者但書)も理想の死なるべし。されど、かくの如きのいわゆる理想の死なるものは、世を棄て世に棄てられたる、要もなき望みもなき出家者流の蟲のよき注文のみ、宇宙と人生と社会と人間とを誤解悲観したる末の自暴のみ。風流はあらん、同情は価いするべけんも、光輝ある尊敬すべき理想の死にはあらず。社会は空想にあらず実際なり。人生は素見(ひやかし)にあらずして真面目なる一大目的を有す。この真面目なる人間の実際社会における理想の死とは、正にその本務に斃れ、職務に殉ずるものならざるべからず。人、必ずも寿命ならずして死するも須いず、ただ高尚優婉なる理想に生くべきのみ。然れども死せば、願わくば理想の死を死なむ。 吾人に突如としてこの言あるは他なし。吾人は眼前のわが福岡において、近く四日以前において、光輝ある崇高なる理想の死を見たればなり。鉄道踏切りの一少女お栄によって示されたる一例が、吾人を感激することのあまりに劇しければなり。そも少女お栄とは誰れ、しかして彼女は如何にして死したるか。請う、少時事実の概要を語らしめよ。

少女お栄は福岡市外堅粕村松園の鉄道踏切に旗振りを務めとする山崎某の次女に生れたり。かれが高崇なる死の実例を示したる六月十七日は、あたかも少女の母某が病死後三七日(みなのか、21日法要、転記者但書)の仏事を営みし日とて、父と姉とは仏前に参じてあらず、すなわち今年わずか十一の少女お栄は健気にも紅白の旗採りて、その日信号の務めに就きたるなり。

同日、午後6時35分、篠栗行列車が黒煙をあげて進み来たりとき、少女は驚けり、線路に通行する人あると認めたり。かかるとき人と列車とに注意し警戒するは、正に少女が父と姉の当面の職務なりしなり。しかして、父と姉とにかわりてそのつとめにつきたりし少女が双肩の重任なりしなり。

彼女は呼べリ、旗十字に振りたてて呼べリ、列車来たる!列車来たる!危険なり避けよ避けよと大声に呼べリ。しかれども何事ぞ、人はなお知らざるのごとし。列車は容赦なく轣轆として来る。今は猶予すべきにあらず、少女はたまりかね身を躍らして第三踏切より第四踏切に進み行けり。旗振りたてつつ小さき声を振り絞りつつ、大胆にも進み行きたるなり。列車来たる、危険なり避けよ避けよと旗振りたてつつ、小さき声を振り絞りつつ進み行きたるなり。

少女は人を危険より救わんとして、身の人よりもなおさらに危難に瀕せるを忘れたりしなり。否な、彼女は自己の危難を念とするにはあまりにも職務に忠実なりしなり、あまりに人を救わんとするに急なりしなり。皇天に謝す。彼女が最後の一声はついに一人を惨死より救えり。しかれども何事ぞ、彼女は遂に職務に斃れぬ。行先長き彼女は、わずかに十一年の生涯をもってその生命を未来に移せり。吾人が筆を心悸に震わしつつ。一篇、理想の死と題して世人に紹介せんとする少女お栄が高崇なる死の顛末はかくの如し。

吾人は、かつて英文読本において、少女ケートの伝を読んで小さき胸を躍らせたることあり(近頃の小学読本にも其訳文ありと聞けり)。しかしてこの読本を有する国民を羨みしことあり。しかれども、今やさらに心悸の劇するを覚えつつ、眼前の事実をとってわが福岡県人とともに世人に誇りうるを悦ぶ。 可憐なる一少女お栄を有したることは、永遠にわが福岡県民の誇りなり。 広瀬中佐を出さざりしことは決して福岡県民の恥辱にあらず。東郷大将をださざりしことは決して、福岡県民絶大の恨事にはあらず。しかれども一少女お栄を出したりしことは福岡県民の永遠の誇りなり、名誉なり。

嗚呼、少女お栄! 記者不幸にして口唇韻なく、襟懐また詩なし。晦渋の筆ついにこの一大文章一大詩篇を眼前にして、これを美化し、詩化し、賛美謳歌するあたわざるを憾む。

菊竹六鼓,  福岡日日新聞 明治38年6月22日刊



大正三美人:林きむ子のことなど

2013年10月06日 | 歴史

ずは「主権回復を目指す会」からのメルマガ紹介です。urlをクリックしてお読み下さい。

歴代自民党政権が「引き継ぐ」精神構造とは
http://nipponism.net/wordpress/?p=24568

          <米韓へ言い訳に終始する安倍政権・自民党の外交政策 >

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アメリカと連帯しながらも国益は堂々と主張出来る人物として安部首相は期待されているのですが、全ていいなりになっているような気がしてなりません。消費税を上げ法人税を下げると発表した後ても支持率は上がる一方です。けれどマスコミの支持率はどうにでも操作できますから、私は信用していません。本当の景気は、支持率や経済評論家の言葉よりもタクシーの運転手さんに聞くのが一番正確、というのが私の経験則です。以下、五行歌の拙作です。

勧誘禁止のプレート無視して 新聞勧誘員ドアホンならす 嘘の報道には飽きたよ と開いたドアから 秋風の配達

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再度、「八王子五行歌会」から作品募集のお知らせです。

 ネット歌会用の投稿ルールを再度公表します。投稿先の掲示板はhttp://gogyoka.bbs.fc2.com/

今回は題詠「一目惚れ」です。

①名前は、匿名、として下さい。
②件名は、歌会用、です。
③一定数集まると応募をしめきります。
④持ち点を決めますので採点をお願いします。(凡そ投稿数の半分が持ち点です。20首なら10点など)
⑤自分の作品以外を、最高3点として持ち点を使い切ってください。気になった歌に感想もお願いします。
⑥初めて投稿される方はメルアドを入れてください(フリーメールでもOKです)。自己紹介をお願いすることもあります。
⑦採点の集計が出来たら3席までの方は必須で名前を教えてください。その他の方も感想などお書き下さい。

現在4首集まっています。

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大正三美人シリーズの最後は、江木欣々の代わりに数えられることもある「林きむ子」について簡単に記します。

美に普遍性はない、と言いましたが、逆に言えばその時代と地域によっては定まった顔の造形が好まれるわけで、大正三美人の中で一番綺麗なのは林きむ子というのが定説になっています。http://lifeplan-wec-s109235.seesaa.net/archives/20120521-1.html ここに3枚の写真があります。今でも通用する美人ですね。

以下wikipediaから引用します。

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 林 きむ子(はやし きむこ、明治17年(1884年12月1日 - 昭和42年(1967年2月2日)は舞踏家、作家、社会運動家、実業家。大正三美人の1人として数えられる場合もある。戸籍名は「きん」。日本女子美術学校卒業。日本舞踊協会監事。明治大正期に流行した「美顔水」の考案者とされている。

 生涯

 きむ子は東京の柳橋に生まれ、父は狂言浄瑠璃の祖といわれる初代豊竹和国太夫。母は女義太夫の初代竹本素行。異父弟に曾我廼家弁天藤間林太郎。俳優の藤田まことは甥に当たる。娘に舞踊家の林一枝、知恵ら。知恵は後に現在千葉県にある三育学院大学の日本人初代学長を務めたセブンスデー・アドベンチスト教会の牧師・山本治一と結婚。治一の娘・和子の夫である左近允公は、同教会の創立者の1人であるエレン・G・ホワイトの著作を初めて日本語に訳した翻訳家として功績を残した。

 きむ子は7歳のときに新橋の料亭「浜の家」の女将・内田はな(花)の養女となり、跡を継ぐように望まれる、9歳で藤間流藤間久満、11歳で西川流の初代西川喜洲、9代目西川扇蔵に師事し西川扇紫を名乗り、三味線踊りお茶お花など、ありとあらゆる芸事を身につけたという。養家「浜の家」は頭山満杉山茂丸が贔屓にし、当時は名の知れた料亭であった。

