呑舞さんの脳活俳句日記

俳句漬けの毎日。夢の中でも俳句を詠み、昼間は時々カメラを持って外出し、俳句の材料を捜す日々。句会報告や俳論を掲載します。

滑稽俳句

2016-08-18 17:55:24 | 俳句

松山市所在「国指定重要文化財『萬翠荘』」(2015年4月呑舞撮影)

    今朝、愚陀佛庵句会の選者"八木健"主宰からメールが届いた。先生は、佐藤紅緑以来の「滑稽俳句」の先駆者として知られており、現在、国指定重要文化財「萬翠荘」館長を務めながら、松山市内を中心に幅広い俳句活動をされている。現在、各地で活動している各種結社と異なる所は、俳句とは、元来「滑稽」なものである、という立場かも知れない。 この萬翠荘の裏山に夏目漱石が止宿していたと言う愚陀佛庵があり、正岡子規も半年ほど滞在し、活発に句会を開いたと言われている。愚陀佛庵は現在はない。本日届いた八木先生の俳句40句中の数句を紹介しよう(八木先生より転載許諾済)。

    (八木健先生詠)

  炎天の温度を測る犬の舌

  心太背なを押されて仕方なく

  ビヤガーデンジョッキに泡を盛りつける

  饐えるてふ賞味期限を無視の季語

  ひらがなで書いてはラムネらしくない

  必要とあらば舞ひますゴキカブリ

  一年で一番多忙夏休み

  昆虫の個人情報落し文

  蝌蚪の字は読めても書けぬ俳句歴

  丸木橋ぐらぐら山に笑はれる

  何れの句も心憎い程のユーモアと皮肉に満ちている。これも俳人としての一つの句の詠み方であると思う。漱石も松山在住中かなり滑稽俳句を詠んでいる。

  枯野原汽車に化けたる狸あり      漱石

  愚陀佛は主人の名なり冬籠もり   漱石                  

そこへ行くと、子規はかなり真面目。

  春や昔十五万石の城下かな   子規

  松山や秋より高き天守閣     子規

呑舞さんも真面目。

  松山や桜に浮かぶ天守閣     呑舞

  子規堂の小さき庭や春日差し   呑舞

  石手寺に梵鐘響く春霞       呑舞

呑舞さんも少し皮肉。

  タクシーも許され給へ遍路道   呑舞

  春寒し内子座で打つ膝小僧    呑舞

今日は、松山尽くしに成りました。呑舞詠は、何れも松山での旅吟である。

平成28年8月18日記

 

(追記)8月19日

   平成22年7月12日松山地方を襲った豪雨で松山城の石垣が大規模に崩落し、下方にあった愚陀佛庵は全壊してしまった。漱石や子規が居住し、盛んに句会を行った庵は今はない。しかし、愚陀佛庵の再建を願う人達によって、現在再建に向けた努力が続いている。萬翠荘と共に貴重な文化財の再建が願われる(呑舞)。 

 


熊本地震の惨状

2016-08-16 20:26:00 | 俳句

熊本市内「本妙寺」の急階段胸付雁木にあった石灯籠群

(熊本市内在住の俳人永田満徳氏提供:平成28年8月16日)

   「本妙寺(熊本市西区)の大本堂から先には胸突雁木(むなつきがんぎ)と呼ばれる176段の急勾配の石段があり、その中央に信者から寄進された多数の石灯籠が並んでいる(永田満徳氏)」と言う文章に添えて、

      被災せし石灯篭に秋暑かな   満徳

という句が紹介された(俳句大学FB上)。先の熊本市内の惨状は、現在まで、市中を離れる程に復興していないと言う情報も届いている。地震発生から、既に4ヶ月を過ぎる。近頃では、高校野球やリオのオリンピックの情報の影に隠れて、喫緊の課題である災害復興についての情報は殆どマスメディアの表面には現れてこない。然も、国民が知らない間に、原発の再稼働さえも秘かに行われつつある。日本人というのは、此れほどの現実をもすぐ忘れてしまうような国民性しか無いのか。日本人が忘却病に犯されていることが怖い。広島、長崎への原爆投下の事実さえ、現在の10~20代の若者には無縁のものに成りつつある。

