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永代橋

2007-03-16 12:52:16 | 江戸由縁東京旧聞
昭和30年代の数年間、都電に乗り通学で渡り続けて来た橋です
から、この橋には特別な思い入れがあります。

深川から行くと、錦糸堀方面から来た電車に乗り東陽町の交差点
を右折、柳島・月島間を走っている都電の門前仲町の交差点を越え、
佐賀町に至り、永代橋の手前に差し掛かると、速度を落としながら、
左右にガタゴトと揺さぶり左に少しカーブを切り橋を渡って行きまし
た。交通量も少なくノンビリとした時代でしたよ。


写真は交通局からお借りしました。日本橋行きの都電です。

車内には油を引いた木の床、緑色の席、つり革は全て皮製で、電車の
機関も英国製ではなかったでしょうか。運転手は立って運転し、ドアノブ
のようなハンドルには毛糸で編んだであろう靴下のようなカバーが被さっ
ていたものです。一番後ろのところに立っている車掌がいちいち駅名を
言って、降りるひとがいると、天井から下がっているロープを引きます。
そのロープは天井を伝わっていて先頭の運転手のところで鈴が鳴り、電
車は次の駅で止まるという次第。扉も自動でなく、乗降の度に手で開け
るというものでした。

永代橋の安全地帯に降りるともう学校は目の前です。
ここからは始発の別の路線、5番の目黒行きも出ておりました。

さて。永代橋の歴史は古く元禄9年(1696年)に「深川の大渡し」と
呼ばれる地点に新しく橋を架けることが幕府により発令され建設開始。
それまでには新大橋がありましたから、最下流に架かる橋が新しく増え
ることになります。近くに佃の渡しも見える位置ではなかっでしょうか。

私が学生の頃まだこの渡しはあり対岸に渡してくれました。自転車
くらいまでは受け入れてくれて、渡し賃は何十円かではなかったか、と
もうウロ覚えです。船はもちろんエンジン船でしたけど。

永代橋の架かっていた場所ですが、明治30年までは現在より約160
メートルほど上流、日本橋川の吐き出しに架かる豊海橋を渡ったあたり
にあったようです。この橋がまた小ぶりでデザインの良い橋なのです。
テレビや映画のロケによく登場します。次回は豊美橋にしようかな。

名前の由来は諸説ありますが、今井金吾は「御府内備考」によると「元
禄九年(あるいは十一年ともいふ)此橋を造営せらる。対岸の佐賀町あ
たり、昔永代島と唱えし故永代橋と名づけられしといふ」と述べてます。
同じく今井金吾の「武江年表」によると「元禄11年8月朔日 永代橋、
今日より往来なる」としています。

享保4年(1719年)に「大破」し幕議にて「廃橋」が決定するのですが、
新大橋が改架されるのに対し、永代橋は「廃橋」というのは納得がいか
ないこの付近の町民の請願により「払い下げ」になり、民間維持の橋と
して存続することになります。享保13年までには架け換えられまが、そ
の間幕府と橋銭の徴収の許可願いについてやりとりがあったようです。

そもそも永代橋は東叡山中道造営の余材を利用して架けられたと言われ
ており、長くはもたなかったのかもしれません。この請負については造営
資金と永代橋架橋に係わる利益の差が大きく、余材を橋造りに回した分の
大金が業者の懐に入ったとも言われています。安普請にしたのかも知れ
ないですね。

「武江年表」によれば「寛保2年(1742年)8月朔日大水で損傷、宝暦
10年(1760年)には神田旅籠町壱丁目明石屋といへる足袋屋からの
出火で三十三間堂焼失。新大橋・永代橋焼る。」と。その後もたびたび損
傷を受け、都度修復を繰り返しています。

何と言っても有名なのは、文化4年(1807年)の深川八幡宮の祭礼の
8月19日に橋が落ちて多数の死傷者が出たことです。おりからの長雨
で15日予定の祭礼が19日に延び、群集で混みあう橋は東詰から一間
を残して十二間ほど崩落しました。当時の狂歌に

