朝食に、梨が出ました。
皮をむいて八等分に切ってありました。
チーコさんは、それを箸でつかもうとして、上手くはさめなかくて、プスッと刺しました。
お行儀のいいものではありませんが、まあ自宅だし、不安定な掴み方でうっかり落とすよりはいいと判断しました。
・・・と、同時に。
突き箸というのは、そもそも料理がはさみ易い形であれば、しなくて済むわけです。
チーコさんが梨を箸で刺したのは、上手く掴めなかったからですが、あの梨のちょっとヌルッとした表面に加え、いかにも滑りそうな、絶妙な切り口とその角度。
気の効いた人ならば、カットする段階でもっとはさみやすい形に切るでしょう。
ひょっとしたら、表面の滑りやすさを抑え、酸化を防ぐという意味も含めて塩水に潜らせたりするかもしれません。
つまり、行儀とか礼儀というものは、一方通行ではない、と言いたいわけです。
・・・で、ちょっとウィキペディアで突き箸を検索してみたら、「火の通り具合を疑っているような仕草なので、料理人に対して失礼」といった意味のことが書いてありました。
うん。お互いにお互いを信頼している、という意思表示の一手段というのは、マナーの重要な存在理由のひとつなのでしょう。
でもねえ。
例えば里芋の煮っ転がし。
あれって、六方剥きにして、表面をきれいに煮上げて、小鉢に上品に盛り付ければ、確かに箸ではさみやすと思います。
でも私は、ガーッと剥いて、表面もヌルヌルッとしてて、ドンブリにドーンと盛り付けてた方が好きです。
ちょっとぐらい刺したってええやん。
ところでチーコさんといえば、来年は中学生です。彼女も授業で「武道」をやるんでしょうか。
武道といえば「礼に始まり、礼に終わる」です。
それはもう、基本的に危険な技術の応酬をするわけですから、規則(ルール)という礼でリミッターをかけておかないと、練習にも試合にもなりません。
そこへいくと武「術」は、不意打ちでも何でもありという本音が正直というか何というか。
ちなみに昨日、免許の更新に行ってきました。
ゴールド免許ですが、実はもうずっとペーパードライバーです。
実際に運転していたのは、二十代のほんの数年ですね。
日常の移動手段は
車→バイク(カブ)→自転車→徒歩と変化して、タッタカ走るのが中心になってから二年近くになります。
必要であれば電車やバスを使えば、特に不便は感じません。
で、今では車の運転は、想像するだけで恐くなってしまいました。
交通ルールというのは、それこそ礼儀と信頼関係の塊みたいなものですが、やはり私は人を信じられない大人になってしまったようです。
周りのドライバーや歩行者を信じきれないというのもありますが、自分自身も信じられません。
ついうっかりとか、反射速度の鈍さとか。
人間は本来、時速40キロ以上の移動速度には対応しきれないのではないでしょうか?
自分の足で走っているとそう感じます。
年のせいもあるのでしょうが、普段から体を動かしていると、その分感覚も研ぎ澄まされてくるので、危険を察知し易くなるような気がします。
車にばかり乗っていると、それは勿論車のスピードに慣れて対応できるようにもなるでしょうが、体を動かさない分、本能的な危機察知能力は落ちるんじゃないでしょうか。
できれば残りの人生は、車を運転せずに済ませたいものです。
で、鍼灸とか按摩とかって、どうなんでしょう。
治療において、施術者とクライアントの間に、信頼関係があるに越したことはありません。
が、それは必ずしも絶対条件ではないような気がします。
・・・鍼灸や按摩って、「結局、プラセボなのでは?」という意見があります。
プラセボというのが、偽薬というそのままの意味であれば、ちょっとアレなんですが、私はもうちょっと拡大解釈をしています。
クライアント自身に「治りそうだ、治る、治った!」という、その気にさせるための「手順」「儀式」ですね。
この「儀式」は、鍼灸や按摩の大きな武器です。
・・・漢方薬は、科学的に立証できる薬効成分があったりするので、もうちょっと話がややこしくなります。
で、鍼灸や按摩の効果を正確に検証するためには、ダブルブラインドでプラセボ効果を除外して調べるべきだ、といわれると、正直困ってしまいます。
それはいわば、古流の空手家が、グローブをつけてシューズを履いて、ボクシングのリングとルールでボクサーと戦わされるようなものです。
勿論勝ち目はありません。
鍼灸や按摩って、基本的にケーススタディなんですね。
だから私は、医「学」ではなく医「術」だと思っています。
で、私は「儀式」と書きましたが、これはお祈りや呪文でどうこう、というのとはちょっと違います。
なぜなら、体の具合が悪い人を、さすったり揉んだり突付いたりといった行為は、人間が今のような言葉を操るずっと以前からあったであろうものだからです。
「祈り」「呪文」「礼儀」「信頼」こういったものは、人間が言語によって、世界を分類・分析するようになってから発生したものです。
そういう意味で、私は鍼灸や按摩においては、施術者とクライアントの間には、必ずしも信頼関係(少なくとも、規則に基づいた契約といったような形のもの)は無くてもいいのではないか、と思うのです。
皮をむいて八等分に切ってありました。