      無残やな秋暑に曝すなゐの跡    呑舞

      古里の火を吹く山や春のなゐ    呑舞

    昨日で鎮魂の月は終わった。これからは、もう少し現実的な所で、災害復興がなされることを願う。故郷の早い復興を。

平成28年8月17日記

 

 

 

 


71年目の敗戦忌

2016-08-15 08:34:38 | 俳句

愚陀佛庵インターネット俳句会特選句(八木健先生選)

  我が家では、父親が軍需工場の技師であった為、徴兵免除になり、家族から戦死者を出す事は無かったが、母方の二人の叔父が、一人は海軍へ、もう一人は陸軍へ徴兵された。

  海軍へ徴兵された上の叔父は、終戦間近になってから、南方作戦に従軍すべく輸送船で航行中、アメリカ軍の潜水艦に撃沈されたが、多くの戦友が鮫に追われたり、溺死して海の藻屑と消え去る中、運良く救助され、戦後日本へ帰還する事が出来、その後子供をもうける事も出来た。しかし、叔父は、戦後従軍中の事について多くを語る事なく、その後、従軍中のストレスから全身癌に犯され、50代前半で亡くなった。

  陸軍へ徴兵された下の叔父は、ビルマでの所謂インパール作戦に従軍し、熱帯雨林の中での行軍中に戦死したと伝えられた。このインパール作戦は、軍上層部の判断ミスが生んだ悲惨な作戦であったとも言われ、交戦による戦死者よりも、餓死と病死によるものが殆どであったらしい。叔父の遺骨は、内地へ帰還することも無く、戦地でどの様に亡くなったのか、今では知る術も無く、それを伝える叔父の父母(私にとっては祖父母)や兄弟姉妹も既に亡くなってしまった。

  上掲の句は、今では日本へ還る事の無い下の叔父の無念の情を詠んだものである。八木健先生は、この句について、「叔父さんの無念を思いやることも反戦の意思表示につながるものである。風化させてはならないことを伝えて行かねば」との有り難い評を付けて下さった。

      語り継ぐべき事多し敗戦忌      呑舞

     泡盛に酔へぬ時代の闇昏し     呑舞

     愚かなる人知及ばず終戦忌    呑舞 

  我が家は、当時身重だった母親を伴って、親子4人で鎌倉から原爆投下4日後の広島を通り、長崎への原爆投下の翌日10日には、佐賀廻り(鹿児島本線が爆撃を受けて通行不能であった)の電車で熊本へ向った。途中、広島や長崎での多くの被爆者が車中に溢れ、車内は正に生き地獄であった。その時の鮮烈な記憶は、今でも脳裏から離れない。後に公開された「原爆の絵」の有り様を超える凄惨な地獄絵であった。8月13日熊本駅に辿り着いたが、熊本駅周辺にも多数の死者の骸が放置されていた。ただ、この時には、感情が麻痺しており、ただ飯にありつきたい一心であったと思う。その夜の熊本一泊を可能にしてくれた旅館で提供された白米ご飯の美味かったことは、生涯忘れられない。翌14日午後、八代にある父の実家へ辿り着き、翌15日に終戦と成った。 この逃避行がどのような意味を持つたのか、父からは、その後も何の説明もなかった。その後数年間、八代で過ごした青春期の思い出は、私のその後の人生に大きな影響を与えたことだけは間違いの無い事実である。

平成28年7月15日記


盆の入り

2016-08-14 09:46:57 | 俳句

英連邦横浜戦死者墓地(横浜市保土ヶ谷区)

