那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

秋山実之について

2012年12月23日 | 歴史
今日は天皇陛下の誕生日につき、まずはご長寿とご健康をお祈りします。

というわけで、連想が明治天皇から日露戦争に跳び、東郷平八郎の声をまず拾ってみた。晩年なので、また確か喉頭癌で亡くなられたので声には力がない。
http://www.youtube.com/watch?v=MsXkrwGa6Vg

若い頃の写真を見れば分かるようにかなりの美男で、イギリス留学をしているので英語もペラペラ、海軍でも英語で命令するので軍人たちが困ったという逸話もある。

そこで連想が秋山実之に飛んだ。(秋山も非常な美男で先祖は水軍)
http://www.z-flag.jp/saneyuki_akiyama/battle_of_tsushima/seven_step.htmlには日本海海戦に備えて秋山が立てた作戦の一つ、7段構えの戦法をこう解説している。
_____________________
然らば七段構えとは何ぞ?

これは大別昼戦夜戦と正攻奇襲を交互に活用するもので、済州島近海から浦塩沖に至る海上を七段に区分し、それぞれの区域に於て最も有効適切なる攻撃法によってこれを撃滅しようというのである。

即ち順序を追うていえば、
先づ第一段は我が駆逐隊、水雷艇隊の全力を以て彼我主力艦隊の交戦の前夜に敵艦隊を襲撃せしめ、
第二段は右の襲撃を行ったその翌日我艦隊の全力を挙げて敵艦隊に正攻撃を加え、
第三段第五段は之に引続き其夜間、我が駆逐隊水雷艇隊の全力を以て再び敵艦隊に対し、奇襲的水雷攻撃を試み
第四第六段は更に其翌日我が艦隊の大部分を以て敵の残存部隊を鬱陵島附近及び浦塩港前に追撃し、
第七段は先きに浦塩港口に敷設して置いた水雷沈設帯に敵艦隊を追い込むという用意周到の作戦で、雄大かつ緻密なることは古今の海戦を通じて未だその比を見ざる所であった。

しかし実践に臨んで諸般の事情から実際に用いられたのは、僅かに第二段から第四段までであった。何故かというと、戦争の始まったのは昼間であったが為めに、夜戦の目的の第一段は自然省かれ、第五段以下はそれを用いるまでもなく、第四段までに既に敵艦隊は全滅してしまったのでこれ又その必要がなくなったのであった。

出典: 伝記「秋山眞之」(活躍篇【下】)より
___________________________

この他、余りに有名な「T字ターン(東郷ターン)」と呼ばれるアクロバット的な戦術など
秋山は狂ったように知恵を使い考え抜いた。それで世界最強のバルチック艦隊との戦いの前夜、正夢をみる。そして正夢の通りに海戦が終わった。
 この体験から彼は神秘主義者となって、wikiによれば
_________________________
大学校教官時代に佐藤鉄太郎らが主宰していた研究会「天晴会」に勧誘されて経典を研究するようになり、晩年は霊研究や宗教研究に没頭した。軍人の信仰者が多かった日蓮宗に帰依するとともに、神道家川面凡児に師事して神道研究を行い、皇典研究会を設立した。新宗教皇道大本には海軍機関学校教官の浅野和三郎との縁(秋山と浅野の初対面は大本時代)で入信し、綾部参り等を行ったものの、目的は信仰ではなく神道研究だったとされる。大本側の資料によれば、大正5年12月14日に出口王仁三郎の招きで綾部に立ち寄り大本教主顧問となったが、大正6年5月に喧嘩別れした[2]。
大正6年(1917年)5月に虫垂炎を煩って箱根にて療養に努めたが、翌大正7年(1918年)に再発。悪化して腹膜炎を併発し、2月4日、小田原の山下亀三郎別邸にて死去した。死去直前に教育勅語や般若心経を唱えていたという。享年49。
__________________________

という不思議な生涯を短命で閉じる。
 浅野和三郎は日本における心霊学の父ともいえる人物で著書も多く、イギイスで講演なども行っている。

正夢の話は何度か書いた。それは今度まとめて記すことにして、今夜はこれにて失礼します。

阿部定事件

2012年11月22日 | 歴史
このところ、忙しくてブログの手抜きが多くなった。
ネタが切れたわけではないが、腱鞘炎もあり、中身の濃いものを書くまでの下準備に時間がかかりすぎている。
 
今日はちょっとだけ面白い話をしよう。1936年、2.26事件の起こった年だから、なんとも言えぬ暗い危機感のある時代に有名な阿部定事件が起こった。ご存知の通り、愛人の局部を切り取った愛欲の果ての猟奇殺人事件である。ちなみに、法定で阿部定は「おちんちん」という言葉を連発しているので、報道機関はこれ以来、「局部」「下腹部」という用語を使うようになり現在に至っている。そういう世相の中で阿部定事件は非常に好意的に迎えられ、時代のヒロインとなる。

私は時々「小説を書いてみたらどうか」と言われるので、何年か前にこの事件について資料を集めたことがある。が、この手の話は数多くの出版、芝居、映画化がされており、とりわけ新たな事実は見当たらなかったので諦めた。

さきほど調べたら法廷記録が収録されているサイトがあったので、阿部定の証言の一番面白いところを引用する。

http://www.namaste.sakura.ne.jp/abesada/styled/index.html
ところが石田だけは非点の打ちどころがなく、強いて云えば品がありませんが、却ってその粋なところを私が好いたので、全く身も心も惚れ込んでしまったのです。女として好きな男を好くのは当り前です。私の事は世間に判ったから可笑く騒がれるのですが、女が男のものを酷く好く様子をするのは世間にざらにあると思います。

 早い話が女が刺身を好かなくとも、亭主が好けば、自然と好く様になり、亭主の留守に枕を抱えて寝たりする事はよくある事と思います。自分の好きな男の丹前の臭をかいで気持ちを悪くする様な女がありましょうか。好きな男が飲み残した湯呑の湯を呑んでも美味しいし、好きな男が噛んだものを口移しにして食べても美味しがる事もよく世間にあります。
 
 芸者を落籍するのも、結局、自分の独占にしようとするからで、男に惚れた余り、今度の私がやった程度の事を思う女は世間にあるに違いないのですが、ただしないだけのものだと思います。もっとも女だって色々あり、恋愛本位では御飯が食べられないと思って物質本位の人もありますが、恋愛のため止むに止まれず、今度私のした様な事件になるのも色気違いばかりではありません。


結局、阿部定は「先天性淫乱症(インフォマニア)」と診断された。

そこで、私なりの考察を加えたい。
①この当時、中流以上の社会では、女性は結婚する相手に処女を与えるのが常識で「貞操観念」という道徳が生きていた。だから、阿部定は娼婦だったので別だが、この発言は今読むのと違い、非常なインパクトを与えた。
②今現在、女性が性に語るのは普通になり、自分の性体験を語るのがむしろ流行している時代、阿部定の言葉にはインパクトはない。
③女性のエクスタシーは俗に「男の100倍」などと言われるが、私の記憶では割合最近それを研究発表した暇な学者(イギリス人だったような?)がいて、約7倍前後だったように思う。それにしても気絶するのほどの快感なのだから、こういう事件は日常的にあっていいと思うが非常に少ない。
④その理由の一つは、拝金主義で打算的な恋愛関係、夫婦関係が阿部定の言うとおり普通になっているからと思われる。
⑤かと言って、恋愛と性欲一元論が美談かと言えば、これも依存症の一つであり、阿部定のように殺人事件に発展すると社会性を失ってしまう。
⑥動物と比較すれば一目瞭然だが、年中サカリが付いているのは人間のみだから、恋愛は「自然」と対立する「文化」である。が性欲は種の保存のためにごく自然な現象であるにも関わらず種の保存ではなく逆に殺人にまで及んだわけだから、「先天性淫乱症(インフォマニア)」と診断されるのは当たり前といえる。
⑦「石田だけは非点の打ちどころがなく、強いて云えば品がありませんが、却ってその粋なところを私が好いたので」は文章とし一見ておかしいが、「粋の構造」ではないが、下品と上品の中間的なところに粋は存在するので、石田は遊びなれ砕けた江戸っ子的な性格を持っていたと考えられる。(ちなみに石田は決して美男ではない。むしろブ男の部類である。阿部定は写真にもよるがなかなかの美人)。

結論:阿部定が時代のヒロインとなったのは、大東亜戦争と第二次世界大戦を直前に控えた世界最終戦争の予感の中で、冷静に見れば狂気だとしても、愛欲の究極の姿を見せた彼女の恋愛=性欲至上主義が、時代の閉塞感を打ち破る一種の救いだった。簡潔に言えば緊張の連続の中の緩和剤だった。同時に、当時の恋愛道徳の中で阿部定の率直な本音の暴露は「お上品な階級」に対するアンチテーゼだった。
 今現在も同じような時代の閉塞感の中にあるが、恋愛道徳はほぼ崩壊しているので、当時の阿部定のような役割を担うには「私は本当に尊敬できる男性が現れるまでは恋愛もセックスも一切する気がありません」と言って本当に実践すれば、相当のインパクトがあるだろう。
 以上、半分真面目で半分は息抜きに歴史の一コマを振り返ってみました。では。
 

久しぶりの飲み会と歴史の話

2012年11月12日 | 歴史
ここ二日連続してブログを休んでしまった。
というのは10日土曜日に、浪人時代の仲間が数年ぶりに集まり夜中まで飲んだからだ。
わざわざ和歌山から八王子まで来てくれた仲間もいて、私も久しぶりに夜の八王子の繁華街を歩いた。それで先ず気づいたことを一言。

