プラハ到着の翌日から、プラハの街中を、気の赴くままにあちこち歩き回る街歩きが、スタート。
<<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-01>
まずは、プラハの象徴的な広場である、バーツラフ広場を目指しました。
1918年の独立宣言、1968年の「プラハの春」、そして、1989年の「ビロード革命」…等々、チェコスロバキアが辿ってきた激動の歴史の舞台であり、その顛末を見守ってきた歴史の証人の、正に現場である、プラハ中心部の大きな広場です。
人々が抑圧からの解放や自由を求めて集い、広場を埋め尽くしたという、正にその現場に実際に建った時の感無量な気持ちは、今でも忘れることができません。
折しも、「ビロード革命」により、共産党独裁政権が崩壊した直後で、チョコスロバキア全土を覆った高揚感が未だ醒めやらぬ状況が、その歴史の現場の空気に触れた感動を、より強く感じさせてくれたような気がしていました。
<バーツラフ広場>
プラハ(Praha)を代表する広場である、バーツラフ広場(Václavské náměstí)へ、やってきました。
プラハの都心部を、南東から北西へ、約700mもの長さにわたって貫いている、とても大きなバーツラフ広場です。
広場の南東から北西へと、緩やかな下り坂となっていて、南東端には、国立博物館(Národní muzeum)の、威風堂々たる建物が聳えています。
国立博物館の正面には、この広場の名前の主である、聖バーツラフ(Svatý Václav)ことボヘミア公バーツラフ1世(Václav I)の像が、広場を見守っています。
10世紀にボヘミア(Čechy)へキリスト教を根付かせ、ボヘミアを西欧世界へと組み入れた、バーツラフ1世。
聖者として、民族の英雄として早くから語り継がれ、チェコ(Čechy)の守護聖人となっています。
この広場が、チェコの人々にとって、「特別な場所」たる由縁であり、国家や民族の危機には、自ずとここへと足が向かうのでしょうね。
像の台座には、「ビロード革命」の立役者であり、この旅の前年の1989年12月に、チェコスロバキア(Československo)の大統領に就任したばかりの、バーツラフ・ハベル氏(Václav Havel)の写真が、貼り付けられていました(左側)。
国民の自由を抑圧する共産党独裁体制に抵抗する劇作家として常時監視下に置かれる等の抑圧を受け、幾度も逮捕・投獄されながらも、ソビエト共産党を後ろ盾に持った共産政権に対して亡命もせずに、明確に反対の意思を貫いてきた人がいたのか!と、氏の生き様に、当時の私は驚愕し、大いに感銘を受けたものでした。
聖バーツラフ像の足許の路面には、数字が埋め込まれています。
この、「28.Ⅹ.1918」の数字が意味するところは、チェコスロバキア独立の日付。
1918年10月28日、この数字が埋め込まれた正にこの場所で、チェコスロバキア独立が宣言されたのでした。
独立以降、ナチスドイツの占領、第二次大戦後の共産化、「プラハの春」の試みと弾圧、そして「ビロード革命」による共産主義体制の打倒…と、チェコ共和国(Česká republika)とスロバキア(Slovensko)の分離独立により、1992年末に消滅するまでのチェコスロバキアの74年間は、激動の歴史と言っても過言ではありませんね。
この日付以前の独立前には、チェコスロバキアは、オーストリア=ハンガリー帝国(帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦/Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone)の支配下にありました。
今日のチェコ共和国はオーストリアの、スロバキアはハンガリーの版図となっていて、この歴史的経緯の相違が、独立後のチェコとスロバキアとの微妙な関係から連邦制への移行、最終的には両国の分離独立という形での、チェコスロバキア解体という結果へと繋がりました。
この地の複雑な歴史の、大きな区切りとなった日付の数字を前に、様々な思いが頭を過ぎります。
聖バーツラフ像の前には、人だかりができていました。
中央に立てられたチェコスロバキア国旗、人物の写真、手向けられた夥しい数の花々、堆く積み上がった蝋燭の燃え滓、沈痛な面持ちで眺める人々…。
これらの状況や、人物写真に添えられていた文に目立っていた、「1969」という数字から察するに、1968年にソ連軍を中心としたワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアへ侵攻・占領して、「人間の顔をした社会主義」を試みた「プラハの春」を鎮圧し、旧来の共産党独裁体制への「正常化」を謀る過程において、抵抗や抗議で犠牲となった人々を追悼する場となっていたようです。
旗竿に立てかけられた、ひときわ大きな写真の人の名は、ヤン・パラフ(Jan Palach)。
1969年1月19日に彼は、占領と「正常化」に抗議して、聖バーツラフ像の前、即ちこの場で、自らの体に火を放ち、命を落としました。
この当時は、軍事侵攻からまだ20年余り…この出来事は、多くの人々にとってはまだ、決して「過去」ではない痛ましい記憶として、心に突き刺さっていたままであったのでしょうね。
独立の歓び、抑圧の苦しみ、そして自由を勝ち取った歓喜を、全てこの場で見守ってきた、国立博物館の建物。
ようやく自由を得た国民を、どのような思いで、この時見つめていたのでしょうね。
1891年の完成以来の年月を感じさせる、くすんだ色調ながら、どっしりとした格調のある風格は、どんな理不尽な支配にも挫けずに強い意思をもって堪え忍び生き抜いてきた、この国の歴史と人々を、体現しているようにも見えました。
国立博物館から、バーツラフ広場の全容を、見渡します。
こうして眺めてみると、「広場(náměstí)」とされていますが、幅の広い「通り」とした方が、実態に即していますね。
往き来している車にも、時代を感じます。
広場手前の騎馬像が、聖バーツラフ像。
像の足許の人だかりの辺りが、上記の追悼の場です。
1989年の「ビロード革命」時には、連日この広場が人々で埋め尽くされた様子を、ニュースやドキュメンタリー番組等の映像で目にした時の感動も、今なお鮮明に憶えています。
その当時の画像を検索していた時に目に留まった、こちらのブログ様(当時の画像と、プラハ今昔の素敵な画像を見せていただきました)へのリンクを、貼らせていただきました。
バーツラフ広場の中央部で交差している、ボディチコバ通り(Vodičkova)を走るトラム(Tramvaj)。
停留所名は、やはり「バーツラフ広場」。
大勢の人が、乗降していますね。
ヘッドライトと丸みのあるボディで、愛嬌のあるマスクの、「タトラT3(Tatra T3)」路面電車。
チェコスロバキア企業(タトラ社)が生産した車両で、旧共産圏諸国にも輸出され、ポピュラーに利用されてきました。
中東欧諸国等で、この丸顔の路面電車を見かけたことのある方も、多いのではないでしょうか。
プラハの路面電車、愛嬌のある顔つきですが、走り出すと、通りを併走する自動車よりもスピードを出して、これらの車両をどんどん追い抜いて走行;
目抜き通りとはいえ、決して広くない、このボディチコバ通りを、強烈な加速をかけて疾走していくトラムの姿は、スリリングで迫力のある光景でした。
1990年当時、トラム、メトロ、バスの、プラハの公共交通機関の運賃は、どれも均一料金で、1乗車1コルナ(4円!)でした。
共産主義時代の名残の、信じられない料金設定に、これまた驚愕です。
手前に走り込んできているバンは、救急車。
フロント中央に、小さな赤十字マーク。
青色灯を回して、けたたましいサイレンを鳴らして、バーツラフ広場へと走り去って行きました。
国立博物館の反対側の、バーツラフ広場北西端。
国立博物館を、約700m先に眺め遣ります。
広場の北西端は、駐車スペースとなっていて、車両はここで通行止めでした。
広場のこちら側の建物のバルコニーからは、1989年の「ビロード革命」当時、上述のハベル氏を初めとする「革命」の中心人物達が広場に集まった人々に演説をしていました。
彼等に加えて、私が当時最も感銘を受けた、もう1人、1968年当時のチェコスロバキア共産党第一書記という最高指導者の座にあって「プラハの春」を主導した、アレクサンデル・ドゥプチェク氏(Alexander Dubček)もまた、軍事介入による失脚から20年を経て、そのバルコニーに立ち、人々の前に再び姿を現しました。
軍事介入時に逮捕され、連行先のモスクワ(Москва́/Moskva)で査問同然の厳しい交渉を強いられて(「正常化」の強要)、帰国を許された末に失脚し、その後20年間、一営林署員として働いてきたという、苦難に満ちた境遇等の微塵も感じられない穏やかな笑みを浮かべて、広場に集まった人々を優しく抱擁するようなゼスチャーをする氏の映像を見て、やはり当時、涙が出る程、胸打たれました。
街歩きの初っ端から、未だ興奮冷めやらなかった歴史的事件の息吹に触れた思いの、プラハ・バーツラフ広場訪問でした。
<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-03>>
<<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-01>
