朝顔日記

2013-08-02 08:56:40 | 無題








最近やっと、蝉の鳴き声が賑わってきましたが、やはり夏を感じさせるのは昼下がりの暑い頃、蝉の声が時雨のように聞こえる時ですね。

夏の思い出を呼び覚ますのもそんな時ですよね。

現世にたとえて空蝉という言葉がありますが、これは万葉集の現人(うつしおみ)という言葉が訛って
空蝉(うつせみ)となった言葉です。

空蝉とはセミの抜け殻のことをも言いますが、古来から日本人はもののあわれみとか、はかなさとか、そういうものを蝉の抜け殻に譬えて表現してきました。蝉は、7年の間、地中にいてそれからやっと地上に出てきたかと思ったら、その命は一週間ほどで尽き果ててしまいます。抜け殻にはそんな思いも投影されるのでしょうか。


私事ですが、今、私のベランダに直径50センチ、深さ50センチほどの大きな鉢植えがありますが、以前、会社の先輩で普段は友達のようなつき合いをしている人がいて、僕が一人でマンション住まいをしていることに
心配したのか、ガーデニングを突然すすめられ、いろいろ買い集めて、何故ピーナッツだったか定かではないがピーナッツの栽培をしたことがありました。その時のその大きな鉢植えの草に蝉の抜け殻が、しがみついていました。その後、迷い込んだような蝉が草陰でバタバタしていなくなりました。僕はその時、独りになってもう7年も過ぎたんだっていう思が沸き起こりました。

朝顔日記

2013-08-01 09:01:01 | 無題




朝顔と言えば夏の花の印象が強いですが、季語は秋だそうです。

朝顔は薬用として中国から伝わり、観賞用になったのは鎌倉時代以降で江戸時代に盛んになった花です。

そして、現在までに品種改良がなされて可憐で涼しげな花となって夏を彩るようになってきました

綺麗な紺色の折り紙で作ったかのような印象もありますね。

朝顔は有名な俳句にもなってますよね。皆さんがご存じの”朝顔につるべとられてもらい水”(加賀千代女)
これは小学校の国語の授業で習いましたね。朝顔に対する優しい思いが覗けて有名な句です。それから、 ”朝顔やすこしの間にて美しき”(椎本才麿)
この句には、朝になって開いた花びらが時間が経つにつれてどんどんやつれて夕方には萎えきって捩れてしまいます。朝顔の花が咲いてきれいなのは一時で、何か刹那的な思いが込められています。

何時の時代も夏の風物詩としては朝顔が代表的な花で、尚且つ庶民的な印象があり、昔から日本人に愛されてきた花ですね。僕も小さいころ、庭先の朝顔が咲き誇っている光景を何気なく見ながら学校へ行った思いがあります。




忙しい中で心の潤いを!

2013-07-29 13:52:43 | 無題


僕は最近、思うことですが、今の僕たちの生活は満ち足りてその水準も高いと思います。
そして、大概の家は、一家に1台、ないし2台の自家用車を持ち、PCやiPHONEやタブレット等の端末機器を家族全員が所有して様々な情報を好きな時にどこでも取得したり、共有したり、その情報をお得に利用できる
環境の中にいます。本当に便利な世の中です。もう、20年前や30年前にはあり得ないし、もう戻れる環境にはありません。日本の場合、ある意味、他国と比べると国民全体が平均的に生活レベルが上がってきて(収入の
多い、少ないに拘わらず)その水準を維持してゆくために齷齪しているところがあります。
お子さんを持ったご家庭に至っては、よその家はこうなのにうちだけ、それが無いのとか、兎に角、よそとの
兼ね合いで苦しい家計と思いながらも同じ水準に近づこうとしてます。物は本当に満ち足りています。日本経済がバブル期を境に長い間、デフレに突入して国内経済の低迷と国民の収入の減収が、続いてきた理由もある意味、理解できます。物質的に満ち足りた中で国民全体の収入が減り、後は老後の為に備えるしかありません。そんな状況の中で、消費が増えるわけがなかったのです。それぞれの企業は競合他社との価格競争に追われ仕事をとれば、薄利の中で株主と会社と社員に分配してゆく苦しい環境を強いられた訳でありますから、会社収益が上がらず、勿論、株は低落、社内においてはリストラの断行と全てにおいて辛い状況でした。
つまり、国内的には、満ち足りた物質文明の中でそれを維持してゆくことに苦心してきたような思いがします。もう、明日からみんな生活水準を下げてなんでも節約して生きてゆきましょう、というそんなことは無理な現状なのです。次から次と少なくとも今の水準を維持しながら、更に国内経済を安定させるには景気を向上させ、更なる発展が余儀なくされるわけです。豊かになればなっただけ、それを維持するためには、常に経済の発展が必要になってくるわけです。そして、今や世界一を誇る日本の長寿国と言う栄誉は、高齢者が増え、それによるその介護や生活年金の莫大な費用のねん出をこれからどうやって工面してゆくのか、本当に今、大変な時代に来ているような気がしてなりません。前に戻ろうとは言いませんし無理な話です。ただ、僕は時間があるときにふと、立ち止まって、今の自分の姿を客観的に見つめ直すことができれば、今、置かれている状況や何故こんなにもぎくしゃくして生活に追われるのだろうかとか、最低限、必要なものは何なのか、自分にとっての本当の価値観は何なのだろうか、人間として本来、どうあるべきなのだろうか、人に対して本当に真摯に対応できてるのだろうか、少しは何かが見えてきて、もう少し自分の生活に心の潤いが見えてくるかもしれないと思います。