Caterina Valente
カテリーナ・バレンテ
1931年生まれ 父親がイタリア系、母親がスペイン系
の各地を移動する音楽一家。パリに生まれる。
歌手。6カ国語に通じていた。世界レベルの歌姫。
ヨーロッパ、アメリカ、中南米に日本と世界中で有名。
日本では何と言っても「情熱の花」だが、これは元々
アメリカ人のグループが歌った曲がイタリアでヒットし
たのをカバーしたものを更に日本のザ・ピーナッツが
日本語に訳して歌い大ヒットになった。
Passion Flowerが原曲のタイトルだから「情熱の花」は
そのままの訳と言うことになる。1959年の大ヒット曲。
カテリーナ・バレンテはアメリカでの活動も精力的で
ビング・クロスビーやペリー・コモ・ショーに出演、特に
ディーン・マーティン・ショーの常連で10回以上出演。
ギターを弾き「One Note Samba」やラテンナンバーも
披露している。1960年代にバーブ・レコードの社長を
していたクリード・テイラーと組んで働いていたのが
ドイツから移って来たピアニストのクラウス・オーゲル
マンでカテリーナ・バレンテも共演している。
ブラジル人歌手のルイス・ボンファともお互いギターを
弾きながら「カーニバルの朝」を歌っている。
名プロデューサーのコール・ポーターの"I love Paris"
がドイツでヒットし全ヨーロッパで大ヒット、90万枚
以上を売り上げ時代の寵児になった。全米に知られる
きっかけとなった"Malaguena"や"Istanbul"など
コスモポリタンなタイトルが多いのも当時の国際性の
大きさを物語る。
かつて白黒テレビでカテリーナ・バレンテが歌うのを
見た記憶があるな。「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ
東京」などザ・ピーナッツと共演して日本でもあっと
言う間に人気者になった。日本人には馴染みのある歌手
である。日本に初めて来たのは1963年でザ・ピーナッツ
と共に良くメディアに登場していた。
この頃はデル・シャノンの「悲しき街角」、ニール・セダカや
ポール・アンカの「ダイアナ」など、当時アメリカのポピュラー
ソングに目を向けていたレコード会社や作曲家が日本のマーケット
向けに最新のヒット曲の売り込みを成功させていた時期でもあり、
戦前からのジャズやハワイアンに代わるインパクトのある歌モノ
を前面に押し出していた背景があった。1950年代から60年代に
かけては、日本の戦後の復興もありアメリカでヒットしていた曲は
盛んに日本のマーケットに売り込まれ一気に若者に受け入れられて
いた。ラジオの電話リクエストなんと言う番組もあった時代だから
ノンビリとしていた。
英語の原題に代わり訳の分からない日本語のタイトルがつけられて
いることが多くそれだけ早く馴染ませようとする売り手側の心理の
表れかもしれない。デル・シャノンの「悲しき街角」が当たるとそれ
以降の曲も「街角」がタイトルにつけられるし、ミーナのヒット曲
「月影のナポリ」に至ってはナポリとどこが関係あるのかと言う始末
で、当時の輸入曲には必ず邦題がついていた。長たらしいカタカナより
受けを狙ったのだろうね。レコードはA面とB面しかないからとにかく
売り出しに必死だったのだろう。もっともメキシコ人のアグスティン・
ララの世界的な名曲「グラナダ」だって、スペインのグラナダに行った
こともないのに憧れだけで作曲したくらいだからお互いあまり人の事は
言えないや。
前にもどこかに書いたが、1960年代の日本の作曲家の多くはアメリカ
から入るジャズやポピュラーソングに関心が高く片っ端からコピーを
して日本風のアレンジをかけて、洋楽っぽい今風の歌として売り出した。
コード運びや編曲によっては何処かで聞いた曲だ? と言うのが少なく
