私の勤め先は大手町にある。そこから週に2回ほど築地に出ていく。
といっても河岸ではない。単なる仕事先である。
先日新大橋通りのひとつ裏通りに桂川甫周の屋敷跡という石碑を
見つけた。東京三菱銀行のすぐそばにその石碑はあった。
桂川甫周といえば江戸時代中期の奥医師で杉田玄白の弟子である。
江戸へ米を運ぶ途中で時化にあいロシアまで流され、10年余の後に
日本に帰って来た大黒屋光太夫のロシア滞在記”北槎聞略”を著した
蘭学者である。
こんなところに住んでいたのか、と思うと意外な感じがした。
甫周の生きていた頃はあの辺は海に近かったはずで、きっとすぐ
そばの浜御殿(離宮)を見ながらの登城ではなかったか、と想像して
しまう。
光太夫はラックスマンの船で北海道まで帰ってきた。その他日本人
2名と共に帰国したのだ。その後江戸まで護送されて桂川甫周と
江戸城で会うことになる。
鎖国中の日本にとって、たとえ時化で外国に滞在することを余儀なく
されて帰国しても、国法を犯すことになるので当初は罪人扱いとなる。
しかし当時女帝エカテリーナ二世にまで謁見し、ロシア語やロシア文化
に精通していた光太夫の情報は、鎖国をしていた幕府にとって大変貴重
だったから、これを報告書としてまとめなければならない甫周の苦労は
大変だった。
それを思うとその甫周の屋敷跡でしばらくのあいだ感慨にふけって
しまった。
といっても河岸ではない。単なる仕事先である。
先日新大橋通りのひとつ裏通りに桂川甫周の屋敷跡という石碑を
見つけた。東京三菱銀行のすぐそばにその石碑はあった。
桂川甫周といえば江戸時代中期の奥医師で杉田玄白の弟子である。
江戸へ米を運ぶ途中で時化にあいロシアまで流され、10年余の後に
日本に帰って来た大黒屋光太夫のロシア滞在記”北槎聞略”を著した
蘭学者である。
こんなところに住んでいたのか、と思うと意外な感じがした。
甫周の生きていた頃はあの辺は海に近かったはずで、きっとすぐ
そばの浜御殿(離宮)を見ながらの登城ではなかったか、と想像して
しまう。
光太夫はラックスマンの船で北海道まで帰ってきた。その他日本人
2名と共に帰国したのだ。その後江戸まで護送されて桂川甫周と
江戸城で会うことになる。
鎖国中の日本にとって、たとえ時化で外国に滞在することを余儀なく
されて帰国しても、国法を犯すことになるので当初は罪人扱いとなる。
しかし当時女帝エカテリーナ二世にまで謁見し、ロシア語やロシア文化
に精通していた光太夫の情報は、鎖国をしていた幕府にとって大変貴重
だったから、これを報告書としてまとめなければならない甫周の苦労は
大変だった。
それを思うとその甫周の屋敷跡でしばらくのあいだ感慨にふけって
しまった。
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