日本三大砂丘と謳われた中田島砂丘は消えつつある。防潮堤の建設がそのとどめを刺すことになるのだが、元々の要因は天竜川のダム建設だ。最大の佐久間ダムの堆砂問題はまだ解決していない。
幾重にも連なった砂の丘、砂の海、というのが私の記憶の中の中田島砂丘(浜松市)だった。四十数年を経て、防潮堤工事が進む砂丘を前にし、その変容ぶりに驚いた。
中田島砂丘は天竜川が造った。川は山からの土砂を海に運び、その砂は風によって陸地に吹き寄せられ砂の山となった。地元中田島町に四十年来住み「海岸浸食災害を考える会」を主宰する長谷川武さん(62)は、変化は一九九〇年代からだという。「年々、浜が消える。一昨年の台風時には凧(たこ)揚げ会場の松林まで波しぶきがかかった」
二一(大正十)年生まれ、浜松市在住の写真家、加藤マサヨシさんは九〇年以来、中田島砂丘の写真集を六冊出版。中田島砂丘の姿を後世に伝えたいと、写真集を長谷川さんに託した。
木曽、赤石山脈に挟まれた急峻(きゅうしゅん)な谷、年間を通じて豊かな水量。水力発電に適した天竜川に建設されたダム群は砂をとどめて、海岸線の姿を変えた。流域最大の佐久間ダムは五六年に完成した。我が国最初となる巨大ダム建設は、近代的な工法と建設機材をダム先進国米国から調達して、わずか三年で完成された。戦後最大の大規模プロジェクトが、後の高度経済成長を支えたことは間違いない。
我が国の土木事業における金字塔とたたえられる佐久間ダムだが、これほど大規模な海岸浸食を起こすことを、建設当時想定していたのだろうか。完成から六十一年、ダム湖の堆砂は進んでいる。二〇〇三年時点で総貯水容量の43%、一・三億立方㍍の砂がたまる。
〇四年、佐久間ダム再開発事業が着手し、ダム湖にたまった砂を下流に運ぶ方法の検討も進められている。しかし、莫大(ばくだい)な工事予算など、障害は多く、具体策はきまっていない。
佐久間ダムにたまる大量の砂は、中田島砂丘になるべき砂だった。消える砂丘は、土砂を運び国土を造るという、川の大切な力を教えることになった。(魚類生態写真家)
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