まずは、プラハの象徴的な広場である、バーツラフ広場を目指しました。
1918年の独立宣言、1968年の「プラハの春」、そして、1989年の「ビロード革命」…等々、チェコスロバキアが辿ってきた激動の歴史の舞台であり、その顛末を見守ってきた歴史の証人の、正に現場である、プラハ中心部の大きな広場です。
人々が抑圧からの解放や自由を求めて集い、広場を埋め尽くしたという、正にその現場に実際に建った時の感無量な気持ちは、今でも忘れることができません。
折しも、「ビロード革命」により、共産党独裁政権が崩壊した直後で、チョコスロバキア全土を覆った高揚感が未だ醒めやらぬ状況が、その歴史の現場の空気に触れた感動を、より強く感じさせてくれたような気がしていました。
<バーツラフ広場>
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プラハ(Praha)を代表する広場である、バーツラフ広場(Václavské náměstí)へ、やってきました。
プラハの都心部を、南東から北西へ、約700mもの長さにわたって貫いている、とても大きなバーツラフ広場です。
広場の南東から北西へと、緩やかな下り坂となっていて、南東端には、国立博物館(Národní muzeum)の、威風堂々たる建物が聳えています。
国立博物館の正面には、この広場の名前の主である、聖バーツラフ(Svatý Václav)ことボヘミア公バーツラフ1世(Václav I)の像が、広場を見守っています。
10世紀にボヘミア(Čechy)へキリスト教を根付かせ、ボヘミアを西欧世界へと組み入れた、バーツラフ1世。
聖者として、民族の英雄として早くから語り継がれ、チェコ(Čechy)の守護聖人となっています。
この広場が、チェコの人々にとって、「特別な場所」たる由縁であり、国家や民族の危機には、自ずとここへと足が向かうのでしょうね。
像の台座には、「ビロード革命」の立役者であり、この旅の前年の1989年12月に、チェコスロバキア(Československo)の大統領に就任したばかりの、バーツラフ・ハベル氏(Václav Havel)の写真が、貼り付けられていました(左側)。
国民の自由を抑圧する共産党独裁体制に抵抗する劇作家として常時監視下に置かれる等の抑圧を受け、幾度も逮捕・投獄されながらも、ソビエト共産党を後ろ盾に持った共産政権に対して亡命もせずに、明確に反対の意思を貫いてきた人がいたのか!と、氏の生き様に、当時の私は驚愕し、大いに感銘を受けたものでした。
聖バーツラフ像の足許の路面には、数字が埋め込まれています。
この、「28.Ⅹ.1918」の数字が意味するところは、チェコスロバキア独立の日付。
1918年10月28日、この数字が埋め込まれた正にこの場所で、チェコスロバキア独立が宣言されたのでした。
独立以降、ナチスドイツの占領、第二次大戦後の共産化、「プラハの春」の試みと弾圧、そして「ビロード革命」による共産主義体制の打倒…と、チェコ共和国(Česká republika)とスロバキア(Slovensko)の分離独立により、1992年末に消滅するまでのチェコスロバキアの74年間は、激動の歴史と言っても過言ではありませんね。
この日付以前の独立前には、チェコスロバキアは、オーストリア=ハンガリー帝国(帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦/Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone)の支配下にありました。
今日のチェコ共和国はオーストリアの、スロバキアはハンガリーの版図となっていて、この歴史的経緯の相違が、独立後のチェコとスロバキアとの微妙な関係から連邦制への移行、最終的には両国の分離独立という形での、チェコスロバキア解体という結果へと繋がりました。
この地の複雑な歴史の、大きな区切りとなった日付の数字を前に、様々な思いが頭を過ぎります。
聖バーツラフ像の前には、人だかりができていました。
中央に立てられたチェコスロバキア国旗、人物の写真、手向けられた夥しい数の花々、堆く積み上がった蝋燭の燃え滓、沈痛な面持ちで眺める人々…。
これらの状況や、人物写真に添えられていた文に目立っていた、「1969」という数字から察するに、1968年にソ連軍を中心としたワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアへ侵攻・占領して、「人間の顔をした社会主義」を試みた「プラハの春」を鎮圧し、旧来の共産党独裁体制への「正常化」を謀る過程において、抵抗や抗議で犠牲となった人々を追悼する場となっていたようです。
