2018年10月14日(日)
夕方、
本当は立山修道院の「黙想の家」に駆け込みたかったが、
めぐみの家でもそれはできると判断して、
聖書と聖書日課と携帯だけを持ち込んで、
一人、黙想と祈りの時をもつことにした。
まず、祈りは、
「一人になること」と、オズワルド・チェンバーズ先生の日課に書かれていたからだ。
初めての、
祈りの家での黙想体験。
大きな声を出しても大丈夫そうな2階の北側の個室を陣取り、
一人、聖書と聖書日課を開いて、主を待ち望んだ。
めぐみの家が与えられて三年ほどになるが、
初めての、2F個室で静まりの時だった。
6時過ぎに移動、入室。
一晩中、静かな深い神様との交わりを頂く予定だったが、
そのうち、
ドアの破れた部分や壁の汚なさが目につきはじめ、
二年前の夏に、この部屋にホームスティされた、フランス人大学生のテディのことが気になり始めた。
彼は、一ケ月近くも、あの暑さで、何も言わずに良くこの部屋で寝起きされたのものだ、
と、今更のように、気の毒に思えてきたりで、
何となく居心地が悪くなり、
結局、私は、11時前に、おずおずと退散して、自室に帰ってきてしまった。
徹夜で、しっかりと静まりの時をもつ予定だっただが。
立山「黙想の家」では、一晩、聖書だけで、心地良くゆったりと(寝?)静まれるし、
神様との親密な一夜を過ごせるが、
めぐみの家の2Fの個室は、何が違うのか、魂の落ち着きが感じられず、
これでは、むしろ礼拝堂の方が、「一人主の御前」のひと時をもてるとも思った。
聖徒は一夜ではつくられず、
それだけでなく、環境も大きく作用しているような気がした。
今夜の霊の山頂登山へのチャレンジは、もろくも、
山麓付近をウロウロと彷徨うだけで、全敗し、
「環境」という大壁にブチアタッタだけのような気がした。