瞑想をする時は、半眼にするのが基本です。
仏様の目、です。奈良の大仏さまも半眼でしたか。
でもこの半眼、いざ瞑想してやってみると、コンディション次第ではすぐに眠くなります。
こんなので、仏様は衆生がちゃんと見えているのでしょうか(不信心)。
個人的には、半眼よりも八割眼ぐらいのほうが、眠ってしまうリスクが少ないように思います。
いずれにせよ、目から入ってくる情報は確かに強力なので、多少制限しないと心が安定しづらい、というのはあります。
かといって、目を閉じてしまうと、それこそ眠ってしまう・・・というのもありますが、昔、雑誌か何かで「目を閉じて瞑想すると、自分の見たいモノ(光とか、神とか、仏とか)を見てしまう。目を開いて、それでもなお光や神や仏が見えたら、それは本物だ」とかいった意味の文章を読んだ記憶があります。
ほお。
私は瞑想で、神や仏を見ることは期待していません。あくまでも、自分の心の在り様を、こう・・・上手く説明できん。
正直いって、不安を消そうとか、不動心とか、自己の探求とか、言葉にしてしまうとちょっとズレを感じます。
まあそれはそれとして、半眼。
考えてみれば、あまり両目をカッと見開いている仏様ってのも、俗物にとってはプレッシャーが大きいですねえ。
衆生を広く見渡し、なおかつ心理的負担をかけないためには、半眼でいいのかも。
ちょっと細目にするのって、カメラのレンズを絞ってるようなものだから、遠くまで見渡せそうだし。
ところで、あえて視覚情報を制限する、という意味で。
「結婚前は相手を両目でしっかり見て、結婚したら片目で見るようにせよ」なんて諺がありましたっけ。
これは基本的には、結婚して一緒にいる時間が長くなると、色々とアラも目立つようになるから、そこは片目をつぶってやり過ごせ、という意味かと。
この諺、ここから派生する意味を色々考えたことがあります。
とにかく、結婚前は両目でしっかり見て、相手をよく見極めるべしということか?みたいな。
しかしまあ、自分が結婚して十ウン年もたつと、また他の意味を思いついたりします。
例えば。
新婚さんについては、相手を両目でしっかり見過ぎると、かえって窮屈に感じたり、飽きが早く来たりするから要注意。
結婚して何年もたつと、新鮮味はなくなってくるけれど、少なくとも片目は相手のほうを見ておくべし(でないと、相手は自分が軽く扱われていると感じるかもしれない)、と。
愛情の反対語は無関心、というし(マザー・テレサフリークのカミさんから教わりました)。
つまり、片目で見るというのは、見て見ぬフリをするとか、黙認するってこととはちょっと違うのではないかと。
・・・相手のほうを向く、という姿勢を忘れないように。でも、常に真正面から向き合ってたら、お互い疲れちゃうよ、ってことで。
まあ、個人対個人でも、組織対組織でも、向き合い方には要注意です。
そういえば。
網膜には視細胞がありますが、この視細胞が無い盲点というのは、視野の中央付近にあります。
つまり、何かをよく見ようと思って、その対象を点として凝視すると、案外よく見えないとか(例えば、暗い所で何かを見ようとする時とか)。
だから、見ようとするものの周囲も含めて、全体を何となく見るほうがよく見えるそうです。
武術の目付けでも、相手の手先足先に囚われず、全体を何となく見るべし、というし。
そうそう、「片目で見る」からって、イコール片目を閉じる、というわけではないってことで。
・・・ちなみに私は、片目を閉じる効果について、結構真剣に考えたりします。
右目は左脳、左目は右脳と深い関係にあるといいますから、片方の目を閉じたら?
視覚の情報処理から解放された脳は身軽になるか?
それとも、視覚情報を一手に引き受けた側の脳が活性化するか?
・・・いや、案外共倒れか?
それと、私は右目が効き目なので、もし右目に眼帯をして生活したら、心身にどんな影響があるか、とか。
右目を使うために生じた歪みが、矯正されるか?それともかえってバランスを崩すか?
ただ、私はこういうことを始めると、のめりこんでしまうタイプなので、恐くて実際にはやっていません。
なお、私は施術中に意図的に瞑目することがよくあります。
視覚を制限することで、触覚からの情報に集中するためです。
仏様の目、です。奈良の大仏さまも半眼でしたか。
でもこの半眼、いざ瞑想してやってみると、コンディション次第ではすぐに眠くなります。
こんなので、仏様は衆生がちゃんと見えているのでしょうか(不信心)。
個人的には、半眼よりも八割眼ぐらいのほうが、眠ってしまうリスクが少ないように思います。
いずれにせよ、目から入ってくる情報は確かに強力なので、多少制限しないと心が安定しづらい、というのはあります。
かといって、目を閉じてしまうと、それこそ眠ってしまう・・・というのもありますが、昔、雑誌か何かで「目を閉じて瞑想すると、自分の見たいモノ(光とか、神とか、仏とか)を見てしまう。目を開いて、それでもなお光や神や仏が見えたら、それは本物だ」とかいった意味の文章を読んだ記憶があります。
ほお。
私は瞑想で、神や仏を見ることは期待していません。あくまでも、自分の心の在り様を、こう・・・上手く説明できん。
正直いって、不安を消そうとか、不動心とか、自己の探求とか、言葉にしてしまうとちょっとズレを感じます。
まあそれはそれとして、半眼。
考えてみれば、あまり両目をカッと見開いている仏様ってのも、俗物にとってはプレッシャーが大きいですねえ。
衆生を広く見渡し、なおかつ心理的負担をかけないためには、半眼でいいのかも。
ちょっと細目にするのって、カメラのレンズを絞ってるようなものだから、遠くまで見渡せそうだし。
ところで、あえて視覚情報を制限する、という意味で。
「結婚前は相手を両目でしっかり見て、結婚したら片目で見るようにせよ」なんて諺がありましたっけ。
これは基本的には、結婚して一緒にいる時間が長くなると、色々とアラも目立つようになるから、そこは片目をつぶってやり過ごせ、という意味かと。
この諺、ここから派生する意味を色々考えたことがあります。
とにかく、結婚前は両目でしっかり見て、相手をよく見極めるべしということか?みたいな。
しかしまあ、自分が結婚して十ウン年もたつと、また他の意味を思いついたりします。
例えば。
新婚さんについては、相手を両目でしっかり見過ぎると、かえって窮屈に感じたり、飽きが早く来たりするから要注意。
結婚して何年もたつと、新鮮味はなくなってくるけれど、少なくとも片目は相手のほうを見ておくべし(でないと、相手は自分が軽く扱われていると感じるかもしれない)、と。
愛情の反対語は無関心、というし(マザー・テレサフリークのカミさんから教わりました)。
つまり、片目で見るというのは、見て見ぬフリをするとか、黙認するってこととはちょっと違うのではないかと。
・・・相手のほうを向く、という姿勢を忘れないように。でも、常に真正面から向き合ってたら、お互い疲れちゃうよ、ってことで。
まあ、個人対個人でも、組織対組織でも、向き合い方には要注意です。
そういえば。
網膜には視細胞がありますが、この視細胞が無い盲点というのは、視野の中央付近にあります。
つまり、何かをよく見ようと思って、その対象を点として凝視すると、案外よく見えないとか(例えば、暗い所で何かを見ようとする時とか)。
だから、見ようとするものの周囲も含めて、全体を何となく見るほうがよく見えるそうです。
武術の目付けでも、相手の手先足先に囚われず、全体を何となく見るべし、というし。
そうそう、「片目で見る」からって、イコール片目を閉じる、というわけではないってことで。
・・・ちなみに私は、片目を閉じる効果について、結構真剣に考えたりします。
右目は左脳、左目は右脳と深い関係にあるといいますから、片方の目を閉じたら?
視覚の情報処理から解放された脳は身軽になるか?
それとも、視覚情報を一手に引き受けた側の脳が活性化するか?
・・・いや、案外共倒れか?
それと、私は右目が効き目なので、もし右目に眼帯をして生活したら、心身にどんな影響があるか、とか。
右目を使うために生じた歪みが、矯正されるか?それともかえってバランスを崩すか?
ただ、私はこういうことを始めると、のめりこんでしまうタイプなので、恐くて実際にはやっていません。
なお、私は施術中に意図的に瞑目することがよくあります。
視覚を制限することで、触覚からの情報に集中するためです。
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