スティーブン・オルフォード 著「キリストが私のうちに」から
ある記録によると、ローマ人たちが十字架を執行するとき、
死刑囚が十字架に釘付けされた瞬間が執行時として記されるとのことである。
しかし、処刑された人は何時間もあるいは数日も生き続けることもあった。
同じように私たちも、律法的あるいは司法的な意味で救い主であるお方と信仰によって一つとなる瞬間に死を宣告される。
しかしながら私たちの多くもよく知っているように、肉は信仰によって死んだはずなのに、繰り返し出てくる。
マルティン・ルターもこのことを嘆いていて、「古き人はなかなか死なない」と言っているが、うがった表現である。
わたしたちの自然な傾向は死を避け、十字架から降りることであろう。
私たちの古い性質も自分たちの自我の権利や批評のために戦おうとする。
しかし、自我は十字架になければならない。
そしてキリストのためにの苦難は、私たちを十字架に打ちつけておく釘としての役目を果たさなければならない。
そのとき初めて、主イエスのいのちが人の人格を通して輝くことになる。
かの聖徒ウィリアム・ローも「すべてのそのような機会を、自我に死ぬための祝福された機会として両手で大切に握れ」と勧めている。
よく私たちは傷つけられたというようなことを言う。
確かに、傷つけられ、悲しませられたであろう。
しかし、傷つけられて恨んでいるのは、、まだ十字架につけられていない自我である。それは死ななければならない!
私たちは、自我を十字架につけている「釘を受け入れる」ことを学ぶ必要がある。
そうすることによって、私たちの死ぬべき体を通してキリストのいのちがあがめられる。
実にキリストと一つになって苦しみを受け入れることは、その苦しみによって服従を学ぶことになるのである。(ヘブル5:8)
これこそ、キリスト者生活の中における本物の服従の証拠である。
レナード・ラベンヒルが使徒パウロについて大変うがった描写をしている。
「(パウロ)は、自分のための野望をもっていなかった。従って、ねたむものもなかった。
何の評判もたてなかった。従って、争うものが何もなかった。
何の持ち物もなかった。従って、心配するものが何もなかった。
何の権利も主張しなかった。従って、不平等な扱いを受けるものが何もなかった。
すでに砕かれていた。従って、誰も砕くことはできなかった。
もうすでに『死んでいた』。従って、誰も殺すことはできなかった。
最も小さい者よりも小さい者であった。従って、誰が卑しめることができたであろうか。
すべてのものを彼は失った。従って、誰もだまし取ることはできなかた。」
ディートリッヒ・ボンヘッファーは、「キリストが人を召されるとき、来りて、死ねと命じられる」と言っている。
自分の評判、権利、富、いや主イエス以外のすべてのものに、私たちのどれだけの者が死ぬ用意ができているであろうか
(第二章「私ではなく、キリストとその死」P57-61より抜粋)