①八王子の多くの飲食店が中国人経営になっている。
②「お兄さんマッサージいかがですが?本番1万円ですよ」が相変わらず跋扈して、一時期より増えている。早い話、夜の八王子は中国の植民地のようになっている。
③以前はキャバクラなどの客引きは確か店の看板の1メートル以内に限定されていて、それを破ったために多額の罰金を食らった、という話も聞いたが、これもいつの間にか無視されていた。
④昔は若い女の子はキャバクラ、30過ぎるとオバクラ、と分かれていたが、その中間の美熟キャバ?みたいなのが生まれている。

話を元に戻すと、私以外は会社のお偉いさんたちばかりで一見幸せそうな人生に見えるが、それぞれ夫婦問題や健康問題など悩み事を抱えており、たまには気分転換になるから逢おう、ということで皆無理して私の地元に集まってくれた。
 以前は京都の旅館に一泊して夕食をとり、祇園あたりで飲んだり舞妓さんを呼んだり豪勢な散財をしたものだが、私ともう一人が足が悪く、当分はその長旅は無理だろう。

浪人時代は精神的に不安定で辛い時期だから、その頃に知り合った友人は一番長続きするようだ。早速昨日このブログが入っている私のHPの五行歌掲示板に

男同士でも
浪人仲間の語らいが
とても楽しかった
早稲田鶴巻町
3畳下宿の青春

と詠んでみた。

それで色んな話のついでに「明治天皇すり替え説」は本当か、という話題になり、早速帰ったあとでネット検索してみたが、見事に賛否両論分かれていた。孝明天皇暗殺説も根強くあるし、維新の立役者の一人が「絶対に人に言えない秘密がある」と漏らしているぐらいだから様々な陰謀があったのだろう。

肯定説で説得力があるのは竜馬の子分にあたる土佐藩出身の田中光顕元宮内大臣が友人にその経緯を語った、というもので、

「斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、『私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました』
と前置きされて、
『実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領し、 代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。
吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。
薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。』

と記録があり、かなりの説得力がある。幼少の頃の写真とよく知られている明治天皇の写真はかなり相違があるのも事実だ。生涯に93000の和歌を詠まれたが、59歳で崩御されているので20歳から40年間と計算すると毎日ほぼ7首ずつ作られた計算になる。

飲み会の話と歴史の話がごっちゃになったが、ともかくこの閉塞感に満ちた時代を乗り切り、現在抱えているトラブルを解決し、楽隠居の身分になって日本中一緒に旅をしたいものだ。



薩摩義士

2012年11月03日 | 歴史
この急激に寒くなった時期、過労の上、食欲が湧かない生活を続けているせいか、熱が出てきた。今日はブログを休もうと思ったが、ごく簡単に歴史の話をする。

赤穂義士については誰でも知っているが、薩摩義士を知る人はあまりいない。以下、関連するURLを紹介する。
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E7%BE%A9%E5%A3%AB
http://www.mirai.ne.jp/~tuyoshi/matome.html
http://www.mirai.ne.jp/~wakita/osclub/manga/index.html

簡潔に説明すると、幕府から薩摩藩に激流で建設が困難な橋を作れと命令が降りる。
その結果、藩が用意した資金と期限をオーバーしたために、責任を感じた藩士52人が切腹した、という史実である。

いまなら公共事業という名目で血税をつかい、談合で建設会社が請合い、色んな人が儲かる仕組みになっている。(公共事業の談合に関しては、大企業の寡占を防止するという点からは日本人の生み出した知恵の一つだと思うので私は全否定はしない。完全な自由競争にすると大資本のみが残って中小企業が潰れてしまう)

ところで当時は事情が全く異なり、こういう事業にしても参勤交代のように、幕府が諸藩を弱体化させる手段だったので、藩は自腹を切って引き受け、なるべく安い予算で素早く工事を終わらせる必要があった。

ところが予想を上回る難工事だったために、水死者は出る(確か33人)、予算もオーバーするで、完成したときに、その工事を指揮し自らも手伝った薩摩藩士は藩主に対して責任をとり、なんと52人が切腹した。

要するに、年末調整でやらなくてもいい工事をやって予算を使いこなさないと次年度の予算がでない、などという馬鹿げた無駄遣いと丸っきり逆のシステムで、例えば八王子市が、いついつまでに○○億円で笛吹市の橋を作れ、と命じられて建設課の職員が対応し、予算と時期をオーバーしたために、八王子市長に申し訳ないと職員全員が腹を切って責任をとった、というような話である。