永代と架けたる橋は落ちにける今日は祭礼明日は葬礼

太田南畝の作と言われています。(私ァこのひとが好きでねえ)

同26日の町奉行の報告には、存命340人、溺死440人、助人745人、
助船144艘とあり、また水死者は733人とも1500余人とも言われ、町
会所では貧困遺族に手当て銭364貫500文を支給した、と中央区の史
跡散歩(学生社)にあり、大変な惨事だったことが想像できます。

この事件がきっかけとなり、永代橋は吾妻橋、新大橋とともに、両国橋と
同じく本普請となり橋銭を廃止して檜垣廻船問屋の請負による公用橋と
なりました。その後にも修理や架け替えが数回行われています。

明治7年には橋のかたわらに新橋を造り人馬の往来を区別し、明治30年
に市区改正に伴って現在の位置に架けらますが関東大震災で大破します。
大正12年12月22日に新しくなった永代橋の渡り初めが行われますが、
T型フォードがずらりと並びシルクハットの正装に留袖での行進でした。
この新永代橋のすぐ隣には、関東大震災で破損した旧永代橋がまだその
まま残されていたのです。

ドイツのライン川に架かる橋をモデルにした、ダイナミックなアーチを誇る
男性的な橋です。都選定歴史的建造物にも指定されています。


写真は戦前土木絵葉書ライブラリ>橋梁からお借りしました.

戦前の風景ですが、私の子供の頃でもまだ材木を運ぶ馬車はありましたし、
オートバイのサイドカーも良く走っていました。時間的にはズレがありますが
どこか懐かしいですね。電車の線路、「軌道敷内は徐行」、なんてクルマの
免許を取る時の法規に書いてありましたっけ。

長くなりましたが、ここでもう忘れられたエピソードをひとつ。

昭和31年永代橋の工事中、橋のアーチの中から白骨化し半ばミイラの男
の死体が出てきました。死後20~30年と言われ当時大騒ぎになりました
が、もう覚えておられるかたも少ないでしょう。確か新聞に出たはずで、あ
の辺を通るとどの辺で見つかったのか、などとしばらく話題になったもので
した。大正のときか、あるいは昭和の工事の時か、事故か他殺か、はたまた
自殺か? 結局何も分からないまま人々の記憶から消えて行ったのでした。

永代橋の夜景はこちらからお借りしました。綺麗ですね。


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
毎度毎度すみません、ありがたくて。 (光ちゃん)
2007-03-17 08:53:55
(私ァこのひとが好きでねえ)

私も大好きですが、これを書かれる「私ァ」って方も大好きです。

いやあ、永代橋まで出てきましたね。
自称田舎の江戸好きにとって、何よりのテーマですし、内容でございます。何度かこの橋の下を、観光用の遊覧船でくぐりましたが、まだ一度も渡った事がありません。

学生時代を過ごしたのですが、私は深川を全然知りませんでしたし、馬鹿なアメリカかぶれで、東京の下町までは気も回りませんでした。
この年になって惜しかったなあと悔やんでおります。

又いろいろと教えて下さいませ。
いつもいつもありがたく思っております。
正直、作家さんの描かれる世界よりも、より肌身に感じる感覚が親密で濃密です。


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永代橋 (nnakazawa)
2007-03-17 16:35:16
いやァ、お恥ずかしい。身に余る光栄です。

いっぱい本を読んでいらっしゃる方から、嬉しいお言葉を頂戴しまして、ちょっと照れてしまいます。

ただ地元だってことで、思い起こしながら書いているだけでして拙文で、我ながらみっともない文章だなあ、なんて思っている次第です。

いつも優しいコメントありがとうございます。


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Unknown (bee-taro)
2021-10-07 19:14:36
その工事、私の父がやっていました。
子どもの頃、夏の怖い話しとして何回も聞きました。
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