硝子のスプーン

そこにありました。

ルーツ。

2012-11-05 19:28:09 | 日記(雑記)
Y氏から先日お借りした『九州謎解き散歩』(廣済堂出版、山本鉱太郎著)を今しがた読み終えた。
タイトルから分かるように、九州各地の歴史的遺産や神話、伝承、そこから派生した地名や祭りから、九州の風土を紹介している本なんだけれども、純粋に面白かった。
生粋の博多っ子として生活習慣(?)の一部として知っていることも当然あったけど、知らない事も沢山あって、「へえ~そうなんだ~」って何回も声に出して言ってしまった(笑)。

私の父方のルーツは、祖父母ともに長崎県五島列島にある。一方、私の母方のルーツは、福岡県飯塚方面にある。残念ながら、母方の祖父のルーツが不詳なので、これは母方の祖母の血縁者のみのルーツだけれども。
何故突然、ルーツについて語りだしたかというと、上記の本の中で、五島列島が少し紹介されていたから。ただ、それだけの理由w 加えて私は、幼少の頃、殆ど父方の祖父母(と、姉と、母方の祖父母)に育てられたようなもので、今もう極楽に旅立ってしまった祖父母のことが、本当に大好きで時々理由もなく恋しくなって涙するほどで(←何歳だ、お前はw)、だから彼らのことをちょっと偲んでみたくなったのであーる。

父の父、つまり私の祖父は、五島列島の小値賀の人間である。祖父の父(私の曽祖父)は、小値賀では、まあ結構裕福な家のぼんぼんで(地主であり網元…と言っていいのだろうか、よく分からないw)、祖父は曽祖父がお妾さんに産ませた「外の子」であり、本家には当然本妻もいれば、本妻が産んだ「内の子」、つまり正当な跡取り息子がいて、なんだか一昔前のお昼の奥様劇場みたいなドロドロな愛憎劇を想像してしまうけれど、実際は結構あっけらかんとしていたようで、同じ家にこそ住んでいなかったけれど、祖父とその母は、本家の土地の一角に住み、(本家の本妻さんと妾だった曾祖母がどんな関係だったかは分からないものの)祖父自体は、本妻さん含め本家の人達から苛められることもなく、大体のことにおいて本家の息子さんと何ら変わらない扱いを受けて育ったらしい。祖父自身の口から、幼少時代の本当の経験を聞いたことはないけれど(←めっちゃホラ吹きだったw)、祖母がよく知っていて、何度か話してくれたし、五島の親戚を見る限り、本家の人たちも祖父のことを「○○のじいちゃん」と呼んで法事の度に遠い福岡まで足を運んでくれていることから、疎まれていたなんてことは絶対にないと思う。
ちなみに、今、私が名乗っている父方の姓の○○は、祖父の代からの姓で、本家とは違う姓である。祖父は、歳行かぬ子供だった私に、「じいちゃんは妖怪に友達がいて文通してる」とか「火の玉(墓場に出る鬼火)をおしっこで作り出すことが出来る」とか、他愛もないホラ話をしては、信じ込む私を見て楽しんでいるような人だったけれど、ケジメというか、独立心にかけては立派な人で、本家の養父(私の曽祖父)が亡くなった後、戸籍は違っても血の繋がった兄弟なのだから、遺産は均等に分けようと言ってくれた本家の跡取りの言葉を慇懃に断って、遺産相続権を放棄し、成人前には本家の土地にあった家を出て、漁師として生活を営んでいた(祖父の母は若くに亡くなっている)。
その後、戦争前に、島にひとつしかなかった郵便局兼銀行で働いていた祖母を見初め、(祖母曰く)すったもんだの末に嫁に貰った。祖母は同じ島の人間として、本家の裕福さを目の当たりにして知っているからか、もしくは新婚時代が貧乏過ぎたからか、祖父が遺産相続を放棄したことがよほど腹立たしかったらしく、私がかなり大きくなるまで、そのことでネチネチ文句を言っていた(笑)。