赤穂義士のように有名ではないが、後世まで語り継ぎたい史実と思う。

武士道とキリスト教

2012年10月31日 | 歴史

北一輝の『日本改造法案大綱』についてこのブログを書いた際、明治になって武士がキリスト教徒になった例が多いが、ややこしいので省略する、と書いた。

今日は簡単にその例を示し、理由について推察してみる。



新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、1862年9月1日(文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日)は、日本の農学者・教育者・倫理哲学者。国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。

内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日(万延2年2月13日)- 1930年(昭和5年)3月28日)は、日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。

横井小楠(明治政府の参与)の娘・海老名みや子、日本初の男女共学を受ける キリスト教連合会長として活躍(小楠暗殺の一因は日本をキリスト教国にしようとした、というガセネタだった)

今井伸郎、知る人ぞ知る坂本竜馬暗殺者(私は郷里愛媛にいたとき「坂本竜馬研究会に入り、会報に原稿を書くなどして、徹底的に暗殺者を調べたことがある。諸説取り寄せて調べたが、犯人は今井に間違いない。なお、徳川幕府にとって竜馬は前科のあるお尋ね者だったので、暗殺ではない。今井は京都見廻組み、いわば公安警察みたいなものなので合法的に斬り捨てただけである)。
 明治になり静岡県榛原郡初倉村(現・静岡県島田市)に帰農し、初倉村の村議及び村長を勤める。当初はキリスト教を迫害していたが、横浜の教会でたまたまキリスト教の教義を知り大いに感銘を受けて自らの不覚を愧じ、ついにその信者となって後半生は矯風事業に貢献した。

これはごく一部の有名人の例だが、とりあえずはこれで充分と思う。そうそう、同志社大学の創始者・新島襄もいますね。

なぜ旧武士がキリスト教徒になったのか、理由はおよそ次のように考えられる。明治になり武士という階級は滅んだ。士農工商という身分社会を、特権階級の武士(およそ人口の1%)自身が壊したのだから見事なものだと思う。この辺がプロレタリア革命と全く違う日本特有の精神文化だ。

そこで、旧武士は平民の中に溶け込まざるを得なかった。ところが平民には武士道が通じない。新たな倫理観を模索する中で、敬虔なクリスチャンの禁欲的な生き方に共鳴すると共に、キリスト教国アメリカの(金と名誉という功利主義のみの価値観)とのギャップに疑問を抱く。そこで新渡戸は「武士道」を英訳して世界的名著になったわけだ。
 要約すれば、滅び行く武士道、平民の倫理的規範とのギャップ、敬虔なクリスチャンへの共鳴という3つのベクトルの中で、新たな倫理的規範としてキリスト教徒になった旧武士が多かったというわけである。
理屈で考えればこれらは徳川幕府に従った武士の魂の彷徨(いわば信仰喪失)であり、所謂官軍のほうは天皇という絶対的な存在があったのだから、あえてキリスト教に帰依する必要はなかったと考えられる。あくまでも理屈の上の推察だが。所謂賊軍になった武士たちの評価については有名な研究者が本を出してかなりヒットした記憶があるので割愛する。

明治6年にキリスト教禁止令が解かれ、封建主義道徳を批判するクリスチャン(プロテスタント)が日本を啓蒙しに入国した背景があり、やがて尊王思想と対立していく。ややこしい話を簡単にまとめたので遺漏も多いが、ブログの一つのネタとしてはこんなところだろう。

蛇足として付け加えれば、この時代の日本のクリスチャンは物凄く禁欲的で真面目だった。
 興味のある人は日本人で最初の賛美歌を作詞した「西村 清雄」(これも旧武士)で検索してみてください。以下が有名な西村作詞の「山路越えて」です。

 山路こえて ひとりゆけど、
  主の手にすがれる 身はやすけし。

 松のあらし 谷のながれ、
  みつかいの歌も かくやありなん。

 峰の雪と こころきよく、
  雲なきみ空と むねは澄みぬ。

 道けわしく ゆくてとおし、
  こころざすかたに いつか着くらん。

 されども主よ われいのらじ、
  旅路のおわりの ちかかれとは。

 日もくれなば 石のまくら、
  かりねの夢にも み国しのばん。

       (日本基督教団,賛美歌404番)より

田中清玄のこと

2012年10月29日 | 歴史
今日はいつも利用しているNTTのリモートサポートが私のPCにどうしても入れない、という生まれて初めてのアクシデントに出会った。
 相当長くかかる問題だとのことで、それは後日にして今ブログを慌てて書いている次第。

ブックマークにあるHPから「微笑禅の会」に入り、そこから「見性体験記」を一読してもらえればお分かりのとおり、私が禅に興味をもったきっかけは井上日召とこの田中清玄という右翼思想家・活動家が共に山本玄峰の弟子だったという事実を知ったからだ。だから「田中清玄自伝」は愛読した。この時代、彼の名前を知る人は少ないだろうから、wikiからザックリと抜粋引用した上で、若干の感想を述べる。いわば歴史探訪シリーズの一つである。
____________________________________

