那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

菊竹六鼓のこと

2014年01月13日 | 歴史

ネット上の知り合いから菊竹六鼓のことを知った。以下プロフィールと彼の書いた記事を引用する。今日は風邪気味なので論評は加えず、引用のみに留める。こういう日本人もいたことを、この時代だからこそ肝に銘じたい。右翼左翼の2項対立は現在通用しない。右も左も「愛国心」は同じで、そのベクトルが異なるだけだ。現在必要なのは日本人が菊竹六鼓のような気骨を心の芯に据え、個々の立場で可能な限りの抵抗すること、と強く感じる。

①プロフィールhttp://fukuoka-senjin.kinin.com/data/item/637 より

1880年01月25日~1937年07月21日
明治13年~昭和12年

浮羽郡吉井町生まれ / 五・一五事件の翌日05月16日付け西日本新聞に掲載された論説「首相凶弾にたおる」を執筆する。

1932年(昭和07年)05月15日、時の首相犬養毅が海軍の青年将校に暗殺された。この事件に際し多くの言論人が口をつぐむなか、軍部を痛烈に批判した言論人が福岡にいた。福岡日々新聞の編集局長菊竹六鼓である。

福岡日々新聞の軍部批判に対し「久留米師団の軍用機が威嚇のため福博の街に飛来し、福岡日々新聞社の上空で爆撃訓練をした。」という伝説まで生まれた。この反骨の編集局長は後に長谷川如是閑とともに世界新聞協会の「世界の報道人百人」に日本から推薦された。

1880年(明治13年)、うきは市吉井町福益の豪農菊竹辰二郎の次男として生まれた。六鼓は二歳の時、左脚を負傷して骨髄炎となり、何度も手術したが成功せず、これが原因で生涯脚を引きずった。六鼓の号はこれにちなむという。

六鼓は障害によって言論界に身を投じる決意をし、久留米中学明善校から東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治学科に進学した。しかし、障害のため東京の「国民新聞」(徳富蘇峰)に入れず、1903年(明治36年)地元の福岡日々新聞社(西日本新聞の前身)に入社。27歳の時、野口静子と結婚した。静子は看護士として働き、質屋通いをしながらも五人の子どもを育てるなど、六鼓を物心両面で生涯支えた。

六鼓は、市民の目線からエリアの問題を果敢に取り上げた。1905年(明治38年)、日本海海戦(05月27日~28日)で大勝利し、国中が戦争の勝利に高揚していたとき、堅粕の踏切番の11歳の娘宮崎お栄が線路を歩く人に危険を知らせるため、紅白の旗を振り、自らが轢死した事件を「理想の死」として掲載した。また公娼廃止を主張したため、遊郭業者が自宅まで押しかけてきて凄んできた。しかし公娼廃止の論陣を変えることはなかった。

1911年(明治44年)に編集長に就任、1928年(昭和03年)に編集局長となった。編集局長時代の1932年(昭和07年)、五・一五事件が起きた。翌日(05月16日)に「首相兇手にたおる」の論説を掲載し、夕刊に「軍人が国を誤る・・・」を載せ、軍部の暴力を厳しく糾弾した。新聞各社が軍部の圧力に屈し口をつぐむなか、菊竹六鼓は「うちはいつもの通りいきましょう。」との方針を確認し、05月17日は「敢て国民に覚悟を促す」、05月19日は「騒擾事件と世論」を掲載した。福岡日々新聞の論説に久留米第12師団の将校達は「反軍」だと怒り、軍用機の威嚇飛行の噂さえ流れた。

五・一五事件の一周年の1933年(昭和08年)、「憲法かファッショか」の論説を掲載したが、同年日本は国際連盟を脱退し、一歩一歩と暗い時代に進んでいった。 1935年(昭和10年)に福岡日々新聞社副社長兼主筆に就任した。

羽織袴で通し「古武士」といわれた反骨の言論人菊竹六鼓はデリケートな神経の持ち主でもあった。若くして編集長になった六鼓は、先輩のイジメにあいノイローゼ気味となった。これを献身的に支えたのは妻静子であった。また公娼廃止を唱えながらも、妻以外の女性と情を交わしたことも弱さのあらわれであった。

1937年(昭和12年)07月、結核で倒れた六鼓は、新聞社の仲間や家族に後事を託し、皆に看取られながら薨じた。享年57歳であった。

k・s

②彼の書いた記事 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E7%AB%B9%E5%85%AD%E9%BC%93 より

理想の死

花の下にて春死するも理想の死なるべし。巌頭に所感を書して飛瀑に投ずる(藤村操のこと、転記者但書)も理想の死なるべし。されど、かくの如きのいわゆる理想の死なるものは、世を棄て世に棄てられたる、要もなき望みもなき出家者流の蟲のよき注文のみ、宇宙と人生と社会と人間とを誤解悲観したる末の自暴のみ。風流はあらん、同情は価いするべけんも、光輝ある尊敬すべき理想の死にはあらず。社会は空想にあらず実際なり。人生は素見(ひやかし)にあらずして真面目なる一大目的を有す。この真面目なる人間の実際社会における理想の死とは、正にその本務に斃れ、職務に殉ずるものならざるべからず。人、必ずも寿命ならずして死するも須いず、ただ高尚優婉なる理想に生くべきのみ。然れども死せば、願わくば理想の死を死なむ。 吾人に突如としてこの言あるは他なし。吾人は眼前のわが福岡において、近く四日以前において、光輝ある崇高なる理想の死を見たればなり。鉄道踏切りの一少女お栄によって示されたる一例が、吾人を感激することのあまりに劇しければなり。そも少女お栄とは誰れ、しかして彼女は如何にして死したるか。請う、少時事実の概要を語らしめよ。

少女お栄は福岡市外堅粕村松園の鉄道踏切に旗振りを務めとする山崎某の次女に生れたり。かれが高崇なる死の実例を示したる六月十七日は、あたかも少女の母某が病死後三七日(みなのか、21日法要、転記者但書)の仏事を営みし日とて、父と姉とは仏前に参じてあらず、すなわち今年わずか十一の少女お栄は健気にも紅白の旗採りて、その日信号の務めに就きたるなり。

同日、午後6時35分、篠栗行列車が黒煙をあげて進み来たりとき、少女は驚けり、線路に通行する人あると認めたり。かかるとき人と列車とに注意し警戒するは、正に少女が父と姉の当面の職務なりしなり。しかして、父と姉とにかわりてそのつとめにつきたりし少女が双肩の重任なりしなり。

彼女は呼べリ、旗十字に振りたてて呼べリ、列車来たる!列車来たる!危険なり避けよ避けよと大声に呼べリ。しかれども何事ぞ、人はなお知らざるのごとし。列車は容赦なく轣轆として来る。今は猶予すべきにあらず、少女はたまりかね身を躍らして第三踏切より第四踏切に進み行けり。旗振りたてつつ小さき声を振り絞りつつ、大胆にも進み行きたるなり。列車来たる、危険なり避けよ避けよと旗振りたてつつ、小さき声を振り絞りつつ進み行きたるなり。

少女は人を危険より救わんとして、身の人よりもなおさらに危難に瀕せるを忘れたりしなり。否な、彼女は自己の危難を念とするにはあまりにも職務に忠実なりしなり、あまりに人を救わんとするに急なりしなり。皇天に謝す。彼女が最後の一声はついに一人を惨死より救えり。しかれども何事ぞ、彼女は遂に職務に斃れぬ。行先長き彼女は、わずかに十一年の生涯をもってその生命を未来に移せり。吾人が筆を心悸に震わしつつ。一篇、理想の死と題して世人に紹介せんとする少女お栄が高崇なる死の顛末はかくの如し。

吾人は、かつて英文読本において、少女ケートの伝を読んで小さき胸を躍らせたることあり(近頃の小学読本にも其訳文ありと聞けり)。しかしてこの読本を有する国民を羨みしことあり。しかれども、今やさらに心悸の劇するを覚えつつ、眼前の事実をとってわが福岡県人とともに世人に誇りうるを悦ぶ。 可憐なる一少女お栄を有したることは、永遠にわが福岡県民の誇りなり。 広瀬中佐を出さざりしことは決して福岡県民の恥辱にあらず。東郷大将をださざりしことは決して、福岡県民絶大の恨事にはあらず。しかれども一少女お栄を出したりしことは福岡県民の永遠の誇りなり、名誉なり。

嗚呼、少女お栄! 記者不幸にして口唇韻なく、襟懐また詩なし。晦渋の筆ついにこの一大文章一大詩篇を眼前にして、これを美化し、詩化し、賛美謳歌するあたわざるを憾む。

菊竹六鼓,  福岡日日新聞 明治38年6月22日刊




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