先日、帰宅電車の乗り換えのタイミングが合わず、15分程時間が空いたので、途中下車して近所の書店に立ち寄った。
月に一度あるか無いかの話だが、たまにこういう形でこの書店に寄ると、ある雑誌を3〜5分位パラパラとめくってから、駆け足で駅へ戻って電車に乗る。
で、その雑誌とは「マッスル&フィットネス」という、アメリカのフィットネス(というか、ほぼボディービル)誌だ。
私は自分が動くぶんには断然有酸素運動派だ。 普段のトレーニングで筋トレ的な動きの占める割合は、せいぜい一割位だろうか。
だが職業柄、効率よく筋肉を増やす方法にはそれなりに興味がある。
で、そのための知識を得るのなら、なんといってもベースボールマガジン社の「トレーニングマガジン」辺りが便利なのだが、これは日本の雑誌なので、掲載されている筋肉マン達は基本的に日本人だ。
そこへいくとマッスル&フィットネスは海外誌なので、白人や黒人のボコボコと巨大な筋肉が満載の誌面は良い気分転換になる。
だが我が家の近くには、この雑誌を置いている書店が無い。
かといって定期購読するほどでもないので、この日のようにタイミングが合った時にサッと眺めている。
ちなみに私は、同世代の中国武術フリークなら、その多くが知っているであろう呉伯焔事件の影響で、ベースボールマガジン社のことはどうも色眼鏡で見てしまう。
さて、この日手に取ったマッスル&フィットネスは、シメオン・パンダというボディービルダー(もしくはフィットネスモデル)の特集を組んでいた。
数分眺めるだけだから、詳細な情報が得られるわけではない。
せいぜい彼がイギリスの黒人であることや、SNSによって有名になったことなどで、ネットで検索し直せば、もっと多くの情報を得られるだろう。
実際、帰宅してから彼のファーストネームが思い出せず、「ボディービルダー パンダ」で検索し、シメオンという名前を確認したぐらいだ。
そこで私の目を引いたのは、シメオン・パンダ氏の言葉とされる、この一節だ。
「私は、私のサイトを訪れる人達のことを、ファンだとは思ってない。同じ情熱を持つ仲間だと思っている」
…だそうである。
細かい言い回しには記憶違いがあるかもしれないが、まあ大体こういうニュアンスだったはずだ。
この言葉をもって、シメオン氏の人となりを語るつもりはない。
そもそも自己啓発的要素の強いこの商業誌で、氏の言葉が精確に記載されている保証もない。
だがそれでもなお、この言葉は私の目を引いた。
何故なら仲間という言葉を、「ファンではない」と、明確に定義するのがちょっと(意外なくらい)新鮮だったからだ。
いやだって、「ファンも仲間の内」といえば良さそうなものだ。
その方がファンの機嫌も取れる…もとい、喜んでいただける。
実際のところ、ファンとファンに支持される者(お得意様と店もしくはその従業員という表現の方がしっくりと来るかもしれない)との間には、明確な上下関係(どちらが上でどちらが下かは流動的だが)がある。
だがシメオン氏の言葉は、サイトを訪れる人達を「ファンではない」と明言することで、「お互いにフェアな関係にある」ことこそが仲間の条件だとしている。
ちなみに私は「仲間」という言葉が苦手だ。
漫画でいえばワンピースのような人間関係はちょっと重い。
むしろ承久國俊のような「俺は仲間なんぞいらん」というスタンスに共感する。
私は元々著しく協調性に欠けることもあってか、どうにも「仲間」という人間関係が、助け合いの振りをした馴れ合いに見えることが多いのだ。
だが多くの人は友達なり仲間なりを求める。
そして仲間と何かに熱中している人達は、確かに楽しそうだ。
私自身、気の合うメンバーと作業をする高揚感に覚えが無くはない。
ひょっとしたら人間には、何かを為し遂げることよりも、何かを仲間とやっているという過程の方が重要なのかとも思えてくる。
シメオン氏の言葉は、「同じ情熱を持つ」ことで馴れ合いを回避しているようだが、こういう「本当の仲間は馴れ合わない」的な表現は、それほど目新しくはないか。
ところで、日本の(いや、日本だけではないか?)治療家はどうだろう?
大手でも個人でも、経営のために「ファンを増やそう」という姿勢で患者と向き合っていないか?
そこに媚びは無いか?
患者のためを思うなら、完治を最優先にするべきなのに、最初からリピーターを増やすつもりで、治すことは後回しにしていないか?
そのために耳触りの良い嘘をついていないか?
患者を憐れむあまり(それが本気にせよ芝居にせよ)、寄り添うと称して迷える子羊を導く教祖様になって(成りすまして)はいないか?