 1904年代議士日向輝武と結婚するが、大浦事件によって輝武は狂死してしまう。

 その後、夫が死んで1年以内に6人の子供がいながら、9歳年下の詩人林柳波1919年1月に結婚したことは大正スキャンダルとして大きな話題となった。

 後に娘の美登里が亡くなる頃に夫の柳波は別の女性との間に子供が生まれて、夫はその女性のところに行き帰ってこなかったが、離婚はしなかった。

 1924年に西川流の名を返上し児童舞踊や創作舞踊を中心とした林流を創始し「銀閃会」を主宰。舞踊譜も創作。「冥府の想思鳥」「仁和寺の法師」などを多数発表。

 1966年に勲五等瑞宝章受賞。

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私の母も郷里愛媛で芸者置屋と料亭を経営して、家には三味線のお師匠さんと文楽のお師匠さんが同居し、芸者さんは藤間流の踊りを習っていました。物心付いたときにそういう環境だったので、規模こそ違いますが古き良き時代の花柳界に郷愁を覚えます。

さて大浦事件は収賄事件で夫の日向輝武は逮捕されました。今の政治家ならそれぐらいで狂死しませんから、真面目な人だったのでは、と想像します。

再婚した年下の詩人・林柳波は童謡詩人として名前がしれています。有名なのは「おうま」

(一)
おうまの おやこは 
なかよし こよし
いつでも いっしょに
ポックリ ポックリ あるく

(二)
おうまの かあさん 
やさしい かあさん
こうまを みながら
ポックリ ポックリ あるく

「海」も有名ですね。

  (一)
  うみはひろいな
  大きいな
  月がのぼるし
  日がしずむ
  
  (二)
  うみは大なみ
  あおいなみ
  ゆれてどこまで
  つづくやら

  (三)
  うみにおふねを
  うかばして
  いって みたいな
  よそのくに

そうそう「うぐいす」もよく知られ「梅の小枝で鶯が・・・」ですが、割愛します。

 それにしてもこのような純真な童謡を作詞し、きむ子のような容姿端麗・多芸多才な奥さんをもらいながら、それでも愛人に子供を作るのだから林柳波が余程道楽ものだったのか、詩人の血とはそういうものなのでしょうか。大正三美人(四美人)の生涯を見ていると、いい意味でも悪い意味でも物凄くエネルギッシュですね。女性も強い。しかもただ気が強い、とかワガママ、ではなく、飛び抜けた才能があり、日本中から批判されてもスジを通すほどの気迫があります。

伝記が出版されていてその読後感http://bfwm.jugem.jp/?eid=1166 を読むと

大正美人伝、林きむ子の生涯。
あらすじを書きとめておきたかったけど、あまりに濃い人生なので書ききれない。
とにかく美しかったらしい。
富豪の夫を亡くして財産を失っても8人の子供を育て上げたとか。
舞踊、浄瑠璃、短歌、どれも名手で教えたとか。
友人が六代目菊五郎、坂東三津五郎、野口雨情、西條八十、平塚らいてう、
浄瑠璃一中節の弟子(!)が市川猿之助etc... すごい人脈。
本の中の写真、どれもきりっと綺麗。」

あらゆる芸事に秀でて、発明家、実業家、創作舞踊家・・・道楽者の夫と離縁せず、8人の子供ということは愛人の子供まで育て上げたのでしょうか。確かに大正三美人の生涯は、庶民の生活とは程遠いアッパークラスならではの特殊性がありますが、根底には時代のエトスという最大の力が働いていたのでしょう。

例えば大正時代と言えば、大正天皇のご病気が風説と混じり、短く儚い大正デモクラシーの時代、というイメージかもしれません。しかし、次のような余り知られていない事実があります。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/daitoasensootou_taisyotennoco_outaco.htm

丸谷才一氏の評が紹介されている。これによると、「大正天皇は御水尾院以来最高の帝王歌人である」と云う。その代表的秀歌を論じながら、「とにかく傑出した力量の持主で、もしもこの才能を自在に発揮させたならば、吉井勇、斎藤茂吉、北原白秋などと並ぶ、あるいは彼らを凌ぐ、大歌人となったに相違ない」、「ひょっとすると、大正という十数年間の憂愁と古典主義との結びつきを最もよく代表する文学者はこの帝だったという想念を抱かせるかも知れない」とも評する。

 五木寛之氏も又「大正天皇の短歌を絶賛し、彼こそ歴代天皇の中で最高の歌人」と評価しているとのことである。

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遅くなりました。機会を得て大正天皇の短歌と漢詩など紹介したいと思っています。



君死にたまふこと無かれ:与謝野晶子のことなど

2013年09月01日 | 歴史

まずは「呉竹会」会員としてのお願いです。

呉竹会は新聞「青年運動」の編集や、会のHPの制作を手伝ってもらえるボランティアを募集しています。こういうキナ臭い時代だからこそ、大アジア主義の精神が益々重要です。ぜひ会員になられるようお願いすると共に、ボランティア希望の方は、03-5980-9701 (呉竹会青年部)まで電話してください。呉竹会の信条と活動については、いつものように左下のブックマーークをクリックお願いします。

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私の代表する「八王子五行歌会」(草壁焔太先生主宰)がこつこつと努力を重ねた甲斐があり、だんだん賑やかになってきた。投稿された作品がきっかけになって、私が大好きな歌人・与謝野晶子の話題になり、今日のブログは彼女について書くことにした。華麗な才能に溢れ、しかも良妻賢母の典型のような人で、私は彼女の歌だけでなく人柄も大好きである。

そこで、先ず余りに有名だけれど、意外と知られていない彼女の詩を全文引用する。

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あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ

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この歌を巡るwikipediaの記述も以下に引用する。

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晶子と親交の深い歌人であったが国粋主義者であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と国粋主義を非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月の批判を一蹴した(日露戦争当時は満州事変後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しかったわけではなく、白鳥省吾木下尚江中里介山大塚楠緒子らにも戦争を嘆く詩を垣間見ることができる)。

大町桂月は『太陽』誌上で論文『詩歌の骨髄』を掲載し「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難したが、夫・与謝野鉄幹平出修の直談判により、桂月は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は収束する。この後、1925年(大正14年)6月11日、桂月は57歳で病没するが、『横浜貿易新報』に晶子は追憶をよせた。

この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、1910年(明治43年)に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、1942年(昭和17年)に発表した『白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、戦争を美化し、鼓舞する歌を作った。例えば、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」など。このようなことから、反戦家としては一貫性がなかった。

日露戦争当時に「幸徳秋水の反戦論は大嫌いだ」と公言しているが、大逆事件では秋水ら死刑になった十二人に「産屋なる わが枕辺に 白く立つ 大逆囚の 十二の棺」という歌を1911年(明治44年)3月7日に『東京日日新聞』に発表している。刑死者の一人大石誠之助は『明星』の同人で関わりも深く、また女性でただ一人死刑となった管野スガは未決在監中に平出修弁護士に晶子の歌集の差し入れを頼んでいるが、晶子は直接差し入れなかったことを悔恨して小林天眠への手紙に残している。

1911年(明治44年)に『青鞜』発刊に参加、『そぞろごと』で賛辞を贈って巻頭を飾り、「新しい女の一人」として名を寄せた。同年、文部省内務省が文芸作品の顕彰と称し、諮問機関・文芸委員会を作ったことに対し、晶子は「栄太郎 東助といふ 大臣は 文学をしらず あはれなるかな」と皮肉に満ちて批判的な歌を作っている。文芸委員会に対しては、夏目漱石も「最も不愉快な方法で行政上に都合のいい作品のみを奨励するのが見えすいている」と言っている。