   「英連邦横浜戦死者墓地(以下「英連邦墓地」と略称する)」は、横浜市保土ヶ谷区狩場町にある。横浜には、中区にある「山手外国人専用墓地」があり、横浜を代表する観光地にもなっている。この他にも、割合知られている外人墓地として「根岸外国人専用墓地」や「中華義荘」があるが、こうした著名な外国人墓地の影に隠れてひっそりと存在するのが、英連邦墓地である。狩場町と言っても永年横浜に在住している人間でも分かり難い場所ではあるが、今や正月の恒例行事にも成っている大学対抗駅伝で有名に成った権太坂と言えば分かり易い。英連邦墓地は、権太坂から徒歩で15分程の所にある。

   英連邦墓地は、横浜でも余り知名度は無いが、約13ヘクタールと言う広大な敷地の中に、墓碑数2,000基、内捕虜として亡くなった人の墓碑1,700基が十字架のモニュメントの下、森に囲まれた清澄な空気と荘厳な雰囲気の中に整備され、死者達の永遠の眠りを守っている。終戦時日本には連合国軍の捕虜の死者3,500柱があったとされているが、アメリカ人とオランダ人の遺骨は、戦後間もなく母国へ返され、英連邦(イギリスとその植民地であった国の内、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国、インド、パキスタン各国)の戦没者だけが、日本に残されている。これは、大航海時代から続いた英連邦の考え方、「その地で亡くなったら、その地に埋葬する」に依ったものだとされている。従って、イギリス人の外国人墓地は、世界中にあるとも言われている。これらの墓碑は、それぞれの国家毎に整備され、同一規格の墓石には、本人の名前や所属部隊、死亡年月日が刻まれている。殆どが20歳前後の若者である。更に、墓碑を見て驚くのは、各墓碑に眠る戦没者に対する肉親からのメッセージである。例えば、

"HE WAS A BRAVE SON LOVED BY ALL EVER REMEMBERD"(彼は皆から愛され、思い出に残る勇敢な息子だった)

"GOD HAS HIM IN HIS KEEPNG WE HAVE HIM IN OUR HEARTS, MOTHER"(神は彼を御手に召された。私たちは彼を心にとどめている。母より)

"LOVINGLY REMEMBERED BY HIS PARENTS SISTERS AND BROTHER"(両親、姉妹そして兄弟から愛おしく思い起こされる)

等々。読んでいて心の痛むものがある。これに引替え、日本軍の外地での戦没者の慰霊がどのように成っているのか、今や大多数の日本人が忘れ去ろうとしている事実に唖然とさせられるものがある。英連邦墓地には、故ダイアナ妃を始め、1975年5月にはエリザベス女王が、また2015年2月にはウイリアム王子が訪れている。国を挙げての祈念の気持ちが続いていることに敬服する。日本で は如何。唯一の救いは、天皇の慰霊の旅かも知れない。国の違いを超えて、彼らも戦争の犠牲者であることに替わりは無い。せめても盆の月、遠い極東の国で捕虜として果てた彼等の慰霊を弔うことも人間としての務めであろう。

 (呑舞詠)

  戦後早七十一年夾竹桃

  夾竹桃原爆の日を忘れまじ

  命てふ重きものあり原爆忌

  外つ国の人にも供ふ蓮の飯

※ 夾竹桃は、江戸末期に中国から渡来したものであり、それ以前には地中海原産のセイヨウキョウチクトウも輸入されている。「夾竹桃」は、漢名の音読で、葉が竹のように細く、花がモモの花に似ていることから命名されたものである。根や茎葉には、強心肺糖体のオレアンドリンやネリアンチンを含み、古くから麻酔や強心剤として利用されて来た。しかし、夾竹桃は炎天下、緑濃い葉と紅の花とが色鮮やかで妖しいまでの美しさを誇り、花期が長く、盛夏の咲振りが素晴らしいことから、戦後、敗戦を想起させる花として独特な存在感を持つように成ったと言われている(『俳句の花図鑑』から)。夏の季語として、敗戦を「本意」とした句を詠むことが出来る。

平成28年8月14日記

                                                                     


軒の栗

2016-08-04 09:38:48 | 俳句

清源院境内にある芭蕉句碑

   昨日に続き、清源院について少し記述しておきたい。

   清源院の縁起については、昨日の記述でほんの少しばかり触れた。しかし、この寺院に芭蕉の句碑があることについては余り知られていない。句碑は、清源院の墓地入口の階段下に設置されている。

   句碑の正面には、「栗という文字は西の木と書て西方にたよりありと行基菩薩は一生の杖にも柱にも用給ふとかや」という「詞書」と共に、

    世の人の見つけぬ花や軒の栗   はせを

と言う句が刻まれている。この句は、元禄2年(1689)、芭蕉46歳の時の作とされており、季語は「栗の花」で夏の句である。『曽良旅日記・曽良書留』等の記述によれば、卯月(陰暦4月)23日の夕刻、桑門可伸庵を訪ね、翌24日昼頃から歌仙を興行したとあり、その時の発句「隠家やめにたゝぬ花を軒の栗」を『おくの細道』の執筆時に句碑掲記のように推敲したものである。

   この句の文体上の特徴は、「世の人の見つけぬ花や」と 言う文言が、所謂「基底部」=服部土芳の言う、新しみを生む発句の「行きの部分」に相当し、その花が「世の人に全く賞美されない花」と言う侘しさを「栗の花」に託して表現することで、当時、相楽等躬宅の裏に隠棲していた俳人可伸に対する挨拶句としたものである、と解される。可伸を西行や行基菩薩に例えたのは、少し思い入れが強すぎるようにも感じられるが、俳句、特に挨拶句は大げさに表現(誇張表現)した方が読者に句としてのインパクトや感銘を与えるとも考えられるので、そこは芭蕉の感性に任せよう。

   この句から分かることは芭蕉が、西行や行基に対する強い憧れを持ち、同時に古典に対する深い造詣が伺えることである。近年、上っ面だけの軽々しい俳句を垂れ流すだけの詠み手も多く、そのような傾向に些か疑問を持つ者としては、俳人ならば、芭蕉に還れと言いたい気持ちがある。

   この芭蕉の句に対して、後に可伸は、「予が軒の栗は、更に行基のよすがにもあらず、唯実をとりて喰のみなりしを、いにし夏、芭蕉翁のみちのく行脚の折りから一句を残せしより、人々の愛でる事と成り侍りぬ」(等躬編『伊達衣』採録)と言う、皮肉とも取れる感想を残している。このときの可伸の一句。

    梅が香に今朝はかすらん軒の栗   須賀川栗斎可伸

   清源院と芭蕉行脚の旅とは直接的な関係はない。清源院縁起書には現在の句碑の傍らに大きな栗の木が在った、と記されているのみである。ただ、注目したいのは、当時の戸塚宿が「江戸」と「小田原」の略中間地点(両方へそれぞれ10里)に所在し、どちらへも一日行程の場所にあると言う地勢学的要素についてである。当時の大名や武士、そして町人を含めて多くの旅人が足を止めた戸塚宿は、俳諧を含めた多くの文芸について、江戸文化の影響を強く受け、多くの俳人や歌人を生み出したと言う 事実である。現在、戸塚に在住する一俳人として、このような文化的歴史は語り継ぐべきものだと痛感している。

   栗の花には関係ないが、戸塚宿他を詠んだ今日の一句。

      ご領主の墓碑覆ひたる青葉闇    呑舞

      この世への警世挙げんと蝉生る   呑舞

平成28年8月4日記

 

 

 

                                                        