いや、本当はどんな仕事でも、「お客様のために」という大義名分の下に、欲望を無制限に肥大させるような行為は慎むべきなのだろう。
何事にも節度というものがある。
まあ「シメオン氏ぐらい成功していれば、節度だって持てる」と、ついつい思ってしまうのが人間か。
月に一度あるか無いかの話だが、たまにこういう形でこの書店に寄ると、ある雑誌を3〜5分位パラパラとめくってから、駆け足で駅へ戻って電車に乗る。
で、その雑誌とは「マッスル&フィットネス」という、アメリカのフィットネス(というか、ほぼボディービル)誌だ。
私は自分が動くぶんには断然有酸素運動派だ。 普段のトレーニングで筋トレ的な動きの占める割合は、せいぜい一割位だろうか。
だが職業柄、効率よく筋肉を増やす方法にはそれなりに興味がある。
で、そのための知識を得るのなら、なんといってもベースボールマガジン社の「トレーニングマガジン」辺りが便利なのだが、これは日本の雑誌なので、掲載されている筋肉マン達は基本的に日本人だ。
そこへいくとマッスル&フィットネスは海外誌なので、白人や黒人のボコボコと巨大な筋肉が満載の誌面は良い気分転換になる。
だが我が家の近くには、この雑誌を置いている書店が無い。
かといって定期購読するほどでもないので、この日のようにタイミングが合った時にサッと眺めている。
ちなみに私は、同世代の中国武術フリークなら、その多くが知っているであろう呉伯焔事件の影響で、ベースボールマガジン社のことはどうも色眼鏡で見てしまう。
さて、この日手に取ったマッスル&フィットネスは、シメオン・パンダというボディービルダー(もしくはフィットネスモデル)の特集を組んでいた。
数分眺めるだけだから、詳細な情報が得られるわけではない。
せいぜい彼がイギリスの黒人であることや、SNSによって有名になったことなどで、ネットで検索し直せば、もっと多くの情報を得られるだろう。
実際、帰宅してから彼のファーストネームが思い出せず、「ボディービルダー パンダ」で検索し、シメオンという名前を確認したぐらいだ。
そこで私の目を引いたのは、シメオン・パンダ氏の言葉とされる、この一節だ。
「私は、私のサイトを訪れる人達のことを、ファンだとは思ってない。同じ情熱を持つ仲間だと思っている」
…だそうである。
細かい言い回しには記憶違いがあるかもしれないが、まあ大体こういうニュアンスだったはずだ。
この言葉をもって、シメオン氏の人となりを語るつもりはない。
そもそも自己啓発的要素の強いこの商業誌で、氏の言葉が精確に記載されている保証もない。
だがそれでもなお、この言葉は私の目を引いた。
何故なら仲間という言葉を、「ファンではない」と、明確に定義するのがちょっと(意外なくらい)新鮮だったからだ。
いやだって、「ファンも仲間の内」といえば良さそうなものだ。
その方がファンの機嫌も取れる…もとい、喜んでいただける。
実際のところ、ファンとファンに支持される者(お得意様と店もしくはその従業員という表現の方がしっくりと来るかもしれない)との間には、明確な上下関係(どちらが上でどちらが下かは流動的だが)がある。
だがシメオン氏の言葉は、サイトを訪れる人達を「ファンではない」と明言することで、「お互いにフェアな関係にある」ことこそが仲間の条件だとしている。
ちなみに私は「仲間」という言葉が苦手だ。
漫画でいえばワンピースのような人間関係はちょっと重い。
むしろ承久國俊のような「俺は仲間なんぞいらん」というスタンスに共感する。
私は元々著しく協調性に欠けることもあってか、どうにも「仲間」という人間関係が、助け合いの振りをした馴れ合いに見えることが多いのだ。
だが多くの人は友達なり仲間なりを求める。
そして仲間と何かに熱中している人達は、確かに楽しそうだ。
私自身、気の合うメンバーと作業をする高揚感に覚えが無くはない。
ひょっとしたら人間には、何かを為し遂げることよりも、何かを仲間とやっているという過程の方が重要なのかとも思えてくる。
シメオン氏の言葉は、「同じ情熱を持つ」ことで馴れ合いを回避しているようだが、こういう「本当の仲間は馴れ合わない」的な表現は、それほど目新しくはないか。
ところで、日本の(いや、日本だけではないか?)治療家はどうだろう?
大手でも個人でも、経営のために「ファンを増やそう」という姿勢で患者と向き合っていないか?
そこに媚びは無いか?
患者のためを思うなら、完治を最優先にするべきなのに、最初からリピーターを増やすつもりで、治すことは後回しにしていないか?
そのために耳触りの良い嘘をついていないか?
患者を憐れむあまり(それが本気にせよ芝居にせよ)、寄り添うと称して迷える子羊を導く教祖様になって(成りすまして)はいないか?
いや、本当はどんな仕事でも、「お客様のために」という大義名分の下に、欲望を無制限に肥大させるような行為は慎むべきなのだろう。
何事にも節度というものがある。
まあ「シメオン氏ぐらい成功していれば、節度だって持てる」と、ついつい思ってしまうのが人間か。
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