チーコさんは、それを箸でつかもうとして、上手くはさめなかくて、プスッと刺しました。
お行儀のいいものではありませんが、まあ自宅だし、不安定な掴み方でうっかり落とすよりはいいと判断しました。
・・・と、同時に。
突き箸というのは、そもそも料理がはさみ易い形であれば、しなくて済むわけです。
チーコさんが梨を箸で刺したのは、上手く掴めなかったからですが、あの梨のちょっとヌルッとした表面に加え、いかにも滑りそうな、絶妙な切り口とその角度。
気の効いた人ならば、カットする段階でもっとはさみやすい形に切るでしょう。
ひょっとしたら、表面の滑りやすさを抑え、酸化を防ぐという意味も含めて塩水に潜らせたりするかもしれません。
つまり、行儀とか礼儀というものは、一方通行ではない、と言いたいわけです。
・・・で、ちょっとウィキペディアで突き箸を検索してみたら、「火の通り具合を疑っているような仕草なので、料理人に対して失礼」といった意味のことが書いてありました。
うん。お互いにお互いを信頼している、という意思表示の一手段というのは、マナーの重要な存在理由のひとつなのでしょう。
でもねえ。
例えば里芋の煮っ転がし。
あれって、六方剥きにして、表面をきれいに煮上げて、小鉢に上品に盛り付ければ、確かに箸ではさみやすと思います。
でも私は、ガーッと剥いて、表面もヌルヌルッとしてて、ドンブリにドーンと盛り付けてた方が好きです。
ちょっとぐらい刺したってええやん。
ところでチーコさんといえば、来年は中学生です。彼女も授業で「武道」をやるんでしょうか。
武道といえば「礼に始まり、礼に終わる」です。
それはもう、基本的に危険な技術の応酬をするわけですから、規則(ルール)という礼でリミッターをかけておかないと、練習にも試合にもなりません。
そこへいくと武「術」は、不意打ちでも何でもありという本音が正直というか何というか。
ちなみに昨日、免許の更新に行ってきました。
ゴールド免許ですが、実はもうずっとペーパードライバーです。
実際に運転していたのは、二十代のほんの数年ですね。
日常の移動手段は
車→バイク(カブ)→自転車→徒歩と変化して、タッタカ走るのが中心になってから二年近くになります。
必要であれば電車やバスを使えば、特に不便は感じません。
で、今では車の運転は、想像するだけで恐くなってしまいました。
交通ルールというのは、それこそ礼儀と信頼関係の塊みたいなものですが、やはり私は人を信じられない大人になってしまったようです。
周りのドライバーや歩行者を信じきれないというのもありますが、自分自身も信じられません。
ついうっかりとか、反射速度の鈍さとか。
人間は本来、時速40キロ以上の移動速度には対応しきれないのではないでしょうか?
自分の足で走っているとそう感じます。
年のせいもあるのでしょうが、普段から体を動かしていると、その分感覚も研ぎ澄まされてくるので、危険を察知し易くなるような気がします。
車にばかり乗っていると、それは勿論車のスピードに慣れて対応できるようにもなるでしょうが、体を動かさない分、本能的な危機察知能力は落ちるんじゃないでしょうか。
できれば残りの人生は、車を運転せずに済ませたいものです。
で、鍼灸とか按摩とかって、どうなんでしょう。
治療において、施術者とクライアントの間に、信頼関係があるに越したことはありません。
が、それは必ずしも絶対条件ではないような気がします。
・・・鍼灸や按摩って、「結局、プラセボなのでは?」という意見があります。
プラセボというのが、偽薬というそのままの意味であれば、ちょっとアレなんですが、私はもうちょっと拡大解釈をしています。
クライアント自身に「治りそうだ、治る、治った!」という、その気にさせるための「手順」「儀式」ですね。
この「儀式」は、鍼灸や按摩の大きな武器です。
・・・漢方薬は、科学的に立証できる薬効成分があったりするので、もうちょっと話がややこしくなります。
で、鍼灸や按摩の効果を正確に検証するためには、ダブルブラインドでプラセボ効果を除外して調べるべきだ、といわれると、正直困ってしまいます。
それはいわば、古流の空手家が、グローブをつけてシューズを履いて、ボクシングのリングとルールでボクサーと戦わされるようなものです。
勿論勝ち目はありません。
鍼灸や按摩って、基本的にケーススタディなんですね。
だから私は、医「学」ではなく医「術」だと思っています。
で、私は「儀式」と書きましたが、これはお祈りや呪文でどうこう、というのとはちょっと違います。
なぜなら、体の具合が悪い人を、さすったり揉んだり突付いたりといった行為は、人間が今のような言葉を操るずっと以前からあったであろうものだからです。
「祈り」「呪文」「礼儀」「信頼」こういったものは、人間が言語によって、世界を分類・分析するようになってから発生したものです。
そういう意味で、私は鍼灸や按摩においては、施術者とクライアントの間には、必ずしも信頼関係(少なくとも、規則に基づいた契約といったような形のもの)は無くてもいいのではないか、と思うのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます