今回の旅行での一番の収穫は、歩兵第36聨隊の軍旗奉焼之地・石碑を見つけたことである。実は、私が前回に南大東島に渡航しようと考えたのは、旧陸軍の歩兵第36聨隊と関係していた。20年以上前のこと、私は歩兵第36聨隊第1大隊長の原寿満夫中佐(陸士51期)から南大東島に駐屯していた体験談を聞く機会があった。沖縄本島や宮古島、石垣島などでの太平洋戦争の戦闘については各種の資料が単行本になって発刊され、テレビの特集番組でも取り上げられている。しかし、南大東島での戦闘や戦時体験について記録した資料は皆無であり、テレビ番組で放映されたこともなかった。原中佐から聞いた体験は新鮮で面白いものであった。この聞き取りから、一度は絶海の孤島を訪れてみたいと感じていたのだった。なお、NHKでは2009年11月4日放送の「戦跡と証言、戦争証言アーカイブス」において旧南大東空港を取り上げている。内容は不明であるが、多分飛行場建設の経過ではないかと推測される。
太平洋戦争の初期には大東島諸島は重要な拠点とは見なされず、海軍の飛行場が敷設され、少人数の海軍関係者が駐屯していた程度であった。しかし、米軍がガダルカナル島、ニューギニア、フィリピンを順に制圧し、南から北に順次転進してくるようになると、南大東島も次の攻撃目標になると予想された。このため、1944年3月になって5個中隊と少数の歩兵砲隊からなる第85兵站警備隊(球部隊)を編成し、大東島諸島に派遣することになった。その後、戦局は更に悪化したため、1944年7月になると満州チチハルに駐屯していた第28師団隷下の歩兵第36聨隊を沖縄を守備している第32軍の隷下に配置し、大東島諸島に出動させることになった。第85兵站警備隊は、後から進駐してきた歩兵第36聨隊に吸収された。歩兵第36聨隊の本隊は福井県鯖江市にあり、鯖江聨隊と呼ばれていたが、一般には豊部隊とも呼ばれていた。
原中佐はチチハルから沖縄本島に到着し、7月11日に第32軍司令部に出頭し、渡辺軍司令官より南大東島へ進駐する辞令を受領した。この時、辞令を渡す渡辺軍司令官は涙を流していた、と私は原中佐から聞いた。米軍は沖縄本島より先に南大東島を攻撃すると想定され、小さな島であることから全滅することが確実であった。南大東島に赴任することは玉砕することであった。原中佐に辞令を渡す渡辺司令官の涙は、原中佐との最後の別れを意味していた。しかし、実際には運命は逆転したのだった。
沖縄本島を守備していた日本兵は約11万人で、戦死者は約9万4千人であり、損耗率は85%にも達していた。これに対し、南大東島での兵隊の損耗率は極めて低いものであった。ただ、南大東島での戦死者数については正確な記録がない。南大東村誌を通読しても将兵の人数、戦死者数の記載が無い。海軍に付いては村誌の410頁に比較的明瞭に記載してある。それによると、海軍は約1千1百名が駐屯し、その内の25名が戦死した、という。
陸軍については、村誌の450頁に「守備将兵約7千人」とあるだけで駐屯していた将兵の総数は明瞭ではなく、戦死者の人数も明確ではない。西港に建立されている忠霊塔には戦死者の氏名が刻まれた墓碑銘がある。墓碑銘には戦没した112名の氏名が刻まれている。しかし、この戦没者名は北大東島、ラサ島で駐屯していた歩兵第36聨隊の兵士も含まれていることから、南大東島での戦死者数はこの人数よりも少ないと考えられる(村誌の454頁には、「72名の合同慰霊祭あり」とあることから、南大東島での陸軍の戦死者は72名かもしれない)。墓碑銘の戦死者112人を村誌の7千人で割った大雑把な損耗率は1.6%であり、沖縄本島の戦闘に比べると損害は極めて軽微であった。将兵は殆ど無傷で生き残った。
敗戦は1945年8月16日に第28師団からの電報で通知された。同時に軍旗を奉焼する旨の指示も通知された。米軍上陸前に奉焼することになり、8月31日に司令部の洞窟があった近くで焼却することになった。軍旗は天皇より親授されたもので、旧陸軍では神聖なものとして扱われていた。敗戦により天皇の分身である軍旗を敵軍に渡すことはできないものであった。特に、歩兵第36聨隊の軍旗は1898年に拝受したもので、日露戦争にも携行したという由緒のあるもので、焼却するには忍びないものがあった。軍旗を焼却した後の灰は白木の箱に収め、太平洋に沈めたという。
戦後、復員した歩兵第36聨隊の隊員は戦友会を結成し、毎年靖国神社で慰霊祭を行っていた。1972年に沖縄が日本に復帰してからは、戦友会の有志が慰霊のため定期的に島を訪問することになった。そして、1980年6月10日には、司令部の洞窟があった近くに「軍旗奉焼之地」の石碑を建立することになった。その後は戦友会の会員が来島の度に石碑周辺を整備していたが、会員が高齢化するようになったことから整備の継続が困難となった。このため、戦後60年となった2005年頃、戦友会から役場に「石碑の管理をお願いしたい」と依頼があり、幾ばくかの整備費を置いてきたらしい。暫くの間は雑草の撤去や掃除など行われていたが、いつの間にか忘れられてしまった。このため、地元の有志が年に3回ほど下草の刈り取りと林の中の道を整備してくれていたので、石碑の倒壊は免れた。今後はどのように保存、維持していくのかが問題である。
一段目、二段目の写真は林の中に建立された軍旗奉焼之地の石碑であり、鬱蒼とした防風林の中にポツンと立っていた。三段目の写真は石碑のある防風林を砂糖きび畑から眺めたものである。