時には、旅の日常

管理人:taろう/旅先で撮ったスナップにコメントを添えて、他にも気の向いた事を綴っていきます。

秋の(安芸の)宮島&広島 初巡り-16~原爆ドーム

2015-04-26 08:19:03 | 中国/日本
 宮島からの高速船が発着する元安桟橋に隣接して、原爆ドームや平和記念公園があり、下船後訪れました。

 穏やかな晩秋の晴天の下でも、被爆前はお洒落な洋館であった原爆ドームの凄惨な廃墟を目の当たりにすると、改めて強い衝撃を受けずにはいられませんでした。

 痛ましい歴史の現場に立っているという実感から、自ずと粛然とした気持ちになって、川沿いを歩いていました。

 <原爆ドーム>


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 元安桟橋からすぐの所、元安川に架かる元安橋を西へ渡ると、平和記念公園となります。
 元安川越しに、原爆ドームを望みます。



 今日では「原爆ドーム」となっている建物についての説明も建っていました。

 原爆ドームは、大正4年(1915年)にチェコ人建築家ヤン・レツル(Jan Letzel)の設計により、「広島県物産陳列館」として竣工、大正10年(1921年)に「広島県立商品陳列所」、更に昭和8年(1933年)には「広島県産業奨励館」と改称、昭和19年(1944年)には業務を停止、内務省の出先機関や統制組合の事務所に使用されていて、昭和20年(1945年)8月6日、広島へ投下された原子爆弾に被爆しました。



 被爆前の姿(広島県産業奨励館)。
 建っていた説明に掲載されていました(広島平和記念資料館提供の画像)。

 建っていた説明によると、今日では鉄骨が剥き出しとなっている中央のドームは、緑色をしていたとのこと。
 当時には珍しい、お洒落な洋館で、市民の自慢でもあったのでしょうね。

 なお、このドームは、楕円形をしています。



 爆心から160m北西という至近から、凄まじい熱線と爆風を浴びて、炸裂後1秒以内にこのような姿となったと考えられている、原爆ドーム。

 3階建ての建物が外壁の一部のみを残して瓦礫の姿に変え、広島市街地を地上から消し去り幾多の命を奪い去ったのが、たった1発の爆弾であるということが到底信じがたいのですが、これが歴とした事実なのですね。



 上記の地図からも分かるとおり、橋上でT字路となっている、珍しい形をした、相生橋。

 その特異な形は、上空からも判別できるようで、原爆投下の際にも、目印となったとか。

 宮島からの高速船は、この手前の、南北方向の橋の部分の下をくぐってUターンする形で大川から元安川へと入り、原爆ドームの正面を通過して、元安桟橋へと至りました。



 相生橋の上から眺めた、原爆ドーム。

 太田川の三角州上に市街地が広がる広島は、太田川から分かれた大川や元安川等の幾筋もの水路が流れている、「水の都」でもあります。
 かつてはその水路を利用して、物資の運搬も盛んであったのでしょう。
 原爆ドームの前にある、元安川からの階段も、ここから陳列する物産等を揚げ降ろししていたのでしょうね。



 相生橋の、南北の小さな橋が交差する東西の大きな方の橋は、広島の繁華街を貫き広島駅へと至る幹線道路にあたります。
 広島駅と宮島口方面とを結ぶ、路面電車の軌道も敷設されています。

 原爆ドームは、画像の右方向となります。



 東詰から見た、相生橋。
 正面左右に架かっている橋が、南北方向の小さな橋で、東西方向に架かる大きな橋から分岐しています。

 南北の橋を左の方向へ進むと、平和記念公園です。

 その平和公園を挟んで画像奥の水路が大川、手前が元安川となり、宮島からの高速船が航行しているルートとなっています。



 相生橋東詰、川から背後を振り返ると、原爆ドームが間近にあります。
 ほぼ爆心に位置して、猛烈な爆風を垂直に受ける格好となったことから、奇跡的に建物全てが倒壊することを免れました。
 しかし、その酷い破壊のされ方をより一層至近に見ることとなり、言葉もありません。

 被爆当時、この建物で勤務していた方々は、全員即死。
 原爆炸裂時の強烈な熱線により、地表の温度は3,000℃にも達したといわれ、恐らく、文字どおり「蒸発」してしまったことでしょう。

 画像外ですが左端すぐの、建物の傍らに、殉職した方々の小さな碑が建てられていました。



 正面の、張り出した部分。
 外壁の一部と共に、ドームの枠組みも残っていて、ギリシャ建築の列柱のような装飾が施された柱が見えています。
 内装も凝らした、本格的な洋館であったのですね。



 ドームの枠組みからは、ねじ曲がった鉄骨のような建材も飛び出していました。

 本来は美しい建物であったであろうに、無残で痛ましい、変わり果てた姿を目にするのは、本当に辛かったです。



 その名の由来にもなった、楕円のドーム部分を。
 帽子のようにお洒落な緑色のドームを、ここに戴いていたのですね。

 「よくぞ残った」という感を、より強く抱いた、ドームの剥き出しとなっている鉄骨でした。

 同じく、毟り取られたように消滅している本館部分がよく分かる、剥き出しとなっている煉瓦の様子も、痛々しい光景です。



 再び元安橋のたもとに戻り、橋を渡って、平和記念公園へ。
 元安橋を渡ってすぐの所に、「原爆の子の像」があります。
 
 2歳の時に被爆したことにより、10年後に突然発症した白血病からの回復を願い鶴を折り続けて闘病した少女の死をきっかけに建てられた、原爆で亡くなった子供達の慰霊と平和祈願の像です。
 像の背後には、今なお世界中で折り続けられてこの地へ届けられた千羽鶴が捧げられています。



 平和記念公園の中心部、広島平和記念資料館の正面に設けられた、原爆死没者慰霊碑のモニュメント。
 慰霊碑の中央に建つと、正面に原爆ドームを望む配置となっています。

 たった1発の原爆の、凄まじい被害の実感は想像すらできない程ですが、この地に立つと、無辜の人々に対する、その理不尽な破壊力への憤りや恐怖を、否応なしに感じずにはいられませんでした。
 意図して為された非道な所業の証として、全ての人々の心に警鐘を鳴らし訴える、特別の空気に包まれた、原爆ドームと平和記念公園でした。



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2 コメント

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Unknown (プー太郎)
2015-04-27 23:54:39
たった1秒で姿を変えてしまったのですね。
原爆ドームまで行ったことはありますが、taろうさんのような細やかな観察眼をもちあわせていませんでした。
世界に現存する原爆を一掃しても、原爆を再び作る「知識」は消し去ることはできないと指摘されています。
原爆のない世界を構築するためには一体何が必要かという問いかけを続けていかなければと思っています。
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プー太郎さん。 (taろう)
2015-04-28 07:46:04
たった1発で一つの大都市を瞬時に壊滅させてしまう、桁違いの破壊力と、被爆による深刻な放射線障害の影響が、核兵器使用への強い忌避を、本能的に引き起こすのだと思います。
優雅な雰囲気を纏った昔の洋風建築が好きなので、原爆ドームの被爆前の姿にも関心がありました。
現存していたら、さぞ素敵な広島の名所になっていたであろうに、無残な姿を晒さざるを得ない今日の姿はあまりにも痛ましく、理不尽な思いが心を占めました。
晴れ渡った秋空の下でも、鎮魂と戒めの厳粛な雰囲気に満ちていると感じた、原爆ドームと平和記念公園周辺でした。
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