祖父は若い頃に漁の事故で足を悪くしていたために、徴兵から逃れることが出来た。それでも、終戦間近の頃には、そういった人達も次々に赤紙がきていたらしく、祖母は、このまま戦争が長引けば、いずれは祖父も連れて行かれるかもしれないと不安にかられて、祖父をわざと転ばせて足を更に悪くさせようと何度か真剣に企んでいたらしい。幸い、それは実行に移されることなく、戦争は終わったのだが。
そんな企みを抱くほど祖父を愛していた祖母は、祖父の子供を三人産んだ。小値賀で生まれた長男が、私の父である。祖母は当時の女性としては(多分)珍しく、料理が一切出来ない人だった。だから、父の「お袋の味」というのは、祖父の作った料理の味である。そういうわけで、父が母を結婚相手に選んだ理由のひとつは、母が料理上手だったからだろうと、私は思っている。勿論、この他にも、理由はあっただろうと思うけれど。

戦争が終わり、足の具合が加齢とともに酷くなり、私の父が中学に上がる頃、祖父はついに漁師を引退して、小値賀から福江に越した。そこで、釣具店を経営し、祖母と三人の子供達を養った。私が五歳くらいまで、その釣具店は存在していた。夏の度に母に連れられて帰省していた福江の祖父母の家は、私の記憶の中では物凄くおぼろげになってしまい、階段がやたら急だったことと、すぐ傍に港(波止場)があったことくらいしか覚えていない。けれど、あの頃の夏に味わっていた、家事が不得手だった祖母が作ってくれたミルクセーキと、祖父が作ってくれたメロンソーダ(ちゃんとアイスが浮かべてあって、赤い縞のストローがついてた)の味は忘れない。そして、父の末弟である叔父に騙されて食べた、サイダー刺身と牛乳ご飯の味も忘れない(笑)。………私は、もしかしたら、騙されやすいのかもしれない…。←今更w

一方、小値賀の本家にも行ったことがある。高校生の時、お墓を移すか何か、理由は忘れたけれど、父がどうしてもそちらに行かなくてはいけない用事が出来て、春休みで暇だった私もついていった。てっきり、海辺の家だろうと思っていたら、山の中の家で驚いたことを覚えている。そして、祖母の姉が出してくれた、あの山菜の美味しさ。今思い出しても涎が出る。ちなみに、祖母の姉は、本家の次男坊の奥さん(後家)である。互いに連れ子がいて、それがまた、親戚の幅を広げていくのだが、正直、ここらへんの親戚系図はややこしいので、私もよく把握していない(笑)。
小値賀は福江と違って、本当に田舎で、私が高校生だった時代でも、島に信号機がひとつだけで、道端には普通にヤギ(※野良ヤギ)が歩いていたりと、それはもうのんびりした場所だ。海は当然綺麗だし、食べ物は、海のものも山のものも美味しい。このまま生涯独身なら、老後はあちらに住むのも良いかもしれない。本家の土地は切り売りして大分減っているらしいけれど、私が掘っ立て小屋を立てて住むくらいの土地はまだ残っているだろう。というか、残しておいてほしい。←コラ。

小学生までは小値賀、中学から福江に移った父は、大学で京都に行った。京都の街は父にとって、超ミラクル大都会だったことは想像に難くない。そしてそこで、資生堂の化粧品の売り子をしていた母と知り合った。ナンパバーで出会ったという。母は身内の私がいうのも何だが、資生堂のポスターに顔が載るような美人だ。しかも、父と同じ九州出身でありながら、母は、福岡の天神に生家を持つ都会っ子(←あくまで九州人の感覚として)で、料理も上手だった。父が、母にのぼせたのも理解できる。父の押しの一手で、二人の仲は急速に近まったという。
父の大学卒業を待って、父と母は結婚した。父の最初の就職先は、母の実家がある福岡市内だった。母は一旦仕事をやめ、家庭に入った。勿論金銭的に余裕なんかあるわけないから、母方の祖父母から随分援助してもらっていたらしい。