田中清玄
田中 清玄(たなか きよはる、明治39年(1906年)3月5日 - 平成5年(1993年)12月10日)は日本の実業家、政治活動家、CIAエージェント、フィクサーともいわれる。「せいげん」とも通称された。戦前期の非合法時代の日本共産党(第二次共産党)中央委員長。転向後は政治活動家となり、戦後は実業家として三幸建設社長、光祥建設株式会社社長をつとめる。ロイズ保険の会員でもあり、日本人でロイズの会員になれたのは、田中清玄と南方哲也(元長崎県立大教授。南方熊楠の大甥)のみと言われている。モンペルラン・ソサイエティー会員。1993年(平成5年)12月10日、脳梗塞で死去。

1934年(昭和9年) 獄中で天皇主義者に転向。田中は後年つぎのように回想している。「幕末に朱子学と水戸学派によって著しくねじ曲げられた天皇だけが神であるというような狭隘な神道もまた、満足できるものでなかったことは言うまでもありません。毛沢東を絶対視した中国の文化大革命などは、私にとってはまったく気違いのたわごとにすぎませんでした。八百万の神といいますね、この世に存在するあらゆるものが神だという信仰ですが、この信仰が自分の血肉の中にまで入りこんでいて、引きはがすことができないと。そうしてその祭主が皇室であり、わが民族の社会形成と国家形成の根底をなしているということに、私は獄中において思い至ったのです。考えて考えて、考え抜いたあげくの結論でした」

1945年(昭和20年)1月、玄峰は公案に「日本をどうするか」を出した。清玄が「戦争をとめるしかありません」と言うと、「だめだ、練り直してこい」と却下。三日たっても答えられないでいると、「無条件で戦争に負けることじゃ」と怒鳴られた。本土決戦や聖戦完遂は、我執にとらわれているという。これで清玄は国を救う決意がかたまり、神中組という結社をつくる。また終戦工作に加担する。田中清玄は枢密顧問官の伊沢多喜男に相談。3月25日、赤阪で山本玄峰は鈴木貫太郎と会談、「事態を収拾できるのはあなただ」と言った。やがて鈴木に終戦内閣の大命が下り、日本はポツダム宣言を受諾した。

発言、以下、すべて『自伝』による。

尊敬している右翼は橘孝三郎と三上卓だけだといい、児玉誉士夫はもちろん、赤尾敏や野村秋介は小物としてかたづけた。右翼で最も近しかったのは四元義隆で、のちに松永安左エ門の助言で、三幸建設を譲っている。

「あんた、なんだと聞かれたら、本物の右翼だとはっきり言いますよ。右翼の元祖のようにいわれる頭山満と、左翼の家元のようにいわれる中江兆民が、個人的には実に深い親交を結んだことをご存じですか。一つの思想、根源を極めると、立場を越えて響き合うものが生まれるんです。中途半端で、ああだ、こうだと言っている人間に限って、人を排除したり、自分たちだけでちんまりと固まったりする」

「政治家なら国になりきる、油屋なら油田になりきる、医者ならバクテリアになりきる。それが神の境地であり、仏の境地だ」

「日本はあと50年アメリカと組んでいくなどと言っている小沢一郎のような考え方と正面から対決していくべきだ」
_______________________________
田中清玄のような型破りな大人物について一回のブログではとても語りきれない。
 wikiで触れていない重要なことがある。それは終戦後、田中が昭和天皇に「全国巡行」を直接提言したことだ。これにより、昭和天皇が行かれる場所は次々と舗装され、その町の基幹産業は飛躍的に生産効率が伸び、高度成長のきっかけとなった。
 余談だが、私の故郷の隣町に巡行されたときに出された高級茶菓子「山田屋饅頭」を陛下が好まれて、皇居に帰られてからも2度の注文があった。このため山田屋饅頭はクチコミだけで日本中のデパートに置かれるようになる。一時期はニューヨーク支店まで出来たと記憶している。

両極端は相通ず、という言葉がある。実際に人間は思想で動くものではない。思想などは10年もすれば古くなる。人間は人情で動くものだ。幕末の志士が命を捨てて国を守ったのは、唐人お吉のような不幸な女性が現れることへの憐れみの情だった。上陸した米兵に抱きつかれて泣いている女性がいると、浪人がサッと現れて米兵を切り倒して消えていった、という逸話がある。
 以前紹介した遠藤誠弁護士が山口組の弁護を引き受けたとき「弱気を助け、強きを挫くのが任侠道だ」と説法したように、主義主張や立場は異なっても、本物ならば響きあう何かがある。

