やはり危惧していたことが起こっていた。

2016-11-24 10:17:27 | 文化人類学

何ていうことでしょう。福島の原発避難での避難地で起きた子供のいじめ問題。確かにそんなことが起こりうると想像はしていましたが、現実には表面化せず、水面下で起きていたことは、とても悲しいことです。

この背景にはいじめる側の親の存在が大きくクローズアップされていると考えます。

普通ならもしわが身がその状況になったらどうするか。当然、親なら我が子を思い、どこか、安全な場所に避難するでしょう。喩えそれが自主避難であっても、彼らは被害者であり、弱者であります。

私は以前、このブログでも3月11日の震災の事を載せていますが、避難者のやり場のない思いはとても言い尽くせない思いがします。彼らは住み慣れた、土地で住み慣れた家を追い出されるわけですから、その思いを慮れば大変なことだと思います。

受け入る側の大人たちの彼らへ思いは子供のいじめとなって現われてしまいました。すべてがそうだとは思いません。

しかし、そういう大人たちがいるのも事実であり、少なからずいじめと言う社会現象に現われている要因と考えます。

そして、今や判断が付かなくなった先生方のスキルにも一考があると考えます。更に市の教育委員会もこの問題が浮上してからその後、隠蔽していたことにも由々しき問題があります。

いじめと言うのは今や社会現象のように伝えられているのが現実ですが、昔から学校生活の中にはずーと存在していました。しかし、以前は教師の存在が大きかったと今になって思いますが、子供たちの教育に心から熱心に取り組んでいたような思いがします。悪いものは悪いとはっきり子供たちに諭し、人を思いやる気持ちの大切さや皆で成し遂げることの大切さやそうゆうことが協調性の大事さであることを学んできました。

昔の親はいじめに関しては、とても怖い存在で近くで遊んでいる子供たちにとっては親の目が怖いと思う位でした。更にその頃の親は徹底して教師の教育に信頼を置き、我が子の悪いところは教師の教育にゆだね体罰を持ってでも直してゆくことを奨励していたほどでありました。今はその関係がとても希薄で互いに過保護すぎるように感じるのは私だけなのでしょうか。以前は正義感の強い名物先生がよくいたものですが、今はそんな先生が現われる土壌じゃないのでしょうか。

何が真実なのか、何が正しいことなのか。それを勇気をもって実践できる、先生や親たちがいなくなったと言ったら失礼なことかもしれないが、ある意味、日本を支えてきた変わらぬ、ものに対する哀れみや畏敬の念が欠如してきたように感じて仕方がありません。

国の教育方針を熟考して学校教育の在り方、教師の在り方など人間形成に立ってそろそろ改める時期が来ていると思います。先ほども言いましたが、本当の意味で親が安心して我が子を預けることが出来る教育環境に見直す必要が迫られていると思うのです。そしてその子が親になってまた我が子を諭してゆく、そのことが理想でありましょう。


 


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