旗竿に立てかけられた、ひときわ大きな写真の人の名は、ヤン・パラフ(Jan Palach)。
1969年1月19日に彼は、占領と「正常化」に抗議して、聖バーツラフ像の前、即ちこの場で、自らの体に火を放ち、命を落としました。
この当時は、軍事侵攻からまだ20年余り…この出来事は、多くの人々にとってはまだ、決して「過去」ではない痛ましい記憶として、心に突き刺さっていたままであったのでしょうね。
独立の歓び、抑圧の苦しみ、そして自由を勝ち取った歓喜を、全てこの場で見守ってきた、国立博物館の建物。
ようやく自由を得た国民を、どのような思いで、この時見つめていたのでしょうね。
1891年の完成以来の年月を感じさせる、くすんだ色調ながら、どっしりとした格調のある風格は、どんな理不尽な支配にも挫けずに強い意思をもって堪え忍び生き抜いてきた、この国の歴史と人々を、体現しているようにも見えました。
国立博物館から、バーツラフ広場の全容を、見渡します。
こうして眺めてみると、「広場(náměstí)」とされていますが、幅の広い「通り」とした方が、実態に即していますね。
往き来している車にも、時代を感じます。
広場手前の騎馬像が、聖バーツラフ像。
像の足許の人だかりの辺りが、上記の追悼の場です。
1989年の「ビロード革命」時には、連日この広場が人々で埋め尽くされた様子を、ニュースやドキュメンタリー番組等の映像で目にした時の感動も、今なお鮮明に憶えています。
その当時の画像を検索していた時に目に留まった、こちらのブログ様(当時の画像と、プラハ今昔の素敵な画像を見せていただきました)へのリンクを、貼らせていただきました。
バーツラフ広場の中央部で交差している、ボディチコバ通り(Vodičkova)を走るトラム(Tramvaj)。
停留所名は、やはり「バーツラフ広場」。
大勢の人が、乗降していますね。
ヘッドライトと丸みのあるボディで、愛嬌のあるマスクの、「タトラT3(Tatra T3)」路面電車。
チェコスロバキア企業(タトラ社)が生産した車両で、旧共産圏諸国にも輸出され、ポピュラーに利用されてきました。
中東欧諸国等で、この丸顔の路面電車を見かけたことのある方も、多いのではないでしょうか。
プラハの路面電車、愛嬌のある顔つきですが、走り出すと、通りを併走する自動車よりもスピードを出して、これらの車両をどんどん追い抜いて走行;
目抜き通りとはいえ、決して広くない、このボディチコバ通りを、強烈な加速をかけて疾走していくトラムの姿は、スリリングで迫力のある光景でした。
1990年当時、トラム、メトロ、バスの、プラハの公共交通機関の運賃は、どれも均一料金で、1乗車1コルナ(4円!)でした。
共産主義時代の名残の、信じられない料金設定に、これまた驚愕です。
手前に走り込んできているバンは、救急車。
フロント中央に、小さな赤十字マーク。
青色灯を回して、けたたましいサイレンを鳴らして、バーツラフ広場へと走り去って行きました。
国立博物館の反対側の、バーツラフ広場北西端。
国立博物館を、約700m先に眺め遣ります。
広場の北西端は、駐車スペースとなっていて、車両はここで通行止めでした。
広場のこちら側の建物のバルコニーからは、1989年の「ビロード革命」当時、上述のハベル氏を初めとする「革命」の中心人物達が広場に集まった人々に演説をしていました。
彼等に加えて、私が当時最も感銘を受けた、もう1人、1968年当時のチェコスロバキア共産党第一書記という最高指導者の座にあって「プラハの春」を主導した、アレクサンデル・ドゥプチェク氏(Alexander Dubček)もまた、軍事介入による失脚から20年を経て、そのバルコニーに立ち、人々の前に再び姿を現しました。
軍事介入時に逮捕され、連行先のモスクワ(Москва́/Moskva)で査問同然の厳しい交渉を強いられて(「正常化」の強要)、帰国を許された末に失脚し、その後20年間、一営林署員として働いてきたという、苦難に満ちた境遇等の微塵も感じられない穏やかな笑みを浮かべて、広場に集まった人々を優しく抱擁するようなゼスチャーをする氏の映像を見て、やはり当時、涙が出る程、胸打たれました。
街歩きの初っ端から、未だ興奮冷めやらなかった歴史的事件の息吹に触れた思いの、プラハ・バーツラフ広場訪問でした。
<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-03>>
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