「田中清玄自伝」はアマゾンでならタダ同然で売っているだろう。ぜひ一読され次には山本玄峰師の「無門関提唱」を熟読されることをお奨めする。これは私の人生を変えた本でした。今、夜の10時30分、まだやるべきことがあるので失礼します。


赤穂義士の辞世

2012年10月27日 | 歴史
私は元中央義士会の会員だったので、正確な文献は持っているが、下のブログから拝借した。これは全体のごく一部である。切腹を前に武士がどのような心境で歌を詠んだか、味わってみたい。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/newt/ako474.htmlより(間違いがあるかもしれない、と前書きにある)


大石内蔵助良雄 おおいしくらのすけよしたか 忠誠院刃空浄剣居士
あら楽し 思いははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

吉田忠左衛門兼亮 よしだちゅうさえもんかねすけ 刃仲光剣信士
君がため 思ひぞ積もる 白雪を 散らすは今朝の 嶺の松風  

原惣右衛門元辰 はらそうえもんもととき 刃峰毛剣信士
かねてより 君と母とに 知らせんと 人より急ぐ 死出の山路 

小野寺十内秀和 おのでらじゅうないひでかず 刃以串剣信士
忘れめや 百に余れる 年を経て 事へし代々の 君がなさけを

間喜兵衛光延 はざまきひょうえみつのぶ 刃泉如剣信士
草枕 むすび仮寝の 夢さめて 常世にかえる 春のあけぼの

堀部弥兵衛金丸 ほりべやひょうえあきざね 刃毛知剣信士
忠孝に 命をたつは 武士の道 やたけ心の 名をのこしてん

冨森助右衛門正因 とみのもりすけえもんまさより 刃勇相剣信士
先立ちし 人もありけりけふの日を ついの旅路の 思ひ出にして

潮田又之丞高教 うしおだまたのじょうたかのり 刃窓空剣信士
もののふの 道とばかりに 一筋に 思いたちぬる 死出の旅路

早水藤左衛門満尭 はやみとうざえもんみつたか 刃破了剣信士
地水火風 空のうちより いでし身の たどりて帰る 本の住家に

大石主税良金 おおいしちからよしかね 刃上樹剣信士
あふ時は かたりつくすと 思へども 別れとなれば のこる言の葉

_________________________________

まず大石内蔵助の有名な「あら楽し 思いははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」は、出だしの部分が「あら楽や」だったことが割合最近実証されている。元の歌が印刷された段階で誤字になったと記憶している。あら楽や、のほうが口語的で本当に気軽になったなぁ、という実感が篭る。言うまでもなく、かかる雲なしは、かかる苦もなし、の掛詞。武士の本懐を果たしたぞ~、という生死を超越した悟りの歌。

武士道精神(主君のために命を捨てる心地よさ)を表したものと、仏教思想を下敷きにしたものに2分できる。

「かねてより 君と母とに 知らせんと 人より急ぐ 死出の山路」は浄土思想的だし、 
「地水火風 空のうちより いでし身の たどりて帰る 本の住家に」は仏教の五大思想が背景にあり、宇宙の構成要素から生まれ、また宇宙に戻っていくという禅的な世界観を理路整然と詠んだもの。
「草枕 むすび仮寝の 夢さめて 常世にかえる 春のあけぼの」は同様の世界観をより短歌的に情景描写したもの。この間喜兵衛はかなりの年配で、息子二人と討ち入りし、一人は吉良に一番槍の高名を立てている。父親として最高の気分で満足だった様子が辞世に伺える。

まったく別の角度から詠んでいるのは大石主税(大石内蔵助の息子、享年16歳)で、
「あふ時は かたりつくすと 思へども 別れとなれば のこる言の葉」は、母親に対する未練心が主題になっている。「母上と別れの前には全て思いを述べたつもりですが、これが限りと思うとまだまだ語り足りませんでした」あるいは「あの世でお会いできれば語りつくそうと思いますが、これから死ぬ身ですので言い残した言葉が一杯あります」という意味で涙を誘わずにはいられない。

まったく個人的なことだが、私は長男に千宝(ちから)と名付けた。一つには大石主税(おおいしちから)を意識して、武士らしく生きよ、という意味。また、ち、という音は、例えば「ちはやぶる」が「神」の枕詞のように非常に強い神秘的なエネルギーを持っていること。さらに、この世は力(腕力や権力)だけではだめで経済力も必要だというところから千の宝、という意味を篭め、画数計算も大吉に整え役所に滑り込みセーフで役所に駆け込んだ記憶がある。もちろん子は宝という意味もあり、いろいろなところで名前を褒めてもらったらしい。
 面白いことに長女の誕生日が12月14日でちょうど討ち入りの日に重なる。なんの因縁か、巧く出来すぎている。