ないのはそのためだ。生涯に何百何千と作曲すればその中には他の曲に
良く似てるのもあるよ。絵だって音楽だって初めは模倣だものね。
今はJ-PopとかCity Popとか言うが和製ポップスと呼んでいて、
ミッキー・カーチスのザ・ヒットパレードが始まって間もない頃だ。
話しは逸れたが、カテリーナ・バレンテが来日した1963年はザ・ピー
ナッツが売れていた時期でもありすでに「情熱の花」も知られていた
ためか、カテリーナ・バレンテの来日は大成功となった。1967年には
ザ・ピーナッツはヨーロッパに歌の収録やテレビなど放送局の仕事で
出かけ現地でカテリーナ・バレンテとも共演。歓待されている。
当時はドイツが東西に分かれていたため、「西ドイツ」と区別していたの
を覚えている。アンカレッジ経由のヨーロッパ便なんかまだあった
頃じゃないかな。
容姿端麗で多才、世界中で知られている歌姫だ。書き出せばキリが
ないからこの辺りにしよう。日本向けの発売で全101曲を収めたCDが
発売されている。
話しが逸れたついでで、昔、晴海にアイススケート場があり自転車に
スケート靴を積んで良く通っていた。そのとき場内に流れていた曲の
ひとつにイーディ・ゴーメだかパット・ブーンだかの「スピーディ・
ゴンザレス」がありノリの良い曲でヘタなスケートでも上手く滑れた
記憶がある。急に思い出した。晴海にアイススケート場があったこと
を知っているひとも少なくなって来た。1970年くらいまでは営業して
いたと思う。都内ではまだ都電が走っていた頃だ。
今ではTBSラジオだが、かつて東京放送と呼んだ時代に「浪曲天狗道場」
という浪花節の公開番組があり週に一回夜に放送されて長く人気番組
だった。床に入って聞いた記憶があるが、明治生まれの父親が寝ながら
聞いていたのでついでに聞かされたと言うところだ。小島正雄の紹介
するアメリカン・ポップも聞いていたから和洋折衷だった。
カテリーナ・バレンテ
1931年生まれ 父親がイタリア系、母親がスペイン系
の各地を移動する音楽一家。パリに生まれる。
歌手。6カ国語に通じていた。世界レベルの歌姫。
ヨーロッパ、アメリカ、中南米に日本と世界中で有名。
日本では何と言っても「情熱の花」だが、これは元々
アメリカ人のグループが歌った曲がイタリアでヒットし
たのをカバーしたものを更に日本のザ・ピーナッツが
日本語に訳して歌い大ヒットになった。
Passion Flowerが原曲のタイトルだから「情熱の花」は
そのままの訳と言うことになる。1959年の大ヒット曲。
カテリーナ・バレンテはアメリカでの活動も精力的で
ビング・クロスビーやペリー・コモ・ショーに出演、特に
ディーン・マーティン・ショーの常連で10回以上出演。
ギターを弾き「One Note Samba」やラテンナンバーも
披露している。1960年代にバーブ・レコードの社長を
していたクリード・テイラーと組んで働いていたのが
ドイツから移って来たピアニストのクラウス・オーゲル
マンでカテリーナ・バレンテも共演している。
ブラジル人歌手のルイス・ボンファともお互いギターを
弾きながら「カーニバルの朝」を歌っている。
名プロデューサーのコール・ポーターの"I love Paris"
がドイツでヒットし全ヨーロッパで大ヒット、90万枚
以上を売り上げ時代の寵児になった。全米に知られる
きっかけとなった"Malaguena"や"Istanbul"など
コスモポリタンなタイトルが多いのも当時の国際性の
大きさを物語る。
かつて白黒テレビでカテリーナ・バレンテが歌うのを
見た記憶があるな。「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ
東京」などザ・ピーナッツと共演して日本でもあっと
言う間に人気者になった。日本人には馴染みのある歌手
である。日本に初めて来たのは1963年でザ・ピーナッツ
