呑舞さんの脳活俳句日記

俳句漬けの毎日。夢の中でも俳句を詠み、昼間は時々カメラを持って外出し、俳句の材料を捜す日々。句会報告や俳論を掲載します。

巨星逝く(日野原重明先生追悼)

2017-07-25 08:15:21 | 俳句

日野原重明第一句集『百歳からの俳句創め』

2015年5月横浜みなとみらいでの講演会風景

  筆者の心の師でもあった日野原重明先生が去る7月18日の朝呼吸不全で亡くなられた。つい先日まで、今年10月4日106歳の誕生日を楽しみにしておられたことが夢のように感じられる。先生の医師としての業績は既に周知の事であるが、オームサリン事件の時、救急の陣頭指揮にあたられ、600余の患者の治療に専心された事は、特に有名である。

  また先生は、98歳を過ぎても色々な事に興味を持たれ、俳句やその他の文芸にまで意欲を示されると共に、「新老人の会」作り、各所の会合に出席され、更に毎日メール通信により励ましの言葉を送り続け、多くのシニヤ世代に勇気と希望を与える努力をされて来た。

   駆け巡る新老人会年暮れる

  先生は、常々「創めることを忘れぬ限り、人はいつまでも若い」と言う言葉を使われて来た。この言葉は、元々はマルティン・ブーバーの言葉だが、先生ご自身の実践であったと考えられる。また、何か新しいことを創めるのに遅いと言う事はない、とも言われていた。その証が、俳句創作活動になり、2014年には第一句集を上梓される事に繋がっている。下の写真は、先生が103歳の時に横浜みなとみらいで講演された時のものである。車椅子で入場された先生が壇上では立った姿勢のまま1時間に及ぶ講演をされた事が印象的であった。

  先生が俳句を創めると宣言されたのが、98歳の時であったと記憶している。その時、印象に残った御句は、2008年新年7句として詠まれた、

    初御空我上り坂米寿超え  (米寿は達成目標ではなく関所のひとつ)

    私には余生などないよこれからぞ

と言う二句である。如何にも先生らしい前向きな姿勢が読み取られる。その後、「俳句療法学会」を設立され、医療に俳句を取り入れると言う新しい試みに挑戦された。更に、先生の興味は、若者を凌ぐ広さをお持ちであった。100歳になられた2012年頃には、

    百歳は私の関所ゴールでなく

    早々と晦日前後に作家目指す

等と詠まれ、童謡、童話作家になる決心を述べられている。また、限りない精神的な若さや行動力を維持されており、この頃トンボ帰りのイギリス行きを決行されたり、2013年にはマンハッタンでヘリコプターる搭乗したりされている。

    イギリス行二日スティのとんぼ返り

    ヘリに乗りマンハッタン見下ろす百二歳

  また、ユーモアも人一倍旺盛で、

    露天風呂扇のかなめに股開き(川柳)

    百二歳スピード狂に歳はない

  この句は、富士の裾野にある「富士教育研修所」へ通われていた時のもので、先生は「ドライバーも乗っているが、私もスピード狂で、年50回程東京から東名高速を飛ばして研修所まで行き、医学教育学会主催の中堅医師のためのワークショップの講師を務め」られていた。「スピード狂の私は時速百キロでいつも心が弾む」とも述べられていた。恐れ入った精神力、行動力をお持ちであったことが伺える。

  亡くなられた今、ご自身のお言葉通り、天空の星に成られて我々を見守って頂けるものと思う。心からご冥福をお祈りしたい。合掌

    

   夢追ひし人の逝きけり星涼し    呑舞

 

(平成29年7月25日記)