いずれにしても大石主税は恋もせず、童貞のまま、母親への恋慕の歌を辞世にした。父親の悟りきった歌といい、逆に息子の母親への未練といい、実話のほうがフィクションより感動的なのが赤穂義士の行動だ。
 なお終戦後GHQは赤穂浪士に関する映画等を上映禁止にした。

北一輝の『日本改造法案大綱』

2012年10月26日 | 歴史
このところメマイがする。パソコンが一番悪いと分かっているが、パソコンなしで現代生活は出来ない。そこで、今日はwikipediaの記事を引用抜粋し、簡単に感想を述べる。この国難のとき、様々な意見が飛び交っているので、戦前の最も有名な革命思想をおさらいしておくのも悪くないと思った次第。
_______________________________
1883年(明治16年)に新潟県佐渡島で生まれた北は早稲田大学の聴講生となり、社会主義を研究して『国体論及び純正社会主義』を著し、また中国の問題についてはアジア主義を主張した。
しかし当時の日本の国家政策はアジア解放の理念を損なっていると認識して北は具体的な解決策を構想し、日本政治を改革するために1919年(大正8年)に40日の断食を経て『国家改造案原理大綱』を発表した。これが1923年(大正12年)に加筆修正されて『日本改造法案大綱』に改題されたのが本書である。北は本書を書いた目的と心境について、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ、」と述べている。

北によれば明治維新によって日本は天皇と国民が一体化した民主主義の国家となった。しかし財閥や官僚制によってこの一体性が損なわれており、この原因を取り除かなければならない。その具体的な解決策は天皇によって指導された国民によるクーデターであり、三年間憲法を停止し両院を解散して全国に戒厳令をしく。男子普通選挙を実施し、そのことで国家改造を行うための議会と内閣を設置することが可能となる。この国家改造の勢力を結集することで華族や貴族院を廃止する。

次いで経済の構造改革を行う。具体的には一定の限度額(一家で300万円、現在の30億円程度)を設けて私有財産の規模を制限し、財産の規模が一定以上となれば国有化の対象とする。このことで資本主義の特長と社会主義の特長を兼ね備えた経済体制へと移行することができる。この経済の改革は財政の基盤を拡張して福祉を充足させるための社会改革が推進できる。労働者による争議・ストライキは禁止し、労使交渉については新設される労働省によって調整される。また労働者でもその会社の経営に対する発言を認めることも提案には盛り込まれている。

経済や社会の改革については日本本土だけでなく日本の植民地であった朝鮮、台湾にも及ぶ。朝鮮は軍事的見地から独立国家とすることはできない。ただし、その国民としての地位は平等でなければならない。政治参加の時期に関しては地方自治の政治的経験を経てから日本人と同様の参政権を認め、日本の改革が終了してから朝鮮にも改革が実施される。将来獲得する領土(オーストラリア、シベリアなど)についても文化水準によっては民族にかかわらず市民権を保障する。そのためには人種主義を廃して諸民族の平等主義の理念を確立し、そのことで世界平和の規範となることができると論じる。

世界に与えられた現実の理想は、いずれの国家、いずれの民族が世界統一を成し遂げるかだけであり、日本国民は本書にもとづいてすみやかに国家改造をおこない、日本は世界の王者になるべきであるというのが本書の結論である。
________________________
感想。
明治時代は民主主義だった、という認識は「一君万民思想」と言われ、吉田松陰の造語とされている。維新の志士たちの間の共通認識で、身分制社会からデモクラシーへの大きな誘い水になった。自由民権運動もこの流れの中から生まれている。

右翼革命思想と言っても、北がもともと社会主義を研究していたためだろう、経済統制や労働者の人権なども自在に取り入れられている。この時代の秀才は必ずアカに一度は洗礼を受けている。

民族平等が盛り込まれているのは大日本主義の影響かもしれない。建前としての攘夷思想はこの時代になると超克されていたことが分かる。

日本が世界の王者になるべき、という発想がどこから来たのか暇なときにジックリと調べてみたい。平等主義と矛盾するからである。一つはキリスト教徒の多いアメリカの現実(拝金主義や人種差別)に衝撃をうけ新渡戸稲造が1900年(明治33年)に「武士道」を刊行したように、日本文化が世界の倫理的規範になるという発想は以前からあった。元武士で明治になりキリスト教徒になった人物は非常に興味深い特徴をもっているが、かなりややこしいので、略す。

ちなみに北一輝は地元で神童と呼ばれた秀才だった。熱心な日蓮信徒で、かなり神がかり的な性格だったようだ。

ちなみに、を繰返すとまたパソコンが毒になるので止めておくが、大雑把に言えば「民主主義の限界を突破する思想」を模索する、という点で、現代の日本の閉塞感を解決するために非常に参考になる。民主党に裏切られ、橋下維新に裏切られ、と、既成政党に期待しては裏切られてきたこの40数年の歴史の中で、こういう風にクーデターを前提に新しい国家の形を、右翼左翼その他が探り合うのも重要なことだと思う。
 ちなみにwikiを使って孫引きで感想を述べるのは、全くの邪道だが、研究ではないので気にしないで置く。ともかく、今の日本は民主主義とは到底言えないところに来ているし、投票率が30~40%にまで落ち込んでいるのだから、政治に期待しない日本人が過半数を超えている。北一輝が今の日本を見たらどんな改造法案大綱を作るだろう?
 