母方の祖父母は、駆け落ち結婚で、大変仲が良かった。何か言えない事情でもあるのか、あまり若い頃の話をしてくれない祖父母だったけれど、祖父は石などに文字を彫る職人で、今も祖父が彫った文字を橋などで見ることができる。どこの橋かを言ってしまうと、ちょっとどれも有名なので(←橋が)、身元がバレてしまうかもしれないから言えないが、身内びいきではなく、ものすごい達筆である。祖父の残した書(石に彫ったものから紙に書いたもの含めすべて)は、本当に凄いのだ。もう身元バレ容認で自慢したいくらい、福岡県のいたるところにある。それなのに、そんな書の達人の血を引いていながら、私は書道が大の苦手で、謙遜抜きで、本気で字が下手い。隔世遺伝、どこいった。

先述したが、祖父のルーツは不詳だ。佐賀の人だともいうし、本州の人だともいう。よく分からない人なのだ。ただ、祖母のルーツははっきりしている。遡れば、江戸時代の後期までそのルーツを辿ることが出来る。公式(?)の文献にご先祖様の名前が残っているし、家系図もある。そんな家の祖母と祖父が一体どうやって知り合って、どうして駆け落ちしなくてはいけなかったのか、そこらへんは子供である母達ですら知らないのだから、孫である私が知りようもない。ただ、祖父母は本当に、とても仲が良かった。祖父が先に逝ってしまって、祖母はショックのせいか、記憶が曖昧になってしまって、私のことを母だと思い込むほど、現実を受け入れられなくなってしまった。それほど、祖母にとって祖父は人生の全てだったのだろう。
駆け落ちから始まった二人だったから、最初は貧乏だったと、祖母側の親戚はいう。しかし、祖父には技術と商才があった。祖父は一代で、富を築き、祖母との間に七人の子を設け、一番下の子が中学に上がる頃には、福岡市中央区天神に、無駄に大きな偽ものっぽい洋館を二軒も持っているほど、裕福だった。私が知っている祖父はもう、初老をとっくに過ぎた、文字通り「爺様」だったけれど、それくらいの年齢になっても、祖父はいつも祖母のことをお姫様のように大事にしていた。きっと、自分が必ず幸せにすると誓っていたのだろう。そしてきっと、祖母は幸せだったと思う。ただひとつ、浅ましい孫が悔やむことは、何故、天神のあの一等地を売ってしまったのかということである。そして何故、糸島の山を買ったんだ、お祖父ちゃん。売れないわ、管理が大変だわで、親戚中の頭痛の種になってるんだけど、あの山。そしてさぁ、遺産残してくれるなら、ちゃんと法的な効力がある紙に色々書いて残そうぜ。お祖父ちゃんが亡くなった後、大変だったんだよ。そりゃあ、お祖母ちゃんも現実逃避したくなるわさ。
ちなみにそのゴタゴタに便乗して、父方の祖父は、「余分な金ば持っとったってよかことげななかとたい」と言い切り、祖母の「本家の遺産」にまつわる愚痴を封じることに成功していた(笑)。さすが、じいちゃんであるw、

父は大学卒業と同時に母と結婚した。つまり、超若かった(ちなみに母は姉さん女房である)。超若い彼は、まだまだ「遊び」が足りなかったのだろう。結婚してすぐに姉が生まれ、同時に父の「遊び」が激しくなった。おかげで姉と私は殆ど、父の顔を見ずに育った。私なんか、幼稚園に入園した当初、幼稚園の先生に家族構成を聞かれた際、本気で「お父さんはいない」と答えたほどだ。本気でそう思っていた。あの人が父親なんだと自覚したのは、小学三年生を過ぎたくらいだったのではないだろうか。それくらい、父は家に帰らない男だった。
それでも父の偉いところは、滅多に帰ってこずとも、お金をきちんと家に入れていたことだ。しかし、それでは足りず、母は必然的に働きに出ることになる。姉は既に小学生だったから問題なかったけれど、幼稚園児にもなっていない私は、祖父母に預けられることとなった。最初のうちは、母方の祖父母が面倒を見てくれていた。今はもうない、だだっ広い洋館を途切れ途切れながらも、恐ろしく鮮明に記憶しているのは、あの頃の生活が子供心に寂しかったからだろうと思う。祖父も祖母も当然可愛がってくれたし、親戚のおにいちゃんおねえちゃんも、末っ子の私を仲間はずれにすることなく、よく遊んでくれたけれど、やっぱり母がいないのは寂しかった。父がいなくて寂しいと思ったことはないが、母がいないのは、小さな私にとってとても心に痛いことだった。

小学生に上がる少し前頃、五島から父方の祖父母が出てきて一緒に暮らすようになった。私は母方の祖父母の家から母の所に戻された。母の所というか、実際には、父方の祖父母のところにだけれど。
母方の祖父母は教育方面で厳しく、あまりホラ話や冗談などで笑うということがなかったように記憶しているが、父方の祖父母は、なんというか、くだけた人達で、私は祖父のホラ話が特に大好きだった。私の妖怪好きや不思議なもの好きは、間違いなく、祖父の影響だ。上記の本に載っていた「飴買い幽霊」の話をしてくれながら、飴を買ってくれたのも祖父ならば、「もの言わん橋」の話を教えてくれるついでに、河童の楽しい民話を聞かせてくれたのも、祖父だ。海の男らしく、海の怖い話は妖怪系に限らずよく知っていた。住吉さんにお参りする我が家の伝統を作ったのも祖父だし、船幽霊に会った事があるとも言っていた。箱崎宮に一緒に行った時は、蒙古石(←これが動くと恐ろしいことが起こるという言い伝えがある)が動いたと嘯いて、怖がる私を見て楽しんでいた。普段は寡黙で無口な人だったけれど(というか、祖母が喋りっぱなしだったから、祖父は喋る暇がなかっただけだと思うw)、面白いことを沢山教えてくれた。先日、『宇宙兄弟』を観ていて思い出したが、あのドーハの悲劇の日、私と祖父は二人で、あの試合をTVで観ていた。二人で落胆の溜息をついたのだ。懐かしい。
一方、祖母はとてもお喋りな上に、とってもミーハーな人で、後年はスマップの木村くんのファンクラブに入っていた。私よりもずっと芸能通だった。自分が料理が出来ないからか、もしくは孫への優しさか、私が作る料理をいつも、「優しい味がする。美味しい美味しい」と言ってくれていた。めっちゃ失敗して自分でも「こりゃ食べれない」と思うときでさえ、そう言ってくれた。風邪を引いて、気管支が弱い私が夜中ずっと咳き込むときは、ずっと起きて背中を擦ってくれていた。思い出すと泣きそうになるから、これくらいにしておくが、とにかく、祖母が大好きだった。祖父も大好きだった。ずっと一緒にいたかった。

祖父が亡くなった時、こんなに涙がでるものかと思うくらい、泣いた。その数年前に、母方の祖父が亡くなった時に、泣く私達姉妹を見て、祖父が「おいの時はそげん泣いてくれるなよ」と言っていたけれど、そんなの無理に決まっている。目が腫れあがるまで泣いた。
祖父が亡くなって数年後、我が家にはとんでもない不幸と災難が一挙に舞い降りて、祖母と暮らせなくなってしまった。祖母は長崎にいる父の弟の家に越した。私はもう大人だったけれど、大人だったからこそか、当時の家族のズタボロな心境と状況が痛すぎて、苦しくて辛いのに頼る人もいなくて、泣く場所もなくて、本当にしんどかった。そんな時に、電話で祖母の声を聴くだけで涙が出そうになっていた。父や母との取り決めで、祖母には全部を秘密にしていたから、話すことは出来なかったけれど、本当は祖母のところに行って泣きたかった。もうあんな思いは二度としたくない。
そして祖母も旅立ってしまった。祖母が亡くなる前に、母方の祖母も逝ってしまっていたので、私にとって、祖母が最後の「祖父母」だった。悲しいという感情よりも、寂しいという感情のほうが勝っていたように思う。心に穴があくといった表現がぴったりくる感じだった。親戚の人に「○○ちゃんは、おばあちゃんっ子だったものねぇ」と言われて。「ああ、そうか。私はおばあちゃんっ子だったんだな」と、改めて妙に意識したことを覚えている。

祖母のお葬式に、祖母の若い頃の写真をメモリアルボードみたいにして飾るという趣向が、お葬式会社のほうから提案されて、姉や従兄弟と昔のアルバムなんかをひっくり返して、写真を探した。小値賀の郵便局兼銀行に勤めていたころの、若い祖母の写真が出てきた。歌手の夏川りみさんによく似ていた。まだ結婚前だと思われる祖父との写真も出てきた。若い祖父は、白髪じゃなくて皺がないだけで、私が知っている祖父と何も変わらないと思った。ひょろっとした背丈も、無口そうな黒縁の眼鏡も、足を庇う立ち方も、祖父だった。
姉や従兄弟達と、写真に写っている人達を見ながら、「この人誰やろ?」「誰かいな。△△のおばちゃんやない?」とか言い合いながら、作業を進めていくうちに、末っ子の私が一番、祖父母との思い出が少ないことを知った。末っ子なんだから当然なのだけれど、なんだかちょっと悔しかった(笑)。

こうして考えてみると、父方の祖父母のルーツは間違いなく、渡来人=海洋民族で、母方の祖父母のルーツは恐らく、内陸部の農耕民族=弥生人だったのだろうと思う。
私はその両方を受け継いでいるわけだから、何になるのだろうか。よく分からない。

五島には、平家の落人伝説が沢山ある。昔、それを知った時、まさか私の祖先って平家??と思って、祖父に聞いたら「いんや。島流しにあった罪人か、海賊の成れの果てたい」と言われた。今では、それが正しいと思う。が、幼かった私はちょっと、ショックだった(笑)。
父方の祖父と祖母は、同じ島の出身だから、恐らく、ルーツを辿れば同じところに行き着くんじゃないかと思う。海賊の成れの果てか、島流しにあった罪人かは知らないけれど、まあ、そんなところだろう。平家の子孫(平家盛の子孫)は、福江島の五島家の人々だと、上記の本にも書いてあったし、ちょっと残念だけれど、小値賀島の祖父母には関係ないということになる。本家の家系図は噂によれば、昔(江戸時代から明治くらいまで?)あったらしいが、戦争のゴタゴタやその後のゴタゴタなんかで、どこに行ったか分からないらしい。
今、私が名乗っている姓で家系図を作れば、祖父の代からなので簡単に作れるが、歴史が短いだけに、あまり作る意味がないような気がする(笑)。まあでも、いつかすっごい歳を取ったら、子孫のために書き残しておくのもいいかもしれない。始祖である「○○だ○○し」から続く系図がどこまで続くかは、嫁げれば嫁いで別の姓を名乗るであろう私ではなく、この姓を継ぐ従兄弟達に任せるけれど。

母方の祖母のご先祖様は、ちょっとした文献に名前が残っている学者さんだ。遡れる家系図が、その人の一代二代前までなので、それより古いことは分からないけれど、江戸時代の後期には、いわゆる農民ではなく、藩に仕えていた役人だったことははっきりしている。祖母は時代が時代なら、それなりにいい家のお嬢さんだったのだろう。
母方の祖父のルーツは見えてこない。駆け落ちのせいか、祖父側の親戚が一人もいないのだから、何にも分からない。本人も何も言い残さなかったし、何も書き残さなかった。祖母は祖父が死んですぐに、記憶がぐちゃぐちゃになってしまって、多分本人的に一番幸せだったのだろう、私の母が娘時代だった頃で記憶を止めてしまったので、亡くなるまで、その頃のことしか話さなかった。だから、結局、祖父がどういう家の人で、どうやって二人が知り合って、何故駆け落ちしなければならなかったのか、誰にも謎のままだ。
ある意味、母方の祖父が、一番のミステリーかもしれない(笑)。

このブログを読むかもしれない若い世代の、まだ祖父母が健在の人達に言えること。
今はどうでもいいと思っても、いつか、もしかしたら、自分のルーツを知りたくなる時が来るかもしれないから、おじいちゃんおばあちゃんに聞けることは何でも聞いておくのがいい。よほど秘密にしなきゃいけない事情でもない限り、きっと知っていることは話してくれるから、沢山聞いておくといい。祖父母と直接話せるということは、とても素晴らしいことなんだよ。一緒に住んでいない人も、出来る限り、会っておくことをオススメする。

私はとても、祖父母に会いたい。幽霊でも何でもいいから、会いたい。話が出来なくてもいい。顔を見るだけでもいい。会いたいなぁ。

そして、お腹が減ったなぁ。と思ったら、もうこんな時間なのねん。びっくり。
ご飯食べようっと。

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