木下闇

2016-08-03 07:51:32 | 俳句

旧相模国戸塚宿所在の清源院にある於萬の方葬所跡

  清源院は、東海道線戸塚駅からほど近い小高い丘の上に所在する。清源院の開基は、1620年、京都知恩院の末寺として、徳川家康の側女であった於萬の方によって創建されたもので、清源院の名前の由来は於萬の方の法号「清源院殿閑誉理崇大禅定尼」に依ったものである。この時代に、火葬をすると言うのは大変珍しい葬送方法であったと考えられるが、於萬の方は自らが創建した寺院の裏山で荼毘に付されたと伝えられている。石碑にも「當山開基清源院殿尊骸火葬之霊跡也」と記されている。多くの他寺にあるような開山師の大きな墓碑と比較していかにも質素なもので、墓碑というよりも、単なる史跡碑に近い。

   境内には戸塚宿に在住した俳人の墓碑や芭蕉の句碑もある。芭蕉の句碑については、改めて記述する。

    古の葬所の跡や木下闇   呑舞

   季語「木下闇」には、傍題として、青葉闇、木の晩、木暮など多様であるが、夏の木立が鬱蒼と繁って、昼でも薄暗い様子を表している。於萬の方が眠る場所として相応しい。木下闇を詠んだ有名人も多い。清源院は一見の価値がある。戸塚へ吟行される折りには是非立ち寄られることをお勧めする。

  須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇  芭蕉

  霧雨に木の下闇の紙張かな  嵐雪

  売卜先生木の下闇の訪はれ貌  蕪村

  灰汁桶の蝶のきげんや木下闇  一茶

  秀次の墓へ径あり木下闇   汀子

 

 平成28年8月3日記


夏盛ん

2016-08-01 12:39:46 | 俳句

(舞岡公園松原越し付近の農場にて -平成28年8月1日撮影)

   先月末で関東地方の梅雨が明けたと報道された。蕁麻疹も少し落ち着いてきたので、1月振りに舞岡公園へ吟行散歩に出掛けた。眩しいばかりの日照りである。8月7日は立秋、9日は旧暦の七夕である。旧暦の七夕は、辛うじて「初秋」になるが、暑さはこれから本番と言うのに、旧暦の季節は、一足先に秋になる。俳人としは、この季節の擦れに些かの疑問も感じる。

   歴史的にみると、新暦は明治6年に採用され、既に150年の歴史を重ねている。この間、社会の風俗、行事、習慣などは、新暦を基にして変化を遂げてきた。七夕の行事にしても、一部の地方的行事を除き、新暦7月の行事として定着している。確かに7月は梅雨最中で、「星祭」という感覚では雨や曇りで星が見えないではないかと言う声もある。七夕は、「季語」として7月(夏)なのか、又は8月(秋)なのか、俳人や、歳時記でも説が分かれている。七夕を「夏」として採用しているのは、現代俳句協会編の『現代俳句歳時記』に代表され、「秋」として採用しているのは、角川学芸出版編集の『角川大歳時記』がある。この編集方針の違いには、若干政略的な経緯や確執があるように感じられる。と言うのも、後者は俳人協会に所属する俳人によって編集されており、俳人協会自体が現代俳句協会から、協会と意見を異にする会員が分離独立して設立したという事情があるからである。しかし、同じ俳句という文芸を楽しむべき団体としては、お互いに狭量と言うべきでは無いだろうか。いい加減に対立的構造は解消して貰いたいものだ。「季語」は、その本意を損なわなければ、現実の社会的変化に則るべきではないかと思う。

   しかし、難しい議論は置くとして、この向日葵の元気なこと、またその貌(顔)の凛々しいこと、見事である。

この貌(顔)を見て一句、

   向日葵や居直る貌の凛として   呑舞

 先人も向日葵を題材に沢山の句を残している。

  向日葵や炎夏死おもふいさぎよし  蛇笏

  向日葵の空かゞやけり波の群    秋桜子

  向日葵の一茎一花咲きとほす      清子

 

平成28年8月1日記