と共に良くメディアに登場していた。
この頃はデル・シャノンの「悲しき街角」、ニール・セダカや
ポール・アンカの「ダイアナ」など、当時アメリカのポピュラー
ソングに目を向けていたレコード会社や作曲家が日本のマーケット
向けに最新のヒット曲の売り込みを成功させていた時期でもあり、
戦前からのジャズやハワイアンに代わるインパクトのある歌モノ
を前面に押し出していた背景があった。1950年代から60年代に
かけては、日本の戦後の復興もありアメリカでヒットしていた曲は
盛んに日本のマーケットに売り込まれ一気に若者に受け入れられて
いた。ラジオの電話リクエストなんと言う番組もあった時代だから
ノンビリとしていた。
英語の原題に代わり訳の分からない日本語のタイトルがつけられて
いることが多くそれだけ早く馴染ませようとする売り手側の心理の
表れかもしれない。デル・シャノンの「悲しき街角」が当たるとそれ
以降の曲も「街角」がタイトルにつけられるし、ミーナのヒット曲
「月影のナポリ」に至ってはナポリとどこが関係あるのかと言う始末
で、当時の輸入曲には必ず邦題がついていた。長たらしいカタカナより
受けを狙ったのだろうね。レコードはA面とB面しかないからとにかく
売り出しに必死だったのだろう。もっともメキシコ人のアグスティン・
ララの世界的な名曲「グラナダ」だって、スペインのグラナダに行った
こともないのに憧れだけで作曲したくらいだからお互いあまり人の事は
言えないや。
前にもどこかに書いたが、1960年代の日本の作曲家の多くはアメリカ
から入るジャズやポピュラーソングに関心が高く片っ端からコピーを
して日本風のアレンジをかけて、洋楽っぽい今風の歌として売り出した。
コード運びや編曲によっては何処かで聞いた曲だ? と言うのが少なく
ないのはそのためだ。生涯に何百何千と作曲すればその中には他の曲に
良く似てるのもあるよ。絵だって音楽だって初めは模倣だものね。
今はJ-PopとかCity Popとか言うが和製ポップスと呼んでいて、
ミッキー・カーチスのザ・ヒットパレードが始まって間もない頃だ。
話しは逸れたが、カテリーナ・バレンテが来日した1963年はザ・ピー
ナッツが売れていた時期でもありすでに「情熱の花」も知られていた
ためか、カテリーナ・バレンテの来日は大成功となった。1967年には
ザ・ピーナッツはヨーロッパに歌の収録やテレビなど放送局の仕事で
出かけ現地でカテリーナ・バレンテとも共演。歓待されている。
当時はドイツが東西に分かれていたため、「西ドイツ」と区別していたの
を覚えている。アンカレッジ経由のヨーロッパ便なんかまだあった
頃じゃないかな。
容姿端麗で多才、世界中で知られている歌姫だ。書き出せばキリが
ないからこの辺りにしよう。日本向けの発売で全101曲を収めたCDが
発売されている。
話しが逸れたついでで、昔、晴海にアイススケート場があり自転車に
スケート靴を積んで良く通っていた。そのとき場内に流れていた曲の
ひとつにイーディ・ゴーメだかパット・ブーンだかの「スピーディ・
ゴンザレス」がありノリの良い曲でヘタなスケートでも上手く滑れた
記憶がある。急に思い出した。晴海にアイススケート場があったこと
を知っているひとも少なくなって来た。1970年くらいまでは営業して
いたと思う。都内ではまだ都電が走っていた頃だ。
今ではTBSラジオだが、かつて東京放送と呼んだ時代に「浪曲天狗道場」
という浪花節の公開番組があり週に一回夜に放送されて長く人気番組
だった。床に入って聞いた記憶があるが、明治生まれの父親が寝ながら
聞いていたのでついでに聞かされたと言うところだ。小島正雄の紹介
するアメリカン・ポップも聞いていたから和洋折衷だった。
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