長岡京歴史散策の会

長岡京歴史散歩や長岡京歴史よもやま話事業の公式ブログ
両行事の開催情報や参加者の声を掲載していきます。

8月4日 第1回長岡京歴史よもやま話開講の段5

2015-08-01 12:29:27 | 歴史
 長岡京歴史散策の会では、長岡京歴史よもやま話 を開講します。

 日本古代の王宮・王都の歴史や考古学の最新調査と研究の成果をスライド写真等でわかりやすく解説します。東アジアの王宮・王都との比較、世界の都市文化との比較などについても折に触れて紹介していこうと思っています。最新の発掘調査情報の解説も行っていきます。

 
 第1回よもやま話

 「長岡京と世界のトイレ」

人間社会には不可欠なトイレは、近年生物学からの方法論の提示により、その空間を 特定することが可能になり長岡京内からも発見することができました。世界のトイレ文化を視野にトイレを考古学します。

 ・日時 2015年8月4日(火) 10時~12時 
 ・会場:中山修一記念館(下図参照)
  阪急電車京都線西山天王山駅から東へ徒歩15分


 イギリスヨークのバイキングセンターのトイレ展示。近づくと臭いまでする!!


 イタリアポンペイの道路には下水も流されており、あまり清潔出はなかった。両側の歩道を行き来するためにステップストーンが配置されていた。


 中国洛陽東面に開いていた建春門の跡付近にあった現代のトイレ。


〈今後の予定〉

第2回長岡京散歩 ~長岡京の西市周辺を歩こう~

 2015年9月26日(土)12時45分阪急西山天王山駅東改札口集合
 中山修一記念館-恵解山古墳と長岡京条坊跡-長岡京造酒関係遺跡(現立命館中・高等学校)-西市周辺(「金銀帳」木簡、「自司進」木簡出土地・現乙訓高等学校周辺)-15時30分解散

第2回よもやま話 「長岡京の風呂と世界の風呂習慣」

 現代の日本人家庭にはお風呂があり、毎日のようにお風呂に入る。しかし、こうした習慣が始まったのもつい最近のことであり、わずか半世紀前まで、家庭に風呂はなく、銭湯を使うことが大半であった。日本人の風呂好きはローマ人と比較されることが多いが、歴史資料は意外なことを教えてくれる。
2015年10月17日(土) 13時~15時 
会場:向日市寺戸町寺山 寿恵更紗ミュージアム 参加費100円

おもしろそうだなと思う人は是非ご参加下さい。

長岡京歴史よもやま話開講の段4

2015-07-05 16:13:27 | 歴史
 長岡京歴史散策の会の事業第二弾として「講座 長岡京歴史よもやま話」を開講します。
 この講座は、日本古代の王宮・王都の歴史や考古学の最新調査成果及び研究成果をスライド写真等でわかりやすく解説する企画です。
 長年、三重大学にて日本考古学や東アジアの比較考古学を講義してきた山中が、主に1・2年生を対象に行ってきた考古学入門講義を基礎に、長岡京など奈良・平安時代の歴史について写真や図表を中心にお話しする講座です。大学での講義でも時に応じて行ってきた最新の考古学関係ニュースの解説も行っていきます。
 東アジアの王宮・王都との比較、世界の都市文化との比較などについても折に触れて紹介していこうと思っています。例えば、5月22日の新聞各紙は奈良文化財研究所の小田裕樹さんの最新の研究成果「奈良時代の盤上遊戯に関する新知見」という発表を大々的に伝えました。この話題に関する最新の講義資料はこんな感じでした。









奈良文化財研究所プレスリリース資料(http://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/3364/1/20150521_h_yuugi.pdf)より。

貴重なこうした最新の研究成果を解説すると共に、古代の遊戯について紹介します。他と会えばこんな感じです。

 









もちろん第1回はトイレがテーマですので、最新のトイレ研究の成果を通して日本の古代社会がいかなる状態であったかを解説します。

 講座 長岡京歴史よもやま話 
 第1回 「長岡京と世界のトイレ」
   人間社会には不可欠なトイレは、近年生物学からの方法論の提示により、その空間を特定することが可能になり長岡京内からも発見することができました。世界のトイレ文化を視野にトイレを考古学します。

 ・日時 2015年8月4日(火) 10時~12時 会場:中山修一記念館(阪急電車西山天王山駅下車徒歩15分)

