葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

安心の甘い誘惑。

2021-05-16 09:50:30 | 仕事

 5月12日にEテレの「きょうの健康」でオンエアされていた鍼灸の特集を録画して翌日に観た。
 で、鍼灸の効果を客観的に証明することは難しいな、と再認識させられた。

 いや、その証明をするために研究者が苦心されているのは分かる。
 だが色々な実験をしても、それが「この効果は鍼灸でなければ出せない」という結果に結びつくのかどうか。

 例えば「鍼灸とカウンセリングを比較」するよりも、「会話しながら施術した場合」と「会話せずに施術した場合」を比較する方が、より鍼灸の効果を明確にできるのではなかろうか。
 まあ実践的には「治療効果を上げるために丁寧な説明やリラックスのための会話をするのは当然であり、それはもはや施術の一部だ」と考える人もおられるだろうが、私はそれはひょっとしたら言葉の力を過大評価しているのではないかと思っている。

 「何だかよく分からないが、とにかく親切に施術してくれたから安心」できて、それで体調が回復するなら、それはとりあえず良い事ではあるけれど、それなりに危うさを含んでもいる。

 ちなみに、COVIDー19に関して「(お上からの)安心できる言葉が欲しい」というフレーズをよく耳にするのだが、この「安心」もやはり「危うい」と思う。
 「鰯の頭も信心から」ではないが、「安心」に根拠は必要ないからだ。

 「いや求めているのは、ちゃんと根拠のある安全を前提とした安心だ」といわれるかもしれないが、中々どうして人の心は弱いもので、「安心」という言葉を選択すること自体が、「とにかく縋りつけるものが欲しい」という本音の象徴だったいする。
 そういう状態だと「心地よい言葉」には引っ掛かりやすいし、「厳しい現実」は受け入れ難い。
 だから「安心」はそれなりに危ういと思うのだ。

 となると、心への治療は「安心を与える」よりも、「平常心取り戻して」もらうことの方が「安全」かと。

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