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彼女の反戦思想にブレがあったのか、それともその時その時に確固たる信念があったのかは分からない。

ちなみに、私は父が64歳のときに生まれたので、父の長兄は日露戦争で旅順で戦死している。郷土の村では唯一の志願兵だったらしい。葬儀には県知事も訪れ、墓石は県道沿いに石碑のように建てられ地元の人が供養を欠かさなかったが、時代の変化に伴い県道拡張工事に伴って(だと記憶しているが)、この石碑を移動する案が起こり、私の従兄に当たる人がノイローゼになるほど悩み交渉した結果、どうやら元の位置に落ち着いていると聞く。ちなみに私の父は戦前は大尉相当官だった。校長時代のことか助役時代のことかは分からない。ついでに言えば、戦前の教員は宮内庁から位階を叙位され、父は正六位だった(華族は従四位以上)。つまり陛下の臣民としての教育者だったのである。父は当然天皇陛下を尊敬していたが、決して自慢しない性格だったせいか、そのような賞状や数多くの勲章は皆タンスに入れて一人っ子の私にも教えなかったため、死後発見したものである。小学校時代の優等賞の賞状を除き、いつの間にか散逸しているようだ。母の上京後は親族たちが家を整理したためである。直筆の芥川龍之介の色紙や石原純の短冊などあったが、これも私が大学生時代に母が処分してしまった。

話を元に戻す。wikiの記事を見ていると、あの時代にしては意外に自由な思想が許され、交流関係も懐が深かった様子が分かる。与謝野晶子の反戦歌も、反天皇ではなく、反戦であり、軍部や役人の太政官的な横柄な態度に文学者たちが反発した様子が分かる。太宰治も元々は共産主義者で活動もしていたようだが、大東亜戦争では逆に日本浪漫派になり、戦争を肯定した。

小林秀雄の言説もwikiから引用すると

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太平洋戦争勃発時には積極的に反戦姿勢を示さず、また戦後「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない」と開き直ったかのような態度をとったことから、いち早く右翼的立場から左翼的立場に転換した人々広く非難を浴びた。一部には、これを敗戦後に戦前とはうってかわって、「右翼的文化人」から「左翼的文化人」に変貌した当時の大多数の知識人らと比して立派であると逆に評価する声もあるが、「反省しない」と言う言葉を用いて、戦前の言動を正しかったとか、悪かったとか戦後の世間一般の価値観でもって自分自身を肯定・否定しているわけではなく、戦争に負けたとたんにその立場を180度転換した戦後の世間一般の価値観でしか己の立場を決定できない人々を小林は「頭がいい人」と揶揄し、批判したのである。(『考えるヒント』読者 より)

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とあり、つまり一流の文学者たちは「流行に左右される大衆やポピュリズム知識人に反発した」と、私は好意的に解釈している。現代の日本には社会の木鐸として警鐘を鳴らす「マスコミも評論家も知識人も教育者も絶滅した」と言われるほど閉塞しているので、私は与謝野晶子、太宰治、小林秀雄の闊達な意思表示を称えたい気持ちになる。

与謝野晶子の名言も紹介しよう。http://tamiyataku.blog.fc2.com/blog-entry-195.html より

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与謝野晶子語録全8件


「厭々(いやいや)する労働はかえって人を老衰に導くが、自己の生命の表現として自主的にする労働は、その生命を健康にする」

「才能のある人の間で猛烈な競争をかいくぐってきたたくましさがないと、大きな試合では勝てない」

「人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい」

「創造は過去と現在とを材料としながら新しい未来を発明する能力です」

「夫婦は毎日毎日愛の創作をしているのだ」

「若さの前に不可能もなければ、陰影も無い、それは一切を突破する力であり、一切を明るくする太陽である」

「私たちの夫婦関係は毎日毎日新季蒔直(まきなお)しを試み、毎日毎日以前にない新しい愛の生活を築き上げているのです」

「特別に女子のためとして作られた書物は、全て女子を低能児たらしめる劣等の書である」
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私は与謝野晶子の良妻賢母ぶりや夫婦愛について多少の知識があるので、このような賢婦人がそばに居ればなぁ、と素直に思う。しかし、反論したい名言もある。