予告

 第2回 「長岡京の風呂と世界の風呂習慣」
 現代の日本人家庭にはお風呂があり、毎日のようにお風呂に入る。しかし、こうした習慣が始まったのもつい最近のことであり、わずか半世紀前まで、家庭に風呂はなく、銭湯を使うことが大半であった。日本人の風呂好きはローマ人と比較されることが多いが、歴史資料は意外なことを教えてくれる。
 ・日時 2015年10月予定  10時~12時 会場:未定

長岡京歴史散策の会を立ち上げましたの段3

2015-07-04 21:22:50 | 歴史
 「長岡京歴史散歩」と「講座 長岡京歴史よもやま話」を二大事業とする会を立ち上げました。
 
 長岡京歴史散策の会

 と名付けました。まだ親しい仲間と立ち上げた会ですので、仲間のお家に集まって代表を私が務め、事務局長と顧問を決めただけですが、これからさらに仲間を募って、近い将来NPO法人にでもできればなと思っております。

 以下が、発足にあたって作成した「趣意書」です。

 「長岡京歴史散策の会」発足にあたって

 Ⅰ 趣旨
 
 2015年(平成27)は、長岡京跡の発掘調査が始まって60年、長岡宮跡に初めて鍬を入れた中山修一先生生誕100年という記念すべき年にあたります。発掘調査はすでに2200回を超え、得られた成果は膨大な量に上ります。そこで、長岡京を調査、研究してきた者が、その成果を分かりやすく解き明かす会を発足します。気候の良い時期には発掘調査現地を訪ね、それ以外の季節には、資料や写真で成果に迫ります。時には中国や朝鮮など、東アジアの王宮・王都とも比較してみます。世界の都市文化との比較も参考になるでしょう。多彩な事業を通して地域を愛する人々が気軽に集う場を提供し、長岡京の歴史に親しむことを目的に活動します。

Ⅱ 事業
 
 二つの事業を中心に活動を展開します。

 1 長岡京歴史散歩

 ①趣旨
 現在のシステムでは、発掘調査が終了すると調査地は埋め戻され、新たな施設が建設されて調査によって発見された遺物や遺構がいかなる状態であったかについてはほとんど知ることができません。そこで、調査に携わった専門家によって、長岡京跡の発掘調査地点を中心に、関係遺跡、関連社寺、資料館などを巡り歩き、その意義を学びます。
 ②参加費
 資料代(その他に有料施設の見学に要する費用等実費負担をお願いします。)
 ③開催
 3・5・9・11月第四土曜日を予定 
 案内 当面は山中 章(三重大学名誉教授)が務めます。
     案内人に参加していただける方を募集中です。

 2 講座 長岡京歴史よもやま話
 ①趣旨
 日本古代の王宮・王都の歴史や考古学の最新調査成果及び研究成果をスライド写真等でわかりやすく解説します。東アジアの王宮・王都との比較、世界の都市文化との比較などについても折に触れて紹介していこうと思っています。最新の発掘調査情報の解説も行っていきます。
 ②開催
 2・4・6・8・10・12月を基本に予定しています。10時~12時二市一町の公共施設を巡回する予定です。

 Ⅲ 運営

 ・ 事務局:会の運営、企画・立案のために事務局を置きます。
 ・ 事務局 〒617-0002 向日市寺戸町中野4-1
   代表   山中 章(三重大学名誉教授)
   副代表 1名・ 事務局長 1名・ 顧問 複数名
   所在地 612-0877 京都市伏見区深草僧坊町96-3 山中 章 電話/FAX 075-642-3424
 ・ 広報
   長岡京歴史散策の会ホームページ
   URL  http://blog.goo.ne.jp/ngaokakyourekisisannpo
   メール nagaokakyourekisisannpo@gmail.com
 ・ 原則ボランテア活動です。会費は徴収しません。現地見学や講座開催に伴う実費はその都度徴収し、事業運営します。

 Ⅳ その他

 ・ 完全なボランテア活動ですので、応援して下さる方を募集中です。

 Ⅴ 2015年度事業計画

 Ⅰ 長岡京歴史散歩事業
   1) 第1回:大極殿周辺を歩いて長岡京の魅力を探る  実施済み
    ・2015年5月30日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西向日駅西口集合
〈主なコース〉 朝堂院南門→西第四堂→西第三堂→嶋院→長岡宮西大垣→向日神社→元稲荷古墳→西宮(前期内裏)→大極殿・朝堂院→西向日駅

2) 第2回:西市を歩く
   
   ・2015年9月26日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西山天王山駅集合
〈主な予定コース〉 西山天王山駅(本日の見所解説) → 長岡京造酒遺跡(立命館中・高等学校)→ 恵解山古墳 → 中山修一記念館 → 勝竜寺城跡・神足遺跡 →  長岡京西市周辺(乙訓高等学校)周辺)→ 開田遺跡 → 16:00阪急電車長岡天神駅解散予定

3) 第3回 桓武天皇のルーツを探る-1 百済王氏と山部親王

 
  ・ 2015年11月28日(土)12時45分京阪電車 交野線宮之阪駅集合15時30分解散予定
〈主な予定コース〉 京阪電車交野線宮之阪駅(全体説明)→禁野車塚古墳→百済王神社→百済寺跡→禁野本町遺跡→京阪電車宮之阪駅解散

4) 第4回 東宮(後期内裏)周辺を歩いて長岡京の変化を感じる
  
  ・ 2016年3月26日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西向日駅西口集合(朝堂院西第四堂跡ガイダンス施設)
〈主な予定コース〉 朝堂院東第四堂→朝堂院東第四堂跡→築地跡→東宮(後期内裏)→春宮→宮城東大垣→南院→西向日駅

Ⅱ 講座 長岡京歴史よもやま話事業
 1) 第1回 「長岡京と世界のトイレ」
   人間社会には不可欠なトイレは、近年生物学からの方法論の提示により、その空間を
  特 定することが可能になり長岡京内からも発見することができました。世界のトイレ
  文化を視野にトイレを考古学します。
 ・日時 2015年8月4日(火) 10時~12時 会場:中山修一記念館(阪急電車西山天王山駅下車徒歩15分)

 2) 第2回 「長岡京の風呂と世界の風呂習慣」
 現代の日本人家庭にはお風呂があり、毎日のようにお風呂に入る。しかし、こうした習慣が始まったのもつい最近のことであり、わずか半世紀前まで、家庭に風呂はなく、銭湯を使うことが大半であった。日本人の風呂好きはローマ人と比較されることが多いが、歴史資料は意外なことを教えてくれる。
 ・日時 2015年10月予定  10時~12時 会場:未定

 3) 第3回 「飛鳥宮誕生」
 日本の古代国家が王権の中枢部に置いた王宮の実態が明らかになるのは6世紀末のことである。「飛鳥宮」と総称される6~7世紀の王宮が長岡京とどのような相違点、共通点を持つのか、日本古代の初期王宮の姿を確認する。  
 ・日時 2015年12月予定  10時~12時 会場:未定

 4) 第4回 「世界の都市と比較する-1~フェニキア都市と長岡京~」
 かつて平城京や長岡京は都市ではないという議論があった。都市の概念は東西で相当の違いを見せるように見えるが、実態はどうなのか。都市発祥の地とされる地中海地域の都市を見ながら長岡京と比較してみる。
 ・日時 2016年2月予定  10時~12時 会場:未定

>Ⅲ 中山修一先生生誕100年記念特別講演会
  中山修一先生は1915年(大正4)Ⅶ月19日、当時の乙訓郡新神足村にお生まれになり1997年4月30日、81歳でお亡くなりになるまで長岡京一筋に調査・研究に努められて参りました。先生の生誕100年を記念した講演会を開催しようと考えています。詳細は後日この紙面にてお伝えしますので、ご参加頂きますようお願い申し上げます。
  ・日時 2015年10~11月 会場未定
  ・講師 未定
  ・共催 長岡京市ボランテアガイドの会(予定) 

こんな形で少しずつ進めていこうと思っております。お近くにお住まいで興味をお持ちの方はご参加下さい。
なお、各事業の詳細は今後、この公式ブログ(ホームページ)を使ってお知らせして参ります。


長岡京歴史散歩参加者からの写真一挙掲載の段2 

2015-06-09 14:24:39 | 歴史
 四日市から参加くださった大泉義明さんからこんなたくさんの写真をいただきました。ご了解を得て紹介します。

 大極殿・朝堂の説明を朝堂院西第四堂跡の説明パネルの前で
 

 陶板製の立派な説明版
 

 幟旗も喜んでいます
 

 たくさんの人が集まってくれました。
 

 参加下さった長岡京市中山修一記念館の館長(ご長男)中山忠彦さんにご挨拶をお願いした。マイクを借りてきたのですが、充電器が故障で充電ができず、ガイダンス施設で電源を借りることができた出発時だけマイクを使いました。きっと聞こえにくかったともいます。今手ごろ何尾を探しているのですが、結構高いので自腹を切って買おうかどうしようか悩んでいます。(笑)
 

 門闕跡での説明。とにかく猛暑の中の出発でした。雨男が暑男になりました(笑)
 

 門闕の説明板。なぜか、建設の事情を特定することのできる難波宮式の軒瓦は掲載されていない。この点もとても意図的。
 

 予想もしていなかった50人、本当にありがとうございました。
 
 
 滝の下への坂道。背後に見えるのが長岡の崖下の雑木坂の下が滝の下。
 

 向日神社にたどり着いたときはかなり疲労していました(笑)。拝殿から中を望む。
 

 拝殿前の狛犬。
 

 この崖下に嶋院の池が想定できます。左下が現在の向陽小学校の校庭。その一角に「西宮」の複廊があるというのです。西宮とされた施設は当初の内裏です。彼らの復原ではこの丘の下に西大垣があるらしいのです。つまりこの丘の上は宮城外です。「内裏」は丸見えです。
 

 長岡から京域を見ています。はるか向こうに見える山の端が天王山です。
 
 
 皆さん丘の下を見入っていました。
 

 向日神社の参道です。この参道がいつできたのかも注意を払うべきでしょう。旗持ちは参加者の長岡京研究者吉水葉子さんのご主人です。感謝です。
 

 私が西宮と推定する一角を公園から見学しました。
 

 

 大極殿院北部の後殿跡です。この西にあった小林清さんのお宅も史跡となり公園に組み込まれるそうです。きっと小林さんも中山先生もあちらでお喜びのことでしょう。
 

 最後の見学地宝幢跡です。この遺跡を遺すために地主さんからは多大なご協力を頂きました。
 

 宝幢跡まで出てきたのに未だに副都だという方もおられるとか。情けない。
 

 こうして見直してもとても充実した一日だったと判ります。これ以外にも写真をお撮りになった方がおられましたら是非お送り下さい。お願いします。

 次回は9月26日(土)阪急電車西山天王山駅12:45集合です。是非ご参加下さい。 
 

「長岡京歴史散策の会」のブログを開設しましたの段1

2015-06-07 19:08:42 | 日記
 初めまして
 長岡京歴史散策の会のHPとしてブログを開設しました。会の情報を発信していきます。

 記念すべき第1段は第1回長岡京歴史散歩の報告です。
  (この記事は[yaaさんの宮都研究」20150606投稿記事を再録したものです。今後長岡京歴史散歩や長岡京歴史よもやま話の情報はこのブログに書き込みますので宜しくお願いいたします。また悪質な投稿がない限りしばらくはコメントは全面公開します。)


 酷暑のなかたくさんの方に参加いただいた「長岡京歴史散歩」、ひとまず無事出発することができました。
 いろいろな人と再会することができ、応援の言葉も頂戴し、継続することに自信が湧いてきました。(懐かしいこんな方にもお会いしました!(お互いに歳を取りました!(笑)でもこうやって写真写りをみると体形は全く変わっていませんね。小学校の先生を辞めてしまって、今は自由人だそうです。)

 第1回の主な散策地は都の中軸である大極殿・朝堂を中心にその西側に広がる施設群でした。

〈第1ポイント・出発地点は朝堂院西第四堂跡です〉 国史跡朝堂院西第四堂跡及びその前方から発見された回廊・門闕跡を見学し説明しました。
「長岡京歴史散歩」を開催する趣旨は、発掘調査によって得られた情報を正確に、しかしわかりやすく伝え、情報を解釈する様々な視点を紹介して、市民の方々にも考えてもらうことにあります。。
この間たくさんの発掘調査が行われ多くの成果が出てきたのですが、私の感覚では余りに一方的な視点が強調され、特定の解釈だけが紹介され、あたかも決定的事実であるかのごとき説明が展開されてきているという危惧です。
 朝堂院前の回廊に付属する門闕も、詳しい検討もなされずに「」付きではあるのですが、「翔鸞楼」とされています。翔鸞楼は平安宮朝堂院の南門・応天門の西に付属する楼閣施設であり、その名称も含めて明らかに後世のものです.また、門闕がなぜ長岡宮朝堂南門に付属するのかについても何の議論もないまま、「桓武天皇による創建」とされて一般に流布されています。本当にそうなんでしょうか。限られた考古資料ではありますが、出土した瓦は難波宮で使用されたものが相当率含まれています。整地の解釈も慎重さが求められています。聖武朝難波宮に設置されていた施設を移建しただけということも十分検討しなければなりません。ある特定の見解だけを基に市民に説明を押しつけることが公共機関として正当なことなのか、少し疑問に感じています。説明ではそうした異論のあることも紹介しました。

