呑舞さんの脳活俳句日記

俳句漬けの毎日。夢の中でも俳句を詠み、昼間は時々カメラを持って外出し、俳句の材料を捜す日々。句会報告や俳論を掲載します。

東海道吟行記(大磯~二宮)其の二

2017-03-27 14:45:45 | 俳句

「大磯虎ケ雨」歌川広重作東海道五十三次より

  大磯小余綾を後に東海道を道なりに20分程歩くと前方右側に旧三井別邸跡がある城山(じょうやま)が見えて来る。東海道を挟んでこの城山の南側に旧吉田茂邸地区がある。吉田茂邸は、三井別邸よりも やや狭いが、周辺を林に囲まれ、吉田茂首相が晩年を過ごした美しい邸宅である。この邸宅は平成21年に火災で焼失したが、平成26年から大磯町によって整備再建が進められ、ようやく復旧されたもので、残念ながら公開前で内部を見ることは出来なかった。内部公開は、平成29年4月1日から始まることに成っている。

  吉田邸は、東海道道筋から少し奥まっており、入口の兜門を潜ると邸内の景観が一望に現れる。この兜門は、内側から屋根の部分をみると屋根の両側にしろこ部分が現れるよう円形に切り欠かれた珍しい形状になっている。

(吉田邸の母屋を正面から見た状態:手前に心字池に建つ石塔が見える)

(前庭前の心字池の全容)

  兜門を入った左側にある中池のそばに大正天皇行幸碑がある。かって大正天皇も見た庭園でもある。庭園の南側の丘に七賢堂が建てられており、岩倉具視、大久保利通、三条実美、木戸孝允、伊藤博文、西園寺公望、吉田茂の写真が祀られていたと言う。

(七賢堂)

  この丘を上り切ると相模湾を一望できる頂上に至る。この眺望の良い場所に吉田茂の銅像がサンフランシスコに向いて立てられている。第二次世界大戦を終結させた「サンフランシスコ条約」の締結に携わった功績を讃えたものであろう。

  今回は、旧三井別邸に立ち寄る時間が無かったが、神奈川県立城山(じようやま)公園は、両者を含めた総称として指定されている。大磯の小余綾から城山までの間には、幕末から明治に至る、時代を象徴する人物が別邸を構えている。後藤象二郎邸、村井吉兵衛邸を初め徳川邸、伊藤邸(滄浪閣)、沖邸、陸奥邸、鍋島邸、大隈邸、西園寺邸、池田邸、清水邸、伊達邸等の旧邸跡が残されている。大磯は和歌の時代からの文化的色彩に加え、政治とも縁の深い土地柄であったとも言える。

  大磯八景碑として残された歌碑は、次のようなものである。

  いさり火の照ケ崎までつづく見ゆいかつり船や今帰るらん (照ケ崎の帰帆)

  さやけくも古にし石文照すなり鴫立沢の秋の代の月 (鴫立沢の秋月)

  小松原けむるみどりに打ちはれて見わたし遠く小余綾の浦  (小余綾の晴風)

  くれそめて紫匂ふ雪の色をみはらかすなり富士見橋の辺 (富士山の慕雪)

  霜結ぶ枯葉の葦におちて行く雁の音寒し唐が原 (唐ケ原の落雁)

  高麗山に入るかと見えし夕日影花水橋にはえて残れり (花水橋の夕照)

  さらぬたに物思はるる夕間暮きくぞ悲しき山寺の鐘 (高麗山の晩鐘)

  雨の夜は静けかりけり化粧坂松のしづくの音ばかりして (化粧坂の夜雨)

  大磯は、比較的狭い町ではあるが、色々な意味で、歴史的、文化的、政治的に名勝と言われるに相応しい土地であると言えるのではないかと考えられる。

(平成29年3月27記)

 

 

 


東海道吟行記(大磯~二宮)其の一

2017-03-25 10:22:05 | 俳句

大磯付近の東海道松並木

   大磯駅を出て相模湾側へ5分程歩いた東海道の道沿いに日本三大俳諧道場(京都落柿舎、滋賀無名庵と並ぶ)として有名な「鴫立庵」がある。鴫立庵は、寛文4(1664)年の頃、小田原の崇雪が石仏の五智如来像をこの地に運んで草庵を結び、初めて鴫立庵と名付けた事に始まる。当初は、五智如来を本尊とする西行寺を作ることが目的であったが、その後元禄8(1695)年に紀行家、俳諧師として有名であった大淀三千風が庵を再興して入庵し、第一世の庵主となったものである。

   鴫立庵は、通常の民家よりもやや広い程度の敷地内に、歴代庵主の住居として使用されてきた鴫立庵室と、これに並ぶ俳諧道場、三千風が建てた円位堂(西行座像が安置されている)、法虎堂(有髪僧体の虎御前の木像が安置されている)、観音堂等があり、五智如来像や西行歌碑、歴代庵主の句碑等が配置されている。芭蕉の句碑もある。

   鴫立庵の門前には鴫立沢と呼ばれる谷川が流れ、海へ向かって沢となり、砂地に吸い込まれて消えている。この辺りの浜を小余綾(こよろぎ)の浜と呼び、歌枕として多くの和歌に詠まれている。西行もこの辺りの海辺を吟遊して、三夕の歌として有名になった和歌、

     こころなき身にもあわれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮   西行

という名歌を残した。大淀三千風は、〈鴫立し沢辺の庵をふきかえてこゝろなき身のおもひ出にせん  鴫たってなきものを何よぶことり〉の和歌を残した。現在は、22世の庵主鍵和田柚子(俳人)氏が在庵している。

     円位忌の波の無限を見てをりぬ    柚子

  鴫立庵で詠んだ拙句(3月25日西行祭に際して献納句)

     小余綾の磯の香りや西行忌    呑舞

     小余綾に松風鳴くや西行忌     呑舞

鴫立庵正面と鴫立沢

   東海道沿いに西下すると道沿いに名門同志社大学創立者の新島襄終焉碑がある。新島は、晩年大磯で病気の療養を続け、京都に帰ることなくこの地で亡くなっている。

    更に、東海道を西下すると東海道の山側に旧島崎藤村邸(静の草屋)がある。藤村は、昭和16年1月13日に湯河原への休養旅行の途中、友人に誘われた大磯 での左義長見物が契機となって大磯に住む決意をしたと言われている。敷地面積145坪に建つ長屋は24坪で、近年の庶民住宅と余り変わらない広さの住居である。当初は家賃を毎月27円支払う借家住まいであったが、翌年には、当時のサラリーマンの約30年分の給料に相当する1万円で買い取り、終の棲家にした。近所には、作家の菊地重三郎、画家の安田靫彦、画家の有島生馬等が住んでおり、交遊を深めたと言われる。

   住居は、小さいながらも素朴な冠木門を潜り、割竹垣に囲まれた小庭、わずか三間、8畳、6畳、床の間付きの4.5畳と、最近の庶民の住宅よりも質素である。藤村は、静子夫人に宛てた書簡で「萬事閑居簡素不自由なし」と表現している。

   藤村夫妻は、この居宅から800m程度東京寄りに離れた地福寺の本堂前、梅の名所になっている古木(100~200年)に囲まれた墓所に眠っている。

   大磯は、磯の香りと共に、文化的な色彩の濃い隠れた名所であると想像される。(続く)