もうずっと以前から憧れている。直ぐ近くに海辺が広がりドアーを開けると軒下にテラスがありそこには小さなテーブルとロッキングチェアーが置いてある。それから、白い浜辺が眼下に広がり透明の海が青く目に飛び込んでくる。引き寄せる波は心地良い音を繰り返しながら優しい風を運ぶ。時折り遠くの方から鷗のかすかな鳴き声が聞こえたりする。どこからかボサノバのようなギターの覚束無い音が聞こえたりもする。これらすべてが重なってBGMのように景色に溶け込む。太陽は時にきつく輝きだすが、その光は特に目立たなく全ての色を綺麗に映し出す、そんな役割だ。私はいつもの通りコーヒーを飲みながら早朝のやさしい浜辺を眺めロッキングチェアーで寛いでいる。充分にその光景を堪能すると今度は町の市場にふらっと出かけ、何か朝食になる食材を探しにゆく。途中に知り合いにあったりして立ち話をしたりするが、大抵、私と同じ目的でこの海辺の小さい町に住みついた外国人だったりするのだ。特に難しい話はしない。たとえばどこどこの魚料理が美味しいとか、今日は午後から雨になりそうだとか、何でもない日常会話を話すことが多い。市場に行くと売り子との会話が何気なくてとても心地よい。ちょっと気に入っている女性にも会える。その女性はちらっと私を見るとまた会えたねと目であいさつする。私も目でおはようと挨拶する。彼女は私のことをどう思っているか知らないが、いつか食事に誘おうとする下心を隠しながらあっさりとその場を去ろうとする。しかし、少し後ろ髪が引かれるが食材に目をやりその思いを紛らわす。家に着いた頃は太陽が昼間の様な輝きに変わり小波に光の反射を描き出す。兎に角海辺の景色の中でありきたりの日常が繰り返されるのだが、とてもそんな生活に憧れるのだ。私にとっては人生最後の究極の生き方のようでそんな風にして死んで行ってもいいのかもと思っている。人間の一番の贅沢とは、自分の死に場所を求めていてそれが見つかった時、そして、そこで死のうと思った時、最高の幸せをつかむことだと最近、思うようになった。これに似た憧れとはちょっと違うが、自分の育った田舎に戻って、まだ面影が残っているような場所を見ながら何気なく思うままに生活してみたくなる思いがある。もう幼児頃の人々は傍にいなくなってしまっているが、私を育てた面影のある場所が懐かしくてとてもいい気分にさせてくれるのではないだろうかと思ってみたりする。今の私の原点はそこにあったのだから当然かもしれない。しかし、どちらも私にとっては同じ思いがある。生活の為に齷齪働く場所では無いことだ。そこにはどうしても生活しなくてはならないという臨場感は存在しないのである。幼い頃の心の赴くままに生きた瞬間、明日の生活を心配しない刹那的瞬間、そんな非日常的な空間が漂うからだ。いや、兎に角、その日その日を一所懸命に生きることを否定している訳ではないのだ。そんなことを言ったら、昔の人々はみんなそれが当たり前でそれ以外のことはあまり重要では無かった筈だ。私はその意味では怠惰であり、一生懸命に生きてくことを考えている人々にはいい加減にしろよと叱られても仕方ないと思っている。しかし、私には今、そんな贅沢が出来る現状ではないのは一番自分が解かっているつもりだ。私は本音で言えば、今の生活から逃げ出したくなることがよくあるのだ。一部の人を除けば大概の人はいくら働いても生活が追い付かないなんて言うことはよくあることでは無いだろうか。生活水準が高くなればなるほど、その生活に追いつかない自分を見てみると良くわかる。現代の人々は私も含め、自分で自分の首を絞めているようなものだ。その手をもう離してみてもいいのかもしれないと最近思い始めたのだ。