 ガイダンス施設では「AR長岡京」という遺跡の3D復原をみるため、専用タブレットを借りて実体験してもらいました。コンピューター上で復原された3Dの朝堂院や門闕は相当な迫力があり、見学者に感動を与えました。特に、復原された施設群を様々な角度からみながら、遺跡を歩き回り、往時の偉容を辿る手法は、これまでの大金が注がれている割には安っぽい実物大復原よりよほど迫力があります。久留倍遺跡の整備がどうしてこの方法をとらなかったのか、本当に残念でなりません。

〈第2ポイントは朝堂と地鎮祭跡です〉 西第四堂から西の道路跡に出て宮内道路想定地を北上しました。調査や保存に私も含めた多くの人が苦心し、工夫し、苦労した朝堂院西第三堂・第二堂跡を見学し解説しました。西第二堂跡の一部が残る幼稚園前では、西にできた勝山中学校体育館での調査成果を紹介しました。発掘調査によって、乙訓郡衙跡→長岡宮第1次造成跡→地鎮祭跡→長岡宮第二次造成跡を確認することができ、長岡宮城の造成が大規模かつ計画的に進められた姿を明らかにしました。長岡宮城の造成が「ひな段」造成などという意味不明の造語で語られていますが、決して特異な造成を行って中枢部域や官衙域を形成したわけではないことはこの初期に行われた造成の様相から明らかなのですが、近年の調査担当者は新語がお好きなようです。
 ただし、失敗したのはその想定復原図を資料に入れておかなかったことです。何せ、資料を作るのも一人でしましたから、とても複数の資料を挟み込む余裕がなかったのです(言い訳は見苦しい!!(笑))。次回からはもう少し丁寧な資料作りに注意を払います。今回はお許し下さい。

〈第3ポイントは嶋院・島坂・島町・滝の下です〉 西第一堂のところで西に折れ、推定饗宴施設跡の眠る勝山中学校校庭を横目に見ながら島坂のある五辻へ向かいました。今回の散策の焦点となるポイントです。
 近年盛んに長岡宮の西辺部に当初の内裏・西宮があったという説がまことしやかに叫ばれています。文献研究者の中にはこれを積極的に支持する人も出てきて、あたかも市民権を得たかのような様相です。一般書や一般講演会でも主張され、多くの市民がそう信じておられるようです。しかし、これはあくまで特定の人物による仮説であって、まだまだ十分な検証を経ていません。断定できるものではありません。そこで、余談と偏見は置いておいて、その主張されている西辺部をじっくり歩いて市民に体感していただくことにしました。
五辻を南北に通る道はかつて西国街道と呼ばれた道で、長岡京期には朱雀大路の二本西、西一坊坊間大路の跡にも相当します。実はこの事実がとても軽視されているのです。
 五辻から南は急な下り坂になっており、中山修一氏の研究などでは、この坂こそが「島坂」に相当するのだとされています。当日は、島坂を北から見た後、五辻を西南西に延びる坂道を下っていくことにしました。坂道の南が小畑川の旧流路の痕跡であり、私が嶋院の苑池の跡と推定しているところにあたります。坂道に沿って長岡(向日丘陵)の南端の崖が露出しているのが見え、長岡宮が相当な丘の上に建設されていることを実感することができます。坂道がやや緩やかになる地点の崖際が滝の下です。参加して下さった元上司の島光男さんはこの辺りに住んでおられ、子供の頃は崖からこんこんと水が湧いていたと教えて下さいました。


 
 ここで参加者の中から思いがけない「つぶやき」を耳にすることができました。

 「そうか、だからこんなに大きな楠木がこんなところに育っているのか!!」

確信に満ちたその声の主は乙訓地域で造園業を営む方でした。乙訓の有名寺社の庭園の整備を積極的にやっている元気な方で、乙訓の地形は熟知しておられるのですが、さすがに我々がやる考古学の世界まではご存じないので、今回参加して初めてこの地がかつての河跡だと知られたのでした。彼曰く、地下に伏流水がたくさんあるから楠木はこんなに大きく育つことができたのだ!、と。

 やはり多様な見方が必要だな、とこの時強く感じたのでした。

嶋院の池が設置されていた可能性が高いと考えている長岡崖下の小畑川旧流路跡。今はこの様にびっしり家が建てこんでいるが、かつては壮麗な池が設置され、貴族達が儀式に臨み、饗宴を楽しんだところだと思うと気持ちも昂ぶる。



 滝の下の崖際まで降りて、今度は向日神社の本殿の裏へ崖下から急な階段を一気に昇ることにしました。しかしこれも良くなかったかもしれません。お年を召した方が相当いらっしゃって、本当に申し訳なかったと反省しています。ただ、皆さんこの道の存在を余りご存じなく、神社の裏がこの様になっていることに驚かれていたことは、目論見が当たったと言えます。
私の狙いはこの急な崖こそ、長岡宮城の西大垣なのだということを実感していただくことにあったのです。西大垣としての機能を自然地形を巧みに利用しているのだということを実感していただけたら成功だったのです。次回感想を聞いてみましょう。

〈第4ポイントは宮城西大垣推定地から見た崖下の施設群です〉 参加者の中には以前から疑問に思われていた方も相当の数いらっしゃって、
 「丘の上から丸見えなのにそんなところに「西宮」を造るのだろうか、不思議に思っていた」といわれます。実際に丘の上から見てその思いはより強くなったようで、「これは危険すぎるわな」という感想を一様に持たれました。
 向陽小学校で見つかった複廊遺構を「西宮」だとする人々は、一様に、宮城大垣を小学校の校庭の西端で検出された築地塀だとされます。丘の上の元稲荷古墳あたりが条坊制に従って推測する西大垣なのですが、なぜか、この位置に西大垣を想定することを拒否し、妙な形の宮城を復原するのです。
 つまり、向日神社や元稲荷古墳のある丘の上は右京域だというのです。不思議な説ですね。長岡宮城は丘の上から丸見えなのです。おまけにその崖下に天皇が日常的に住まいする内裏(「西宮」)があるというのです。信じられない説だと参加者の多くは納得して下さったように感じました。参加されなかった方こそ是非確認していただきたい事実なのですが、どうですかね。

 少なくとも「西宮説」が絶対でないことは伝わったように思います。目的の大半はこれで達せられました。

〈第5ポイントは私が考える当初の内裏・「西宮」跡です〉 複廊遺構の場所を確認し、複廊が東へ大きく伸びるという説に不利な宮内西一坊坊間大路西側溝の存在も紹介し、さらに東に向かって坂道を西宮・大極殿に向かって下っていきました。ここでも側溝を示す資料を添付しなかったのは私のミスです。第1回目はいろいろな課題を私に突きつけました。と同時に思ったことはこうした様々な作業を久留部官衙遺跡を考える会の皆さんは34回も、とても丁寧にやって下さっているのだ、ということを再認識しました。感謝申し上げます。



大極殿跡の公園が西側に拡張されるようでその工事の準備が始まっていました。長岡京研究の創始者のお一人小林清先生のお宅が史跡指定されたそうです。最近大極殿後殿が調査され、そうした成果も西宮との関係からご紹介しました。


大極殿の南の宝幢跡も注目の的でした。この20年余りで大極殿一帯がとてもよく整備されていっていることに感銘すら覚えました。ありがたいことです。




 本当は大極殿公園の石碑の下で記念写真を撮るつもりだったのですが、説明する内にすっかり忘れてしまい、大半の方が帰られた後、わずかの方で解散場所の西第四堂跡で記念写真を撮りました。これも失敗の一つです。なかなか何でもやるのはこの歳になると難しいことを実感しました。誰か、次回は写真係をしてくれないかな。また、今回の写真をお持ちの方は是非私まで送って下さい。コメントにその旨書いていただければ送り先をお伝えします。



 まだ報告しなければならないことはたくさんあるのですが、明日朝一番に病院で診察があるのでこれで休みます。
 次回はもう一つの新しい行事をご紹介します。乞うご期待!!


 

 第2回は2015年9月26日(土) 12時45分阪急電車京都線 西山天王山駅改札口集合で、長岡京右京の経済的拠点、西市及びその関連施設を歩きます。旗持ちが欲しいので是非たくさんの若者の参加を願っています。