Atahualpa Yupanqui
アタウアルパ ユパンキ
世界的な知名度のアルゼンチンフォルクローレの歌い手。作曲
家。左手でギターを弾く。Don Ataと呼ばれる。1908年生まれ。
アタウアルパ ユパンキの名前はインカ帝国の歴代の皇帝から
因んだものだ。アタウアルパは13代の皇帝で侵略したスペイン
人に滅ぼされた。ユパンキと名が付く皇帝は何人かいるが10代
目のトゥパック ユパンキのことだろう。
少年時代にバウティスタ アルミロンからギターを学ぶ。
1917年頃家族でトゥクマンに移り住むが父親が早く死んだため
に郵便配達からロバの世話まで何の仕事でもした。
1931年共産党に入る。規制が激しく音楽家は隣国ウルグアイに
避難せざるを得なくユパンキも1934年まで戻らなかった。
1935年にブエノス・アイレスのラジオ局に出演。将来の伴侶に
なるピアニストのNenetteと知り合う。フアン・ペロンの政治下
ではユパンキの作品の多くが反政府的だとされて何度も投獄され
ている。結果的には半ば国外へ逃亡するかたちで渡欧する。
1949年頃にヨーロッパに渡りハンガリー、チェコスロバキア、
ルーマニアの共産圏を回りほぼ一年後の1950年5月にパリに入る。
パリの友人宅に招待され、訪問客のひとりがエディット・ピアフ
だった。彼女は7月7日の自分のリサイタルのステージにユパンキ
をゲストとして呼び観客に紹介した。その時の演奏が絶賛されて
ユパンキはここから世界へ彼の音楽を広めて行くことになる。
シャンソンの雀はいずれフォルクローレの父と呼ばれる資質を
見抜くのだね。全く人の縁とは分からないものだ。
ユパンキ はフランスのレコード会社Chant du Mondeと契約し
最初のLP "Minero soy" がシャルル・クロ・アカデミー(ACC)
のThe Best Foreign Diskに輝く。またフランス全土のツアー
リサイタルを年間60以上もこなすようになる。
こういうところの偏見の無さと言うか、エキゾチック趣味な国
民性というかフランスは音楽や芸術にはオープンで偏見がない
国だ。ユパンキは約4年間ヨーロッパに滞在し、その間の活動が
認められてか自国内での活動制限が少しは緩んだようだが、
どうなんだろうね、以前ほどではないけど音楽活動がやれたのは
大きかったのだろう。まだまだ安定した政治とは言い難いがユパ
ンキは結構活動している。1952年にはアルゼンチンに戻り共産
党からも抜けている。
日本には、'64,'66,'67,'76年と来日。
僕が初めてユパンキの歌を聞いたのは1966年前後かと思う。
フォークソングのスペイン語がフォルクローレだと吹き込まれ
ていたから、自分で勝手に描いたイメージとの違いに直ぐには
馴染めなかった。民衆の歌だからね、どっちも正しいと言えば
正しいのだけと。ユパンキは新鮮な驚きだった。素朴にも聞こえ
たし訴えのようにも聞こえた。こういう弾き語りがあるのかとも
感じた。60年代あたりからメルセデス・ソーサあたりもユパンキ
に尊敬の念を示している。67年にはスペインでツアーをしている
しこの頃はパリをベースにしていたようだ。
「トゥクマンの月」が初めて聞いた曲だったかな。名曲だね、
今だに。詩人が歌うようだ。トゥクマンはユパンキにとっては
故郷みたいなものだしね。かつてNHK-FMで放送されていた
ラテン音楽の時間があって谷川越ニさんがメルセデス・ソーサ
の歌うユパンキのナンバーを紹介していたのを思い出した。
「中南米音楽」で河西わたるさんのお名前も良く拝見した。
懐かしい。
1972年頃、グラナダの行きつけのバルでスペイン人連中と飲んで
いたら、他のグループが歌い始めた。大抵はフラメンコっぽい歌や
カンテホンドがかっているのが多い中で、ひとりアルゼンチンから
来たと言う男が歌ったのが「牛車に引かれて」だった。
"Yo no necesito silencio"のくだりが耳に残り忘れられない。
周りはシーンとして聞いていたが歌い終わると店中で拍手喝采だっ
た。この曲はバンドネオンで演奏しても良いかなと思うんだけどね。
東京でユパンキと会ったことがある。分厚い手のひらだった。
迫力があった。柔らかくて厚い手で、セゴビアと握手した時の
感覚が蘇った。最後の来日になってしまったから1976年だろう。
ケーナのマエストロのアントニオ・パントーハとユパンキが一緒に
写っているパントーハのLPがある。今でも売っているかはわから
ないが、共演しているのでは無さそう。記念写真で収まっているよう
だ。ユパンキの方が7才年上の筈だと思う。パントーハもアルゼンチン
が長いので、ユパンキがたまたまアルゼンチンにいた時に記念に写し
たのかも知れない。想像だけど。
アントニオ・パントーハも来日した時にたまたま会った。
娘さんと一緒だった。マルタとか言った。目が綺麗で凄い美人の娘さん
だったね。1975年ぐらいだった。
1992年にユパンキはフランスで亡くなっている。海外での演奏生活の
方が長かった。
その内に書こうと思っていたユパンキが延ばし延ばしになって20番目に
なってしまった。ユパンキの個人的な歴史は大体合っているとは思うけど
も多少前後している箇所もあり、かな。ユパンキの絵が上手いこと描けな
かったのでついつい長たらしく書いてしまった。
ユパンキと言うと、かつての六本木のカンデラリアで歌う高野太郎さんを
思い出してしまう。懐かしいな。
ユパンキはレコードのジャケットがほとんどスーツ姿でしかもあんまり
笑った顔がない。同じような顔が多いのだ。声は渋くて良いのだけど、
顔があんまり渋いと描き辛い。
ラテントピックもいつの間にか20も書いた。区切りが良いからこの辺で
終わりにするかちょっと考えようかと思う。急ぎすぎたかな。とにかく
記憶力が落ちて来ているから早いとこ書いておかないと。
絵を主にして少し関係のあることでもサブにして書こうと思って始めたの
だけど、下手な文章の方が長たらしくなってるから少し気をつけないね。
アタウアルパ ユパンキ
世界的な知名度のアルゼンチンフォルクローレの歌い手。作曲
家。左手でギターを弾く。Don Ataと呼ばれる。1908年生まれ。
アタウアルパ ユパンキの名前はインカ帝国の歴代の皇帝から
因んだものだ。アタウアルパは13代の皇帝で侵略したスペイン
人に滅ぼされた。ユパンキと名が付く皇帝は何人かいるが10代
目のトゥパック ユパンキのことだろう。
少年時代にバウティスタ アルミロンからギターを学ぶ。
1917年頃家族でトゥクマンに移り住むが父親が早く死んだため
に郵便配達からロバの世話まで何の仕事でもした。
1931年共産党に入る。規制が激しく音楽家は隣国ウルグアイに
避難せざるを得なくユパンキも1934年まで戻らなかった。
1935年にブエノス・アイレスのラジオ局に出演。将来の伴侶に
なるピアニストのNenetteと知り合う。フアン・ペロンの政治下
ではユパンキの作品の多くが反政府的だとされて何度も投獄され
ている。結果的には半ば国外へ逃亡するかたちで渡欧する。
1949年頃にヨーロッパに渡りハンガリー、チェコスロバキア、
ルーマニアの共産圏を回りほぼ一年後の1950年5月にパリに入る。
パリの友人宅に招待され、訪問客のひとりがエディット・ピアフ
だった。彼女は7月7日の自分のリサイタルのステージにユパンキ
をゲストとして呼び観客に紹介した。その時の演奏が絶賛されて
ユパンキはここから世界へ彼の音楽を広めて行くことになる。
シャンソンの雀はいずれフォルクローレの父と呼ばれる資質を
見抜くのだね。全く人の縁とは分からないものだ。
ユパンキ はフランスのレコード会社Chant du Mondeと契約し
最初のLP "Minero soy" がシャルル・クロ・アカデミー(ACC)
のThe Best Foreign Diskに輝く。またフランス全土のツアー
リサイタルを年間60以上もこなすようになる。
こういうところの偏見の無さと言うか、エキゾチック趣味な国
民性というかフランスは音楽や芸術にはオープンで偏見がない
国だ。ユパンキは約4年間ヨーロッパに滞在し、その間の活動が
認められてか自国内での活動制限が少しは緩んだようだが、
どうなんだろうね、以前ほどではないけど音楽活動がやれたのは
大きかったのだろう。まだまだ安定した政治とは言い難いがユパ
ンキは結構活動している。1952年にはアルゼンチンに戻り共産
党からも抜けている。
日本には、'64,'66,'67,'76年と来日。
僕が初めてユパンキの歌を聞いたのは1966年前後かと思う。
フォークソングのスペイン語がフォルクローレだと吹き込まれ
ていたから、自分で勝手に描いたイメージとの違いに直ぐには
馴染めなかった。民衆の歌だからね、どっちも正しいと言えば
正しいのだけと。ユパンキは新鮮な驚きだった。素朴にも聞こえ
たし訴えのようにも聞こえた。こういう弾き語りがあるのかとも
感じた。60年代あたりからメルセデス・ソーサあたりもユパンキ
に尊敬の念を示している。67年にはスペインでツアーをしている
