本年も長岡京歴史散策の会を応援頂き有り難うございました。お陰様で「よもやま話」も、「歴史散歩」もそれぞれ8回を数えることができ、新年へとバトンをタッチすることができました。
2018年も引き続き両行事の企画を用意しておりますので多数ご参加下さいますようお願い申し上げます。
年明けの第一弾は、第九回長岡京歴史よもやま話 です。まだ少し先のように思えますが、年が明けると直ぐにやってきます。皆様の予定表に是非ご記入の上、お友達もお誘い合わせの上ご参加下さい。
「淳和天皇一族とその陵墓~物集女の火葬と大原野西嶺上陵散骨の謎~」
会場 長岡京市生涯学習センターバンビオ(JR長岡京駅前)
日時 2018年2月10日(土)13時受付 13時15分から~15寺30分
講師 山中 章(三重大学名誉教授)
資料代・会場費 500円
《話の概要》
桓武天皇は遺言により三人の息子を10年交替で皇位に就かせるよう言い残したとされます。三代目が淳和天皇です。母は天皇の寵臣藤原百川の娘旅子です。旅子は延暦五(786)年大伴親王(後の淳和天皇)を生みますが二年後に長岡の地で亡くなります。
その遺骸は長岡京の北郊・乙訓郡大枝郷宇波多陵に葬られます。一方、大伴親王は遺言通り嵯峨天皇より譲位を受け、弘仁14(823)年皇位に就き、十年後の天長10(833)年に退位します。淳和天皇もまた仏教に厚く、承和7(840)年に亡くなる際、その遺言により、乙訓郡物集女村にて荼毘に付され、大原野山上から遺灰が蒔かれました。その地・大原野西嶺上陵は、旧長岡京域からも、桓武天皇の眠る紀伊郡深草の地からも美しい円錐形をした現小塩山であった可能性があります。若しこの地が淳和天皇の散骨地で良いなら、母旅子の眠る大枝の地も眼下に収まります。淳和天皇「一族」は乙訓郡ととても深い関係にあるのです。そうした視点で見たとき、これまで謎だったある墓が俄に注目されることになります。100年前に京都大学の梅原末治先生によって調査された長野古墓です。淳和天皇一族の埋葬地を通して謎の解明を果たしたストーリーを紹介します。ご期待下さい。
2018年も引き続き両行事の企画を用意しておりますので多数ご参加下さいますようお願い申し上げます。
年明けの第一弾は、第九回長岡京歴史よもやま話 です。まだ少し先のように思えますが、年が明けると直ぐにやってきます。皆様の予定表に是非ご記入の上、お友達もお誘い合わせの上ご参加下さい。
「淳和天皇一族とその陵墓~物集女の火葬と大原野西嶺上陵散骨の謎~」
会場 長岡京市生涯学習センターバンビオ(JR長岡京駅前)
日時 2018年2月10日(土)13時受付 13時15分から~15寺30分
講師 山中 章(三重大学名誉教授)
資料代・会場費 500円
《話の概要》
桓武天皇は遺言により三人の息子を10年交替で皇位に就かせるよう言い残したとされます。三代目が淳和天皇です。母は天皇の寵臣藤原百川の娘旅子です。旅子は延暦五(786)年大伴親王(後の淳和天皇)を生みますが二年後に長岡の地で亡くなります。
その遺骸は長岡京の北郊・乙訓郡大枝郷宇波多陵に葬られます。一方、大伴親王は遺言通り嵯峨天皇より譲位を受け、弘仁14(823)年皇位に就き、十年後の天長10(833)年に退位します。淳和天皇もまた仏教に厚く、承和7(840)年に亡くなる際、その遺言により、乙訓郡物集女村にて荼毘に付され、大原野山上から遺灰が蒔かれました。その地・大原野西嶺上陵は、旧長岡京域からも、桓武天皇の眠る紀伊郡深草の地からも美しい円錐形をした現小塩山であった可能性があります。若しこの地が淳和天皇の散骨地で良いなら、母旅子の眠る大枝の地も眼下に収まります。淳和天皇「一族」は乙訓郡ととても深い関係にあるのです。そうした視点で見たとき、これまで謎だったある墓が俄に注目されることになります。100年前に京都大学の梅原末治先生によって調査された長野古墓です。淳和天皇一族の埋葬地を通して謎の解明を果たしたストーリーを紹介します。ご期待下さい。