原爆投下から76年。
100年は草木も生えない
と言われた広島市だが
大きな川があり
緑豊かな美しい街になった。
私が10代の頃は川に沿って
粗末な家が並ぶ地域があった。
大人になって知ったのだが
「原爆スラム」と言われていた。
今では原爆の痕跡はわずか。
被爆した建物や被爆木の
「表示」があり、
大小様々な慰霊碑が
混在している街だが、
日常でそれを意識することは
あまりない。
昭和20年。
父は16歳だった。
学徒動員で呉の海軍工廠に
かりだされていた。
広島市が新型爆弾で
壊滅状態になったので
北広島町(旧・豊平町)へ
帰還しろとの命令が下った。
横川駅まで電車で移動した父は
原爆投下直後の広島市を見ている。
比治山まで何も無かったとだけ
父は言った。
最晩年、病気療養で入院した父は
しゃべることも食べることも
できなくなった。
ある日、
父は恐怖にひきつった目を
大きく見開いて空をみつめていた。
「お父さ~ん!」と呼びかけても
聞こえていない。
目の前で掌を上下させたが
まばたきをするだけで
相変わらず焦点は別の何かに
あるのだった。
父の瞳から涙が一筋こぼれた。
父は地獄を見ているのだった。
「お父さ~ん!お浄土を見てね!」
と声を掛けた。
父が亡くなる数週間は
とても穏やかだった。
「仏様みたい」と看護師さんに
言ってもらった。
私の言うことを父は最後まで
理解していた。
「わしがわしが!って
お父さん生きて来たけれどさ、
人生って短いね」
「仏様が良いようにしてくれるよ」
と言えば微笑んだものだ。
行く先はお浄土に違いない。
父が亡くなってから思った。
あの時、父が見て居たのは
原爆投下直後のヒロシマでは
なかったかと。
多感な年ごろだった父だ。
もう二度と誰にも、
あの地獄を見せてはならない。
それは父の願いに違いない。
明日、8月7日(土)宮角孝雄さんの
写真展「PEACE &JAZZ」で
ミニライブの運び。
初めて原爆ドーム向いで
歌うイベントに出演した日に
声を掛けてもらった。
長いお付き合いだ。
父とドーム前で撮ってもらった
写真は宝物だ。
宮角さんは庄原市出身の被爆二世。
毎年東京から来てドーム前で
道行く人を撮影されていた。
長年の活動があって今では
有名になられたが、
当時は何人にも撮影を
断られたと聞く。
弱気になっていたところに
対岸から私の歌声が聞こえた。
勇気をもらったんだと
2年後に東京のライブで
再会して聞いた。
以来、活動テーマが右往左往する私に
ヒロシマを歌わなくちゃダメと
宮角さんに叱咤されている。
大げさに言えば、
この1年にいやはどう生きて
何を考えて来たのか。
明日はそのチェックの日かも(;^ω^)
会場 基町クレド パセーラ3階「Sofa」
※素敵な本屋さんです。
時間 15時
初サポートは高橋英司さん。
入場無料
コロナ感染対策の為、先着15名様
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます