マサチューセッツの渓谷の秋 アメリカの友人から近況が届いた。アメリカでも今、秋真っ盛りであるとの添え書きがある。遠く離れた外国の今を知る事が出来る。拙宅別荘より広い。
便利な世の中に成ったものだ。好きな時に何時でも情報を手に入れたり、外国の友人に近況を伝えたり、インターネットを利用して多くの友人と繋がることが出来る。今や、ネット環境無しでは十分な情報を手に入れることが出来ない。逆に言えば、ネット環境を利用して多くの情報を手に入れることが出来る世の中に成ったと言うべきかも知れない。ただ、その便利さの陰で色々な不都合が発生している事も否めない。俳句の世界においても事情は同じでは無いだろう。単純に一期一会と言うような狭い考え方では成り立たない様な俳句の世界が形成されつつあるように感じられる。以下は、結社誌に最近投稿した筆者の文章である。主宰がどのように感じられるのかは氣になる所である。
「最近、インターネットを利用して俳句を投句して互選をしたり、主催者(主宰)からの選評も頂ける様なホームページやフェイスブックを使った句会が増えている。ネット環境(パソコンに限らず、スマホや通信機能搭載のタブレットでも良い)さえ構築できれば、全国規模で俳句を楽しむ事が出来る。勿論、結社に参加して実際の句会を体験する事の必要性を否定するものでは無いが、結社の枠を超えて多くの俳人に接し、また、多くの人に自分の作品(俳句)を読んで貰える機会が増える事は、俳句に対する視野を広げる事にも繋がるような気がする。
また、従来の結社が独自のネット句会を運営する例も増えている。ただ、結社内のネット句会では(多くの場合、非会員の投句を認める場合が多い様ではあるが)、やはり結社の枠内に留まる事となり、余り参加範囲が広がらない様である。経験的に言えば、超結社で運営するネット句会が一番効果的かつ刺激的であると思う。インターネットの発達によって俳句の世界も様変わりしつつある様に感じられる。」
ただ、付言すれば、ネット句会の甘えや馴れ合いも些か目には付く。特にフェイスブック句会等では、選句に際しての匿名性が担保されず、特定の個人同士の遣り取りのような状況が発生する。句会の本来の狙いは、選句の匿名性と選句理由や感想を明確にする所から、自分の投句に対する他人の客観的な評価を知る事が出来る点にあるのでは無いだろうか。匿名性を前提にする句会は、大変な手間が掛かることは否めない。現在、投句数の多いネット句会としては、投句の整理や選句結果、講評等についての手際の良い現代俳句協会のネット句会に勝るものは無い様である。千句を超える投句の中から五選する方法だが、読むだけで大変ではある。
投句資格が45歳未満とか、俳句経験が5年未満とか、若年層に視点を当てた既存誌への投稿は、若い俳人を育てるための手段かも知れないが、現在の俳句人口の多くを占めるシニア世代の俳人に対する配慮を感じる事が出来ない。人生経験や年代によって醸される情緒や感性を詠んだ佳句は多い。既存誌も従来の枠を超えても良い時期では無いだろうか。ネット句会には、このような縛りが無いことが大いに評価される。
(秋日:呑舞近詠)
採る者の影なき里の熟柿かな
演習地隠るる楯の花芒
藪中に赤き一点烏瓜
フレームに収まり切れぬ紅葉山
長袖を一枚増やし秋の旅
円窓や一幅掛の花紅葉
一冊が二冊に増える夜長かな
四阿囲む落葉の海に漂へり
手元だけ氣になるスマホ木守柿
親の歳超えて生きゐる秋思かな
(最近、ネット句会で特選、秀句に選ばれた句)
(特選)
尺取りや己の尺を測り得ず
夏衣乳房の張りの清やかなる
(秀逸)
地獄へと続くやうなり蟻の穴
(平成28年10月20日記)