 
______________________________

teacupが今日はまる一日メインテナンスなので冗談を

2010年12月11日 | 歴史
2.26事件のとき。

蔵相の高橋是清は、女と裸で寝ていた。
反乱軍の将校は、高橋を起こして寝巻きを渡し「高橋コレキヨ」と言った。

反乱聞かれた天皇陛下は、ふらつかれた。「朕はジュウシンを失った」(重臣=重心)

こういう冗談を庶民が考え出したんだから、なんという才能なのだろうと思う。

昨日のNHKドラマ「竜馬が行く」は一部違っていたね。

2010年11月23日 | 歴史
一部違うというのは、大政奉還を飲まなかったら徳川を切り殺すと言った竜馬が、飲んだ、という知らせを受けたとたんに男泣きに泣いて、江戸城に向かって頭を畳にこすりつけ、よくも決心し給えるものかな、よくも決心し給えるものかな、この竜馬、これからは徳川慶喜公のために命を賭けてお守りいたします、と言ったんだよ。
 それから後藤象二郎への手紙が、最近発見された、とか、うろ覚えだけど竜馬研究の第一人者・平尾道男?さんがとっくに出しているじゃないの。私は15年ほど前に読みましたし、竜馬の手紙、という本の中にも出てくるじゃない。

ロータスの表紙、赤い二つの蓮華のに変えました。いかにも寄り添う恋人たちのようで色気があるから。

ああ、もう3時半か。これから手紙を3通、買出し、あと書類を見るなど、あっという間に晩酌タイム。昨日は5時間しか寝なかったから今日は本当に10時には寝よう。寝ようと思うと、チャットで天才が現れるから、気合が入ってしまう。

養神館の基本動作したら、体がポカポカしてこの寒空も暖房なしです。

で、話しは飛ぶけど、僕は今静かに維新が起こって詰めの段階に入っていると思います。が、現在はカルトに洗脳された、あるいは犬の糞にたかる銀蝿程度の人間しか残っていないんだね。

近藤勇や土方歳三、今井信郎らと闘った竜馬が羨ましい。
今井は京都見回り組で小太刀の達人。二十歳で直真影流の免許皆伝、片手斬り、という秘技を生み出した。竜馬の真の暗殺者、というか、竜馬はお尋ね者だから、暗殺じゃなくて切捨て御免、というべき。維新後は徳川慶喜に従って静岡の現島田市に住み村長となり、竜馬の子分がいつ襲うか用心して常に仕込杖を持ち、家は忍者屋敷のように改造してあった。自由民権運動に携わり、キリスト教徒となる。80過ぎまで長寿を全うした。生前に造られた顕彰の石碑には伊予石が使われている。
土佐の竜馬の蝋人形館に行ったら、竜馬の言葉が長生きのお守りとして売っていた。有名な「人間はフロに入ろうとして金タマを詰め割って死ぬ奴もいるのに、こんな危険な活動をしながら生きている私はよほど運がいいほうにて候」という一節が書いてある。しかし、長寿、運のよさのお守りなら今井伸郎のほうがずっと説得力があるよね。今度島田に行って気年間を見てこよう。ちょっと顔を見たいヤツも住んでいるし。

僕の周りには勝海舟のような先生が一杯いるのに、いかんせん僕が度量が小さくて中々お役に立てない。

竜馬は平和主義者???嘘です。最低3人殺しています。僕は6人ぐらいと絶縁しました。斬っても良かったけど、手を切ることで勘弁してあげるよwww

度胸と信念 上杉謙信の場合

2010年01月04日 | 歴史
私は時々骨休みに石和温泉に行く。

で、私は武田信玄は嫌いで上杉が好きだ。

川中島の合戦は数年に及んだが、上杉謙信は敵の鉄砲玉がバンバン飛んでくる距離に平気で進み出てお茶漬けを食っていたそうな。

家来が止めると「私は友人が武田に攻められたから義のために助けて合戦になったのであり、私に領土的な野心はない。正義のために行動する人間が敵の鉄砲に当たるはずはない。もしもあたって死ぬぐらいならこの世に神も仏もいないことになる。であれば生きていてもしょうがないではないか」

これが本当の度胸と信念というものです。

今年はいいことがありますように。皆さんお元気で。