「才能のある人の間で猛烈な競争をかいくぐってきたたくましさがないと、大きな試合では勝てない」

これは現代では頂けない。バブル崩壊以降、私は「芸術家は死んだ」という言葉(ロラン・バルトだったかな?)をつくづくと実感した。作品は大したことがないのに、自己プロデュース能力が長けた「自称芸術家」が、批評能力の欠落した批評家や学芸員たちを詐欺師のように巧みに騙し、ロビー外交で受賞するという姿を嫌になるほど見てきたからである。

私の持論は、「趣味道楽遊び娯楽」が人間にとって構造的に必要なものであり、これを包括概念とすれば、芸術はその中のごく一部の過剰なものであり、娯楽と芸術の境界線は恣意的に生まれた、というものである。もちろん、だからと言って芸術が嫌い、ということではない。趣味道楽が無いと人間は生きられないという当たり前のことに気付いただけで、私は多数の論文や評論文、批評文を書いてきたが、それは「趣味」であり、面白いから書いたまでであり、そのことによって自己宣伝をする気はさらさらなかった。私の文章は多くの紙媒体に載っているが、ほとんどが依頼原稿である。

貧すれば鈍す、というが、映像関係を含め自称芸術家の中には「営業マンになったほうがいいんじゃないか」と思うほど、宣伝能力に長けた人物が多くなり、私は「芸術」という言葉を使うのさえ嫌になっている。だから、与謝野晶子の名言の一つは現代には通じない、と断言する。ただの趣味です、と謙虚にしているほうがずっと品がいい。

またこれは私自身の個性に由来する感慨だが、

「人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい」

との格言にも反発を抱く。私はいつも「器用貧乏の典型」と自称していて、興味の対象は?と聞かれると、「宇宙の全て」と答えて相手を煙に巻くのが大好きだ。私自身の個性ではあるにしても、同時に、オタクと言われ得意な分野以外は無知な人々の多い中、100芸に深く達するのもいいではないか、と思う。実際には10芸ぐらいが関の山にせよ、あらゆる分野に関心がある、という複眼的興味を失うと「オタクのまま大人になった知識人」となり下がり、総合的な感性や価値判断が狂ってくる。今はそういう時代で、本物が消えてしまった。

最後に

「特別に女子のためとして作られた書物は、全て女子を低能児たらしめる劣等の書である」

という言葉には驚いた。昔もそうだったのか、という驚きである。食堂や理髪店などで女性週刊誌が置いてあるのを手にすると、読むべき記事が一頁もないことに唖然とし、それ以来、手にしないようにしている。

化粧、ファッション、セックス、食べ物、嫁姑争い、迷信、恋占い、都市伝説、芸能人の噂・・・ほぼこれだけだ。この手の週刊誌の編集長は「完全に女性をナメている」確信犯だと思う。こんなものを1年も続けて読めば当然バカになるだろうし、知的女性は退屈でとても読む気が起こらないだろう。しかし、何十年もこの路線が変わらない。私はこの種のメディアを「日本人愚民化のためのデバイス」だと見切っているが、読む人が居るんだから、想像もつかない現象である。

最後に私の好きな与謝野晶子の短歌を幾つか紹介して今日のブログを終えることにする。有名だから皆さんご存知の筈。しかし、素晴らしく華麗な才能ですね。

金色の 小さき鳥のかたちしていちょう散るなり 夕日の丘に

清水へ 祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人 みなうつくしき

その子二十 櫛にながるる黒髪のおごりの春の うつくしきかな

道を云はず 後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ 君と我と見る

鎌倉やみ仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな

 んとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな

海恋し 潮の遠鳴りかぞへては少女となりし 父母の家