しこの頃はパリをベースにしていたようだ。
「トゥクマンの月」が初めて聞いた曲だったかな。名曲だね、
今だに。詩人が歌うようだ。トゥクマンはユパンキにとっては
故郷みたいなものだしね。かつてNHK-FMで放送されていた
ラテン音楽の時間があって谷川越ニさんがメルセデス・ソーサ
の歌うユパンキのナンバーを紹介していたのを思い出した。
「中南米音楽」で河西わたるさんのお名前も良く拝見した。
懐かしい。
1972年頃、グラナダの行きつけのバルでスペイン人連中と飲んで
いたら、他のグループが歌い始めた。大抵はフラメンコっぽい歌や
カンテホンドがかっているのが多い中で、ひとりアルゼンチンから
来たと言う男が歌ったのが「牛車に引かれて」だった。
"Yo no necesito silencio"のくだりが耳に残り忘れられない。
周りはシーンとして聞いていたが歌い終わると店中で拍手喝采だっ
た。この曲はバンドネオンで演奏しても良いかなと思うんだけどね。
東京でユパンキと会ったことがある。分厚い手のひらだった。
迫力があった。柔らかくて厚い手で、セゴビアと握手した時の
感覚が蘇った。最後の来日になってしまったから1976年だろう。
ケーナのマエストロのアントニオ・パントーハとユパンキが一緒に
写っているパントーハのLPがある。今でも売っているかはわから
ないが、共演しているのでは無さそう。記念写真で収まっているよう
だ。ユパンキの方が7才年上の筈だと思う。パントーハもアルゼンチン
が長いので、ユパンキがたまたまアルゼンチンにいた時に記念に写し
たのかも知れない。想像だけど。
アントニオ・パントーハも来日した時にたまたま会った。
娘さんと一緒だった。マルタとか言った。目が綺麗で凄い美人の娘さん
だったね。1975年ぐらいだった。
1992年にユパンキはフランスで亡くなっている。海外での演奏生活の
方が長かった。
その内に書こうと思っていたユパンキが延ばし延ばしになって20番目に
なってしまった。ユパンキの個人的な歴史は大体合っているとは思うけど
も多少前後している箇所もあり、かな。ユパンキの絵が上手いこと描けな
かったのでついつい長たらしく書いてしまった。
ユパンキと言うと、かつての六本木のカンデラリアで歌う高野太郎さんを
思い出してしまう。懐かしいな。
ユパンキはレコードのジャケットがほとんどスーツ姿でしかもあんまり
笑った顔がない。同じような顔が多いのだ。声は渋くて良いのだけど、
顔があんまり渋いと描き辛い。
ラテントピックもいつの間にか20も書いた。区切りが良いからこの辺で
終わりにするかちょっと考えようかと思う。急ぎすぎたかな。とにかく
記憶力が落ちて来ているから早いとこ書いておかないと。
絵を主にして少し関係のあることでもサブにして書こうと思って始めたの
だけど、下手な文章の方が長たらしくなってるから少し気をつけないね。
ユパンキ(1908~1992)の「一語一絵」を見ています。彼の歩みが経年的に記されていて、とてもよくわかります。岩波の「近代日本総合年表」で、彼の歩みと当時のヨーロッパや中南米の動きと重ねて見ています。
第一次世界大戦からベトナム戦争終結まで、ロシア革命、ナチスヒットラー政権の樹立、スペイン内戦、第二次世界大戦、キューバ革命、チリの社会主義政権の崩壊と、ユパンキの生きた時代は、実に様々なる歴史的大事が起き、そんな時代を生きたんだなと。
生活人、ギタリスト(演奏家)としてのユパンキは、中沢さんの語りの中に種々紹介されています。コミュニストとして、最初のLPのタイトルが「Minero Soy」、mineroにはネズミと言う 俗語もあるようで。エディットピアフとの邂逅も。
海外での演奏家生活の方が長かったと言うことは、ユパンキにとって、故国アルゼンチンではなく、フランス中心の生活が演奏家として必要だったのかなぁ。或いは、そうした生活を強いられたんだろうか。
「トゥクマンの月」はいつ聴いてもいいですね。巻き舌を使わないのは、かの地ではRの音は飲み込んじゃうのかね?独特な発音。引っ張るようなギターの音色も。語るようなユパンキの歌詞(ことば)を声に出してみようか。
中沢さん、dibujos、とてもいいですよ。文章も。ありがとね。
コメントありがとうございます。
ユパンキは懐かしいですね。
初めて聞いたのが1960年代ですから
随分前になりました。
記憶が曖昧になるのも時間の問題、
今の内に覚えていることを書き出して
おこうかと考えてます。絵も描かないと
表紙にならないので大変です。