被災地の中学生たち集団避難、余震は続き生活もままならない不安の中で親子離れ離れ。
たいへんなことだと思います。早く日常に戻れることを祈るしかありません。
人は慣れると、すぐ当たり前と思ってしまいますが、私たちが生まれたことも、生きていることも
水や空気や電気があることも奇跡だと思うのと、その当たり前に感謝することが大切だと感じます。
奇跡の積み重ねを当たり前としか思えなくなるのも悲しいことです。
そしてその当たり前や幸せはすぐ隣にあるものですね。
島崎藤村の作品の中で「幸福(しあわせ)」という童話が青空文庫に載っていました。
幸福
島崎藤村
「幸福しあわせ」がいろいろな家へ訪たずねて行きました。
誰でも幸福の欲しくない人はありませんから、どこの家を訪ねましても、みんな大喜びで迎えてくれるにちがいありません。けれども、それでは人の心がよく分りません。そこで「幸福」は貧しい貧しい乞食こじきのような服装なりをしました。誰か聞いたら、自分は「幸福」だと言わずに「貧乏」だと言うつもりでした。そんな貧しい服装をしていても、それでも自分をよく迎えてくれる人がありましたら、その人のところへ幸福を分けて置いて来るつもりでした。
この「幸福」がいろいろな家へ訪ねて行きますと、犬の飼ってある家がありました。その家の前へ行って「幸福」が立ちました。
そこの家の人は「幸福」が来たとは知りませんから、貧しい貧しい乞食のようなものが家の前にいるのを見て、
「お前さんは誰ですか。」
と尋ねました。
「わたしは「貧乏」でございます。」
「ああ、「貧乏」か。「貧乏」は吾家うちじゃお断りだ。
とそこの家の人は戸をぴしゃんとしめてしまいました。おまけに、そこの家に飼ってある犬がおそろしい声で追い立てるように鳴きました。
「幸福」は早速ごめんを蒙こうむりまして、今度は鶏の飼ってある家の前へ行って立ちました。
そこの家の人も「幸福」が来たとは知らなかったと見えて、いやなものでも家の前に立ったように顔をしかめて、
「お前さんは誰ですか。」
と尋ねました。
「わたしは「貧乏」でございます。」
「ああ、「貧乏」か、「貧乏」は吾家うちじゃ沢山だ。」
とそこの家の人は深い溜息ためいきをつきました。それから飼ってある鶏に気をつけました。貧しい貧しい乞食のようなものが来て鶏を盗んで行きはしないかと思ったのでしょう。
「コッ、コッ、コッ、コッ。」
とそこの[#「 とそこの」は底本では「とそこの」]家の鶏は用心深い声を出して鳴きました。
「幸福」はまたそこの家でもごめんを蒙りまして、今度は兎うさぎの飼ってある家の前へ行って立ちました。
「お前さんは誰ですか。」
「わたしは「貧乏」でございます。」
「ああ、「貧乏」か。」
と言いましたが、そこの家の人が出て見ると、貧しい貧しい乞食のようなものが表に立っていました。そこの家の人も「幸福」が来たとは知らないようでしたが、なさけというものがあると見えて、台所の方からおむすびを一つ握って来て、
「さあ、これをおあがり。」
と言ってくれました。そこの家の人は、黄色い沢庵(たくあん)のおこうこまでそのおむすびに添えてくれました。
「グウ、グウ、グウ、グウ。」
と兎は高いいびきをかいて、さも楽しそうに昼寝をしていました。
「幸福」にはそこの家の人の心がよく分りました。おむすび一つ、沢庵一切ひときれにも、人の心の奥は知れるものです。それをうれしく思いまして、その兎の飼ってある家へ幸福を分けて置いて来ました。